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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
42/127

陽のあたる場所で

哲士、高校生一年、十五歳。

※哲士の名字は緒方です。

「なぁ緒方、背伸びてねぇ?」

 まださわやかな六月の初旬、部活の休憩中に根本が突然言ってきた。

「背?」

 根本に言われて、そういえば関節がやけに痛いなと思った。視線が上がったのか、まわりの景色も違うように見える。これはもしかして成長期というやつかもしれない。

「うん、確かに。緒方くん伸びてるよ!」

 スポーツドリンクを作っていた香代子が寄ってきて、哲士を見上げる。日に当たって茶色く見えるボブがさらりと揺れた。

「だって前はそんなに視線が変わらなかったのに、今は明らかに上にあるよ」

 香代子があまりに至近距離から見上げるので、哲士は内心うろたえた。いや、哲士にとって“至近距離”というだけで、一般的にはそう近くはないのかもしれない。

 中学時代、いじめられていた哲士は女子が近づいてきたこともないし、自分から近づくこともない。根本の言う通り身長も伸びて、足も速くなって、人並みの容姿と振る舞いを身につけて、俗に言う“高校デビュー”を飾った哲士だったが、いまだに男子には殴られるのではないか、女子には笑われているのではないかと恐怖を感じることがあった。

 でも、たぶん香代子は別だ。香代子が近づくと動揺するのは、きっと怯えているからではない。

「マネージャーは何センチ?」

 哲士は思いきって香代子に話しかけた。

 こんな最下層の境遇から抜け出してやる、と中学の時に殴られた顔を腫らしながら思い、高校は哲士の中学からは誰も行かないような全寮制の立志院を選んだ。滑稽だと思いつつも、何度も頭の中で“対等”の友達の作り方をシミュレーションし、何通りの会話も想像した。けれども、香代子の前では何の役にも立たない。

――ありがとう、緒方くん。

 五月、入部して間もなく、麓より開花が遅い山桜が咲く中で、ふわりと微笑んだその顔に、一瞬で哲士の準備していたセリフはふっ飛んでしまった。哲士は香代子の代わりに持ってやったスポーツドリンクが入った重いポットを危うく落とすところだった。

「私? 百六十センチかな」

 今、目の前にいる香代子は初対面の時よりもいくぶんかしっかりとした顔つきをしていた。入部して一ヶ月。香代子はまたたく間に立派なマネージャーとなり、先日引退した先代マネージャーに代わって、今はひとりで部を切り盛りしている。

「マネージャー、ちっせぇ! 俺百七十あるぜ」

「うっさいな、根本。アンタはムダにでかくて、ゴツくて邪魔!」

 根本とやりあっている姿や、てきぱきと手際よくマネージャーの仕事をこなす姿は、最初に見せたやわらかい笑顔とは印象が違ったが、哲士の抱く好意を少しも損なうものではなかった。香代子のまっすぐな気性は、暴力や陰湿さが身の回りを取り巻いていた哲士とは無縁のもので、時おりまぶしくたまらなく清潔に見えるのだった。

「なあ、マネージャー。何で緒方は『くん』づけで、俺は呼び捨てなわけ?」

「アンタなんて呼び捨てで充分でしょうが」

 香代子は冷たく言い放ったが、「ひでー」と言った根本に合わせて破顔した。毎日こういった気安いやり取りをしているふたりは本当に仲が良さそうで、哲士は少しだけふたりを遠く感じた。哲士は嫌われるのが怖くて、当たり障りのないことしかいつも言えない。知らないうちに自分の中でリミッターがかかる。

