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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
40/127

40

 体調を崩したのは、巴を好きではなくなるのに耐えられないからではない。巴を無理やり好きで居続けることがもう不自然で、体が警告してきたのだ。このままでは突き進めないと。

 由貴也の今のあり方はまがい物だ。淡々と日々を過ごしているふりをして、意図的に自我を沈めてきた。

 壮司と巴は幼い頃から互いに対する同情という名の絆で繋がっていた。壮司は不遇な生い立ちゆえに消えないレッテルを貼られ、巴は壮司を放り出すことができず、許婚という関係に縛られ続けた。同じ穴のムジナとでも言えばいいのか。痛みを負うごとにより強くつながっていくふたりに対抗できなかった。

 由貴也は壮司と違って不当な扱いを受けているわけではない。自分の両親は凡愚ではあるが、人並みに養育されてきた。辛酸を嘗めたこともない。

 その由貴也よりも巴が壮司を優先させるのは当然のことで、巴はいつだって壮司を見ていた。由貴也は文字通り眼中になかった。

 だから表情を消し、感情の発露を抑えて、ただただ巴を見続けた。巴が必要なんだ。自分をこうしたのは巴なんだ、と脅迫にも似た意思を込めてなじるように見た。自分を見てくれと無言で叫んだ。

 巴にふられたとき、自分は壊れると頑なに信じていた。壊れなければ嘘だと、そして常軌を逸した自分を巴は見捨てないと思っていた。かつて巴はかわいそうな小さな壮司に手をさしのべたのだから。

 この期に及んでも巴の壮司に向ける感情が同情の範疇を越えないものだと信じていた自分は大概愚かだった。巴はそれを恋と錯覚しているだけだと何の根拠もなく確信して、その思いにすがりついていたのだ。

 あの頃は巴が側にいてくれればなんでもよかった。例え放っておけないというギリギリの理由でもよかった。

 巴を手に入れるため、一計を案じた気でいて、策におぼれたのは自分だった。失恋で壊れられるはずもなく、自分の体は強烈な生き汚さを発揮した。

 例え想いに殉じることができなくても自分の恋は嘘ではない。そう思えば思うほど偽りを糊塗し、どうしようもなくなってごまかせなくなって、ここまできて倒れるはめになった。

「……大丈夫?」

 そっと放たれた声を、香代子の胸の中で聞いた。意識を少し失っていたらしかった。

 あまりの不快感にまた目をつぶって寝ようとしても、体の中をかき回されるような気持ち悪さにそれもかなわない。あきらめて意識を覚醒させた。

「……リレーは……」

 うめくように声を出す。もう一度立ち上がるきっかけを与えてもらわないとこのままずるずると底なし沼に沈んでいきそうだった。

「ぎりぎりタイムで拾ってもらったよ」

 胸に安堵が落ちてくる。また緊張を張り直さなければいけない。今度は無様な走りをさらすわけにはいかない。

 一番重要なことを確認し終えて初めて、まだ男子トイレ内の個室にいることに気づいた。遠くから歓声が聞こえる。何かの決勝をやっているのだろう。

 ここがどこだか認識したところで、もう少し体力が溜まらないことには動けない。いくら個室内といえども、香代子がいたたまれない思いをしているのはわかっていた。動けないなら哲士か誰かを呼んできてもらって外まで運んでもらえばいいのだが、それすら言えない自分がいる。

「……古賀さんを呼んでこようか?」

 ずりさがったベンチコートを由貴也の肩にかけ直しながら、香代子がためらいがちに声をかけてきた。ひどく言いにくそうな様子から、考え抜いた末の言葉なのだろう。その『古賀さん』が巴を指すのだと理解するまでに少し時間がかかる。

「なんで?」

 なぜここで香代子の口から巴の名前が出てくるのだといぶかしむ。

「なんでって……」

 香代子のあっけにとられたような言葉でああ、と思い出す。意識を失う寸前に自分が言ったのだ。香代子に向かって『なんでアンタなんだよ』と。その言葉を香代子は『巴じゃなくてなんでアンタなんだよ』と言葉を補って解釈したのだ。

 自分だってこんなふうに巴以外のことを思う日が来るとは思っていなかったのだ。香代子が誤解しても無理はない。

「いい、呼んでこなくて」

 答えながら、自分は巴が来たらうれしいだろうか、と考える。由貴也、と頭をなでられて甘やかされて、そんな体で無理をするな、と言われるのだ。次の機会があるじゃないか、ともっともなことを優しく諭される。

