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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
39/127

39

 熱に浮かされながら夢を見る。自分が繰り返し心の中で思っていたことを。

 巴と自分はとうにすれ違っていた。由貴也は巴とすれ違ったところで動けなくなり、彼女は歩き続ける。隣の壮司と手を繋ぎながら。

 自分は振り返って巴たちの後ろ姿をじっと見ている。足が壊死したようにその場から動けず、ただその場に立ちつくす。言葉を忘れたように声が出ない。

 何を言っても巴はもう振り向いてくれないとわかっていた。自分は捨てられた子供のように遠ざかっていく巴たちの背中を見る。



 巴に触れられたような気がして目を開ける。ぼんやりと浮かび上がってきた眼前に立つ人物の腕をすばやくつかんで跳ね起きた。

「目が覚めた? 気分は?」

 意識がはっきりと覚醒し、目に飛び込んできたのは香代子だった。突然寝ている人物から手をつかまれたというのに驚いた様子はない。

 目の前に示された日常に由貴也は体の力を抜く。巴がいるはずないことぐらいもうわかりきっていた。

「アンタの手は安心する。巴じゃなくて」

 辛辣な言葉を吐いて由貴也は香代子の手をつかんだまま、再び座席に深く体を沈めた。香代子の手の感触は由貴也に現実を深く思い知らさせた。それでよかった。ここで巴が出てきたらやるせない思いしかわかない。

「私は私だから」

 そう言った香代子に憮然とした響きはなかった。ありのままに話す飾り気のなさに由貴也はわずかに安堵する。少し前、部活にまで押しかけて復縁を迫ったら元カノは言ったのだ、古賀さんの代わりになるから、と。

 それは由貴也に強烈な嫌悪感を引き起こし、彼女の要求を手酷くはねつけた。けれど結局、無意識に香代子を巴の身代わりにさせようとし、由貴也はひどい混乱に陥るはめになった。

 一時期は巴が唯一無二のオリジナルで、他をできの悪い模造品だと見ていた自分に辟易していたのだが、最近はそれが薄れてきていた。

「体調はどう?」

 香代子が一定の距離を保ち、尋ねてくる。

 顔は見えるけれど、体は触れない距離。それ以上詰めてきて欲しくなかった。今はまだ誰かが懐に入ってるだけの余裕がない。同時にそれ以上は離れないでとも思う。

「だいぶ、いい」

 頭の重さを感じながら答える。正直なところあまりよくない。かつて虚弱体質だった由貴也は自分の症状を客観的に判断する癖がついている。

 表情を動かさずに答えたつもりだったのに、香代子はすぐさま疑惑のまなざしを向けてきた。

「どこかだいぶいいの。顔が熱でぼんやりしてる」

 弁解するのがばかばかしくなるほどきっぱりと言われ、ああ嫌だな、と反射的に思う。嘘も通じない相手とはやりにくくてしかたない。

 由貴也は意図的につかんだ香代子の手首に力を込める。

「見逃して」

 下から香代子を見上げてみせる。哲士と香代子、一緒になって由貴也の出場を反対されたらほぼ勝ち目はない。一方だけでもどうにかしておこうと思ったのだ。

 香代子は一瞬言葉につまった顔をしたが、ぐっと表情を固くした。

「ダメ! 病人のくせにそんな姑息なまねしないで」

 にべもなく却下され、ついでにつかんだ手まで振り払われた。

 なかばこの展開を予想していた自分がいた。どんなに表情をとりつくろっても香代子をどうにもできない。もっともそうわかっているからこそ、由貴也の嘘のつきかた自体が甘くなっているのかもしれないが。

 外から射す陽に目をすがめながら、巴だったらきっと見逃してくれた、と思った。それは香代子が融通が利かなくて巴が優しいということではなく、単に巴は由貴也に思うところがあるからなのだ。告白する前から巴の瞳には由貴也の想いに応えられないという罪悪感がちらついていて、いつでも少しだけ譲歩してくれた。由貴也はそのあわれむような彼女の瞳を見るたび、おそろしく暗い感情がわき上がってくるのを感じていた。

