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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
41/127

繭の中

由貴也13歳の春。

中学2年生になるところ。

「巴ちゃん」

 言ってからあ、と思った。意識をしていないと幼い呼称に戻る。隣を歩く巴は別段気にした様子もなく「何だ?」と尋ねてきた。

 季節は春。由貴也と巴は競技場からバス停までの桜並木を並んで歩いていた。桜の薄い花びらが視界を隠すようはらはらと散る。春の眠ったようにゆるい気候が、その明瞭でない視界に拍車をかけてかすませた。

 由貴也は歩みを止めて、巴を見る。癖のない漆黒の髪は胸元まで伸び、前に会った時と記憶を異にしている。紺色のワンピースタイプのセーラー服は、由貴也の通う中学とは違うものだった。

「もう帰るの」

 由貴也は言外に帰らないでという思いを込めて巴に言う。一方で、それが無駄だともわかっていた。

 自分たちの間を、ひらひらひらひら桜が散る。巴と自分を隔てているのは桜か、それとも別のものか。巴はかすかに笑んだ。優しい笑み。でも、どこまでいっても優しいだけの笑み。親愛だけの混ざり気のない綺麗な笑顔。

「帰るよ」

 門限があるからな、と巴は付け加えたが、それがさして重要な理由でないことを由貴也は知っていた。

 自宅から公立中に通う由貴也とは違い、巴は全寮制の立志院に在籍している。こうしてたまに会うとはいえ、彼女と物理的な距離が離れてしまったことが由貴也には耐えがたかった。立志院は遠くて、理由がないと彼女は山から下りてこれない。今日は由貴也の陸上の大会を観戦しに来ていた。

「……何で立志院に進学したの」

 いつも口をつく問いかけはこればかりだ。これもまた、言っても無駄なことだとわかっているのに。

 ぬるい風が吹く。薄紅色の花弁が舞い上がる。それには目もくれず、由貴也は巴だけを見ていた。いつだって巴だけを見ていた。けれども、彼女の視線とぶつかることはなかった。

 風になびく髪を押さえて、巴は桜でけぶるような景色を見ていた。胸元の柔い蝶結びのスカーフがまるで本当に蝶が羽ばたくように風にそよぐ。

「お前も立志院を受ければよかったのに」

 由貴也の問いかけの本質とはずれた答えが返ってきた。巴はおそらく意図的にずらした。

 由貴也は両親が申し込んだ私立中の入試を全部さぼって、今現在公立中に通っている。この春休みが明ければ中学二年になる。私立中の電車通学が最高に面倒で入試を受けなかったのだが、今は公立中の詰め襟の学生服が最高にうっとうしい。今も重い学ランは脱いで、だらっと裾が出たワイシャツに、黒い制服のスラックスという格好を由貴也はしていた。

「うん……」

 由貴也は曖昧に答える。立志院を受けたいといったのなら両親はおそらく反対はしなかっただろうし、たぶん受けたなら合格しただろう。あえてそれをしなかったのは、壮司といる巴を見たくなかったからかもしれない。

 巴が親元を離れ、立志院に進学したのはひとえに壮司のためだ。複雑な出生を抱え、家に縛られている壮司に全寮制の立志院に進学させることで、家から離れさせ、学生の間だけでも自由を与えたかったのだろう。

 巴はいつだって壮司を見ていて、いつだって壮司のことが何よりも優先で、そして壮司がいるから立志院に帰る。彼がいる場所が、巴のいる場所だ。

 由貴也が立志院に進んだところでそれは変わらない。巴はどこまでいっても壮司が一番で、由貴也を優先させてくれることなどないのだ。それを余計に思い知るのが嫌で、由貴也は立志院を受けなかった。

 由貴也は巴のためなら何だって捨てるし、何もいらないし、何よりも彼女を優先させる。壮司よりも巴をずっと好きだし、強く想っている。でも、巴の中にある不変の原理は動くことがなかった。

 こうして隣を歩いていても、本当の意味で巴の隣にいるわけではない。由貴也の隣はいつだって巴のためだけに空いているのに、巴はただそこに来てくれるだけでいいのに、決してこちらに足を向けてくれることはなかった。

 気づくとバス停に来ていて、巴と並んでバスを待つ。別れる時間が迫っていた。

 空からは白い光の筋がいくつも差し込んでいて、地上では音もなく桜の花びらが積もっていく。まるでこの世に二人きりのような午後だ。本当にそうだったらどんなにいいだろう。

 心底巴とつながれるわけではないのに、由貴也は巴の手を握った。巴は拒まない。ふたりで手をつなぐ。どうしたって由貴也はぬくもりを求めてしまう。巴の心が別のところにあっても、今彼女の実体をつかんでいるのは自分だとせめて安心したかった。