 次の機会なんてそんなものないのだ。次、と軽々しくは言えない。価値観が重ならない。そう思うともう何も考えずに巴に追従はできない。

 誰かの影を踏みながら歩くのは楽なことだ。できればずっとそうしていたかった。幼い姿で、巴の後ろ姿を追って歩きながら。

 目を閉じて甘い感傷を打ち切る。

「俺が走るのを反対しないで」

 後押しして、応援して、せめて否定しないで。頼むから。

 巴はきっと言うのだ。次の機会があるじゃないか。だってお前は陸上部の一員なんだから。そうやって無意識に突き放すのだ。

 陸上部と巴は相容れないものだ。それは陸上部は由貴也だけの世界だからなのだ。

 巴と過ごした外も見えないような壁の分厚い世界に比べて、あまりにも壊れやすいこの世界を守らなければと思った。

「――アンタは」

 香代子が手にもったタオルで由貴也の顔の汗をそっとぬぐった。

「何も言わないでひとりで抱えこんでるからこういうふうになるのかもね」

 昼間でも薄暗いこの空間に、香代子の声がすっと溶けこんで響く。彼女が話すたびに伝わるかすかな振動を、由貴也は香代子の胸に頭を預けて聞いていた。

 誰かに言うなど考えたこともなかった。言葉に出して陳腐なものに成り下がるなら痛みも苦しみも自分のものにしておこうと思った。誰かにぶつけて行き場のないやるせなさの溜飲を下げる以外には。

 そもそも痛覚などとうになくしたはずだった。

「アンタは俺がつらいって言えば助けてくれんの。巴を連れてきて俺の願いを叶えてくれんの」

 八つ当たり以外の何物でもないと思いつつも、由貴也は香代子をなじった。言葉での安易な共感など何の意味がある。

「俺が悲しいって言えば満足なの。つらいって言えばいいの」

 言葉を重ねながら、無様な自分を見すかされた気がしていた。弱音ひとつ言えない自分は巴の存在を“過去”にするのが恐ろしいのだ。いつまでも失恋の痛みと寄り添って巴が帰ってくるのを信じたい。こんなに傷ついている、こんなに苦しんでいる、だから側にいてくれるよね、と。

 一息に言葉を吐き出したら、より体の力が抜けた。けれども返事がないのが恐くて、そっと身を起こして香代子を見る。

 すぐ側に香代子の視線があった。

 ああずるいな、と思った。巴は決して由貴也を見てくれなかったのに、それなのに香代子はまっすぐこっちを見ている。なんて卑怯なのだろう。由貴也の幼稚な反撃も、弱音も受けとめる覚悟がある目がそこにはあった。

 巴から得られなかった瞳を、他の誰かからもらうなんてことあってはいけなかった。

 最後の一線を越える。長い間感情の栓を果たしていた言葉がこぼれ出る。

「……助けて」

 ほとんど唇を動かしただけの言葉だった。誰かにずっとこう言いたかった気がする。足がつかない水の中で溺れるのを防ぐかのように、由貴也は香代子の胴に腕を回した。

 一緒に溺れてくれとはもう言わない。少しだけ引き上げてくれればいい。もがき苦しんで――きっと水面まであと少し。

 大丈夫だと落ち着かせるように香代子の手が何度か由貴也の背を往復した。そのままじっと由貴也は感情の奔流が去るのを待った。

「……本当は棄権した方がいいんだろうね」

 おだやかな、木漏れ日のような声と手つきで香代子が由貴也の頭をなでた。このまま棄権しなよ、と言われたらその通りにしてしまいそうな心地よさだった。

「でもアンタにとってそれは、この先走れなくなるよりつらいことなんでしょう?」

 今日が終わったらどうなってもいい、という思いはもうとうにばれていたのだ。十数年の想いを断ち切るために走り、それが終わったら消えてしまうことが由貴也の本望かもしれなかった。