 優しい優しい巴。けれどそれは純粋な愛情に基づくものではないのだ。

「古賀」

 その声に視線だけ動かして見る。哲士がいつのまにかフロントガラスからふりそそぐ陽を背にして、バスの通路の先に立っていた。

 哲士が来たということはもう午前は終わったらしい。熱の中で浅いまどろみを繰り返しているうちに昼になってしまった。

 哲士の姿を認め、香代子の表情があからさまにやわらいだのが見てとれた。哲士は自然と人の不安の受け皿のような役割を果たしている。相変わらずだな、と思う。

 その哲士は体調はどうだと聞かなかった。代わりに由貴也の体の深部まで探るようにこちらを凝視していた。その無遠慮な視線を跳ね返すように、由貴也も哲士をにらみ返す。

「お前、今日は一段と目つき悪いな」

 にらみあいが別の何かに発展する前に、哲士が息をついた。

「虚勢を張らなきゃいられないくらいなら走るのなんて止めとけよ」

 哲士の由貴也を見る目は冷静で、非情なぐらい公平な部長としてのものだった。午前の種目である百と二百メートルを走ってきたばかりだというのに哲士に陸上選手らしい熱い本能を感じなかった。むしろ自分の方が走りたいと陸上選手らしい熱い本能とやらを燃やしている状況に、由貴也は思わず自身を嘲笑しそうになる。

「虚勢が張れるうちはまだ大丈夫でしょ」

 由貴也は不敵に笑ってみせ、反論の前に立ち上がる。ふたりを置いてバスの通路を突っ切った。もう何も言われたくなかったし、聞きたくなかった。油断するとすぐそちら側に傾いてしまいそうな自分を知っていた。自分が欠場したところで、巴は責めたりしないし、彼らはむしろ安堵するだろう。

 バスから降りて、走り出す。意思と体がうまく繋がらない。すべての感触がまるで違っている。頭にはもやがかかっているのに不快感だけが強調され、身体が壊れる心地がする。

 痛み、熱、余分な感触をすべて意図的に抑えこんで感じないようにする。そうして無意識に残してしまった、胸の奥底にしまえなかった感情を由貴也は静かに思う。

 ずっと、それをどこかに落ち着く場所にしまうことを考えていた気がする。今から宙にさまよっているそれをしまいに行く。由貴也が唯一できる走ることによって。

「古賀、待てって!」

 哲士が追ってきて、逃がさないというふうに由貴也の肩をつかんでくる。彼が追ってくるのは最初からわかっていた。

 哲士も由貴也も止まり、向かい合う。哲士はすばやく由貴也の全身を見回してから、ため息をつく。注意深く嗅ぐと、その呼気にはあきらめがただよっていた。

「絶対に無理しないって誓えよ?」

 それは出場してもいいという言葉と同意だった。哲士が折れたのだ。

「はい」

 答えて、その後に胸の中でたぶん、とつけ加えておく。今日出場できたならば、ケガしたってどうなったっていい。もう走れなくなったって――別に死んだっていい。巴の中の由貴也が同情すべきかわいそうなやつでなくなるならば何だってよかった。