 由貴也は飢えている。由貴也にとって恋は飢えだ。いつになったら満たされるのだろう。

 巴以外は皆、由貴也のことを何を考えているかわからないというけれど、たぶん自分は真実何も考えていない。何も考えられない。つねに空腹だから、それ以外のことを考える余裕がない。

 バスが円かな空気をなでながらやってくる。もう、手を離さなければいけなかった。

「次はいつ会える」

 同じ高さにある巴の目を見て由貴也は聞く。中学生になっても背がまったく伸びない由貴也は、巴と同じか、やや低いぐらいの背丈しかない。いまだに声変わりが済んでいない由貴也は女子に多々間違えられる。呼称を『巴ちゃん』からただの呼び捨てに、一人称を僕から俺に変えたところで、見た目はまだ子供だ。

 脅迫のような強さで、由貴也は巴を瞳に納め続ける。身長だって、呼び方だって、一人称だって、本当はどうでもいい。巴が愛おしそうに、背の高い壮司を見上げるから、彼に『巴』と呼ばれるとうれしそうだから、変えただけだ。巴が望むなら、容姿でも何でも変えていい。由貴也は巴という器によって形を変える存在だ。でも、そんなことは何の意味もなさないのだと、もう嫌になるほど知ってはいるけれど。

「しばらくは……生徒会の方が忙しくてな。ごめん」

 巴が心底すまなそうな顔で、謝った。中学生が、バスで学院から数時間かけて会いに来てくれること自体、相当な負担をかけていることを由貴也は承知している。それでも、思う。

 バスが停車し、ドアが開く。降車する客はいない。巴がステップを上がった。

「じゃあ、また」

 巴が別れの言葉を発したと同時に、ドアが空気の抜けるような音を発して閉まる。ガラス越しに巴はこちらを見ていた。ゆっくりとバスが発車する。由貴也はただ、巴の姿だけを見ていた。

 ねえ、一度でいいから何もかもを振り捨てて、会いに来てよ。一度でいいから綺麗なだけ笑みを壊して、嫉妬や切なさをにじませてみてよ。一度でいいから、壮司さんよりも僕を優先させてみせてよ――。

 声にできない想いの代わりに、瞳にありったけの懇願を込めて、由貴也は遠ざかっていくバスを見つめていた。春霞の中を、バスは止まらずに進んでいく。由貴也を残して。

 先ほどまで巴と二人っきりだった由貴也は、今はこの世界にひとりきりだった。







 家の前まで来ると、中からかすかにピアノの音が漏れているのに気づいた。兄だ。

 夕暮れだが、玄関にも、室内にも明かりは灯っていない。薄闇の中、ドアを開けると、散漫していた音がメロディとなって由貴也を包む。兄・文弥が奏でているのは、いつもの美しく穏やかな旋律ではなかった。陰惨で、暗く、ねじれていてる旋律を傲慢な冷たさで弾く。審査員とピアノ教師、親への『受け』を徹底的に排除した文弥の手慰みに弾くピアノだった。

 文弥が彼の本性そのもののピアノを弾くのは、両親がいない時のみに限られている。家族の前ですら徹底的に仮面をかぶる文弥の、感情のはけ口がこのピアノなのだ。

 上でドアが開く音がして、文弥が吹き抜けから顔を出した。玄関に立ったままだった由貴也は、無言で見上げる。

 父譲りの濡れ羽鴉色の直毛は形のいい耳が見える程度にきれいに切りそろえられている。眼鏡を外した彼の眼光は冷たく、由貴也を睥睨していた。

「相変わらず弱小部で駆けっこか」

 部活用のエナメルバックを持つ由貴也に、侮蔑の声音が上から降ってくる。ここにいるのが由貴也ではなく、父や母だったら、文弥は見る者を魅了せずにはいられない優等生然とした微笑を浮かべたのだろうが、相手が由貴也だと態度がぞんざいだ。

「お前も相変わらず暇だな。まだあの従妹の尻でも追いかけまわしていた方が建設的だろう」

 従妹――巴だ。役に立たない陸上よりも巴を籠絡し、古賀本家の財産を手に入れる足かけを作った方がまだいいと文弥は言いたいのだ。由貴也は文弥に言わせると役立たずの愚図らしい。だからせめて女のひとりぐらい手に入れてこいと言われている。

 文弥は吹き抜けの手すりに手をかけて笑った。文弥の二面性は理解しているつもりだが、この邪悪な笑みは見るたびに感心してしまう。ここまでの落差を身の内に飼っていて、疲れないのだろうか。

「お前の走りなんて誰も見てないのに、ご苦労なことだ」

 しょせんは無駄だと由貴也を上から押しつぶすように、文弥は吐き捨てる。現に今日も由貴也は予選で敗退していた。年の割に小柄な由貴也は、歩幅が短く、不利だ。名実ともに弱小部の弱小選手だ。