 その先の道が、どうしても見えないのだ。

「もうアンタが走るのを反対したりしないから。応援するから」

 だから、と香代子は言葉を強め、由貴也の体を引き離した。その勢いのよさにくらくらする。

「だからちゃんと自分自身が納得するように走ってきて」

 肩をつかまれ、無理矢理相対させられた。香代子の爛々と光る瞳が一身に由貴也に注がれていた。

「それでちゃんとここに戻ってきてよ」

 こうして自分の存在はここに引き留められる。そしてきっと最後には自らの足でここへ戻ってくるのだろう。

 巴の隣ではなくここで由貴也は生きていく。

 長い長い間を置いて、由貴也はうなづいた。香代子は安心したように満足気に笑う。

「じゃあ、行こう」

 景気づけといわんばかりに背中をひとつ叩かれた。結構な強さに由貴也の上体は前屈みになる。せっかく溜めこんだ体力がまわりに霧散するのを感じた。脱力感に任せて頭を立てた膝に預ける。

 タイル張りの床を見つめ、視界を暗くしながら思う。きっと今でなければ言えない。

 由貴也はまだ香代子を好きではない。それでもただ願う。そのままであることを。彼女の想いが自分にいつまでも向いていることを。

 誰かの想いが自分の救いになるなんて、考えたこともなかった。

 瞳を開き、ゆっくりと身を起こした。なんとか動けそうだった。

 立ち上がって、肩にかかっていたベンチコートを落とす。目がくらむほどまぶしい出口へ歩み出す。

 後ろは向かなかった。けれど外へ出る前に立ち止まる。

「ありがとう」

 彼女に背を向けたままで、その一言だけを放つ。久しく忘れていた言葉だった。そんな優しい言葉が存在することすら今の今まで思い出しもしなかった。

 昨日の巴も言ったのだ。想いを伝えた由貴也にありがとう、と。きっと今の由貴也のような気分だったのだろう。そこには感謝の気配だけが満ちていて、謝罪の意はない。

 香代子が驚いたのが見なくてもわかった。自分はその気配に少しだけ瞳を緩め、口角をあげたのかもしれない。その言葉が発するかすかなぬくもりを感じて、陽光の中へ踏み出した。

 あと少し、もがく。

「ああ、終わった?」

 トイレから出ると、哲士がすぐ横に座っていた。しかもいつのまにかトイレの入口には“清掃中”の札が立てられている。通りで誰も入ってこないはずだ。

 外に哲士が控えていて、なおかつ香代子と話すお膳立てまでされているとは思わなかった。体調が悪いとはいえ気づかなかった迂闊な自分に舌打ちしたくなる。代わりに精一杯の皮肉をこめた。

「相変わらず世話焼きなことで」

「放っとけないやつがいるからな」

 哲士の嫌みを嫌みで返すスキルも上がった気がする。この応酬に哲士は薄く笑みすら浮かべていた。

 放っておけないやつ、とは考えるまでもなく自分だ。哲士が由貴也を存分に香代子へ接せさせるのはきっと自分が手負いの獣のような側面があるからだろう。情けをかけられているような状態がおもしろくなかった。

「すぐにそうやって安心していられなくしてやりますよ」

 不快感に耐えかねて悪態をつく。こんなにも不愉快なのは子ども扱いされて、それが図星だからでもあるとわかっていた。

 対する哲士はといえば「それでこそ古賀らしいよ」と嫌みも笑って受け流していた。

 これでさらなる嫌みを重ねたりしたら哲士の思うつぼなような気がして黙っていると、百メートルリレー決勝の召集がかかった。

 そのグラウンドにこだまする放送を黙って聞いた。哲士もただ虚空を固い表情で見つめていた。

 放送の余韻が完全に消えきった後で、哲士が先に瞳を動かし、それから体をこちらに向け由貴也を見た。

「走れるな?」

 由貴也の全身を点検するように哲士は見回し、最後に形式的な問いを発した。それはあくまで確認で、由貴也の答えを確信している口ぶりだった。

 由貴也はつきつめればつきつめるほど自分のために走る。どこまでも自分のためだけに走る。それを彼らはわかっていながら許すのだ。

 巴のために、という言葉は今日でもう最後にしよう、と思った。

「……古賀が百メートルじゃなくてリレーを走るって言ったことが俺はうれしかった」

 哲士がそっと発した言葉に、不意に夕暮れの病室が脳裏によみがえった。

 ――俺、次の大会でリレー走るから見に来て。

 神経性胃腸炎で入院してたときに、見舞いに来た巴へ言った言葉だ。百メートルではダメだと思った。あのとき、失恋で人は壊れられないと悟り、巴から徐々に心が離れてくのに動揺し、無意識に活路を探していた。