 遠景を見るように由貴也を見ていた哲士がそっと口を開いた。

「古賀は今日が終わったってどうにかなったりしないよ」

 由貴也の思っていることを見透かしたように哲士が言う。思いがけず真剣な声音だった。

「もうどうにもなれないよ、お前は」

 絶望を突きつけられた気がした。お前にそんな勇気はないと暗に言われた気がした。やれるものならやってみろと挑発された気分になって、由貴也は瞳を細めた。

「アンタのそのわけ知り顔が好きじゃない」

 アンタに何がわかるの、とは言えなかった。自分は哲士にすでにだいぶ心の内を明かしてしまったという自覚がある。

「嫌いで結構。だから最後まで倒れんなよ」

 軽く笑って、哲士は手なづけるように由貴也の頭に手を乗せた。その余裕綽々の態度も気に食わない。

 見透かされたくない。巴の方へ戻りたくなる自分も、その道がないことも、だから進もうとしている自分も。

 立志院のテントに帰ると、昼休みで部員はテントに横たわり、体を休めている真っ最中だった。その死屍累々の中から根本が目ざとく由貴也を見つけ、体を起こしてくる。

「古賀、下痢はもういいのか!?」

 事態が読み込めず、由貴也の思考は動きを停止する。隣の哲士がとりつくろうように笑っていた。どこが『根本たちには上手く説明しとく』なのか。

「お前こんなときに腹壊すなよな。昨日なに食ったんだよ。全部出してきたか?」

 なんだかすごくえげつない質問をされている気がしたが、由貴也は全部受け流して「大丈夫です」と根本に答えた。今度百メートル出たときには哲士を必ず打ち負かそうと誓った。

 そこで自分の感情の正直さに気づく。

 ――今度、ね。

 無意識に次を考えている。“まだ”と“もう”が混在する自分の中。どっちつかずで漂っているからか。ずっと適当に生きてきたのに今、初めて中途半端が嫌だと思う。

 由貴也は続きそうな思案を強制的に切る。何も考えずに走るのが由貴也のモットーだ。考えるとろくなことがない、合宿時に哲士と対決したときのように。

 部員たちが午後の競技に出ていくのを横目に、由貴也は丹念にウォームアップにとりかかった。リレーは最後の種目だ。それまでに熱で麻痺した感覚を取り戻さないといけない。

 競技場から出て、木陰を走る。春のそう狂暴ではない太陽に当たっているだけで体力を奪われていきそうだ。走るために地面を蹴るたびに、体の中で嫌な熱が燃え上がる。汗があごの先から落ちた。

 立ち止まって膝に手を置き、肩で息をする。熱いのに寒く、喉が異様に渇く。慣れ親しんだ百メートルが果てしもなく遠く感じる。

 体を折ったまま顔だけ上げる。飛び込んできた情景に、胸がひとつ大きく鳴った。

 不意に視界に飛び込んできた黒に由貴也は自分のすべてを一瞬のうちに持っていかれた。今日、来ていることは知っていた。昨日、来てくれと言ったのだから。巴はよほどのことがなければ由貴也の頼みを断ることはない。

 目に写るのは、どんなに遠かろうと決して見間違えない、離れたところを歩いている巴の後ろ姿だった。

 衝動が胸を焼いた。今すぐ走っていって、後ろから抱きしめて、もう疲れた。帰りたいと言いたかった。体と心を巴のもとに投げ出してしまいたかった。

 巴は気づかない。自分は動けない。まるであの夢の中のように。

 何が自分の足を地面に縫いつけているのだろう。こんなにも巴を望んでいるのに、どこかためらいがある。

 ひとつ確実に言えることは、陸上部に入らなければ、香代子と哲士に会わなければ、こんな思いしなくて済んだ。痛みを知ることなく、まどろみの中で過ごしていられた。痛いと感じる神経すら持たずに。

「あ、いたいた」

 突如背後から声をかけられ、視界がさっと開けた。巴だけを感じていた全身の感覚が戻ってくる。反射的に振り返り、目を数回無意識に瞬くと、瞳に香代子が写った。

「はいっ。とりあえずこれ飲んで」

 由貴也の前まで走ってきて、香代子がまじめな顔で眼前に突きつけてきたのは子供用のシロップに入った風邪薬だった。ファンシーな絵柄でマスクをつけた動物たちがビンを飾っている。