 いつになく今日の文弥の機嫌は悪い。これ以上八つ当たりにさらされる前に自室に退散しようと靴を脱いでいるところで、背後のドアが開いた。

「ただいまぁ、文ちゃん」

 兄弟二人の薄闇を、母の朗らかな声が破る。照明もつけずに寒々しかった玄関が突然明るくなったかのようだ。母の性格はともかくとして、この華やぎは天性のものなのだと感じさせる。そんなことを思いながら、完全に逃げるタイミングを失った由貴也はその場に突っ立っていた。

「文ちゃんに似合いそうなお洋服があったからたくさん買ってきちゃった。文ちゃん、何着せても似合うんですもの」

「ありがとう」

 母を出迎えるために下りてきた文弥が軽く笑む。先ほどまでの酷薄な表情は完全に消えていた。成績優秀、眉目秀麗、品行方正の三拍子に容姿端麗まで加えた完璧な彼がそこに立っていた。

 母がそんな息子の姿にうっとりしながら、両手に抱えていた紙袋の中身を改めていく。大量の文弥への服が出てくる。その中のサックスブルーのシャツを広げて文弥の体に当てる。満足そうに母は微笑んだ。

「本当にあの人の若い頃にそっくり」

 理想の息子と美しい母とのやり取りを横目に、由貴也は影の中へ入るように歩みを進める。切れ長の瞳に理知的な面差しを備えた兄は古賀の血統を色濃く受け継いでいる。それとは別に、父に心底惚れている母は、父にそっくりの兄をまるで恋人のように溺愛していた。

「あら、由貴ちゃん?」

 母が初めて気がついたように由貴也の名を呼んだが、由貴也はとりあわず階段を上る。二階にある自室のドアを開け、閉める。階下の騒ぎが聞こえなくなる。由貴也は肩にかけていたエナメルバックを下ろし、部屋の明かりもつけずにベットに倒れこんだ。

 暮れなずむ空の色が、そのまま部屋に移りこむ。夕日の鮮やかさと、夜の忍びよる闇が拮抗し、刹那の静寂を作っていた。その中で由貴也は布団をかぶり、すべてを遮断するように体を折る。

 巴のことを好きな気持ちをことさらに外に出すのは、もしかしたら無意識に両親の気を引きたいがためなのかもしれない。両親は打算から、由貴也が巴と仲がいいのを大仰によろこんだ。文弥と同じくピアノを習わせようとすれば逃亡し、子供モデルをやらせようとすればカメラの前で一分たりとも表情を動かさず、ろくに口も開かない由貴也は、すでに幼少期に父母の関心を失わせていた。もちろん今、陸上をやっている由貴也など見向きもしない。文弥の言う通り、誰も由貴也の走りなど見ていないのだ。

 父母から自分に対する何らかの感情を引き出したい。自分でも気づいていなかったその可能性に行き当った瞬間、体が拒否反応を起こして、猛烈に気分が悪くなった。虫唾が走るというものだろう。

 あり得ないと否定したかった。両親の関心を一手に引き受けてくれている文弥には感謝すらしているぐらいなのだ。自分が父親に似ていなくて心からよかったとも思っている。おかげで由貴也は父母の目をすり抜けて、自由に過ごせた。

 それに、自分には巴だけいればいい。

 心の中で呪文のように唱えている言葉を、また引っ張り出すと、なぜか体のどこかに痛みを感じた。十年もの時をかけ、研ぎ澄まされた巴への想いは、自分を傷つけそうなほどに鋭くなっている。由貴也は、壮司を想っている巴に恋をしている。壮司で頭をいっぱいにする巴を見るたび、自分にもそのように巴の心すべてを捧げて欲しいと願ってしまう。壮司を想うように、いつかは自分にも巴の心を与えてくれるのかもしれないという淡い期待を捨てられない。だから巴と由貴也の視線はかち合わず、自分はいつだって飢えている。

 でも――巴が壮司に向ける想いが、自分が巴に向けるようなものだとしたら、由貴也の恋は一生叶いそうにもない。だって巴さえいれば他には何もいらないから。巴以外の人を好きになることなんて、一生ないだろうから。由貴也の感情はすべて巴に起因して、巴へ向けられるものだから。巴も壮司に対してそういう想いで見つめているなら、彼女が他の人を好きになるなんて未来永劫ありえない。動かない三角関係。出口が見つからない迷路のようだ。

 文弥と母、巴と壮司。皆、由貴也よりも優先するものがある。この世界の中で自分を“一番”に据えてくれる人なんているのだろうか。

 自分の中に浮かんだ考えを即座に打ち消す。他の誰にも、きっと自分のことは理解してもらえない。少なくとも巴以上には。

 誰も来ない、来ることができない繭の中で由貴也は目を閉じる。自分はやはりひとりきりだった。

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