 根本と香代子の仲の良さに、胸は痛くなっていくばかりだ。鈍感になったふりをして、その痛みを無視して今日も笑った。







 香代子の最初の笑顔を幾度も思い浮かべた後に、自分なんかが恋愛をしていいのか、といつも思う。哲士にとって恋愛はクラスの上の方のキラキラした人がするものだった。

 そもそも恋愛とは、人間がするものだ。いつもは空気で、殴られるために空気からサンドバッグになる哲士は、中学生の頃人間ではなかった。今でも時々、教室で名前を呼ばれても反応できないことがある。教室にいるとさっと身体中の温度が下がり、まわりの音も温度もあまり感じなくなるのだ。長年空気でいた後遺症だった。

 人間扱いされないところから抜け出すためにここに来たのに、今に至っても完全に人間になりきれない。おかしかった。

 部活後、哲士は痛みを感じる肘をさすりながら大浴場から部屋に引き上げていた。入浴時に肘を確認したが、外傷はなかったのでやはり成長痛なのだろう。

 部活で使うテーピングが欲しくて売店に寄る。寮の一角にある売店はコンビニのような造りで、飲み物やちょっとした菓子、学校で必要なノートなどが売っている。哲士は何となく雑誌の棚に移動した。

 いつものように『月刊陸上』を手に取る。いじめっ子から逃げるための走りはいつしか自分の救いになっていた。どんなに教室で虐げられていても、スタートラインでは皆同一で、コンマ一秒でも速くゴールすればそれが正だ。速ければ誰も自分を無視できない。哲士が陸上にのめり込んでいくのは自然の流れだった。

 一方的に数人に押さえつけられ、抵抗しただけなのに、ケンカとみなされ、大会へ出場停止になった時は悲しかったな、と不意に思い出すが、すぐさま打ち消した。いじめられている最中はそうつらくなかった。ただ、ひとりになってそれを思い返している時の方がつらいのだ。追憶の中の自分はみじめでみっともなくて、死にたくなる。

 哲士は気を紛らわすため、視線を移す。自信ありげにモデルが微笑んでいるファッション雑誌が目に留まった。

 髪を表情がよくわかるぐらいに短く切り、眉をやり過ぎない程度に整え、ポイントを押さえた服装をし――それでやっと男性誌を手に取れるようになった。もう哲士が人並みの格好をしたところで笑う人物はいない。それまではきらびやかな雑誌の世界は哲士には関係ないと思ってきた。

 どうやら雑誌の特集のスクールライフやら何やらが現実世界で本当に起こっていることだと知ったのは高校に入ってからだ。あれは雑誌の上だけで成り立つ、虚構の世界ではなかったらしい。友達と毎日はしゃいで、休日に遊びに行ったり、気になる女の子とデートしたり。

 いくら見た目をまともにしたところで、健全な学生生活を送ってこなかった哲士は、根本的に同年代が持ちうる常識が欠けている。そういったことを早く吸収しなくてはいけない。誰もまだ哲士に違和感を持たないうちに。

 ぱらぱらと見るともなしに男性誌をめくっていると、あるカラーページが目についた。それは身長を伸ばすと謳う怪しげなサプリメントで、『彼女との理想の身長差は十五センチ!!』との煽り文句がついている。

――私? 百六十センチかな。

 不意に香代子の声が脳裏に響いた。それと同時に、自分の身長は今何センチなのだろうと思った。いずれにしても百七十五はないことは確かだった。

 太陽のような、何て言いすぎだとは思う。けれども、大げさな言葉を当てはめてしまうほど、哲士にとって香代子の存在は明るく、温かかった。哲士のような身にも恋は降ってきて、もうどうしようもない。

 哲士は男性誌を棚に戻し、『月刊陸上』だけを手に、レジへ向かう。その途中、飲料のコーナーに寄った。

 いつか、彼女に好きだと言いたい。けれど、今の哲士では香代子を困らせてしまうだけだから、もっと速くなって、もっと“普通の人”になって、それから告白しようと思う。

 哲士は『月刊陸上』と牛乳を買った。まずは目標百七十五センチだ。

 また、あの笑顔を見たい。そのためなら何だってできる気がした。そして、そう思える“今”は幸せだと思った。

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