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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
38/127

38

 翌日には雨も止み、春らしいぼんやりとした雲がただようおだやかな天気になった。

 山の上にある立志院はどの大会に行くのにもおそろしく早く出発しなければいけない。山を下るのに一時間、そしてそこから高速に乗るのにさらに三十分かかる。

 バスの中での過ごし方というのは個性が出るなあ、と香代子は毎度のことながら思う。立志院は規律の厳しい強豪校というわけではないので、バス内での禁止事項があるわけではない。ただ暗黙の了解としてあまり騒ぎ過ぎないようにはなっていた。

 部長の哲士はといえば、時おり部員たちの話に合いの手をいれるものの、窓の外を見ていることが大半だった。彼の意識はゆっくりと試合へと向かっているようだった。

 根本はといえば、まわりの部員とはしゃいでいる。けれどその騒ぎ方にもどこか節度があり、眠っている部員に迷惑をかけることは決してなかった。その明るさはやや固く、これが根本なりの試合への導入の仕方なのだろう。

 問題の由貴也はといえば、言うに及ばず、寝ていた。寝顔を見られるのが嫌なのか、深くうなだれたような姿勢で顔を下に向けている。本当に彼にはスイッチがついているようだ。オンオフがはっきりしすぎている。

 まぁ、妙に沈んでいたりするよりいいけど、と香代子はあきれつつも安堵する。昨日はどちらともなくつながった手を解き、言葉少なく別れた。部室から出ていく由貴也の存在がやけに希薄で、香代子は不安になったのだった。

 男相手に――厳密に言えば同性相手にすら儚いなんて感想を抱いたことなどなかった。けれど昨日の由貴也には思ってしまったのだ。消えてしまいそうだと、溶けてしまいそうだと、音もなく崩れてしまいそうだと、香代子はおよそ現実的でないことを思った。

 けれど一夜明けてみたら、そんな感傷は白日の元にさらされてなくなっていた。朝の由貴也がしゃきんとしないのは相変わらずだし、寝癖がついた髪は俗っぽい以外の何物でもなかった。

 目的地に着くまで、いや目的地に着いても起きなそうな由貴也から視線を外し、香代子は目をつぶってバス内の高揚感に身を浸した。

 今まで名実ともに弱小部だった立志院陸上部には、試合に行く前から諦感が凝っていた。要は走る前からおもに気持ちの面で負けていたのだ。けれど今は静かな緊張感がバスの中にただよっている。遠足に行くような気楽さは消えていた。

 両側に木の植わった直線道路の先に、野球場の照明の鉄塔が見えた。まもなくバスが総合運動公園の門をくぐる。駐車場はすでに大型バスで埋まっていた。新聞社主催の記念大会である今大会は県内すべての高校が呼ばれていた。

 バスから下車し、テントを張りに行く部員たちと香代子は別行動になる。前日に入念にチェックしたエントリー表を受付に提出しに行くのだ。

 受付にはうんざりするような長蛇の列ができていた。意気込み、香代子は最後尾につく。

 横のトラックでウォームアップする選手たちを見ながら、香代子は無事にエントリー表を渡してほっとする。このエントリー表の提出によって無事に今日の出場選手が確定した。これ以後の変更は一切認められない。

 選手たちのサポートが今日の香代子の最大の役目だけれど、実質的には受付にこのエントリー表を提出することがもっとも優先するべき事柄だった。

 どことなく肩の荷が下りた気分で、赤茶色のトラックを歩く。反発が足に心地よい。県内レベルで見ればかなり大規模な大会ということで、使用している運動公園は広大な敷地面積を持つ、かなり立派なものだった。

 もちろんこの陸上競技場も全天候型のタータン舗装だ。おまけに楕円形の競技場を囲むように観客席までついている。

 香代子は観客席をおもむろに見上げる。選手の父兄とおぼしき母親群や、新聞の取材班。そんなに多くない観客を香代子はつぶさに見回していった。

 けれど端から端まで見ていっても、彼女の姿はなかった。無理もない。普通見に来るならばどんなに早くても開会式の直前だ。

 そうはわかっていても不安だった。なぜ自分がこんなにも心を波立たせないといけないのかと思わなくもなかったけれど、巴に早く来て欲しいと願っている自分がいた。由貴也の走る姿を見届けて欲しかった。