「…………俺に?」

「そう。だって粉薬とかは嫌でしょ」

 そういう問題でもないし、そもそも風邪ではないのだが、由貴也に効くと信じて疑わない目がそこにはあった。

「もう出るなって言ったってきかないだろうから。さぁ、ぐいっと飲んで!」

 ぐいっとの期待をこめて、香代子が目を輝かせて見てくる。香代子の背後からイッキコールが聞こえてくるようで、由貴也は逃げることを考えた。逃走経路を確保しようと、後ろにさりげなく視線をめぐらす。

 ああ、でも後ろには――。

 行けない、と反射的に考えた。

「貸して」

 ビンを受けとり、キャップを回す。逃げられないのなら究極の選択だがこれしかない。人工的な甘い臭いが鼻をついた。

 なんで俺がこんなこと、と思いながらビンに口をつける。流れ込んできたねばつく不自然に甘苦い液体は、喉にからみついて嚥下するのにかなり手間とった。甘いものが好きでもこれはごめんだ。

 やっとの思いですべて飲むと、逆に気分がより悪くなった気がする。これは本当にただの薬なのかと疑惑のまなざしを香代子に向けると、彼女の手に小さな計量カップが握られているのに気づいた。

 改めてビンの側面に細かい文字で書いてある注意書きに目を走らす。

「ねえ」

「なに?」

 由貴也が全部飲んでくれて満足げな香代子に真実を突きつける。

「これ一気飲みするんじゃなくて、アンタの持ってる計量カップで測って飲むんじゃないの」

 十五歳以上カップ二杯。十五歳にもなって好き好んで幼児向けのシロップを飲む人間がいるとは思えなかったが、確かにそう書いてあった。

「え……?」

 指摘されて初めて、自分の手にあるものが何だかわかったように香代子がカップをまじまじと見ていた。用途がわかったのか彼女の顔色が目に見えて青くなる。

「『用法用量を守ってお飲みください』って……全部飲んだ?」

「飲んだ。ぐいっと」

「ご、ごめっ、大丈夫!?」

 後半はほとんどつかみかかるような勢いで香代子に謝られる。

「大丈夫だと思う?」

「……ごめんなさい」

 規定量の軽く五倍は飲んだのだ。大丈夫なはずがない。今すぐ吐きたいが、しぶとく体の中に液体は留まっていて、そう簡単に戻せそうもない。最低の気分だ。

「吐き出すか、水大量に飲んだ方がいいよ! 行こうっ」

 体内でシロップが波打ってる気がして動けないでいると、香代子に後ろから背中を押され、やや強引にその場を離れる。香代子といい哲士といい、どうしてこうも人が感傷に浸るのを邪魔するのだろう。なんとなく、哲士が『お前はどうにもなれない』と言った意味がわかった気がした。