 乾きを癒すように、巴に認めてもらうことを欲して、いくつもの手段と方法を考えていた。それくらい振られたときの否定が色濃く残っていた。

 姉弟のような近しい感覚を有する自分たちは常に予定調和のような行動をとってきた。それがますます由貴也を限られた世界へ追い込んだ。

 巴に認めてもらうには彼女から離れるしかなかった。別個の人間なのだと認識しなければいけなかった。由貴也は由貴也の世界を造る必要があり、ひとりではそれはできないことだった。

 現に助けて、と手を伸ばした先の巴の残像は何もしてくれなかった。そう、手をつかんでくれたのは――……。

 回想から立ち直る。スパイクのつま先をぼんやりと見た。

「俺にはアンタたちが必要なんだと思う」

 計算ではなく、感情がそう思う。

 巴を飲み込んでしまいたかった。ひとつでも自分が知らないことがあるのは嫌で、盲目的に彼女だけを視界に入れていた。

 どうしても巴が欲しくて、力でねじ伏せてしまおうと思った。巴の意思などどうでもよかった。まだ子供である由貴也はそれ以外のすべを持たなかった。

 けれどそんなことをしなくとも人はずっとおだやかに寄り添い、向き合えるのだろう。彼らが由貴也にそうしたように。

「だから走るしかないでしょ。俺もアンタも陸上選手なんだから」

 言葉よりもずっと雄弁で、もっと本質的な行為。それが陸上選手にとって走ることだ。すべての感情を乗せて先へ走る。

「じゃあ……走ろうか」

 哲士の微苦笑に、由貴也は肯首した。陸上選手ならばそれ以上の言葉は必要なかった。そのまま召集場所へ向かい、それぞれの場所へついた。由貴也は一走、哲士は四走。遠く隔たりのある距離ながら、同じ円の中にいる。

 予選は抽選だが、決勝は予選の順位ででレーンが割り振られる。タイムで拾ってもらった二校は走りにくいインとアウトコースだ。立志院は予選と同じく第一レーン、インコースだった。

 ファンファーレが鳴る。

『ただいまから四×百メートルリレー決勝を行います』

 抜けるような真っ青な空に、アナウンスが響き渡る。もっとも最後の種目だけあって、会場に異様な熱気が立ちこめていた。

『第一レーン、立志院、古賀くん、――……』

 選手紹介で名前が呼ばれ、まっすぐ手を上げた。遠くから歓声が聞こえる。きっと立志院の面々だろう。

 由貴也は手を下ろして、スタンドを見た。すり鉢状の競技場の底から、ある一人の人物を探す。

 どこにいても、何をしていてもすぐに見つけられる。今までも、きっとこれからも一生。

 最前列にいた。じっと息をつめてこちらを見ている巴はここからでは遠い。それでも巴に視線を送り続けた。

 初めて巴と会ったとき、彼女がこの狭い世界から連れ出してくれるのかと思い、うれしかった。ベットから見上げる天井と、保育園の庭の隅だけが世界のすべてだった由貴也の元へ、新しい風をともなって現れた巴にたちまち虜になった。

 でも単なるあこがれではなく、また肉親の情愛とも違う。彼女に抱いた感情はまぎれもなく恋だったと言える。

『位置について』

 号令がかけられ、ゆっくりと巴から視線を外す。地面に膝をついた。

 特別な集中は必要なかった。スタンドの中から何十人、何百人という視線を感じながら、胸に思い描くのはただ一人で、同時にこうして胸の中で彼女の姿を温めるのはこれが最後になるだろうという予感があった。

 そうしてどうしようもない終わりを感じて心は否応なく軋むけれども、この後由貴也が帰結するのはただひとつの場所だけだ。

『用意』

 バトンを握りしめ、腰を浮かす。安定していた。予選のようなフライングの愚は犯さない。

 そして体の中から響くように、ピストルの音がスタートを告げた。

 すべるように飛び出す。もっともアウトコースである由貴也は一番前からスタートする。先を走る影はない。これでこそ自分の走るレースだと思った。

 徐々に上体を起こす。いつもは風の抵抗を感じる場面に、今日は背に追い風を感じた。さっと視界が開ける。

 ああ、と広がる光景に寂寞とした絶望と、遠いよろこびを感じた。巴は追ってきてくれるかもしれない後ろより、前の景色の方がよく見えるだなんて。自分の走る走路だけでなくまわりの様子、歓声までも鮮明に感覚がとらえる。