 今日の走りは由貴也が見せるひとつの決別の形なのだろう。過去を振り切って彼は今日、走るのだ。

 香代子の思考を破ったのはポケットに入れた携帯のバイブ音だった。その振動に思わずびくりと肩を震わせる。

 視線を観客席から外しながら、携帯をとりだして開く。ディスプレイには哲士の名前が表示されていた。何かあったのか、と香代子はあわてて耳に携帯を当てた。

「はい」

『マネージャー、古賀そっちにいる?』

 哲士の背後からざわめきが聞こえてくる。彼はグラウンドにいるようだった。

「いないけど……どうしたの?」

 由貴也の名前を聞き、にわかに胸がざわめく。この土壇場にまさか由貴也はいないというのか。

『わかった。いってないならいい。ありがとう』

 哲士が電話を切ろうとする気配を察して香代子は電話に噛みつくようにまくしたてた。

「部長、待って! まさかいないの?」

 ちょうどそのときアナウンスが流れた。これから開会式を始めます、選手は集合してください、と電話の向こう側からも聞こえてきた。あせりが沸き上がってきた。

「部長は開会式に出て。私が探すから!」

 答えを聞くまでもない。哲士の口調から由貴也がいなくなったのは明白だ。彼が一筋縄でいくと考えていた方が間違えだった。

 香代子は携帯を閉じて握りしめ、走り出す。開会式に向かおうと中に入ってくる人の波に逆行して、競技場の外に出た。

 ここまで来て由貴也はどこへ行ってしまったのか。消えてしまいそうな由貴也。どこにも根を下ろそうとしない由貴也。不安になった。ふらっとどこかへ行って、そのまま――。

 開会式に人をとられ、誰もいない道の真ん中で、香代子はあたりを見回した。やわらかい葉が繁る常緑樹が両端に並んでいる。

 緑を透かして、ちらちらと地上に落ちる影がそよ風に動く。その陰影に紛れるように、ベンチに横たわっている人影が見えた。

「……なにやってんの?」

 息を切らせ、香代子はベンチの前に立った。拍子抜けした。どうしてこんな見つけやすいところに横たわっているのか。

 由貴也は首だけ動かし、ちらと香代子の姿を確認すると、また背を向けてしまった。まったく起きる気がないようだ。

「こんなとこでなにのんきに寝てんの!」

 こちらの気も知らないで、木陰でお昼寝とはいいご身分だ。香代子は安堵が溶けた怒りを抑えきれずに拳を握りしめた この勢いにはさすがの由貴也も驚いたのか、無視しきれなかったようだ。先ほどより小さい動きで今度は瞳だけを動かしてこちらを見ていた。

「私、アンタがどっか行って帰ってこないんじゃないかと……」

 これ以上言葉が続かない。声がつまる。ほっとして、取り乱した自分が恥ずかしくてどうしようもない。

 香代子の狼狽ぶりを一通り眺めてから、由貴也はまた疲れたように目を閉じた。どことなくやれやれという辟易がその動作に含まれている気がして腹が立つ。

「俺に他にどこに行く場所があるっていうのさ」

 ごくごく自然に言われた言葉に、香代子は目を見開く。ここはちゃんと由貴也の居場所になっている。何気なく放たれた言葉なのに、もうここしかないという由貴也の覚悟のようなものを感じた。それと同時に、彼の後ろに巴の残像が見え隠れし、悲愴さが加わる。

 だいぶ気持ちが落ち着いてきた。冷静になってみるとなぜ由貴也はこんなところのベンチで横たわっているのかという疑問が沸き上がってくる。

 優秀ではあっても真面目ではない由貴也だが、さすがに試合において投げやりな態度をとったところを見たことはない。力を発揮する場面において由貴也は存在感を増し、自然に速さを示す。

 その由貴也がウォームアップそっちのけで寝ている。いや寝ているのではないのかもしれない。この必要最低限の動きすらしない由貴也には見覚えがあった。

 今日二度目のまさかをひらめかせ、香代子は由貴也を引っ張り起こした。

 由貴也は寝ているのではない。動けないのだ。顔をわずかにしかめる由貴也を黙殺し、彼の額に手を当てた。

「……熱い」

 香代子は思わず固い声音でつぶやいた。

 手のひらに伝わる熱も、つかんだ彼の腕からも熱気を感じた。雨の前の蒸された大気のような嫌な熱だ。

 由貴也は発熱している。

「アンタなんで……どうして言わないの!?」

 由貴也はうっとうしそうに香代子の手を払う。少しばつの悪そうな顔をしていた。

 ウォームアップ用のスパイク、ブルーのユニフォーム、由貴也は普通にアップするつもりでいたのだ。あわよくば誰にも悟られず出場したかったのだろう。けれど開会式で皆出払っているので気が抜けていたらしい。だからこんなところで転がっていたのだ。