 由貴也は後ろを見ようと首を動かし、止めた。もう振り返らない。あの夢のようには巴の後ろ姿を見ない。たぶん自分は香代子が来る寸前まで危なかったのだなと冷静に思う。

 香代子に押されるがままになって怠惰に歩いていると、競技場の中まで見える場所までやって来ていた。

『百メートル、準決勝に出場する選手を紹介いたします。第一レーン――……』

 トラックでは 百メートルの選手が点呼されているところだった。

「部長!」

 香代子が声を上げたのと同時に、哲士の名前が第三レーンで呼ばれた。

 香代子は立ち止まって見るのかと思いきや、そのまま由貴也を押して再び歩き始めた。

「部長、見ないわけ?」

 香代子に応援してもらえばあの人のモチベーションだって上がるだろうに、と思う。

 香代子は由貴也の問いに息を切らせながら答えた。ほぼ全体重を香代子にかけているので背を押すのも大変なのだろう。

「部長は私が見てなくてもきっちりやるよ。アンタをどうにかする方が先!」

 きっぱり言い切る香代子に、自分の絶望的までの信用のなさを改めて感じた。

 パンっとスタートの号砲が響く。自分のときにはあんなにも鋭い発砲音も、神経をとがらせていない今では若干間の抜けて聞こえる。

 突風のように脇を選手たちが駆け抜けていく。その中に哲士の後ろ姿が見えた。

 初めて見た。哲士の後ろ姿など。自分はいつだって哲士の前を走っていた。それが今、競技場の外でただ見ているだけだ。

 後ろに傾けていた体を起こす。背中に感じていた手のひらの感覚が離れていく。

「自分で歩く」

 誤解されるのがうっとうしくて、暗に香代子を拒絶しているわけではないと言っておく。もっとも香代子に触るな云々言ったところで今さらのような気がするが。

 自分はいったいいつからこんなに他人に感化されるようになったのか。哲士の走りを見て背筋を伸ばし、香代子に勘違いをされないように言葉を足す。それがたまらなく不快にも快いものにも感じる。

 由貴也は結局吐くことも水を大量に飲むこともしなかった。吐いて体力を消耗するのは避けたかったし、水分を過剰にとって体を重くすることはそれこそしたくなかった。

 体調は悪化の一途をたどるばかりで、少しもよくなりはしない。身体のみならず精神的にも追いつめられる。この不調を隠し通さなければいけないのだ。なんでここまでして走ろうとしているんだろう、という疑問が熱にドロドロに溶かされて感じなくなっていたことが不幸中の幸いだった。

 リレーの予選前に小トラックが解放されての練習になる。哲士は百メートルの後だというのに疲れた様子はない。

「古賀、お前……」

 つらそうだな、と言いかける哲士を目で制す。

「マネージャーに幼児用の風邪薬飲まされたんだって? しかも一本丸々」

 笑い事としてではなく、哲士は本気で心配した顔で尋ねてきた。事実笑い事ではないのだが、改めて人の口から聞くと何かのギャグのように聞こえる。

「もう全部出しました。俺は下痢なそうなので」

 誰が下痢だと当てこする。冷ややかに哲士を見れば彼は少し安堵した表情を浮かべていた。嫌みを言うぐらい元気なら大丈夫だと思ったのだろう。

「マネージャーは普段はしっかりしてるんだけど、古賀が関わるとダメだよなぁ」

 のんきな口調で言って、哲士が苦笑する。哲士は危機感が今ひとつ足りないのではないか。香代子が由貴也のことで頭を一杯にしているのを許容しているのだ。

 気が抜ける。誰も彼もが敵だと思っている自分に比べて、まわりはなんとおだやかなんだろうか。

 気が抜けついでに、気も緩んできた。朦朧としかけていたので、リレーの予選のアナウンスがされて招集所に来たときもあまり記憶がなかった。かろうじでスパイクをアップ用から本番用に履き替えたのを覚えているくらいだ。勝手に係員がユニフォーム前後のナンバーや、走るレーンの確認をして、トラックに送り込まれる。

 また例によって立志院は第一レーンだった。カーブがきつく、もっとも敬遠される場所だ。以前の練習試合のときもこのレーンで、結果的にバトンを落とした。

 今回は上位二チームとタイムで二チームの合計八チームが決勝に駒を進められる。バトンミスは論外だが、とにかく走って繋げれば、そう絶望的なまでの可能性のなさではないだろう。

 スターティングブロックを調整しながら、散漫な集中力をかき集めていく。いつもなら別段精神統一など必要ない由貴也も、今日ばかりは体の不調にひきづられる。

 関節がきしんで痛み、体がだるい。なのに自分の存在を誇示する以外の目的で、決勝に進める可能性を考える。無様な走りをさらすとわかりきってながら、それでもあがく。

 なぜ――巴によりよい舞台で自分の今の姿を見せたいから?