 次々と流れていく景色の中で、一瞬観客の中の香代子の姿が見えた。今にも泣きそうな顔で、けれど一心にこちらを見ている。

 やるせない気分になった。巴の顔より、由貴也の心を今、このとき打つのは香代子の表情だ。

 そんな顔をしなくてもいい。あと少し。走路の果てまで、哲士のところまであと少し。

「……っ!」

 突然視界がいびつに曲がる。体がしびれて、爪先や指先の体温が急激に下がる。

 一種のハイ状態で乗りきってきた体調の悪さが、ここにきて存在を大きくする。視野が狭まり、警告するかのように明滅する。

 失速しているのがわかる。体勢が崩れ、戻せない。後ろから迫りくる足音を感じる。

「古賀っ!」

 強制的に意識を失わせられる最中、哲士の声に揺さぶられた。横っ面をひっぱたかれたような衝撃を受けた気になる。何重にもぶれていた視界が少しだけクリアになる。

「古賀、来い!」

 再び力強く名前を呼ばれ、自分は走っているのか止まっているのかわからないままに懸命に足を動かず。

 自分は四分の一を走っているに過ぎない。けれどバトンをどうしても哲士に渡さなければいけなかった。四分の一を円にするために。

 哲士の存在をすぐ近くに感じるのに、遠近感がうまくつかめない。バトンが受け渡し可能なブルーゾーンの終わりが見えてくる。由貴也の頭にバトンを落とした練習試合の光景がまざまざとよみがえってきた。

 こみあげてくる恐れを飲み込んで、手を伸ばす。あのときよりもバトンを落とす可能性への恐怖心が強い。それでも目一杯手を伸ばした瞬間、あせりがきれいに消えた。

 すぐにバトンは哲士の手に渡る。確実に力強く持っていかれた。哲士と目が合ったと思ったのは、錯覚だったのかもしれない。彼はすぐに残像だけを残して駆けていく。けれど彼の姿とともに、出走する直前に見せたまなざしの強さが、眼に焼きついていた。

 すべての二走が走り去った後で、由貴也は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。腿の筋肉が痙攣し、何度か咳を繰り返した。

 割れるような声援が絶えず響いている。一分にも満たないレースは瞬く間に終わってしまう。体力を振り絞り、顔を上げて立志院のバトンを追った。

 アンカーの手にあるバトンを見て、あれは自分が繋げたのだと確かな実感が落ちてきた。陽に走路が輝いて見える。その先のゴールを自分は切に望んだ。

 ほとんど一位から八位の間に差はなかった。塊のままゴールを迎える。

 順位やタイムに関心はいかなかった。ただただひとつの終わりの形をそこに見る。空っぽの心と体。自分は後ろではなく前を向いて走った。過去の清算を果たした。

 この場で眠ってしまいそうになる由貴也の腕が引き上げられる。哲士だった。よろこびに輝く瞳がそこにはあった。

「四位だった。けど今までで一番速かったっ。ベストタイムだ!」

 興奮そのままに早口でまくし立てられた。子供のように哲士は由貴也の肩に腕を回して笑った。

 他の誰でもない。自分はここにいる。自分の足でここに立つ。何かがこみあげてきて抑えきれなかった。

 歯を見せ、哲士と肩を寄せ、体を揺らして十数年ぶりに自分は笑った。青空が目に染みて、気持ちよかった。自分が望んだ走路の果ての景色がここにある。

 今なら言える。やっと言える。

 由貴也は体ごとスタンドを向いた。何十人もの人の中から巴もまたこちらを見ていた。

 表情を確認できるほど近くはなかった。それでも巴は微笑んでいるとわかっていた。哀れみでも同情でもなく、ただおだやかさだけをにじませて、幼い由貴也ではなく、今の由貴也に向けて微笑む。

 巴に与えられた感情を、表情を、すべてのものを抱えて、これからも走っていく。

 由貴也もまた、巴に微笑を返した。風が髪をなでた。

 初恋の君へ、今さよならを。

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