「……うるさいな。たいしたことないし」

 たいしたことない。かすれた由貴也の声に香代子はうろんげな瞳を向けた。たいてい病人というのはたいしたことないと言って悪化させてたいしたことにしてしまうのだ。

「とにかく、部長に電話――」

 出場も欠場も、哲士を通さずにはできない。まずは連絡しなくては、と携帯を求めてポケットを探る。携帯を手に収めたところで、由貴也の手が伸びてきた。

 燃えるような熱を内包した手だった。携帯を持った手首をつかまれ、その熱さに反射的に手をひっこめそうになる。けれどそれを許さないほどの強い力で、由貴也につかまれていた。

「……いい」

 香代子の手を引っ張り落とそうとするような強い力とは裏腹に、由貴也の拒絶は弱々しかった。だからこそ濁流の中で踏ん張るような必死さが伝わってくる。

「いいって……」

 いい、と言われてもちっともよくない。黙ってろと暗に言われてもそういうわけにはいかない。

「いいわけないでしょ! そんな状態で走ってケガしたらどうすんのっ」

 ただでさえも練習と本番は違う。本番というのはとかく体に力が入りがちだ。その力は制御できる精神が伴ってこそ正しく発揮できる。うまく手綱を握れなければケガにつながる。心の不調、体の不調どちらも命とりになる。

 ――由貴也が今日の日をひとつの区切りに考えていることはわかっていた。わかっていてもそれでも止めなくてはならなかった。

 香代子は強烈な眼光にたじろぐ。由貴也が瞳に鋭さを込め、香代子をねじふせようとしていた。その無言の圧力に、香代子も負けじと目尻に力をこめた。瞳と瞳をつなぐ見えない糸には緊迫感が走っている。由貴也の香代子をやり込めてしまいたいという意志はひしひしと感じるが、ここで引くわけにはいかなかった。

 ふと由貴也の強いまなざしに既視感を感じた。

 ――先輩は俺のために部長をふってくれる?

 哲士に告白された夜、由貴也は今と同じような強い瞳で香代子を意のままにしようとしたのだ。

 けれどもあのときは色気という小細工で香代子を翻弄しようとしたが今は違う。由貴也は真正面から香代子を見ていた。まやかしやごまかしというものをとりはらった瞳で。

 張りつめた空気を破ったのは香代子の携帯のバイブ音だった。途端にまわりの音が聴覚に戻ってくる。開会式の来賓のあいさつが空に朗々と響き渡っていた。

 ポケットから携帯をとりだしながら哲士のことを思い出した。先ほどは一方的に電話を切ってしまっていた。

 案の定、着信は哲士からだった。

「はい」

『マネージャー? 今どこにいる?』

 哲士は喧騒のなかにいるらしく、電話ごしに人のざわめきが聞こえた。開会式に参加していないのは明白だ。

「部長こそ、開会式は?」

『開会式なんて俺がいてもいなくても変わんないって。それより古賀は?』

 哲士は哲士で開会式には参加せず、由貴也を探していたのだ。

 香代子はためらう。いると伝えた方がいいとわかっている。わかっていても声が出ない。

 返答に窮していると、気配もなく近づいてきた由貴也が後ろからひょいと香代子の携帯をつまみあげた。

「大丈夫です。あと少ししたら戻ります」

 香代子があっ携帯、と思っているうちに、由貴也がいつもよりもはっきりと言葉を発してついでに通話も切った。抗議をする暇もない。

 由貴也がよどみない敬語で話すときはろくなことをしない。携帯を握ったまま由貴也はもう一度後ろに倒れるようにベンチに身を預けた。力なくに放り出された彼の手から香代子の携帯がこぼれ落ちる。

 香代子はそれを拾い上げて由貴也に目を向けた。

「どこが大丈夫なの」

 立ち上がることすらできなくて、よく大丈夫と言えたものだ。香代子は昨夜、由貴也をぬれたままで帰したことを後悔していた。

「……違う」

 突然放たれた否定に、香代子は何に対してかわからなくてえ、と返す。答えを求めるように由貴也に視線を向けてみても、彼は深く腰かけたまま瞳の上に腕を乗せ、表情を隠していた。