 号令がかかり、選手は一斉にスターティングブロックに足をかける。タータン舗装の赤い地面を見ながら地面に膝をついた。

「用意」

 注意深く告げられたその言葉で腰を浮かす。これ以上ない緊張感が競技場を支配する。

 この瞬間、いつもなら深海に潜るように由貴也の意識は目前のレースに入りこむ。けれど今回その代わりにめまいに襲われる。

 視界が歪む。地面が硬度をなくし、足が地中に沈みこんだ気がする。均衡を失い、体が揺れた。

 注視して見ないとわからないほどの体のぶれだったが、まずいと思ったときにはもう遅かった。号砲が鳴る。無意識にスタートを切ったが、立て続けにもう一発放たれ、足にブレーキがかかる。明らかに由貴也のせいであるフライングだ。『用意』の時点で体勢を崩すとそれだけでフライングと見なされる。

 次やったら問答無用で失格だ。白けてスタートを位地に戻る選手たちに混ざってあるきながら、由貴也は意識的に思考をぶったぎった。

 後はもう本能だけで動いた。闇の中をさまようような気持ちでスタートし、遠くの哲士の背中を目指した。

 浅く早い呼吸。壊れそうなほどに心臓が乱暴に鼓動を刻み、地面を蹴るたびに体がバラバラに崩れていく気がする。最後はもう叩きつけるように哲士にバトンを渡した。最低のバトンパスだ。

 走り終わってから、いや走り終わる前からもうこれは今までの中で一番悪い走りだとはっきりと言いきれるほどひどかった。

 立志院は三位だった。あとはタイムで拾ってもらうことに希望をつなぐしかないが、今の組はあまり速くない。しかも一位、二位とは差がある。決勝進出は普通に考えて難しい。

 由貴也はタイム速報を見るのもそこそこに、おぼつかない足どりでトイレに行き、胃を焼く熱の塊を吐き出した。上手く吐けずに何度も嘔吐き、否応なしに体が痙攣する。残り少ない体力の底が見えてくる。

 昼なのに暗いトイレ内には天井近くに明かりとりの細長い窓がついている。四方を個室の高い壁に囲まれながら、由貴也はその遠い光を見ていた。

 これで終わったのだろうか。こんな形で、走ることの意味を見いだせないまま、巴の前でみっともない走りをさらして。

 嫌だ、と思う。劇的じゃなくてもいい。だから俺は巴に――。

「古賀 由貴也っ、いるのっ!?」

 男子トイレ内におそろしく場違いな女声が響く。タイル張りのトイレで何重にも反響して由貴也の耳に届く。

 ついで硬質なローファーの足音が響き、由貴也の前に影が差した。最後の力を振り絞って顔を上げると、香代子がそこに立っていた。

「あぁもう……やっぱり!」

 言葉をつまらせた香代子の声が降ってくる。それからやわらかいものが体を包んだ。ベンチコートだ。

 床に膝をつくことも厭わずに、香代子が由貴也の体に手を回し、全身をベンチコートで覆った。

 あたたかい、気持ちよい。冷たい汗をかいていた体のこわばりが抜ける。

「……なんでアンタなんだよ」

 背筋から言葉がつきあげてきて、嗚咽のように絞り出された。

 なんでアンタなんだよ。本当は苦しいんだよ、悲しいんだよ。巴にふられて痛いんだよ。もう無表情でいるの限界なんだよ。

 なのにアンタじゃ俺は――。

 由貴也は体を倒し、香代子にもたれかかる。

 アンタじゃ俺は、一緒に堕ちてくれとは言えないんだよ。俺が好きなら同じように苦しんでくれとはもう言えないんだよ。

 男子トイレにまで入ってくる姿を見て、苦しいのも悲しいのも痛いのもアンタにはやらないと思うんだよ。

 彼女が嘘がつきやすくて、粉薬を買ってくるぐらい由貴也のことを見ていなくて、本気で巴の身代わりになれると信じているような人物だったらよかった。きっとそのほうが楽だった。自分の痛みを躊躇なくぶつけられたのに。

 針が振り切れてしまった。そして何かが擦りきれた。懸命にこらえていたというのに。こんな時に、こんな場所で、こんなふうに。もうどうしようもない。

 ここが心地よいなんて思ってはいないはずだった。

 由貴也は香代子の体温を感じながら瞳を閉じた。名前を呼ばれたのは初めてだと思いながら。

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