 香代子の視線を受けてもなお、由貴也はじっと押し黙っていた。

「……頭ではわかってても、体がついてこない」

 長い沈黙の後に、胸に残った欠片を吐き出すように、由貴也はそれだけいった。

“頭ではわかってても、体がついてこない”

 巴を想い、体まで壊した由貴也。今回の発熱も心に体まで引きずられてしまったというのか。巴の存在を切り離すことに由貴也の心は悲鳴を上げて抵抗しているのか。

 由貴也を苦しめるものが心であれ体であれ、彼は運動選手としてあまりに繊細で弱い。彼に痛々しさを感じつつも厳しいスポーツの世界を思えばそう言いきる他なかった。完璧に制御しろとは言わないが、最低限支障なく走れるようにコンディションを保つのが選手としての努めだ。

 本来ならば由貴也を問答無用で欠場させるべきだとわかっていた。それに従って説得もした。けれど部内でもっとも強い裁定権を持つ哲士を前に、香代子はありのままを話せなかった。口ごもり、とっさにこの事態を隠蔽する方向に感情が働いてしまった。

 由貴也が選手失格なら、香代子もマネージャー失格だ。できるなら彼を走らせたいと思っている。

 遠くからマイクを通しての選手宣誓の声が響く。その遠くの騒音を、こちらに近づいてくる足音が破った。

 息を切らした哲士が、背中から陽を受けて立っていた。

「部長……」

 息を整えながら哲士が由貴也と香代子を見比べた。それから哲士は聞こえよがしの重いため息をついた。由貴也がどういう状態だか把握したらしい。

 おもむろに哲士の手が伸びてきて、由貴也の頭をわしづかみにして上を向かせた。

「古賀、お前が大丈夫っていうときは大抵大丈夫じゃないんだよ。いつもなら大丈夫なんて殊勝なこと言ったりしないからな」

 確かに由貴也はそんなに可愛いげのある性格ではない。そもそも大丈夫、と聞いて大丈夫と素直に返ってすらこない。

 由貴也は発熱で水の膜が張ったように潤んでいる目で哲士をにらみつけていた。体調不良のせいか由貴也の感情表現はいつもよりストレートだ。

「にらんできても今のお前じゃちっとも迫力ないな」

 哲士はなでるように由貴也の頭をガシガシと揺らす。わざと由貴也を挑発しているように思えた。

「マネージャー、百メートルの欠場申請してきてくれる?」

 唐突に哲士がこちらを向いて言ってきた。反抗を許さないかのように哲士の手は由貴也の頭をつかんだままだ。

 エントリー表の提出によって、出場選手の変更は認められないが、欠場だけは許される。百メートルと二百メートルなど数種類の種目をかけもちすることがめずらしくない陸上競技において、ケガをしたときのためだった。

「部長、待っ――」

「恨むなよ、古賀。自己管理ができなかった自分を恨め」

 由貴也を擁護しようと口を開いたものの、哲士にぴしゃりと遮られる。それは由貴也に向けていたが、香代子の介入をはねのける言葉だった。

「……リレーはどうするんですか」

 由貴也が低く問う。哲士の隙をうかがっているような、そういう油断ならない声音だった。

 リレーでの正選手と補欠の入れ替えはエントリー表を出すまでだ。よって由貴也が出場できない場合はメンバー不足により自動的に欠場になる。

 哲士はじっと由貴也を見て、それからごくごく冷静に言った。

「俺はリレーに出ないとは言ってない」

 え、と香代子は思わず声を漏らす。そう言われてみれば百メートルは午前、リレーは午後、しかも最後で今すぐ決断する必要はないのだった。

 それでも今の由貴也の様子を見たら、午後までに奇跡的に快方に向かうとは思えなかった。

「午後までとりあえず様子を見る。根本たちには俺からうまく言っとく。バスの中で休んでろ」

 有無を言わせぬ断定的な口調だった。記憶の限りこんなはっきりとした哲士の命令形を聞くのは初めてかもしれない。

 哲士は言い終わるやいなやきびすを返した。一切のフォローがない彼にらしからぬものを感じる。

 哲士の遠ざかる背中と由貴也を交互に見て逡巡し、結局哲士の方を追いかけた。

「部長!」

 由貴也に声が聞こえないところまで行ってから呼びかけると、哲士がゆっくり振り返った。眉を下げて、ため息をつくのと同じような笑みを浮かべていた。

「腹が立つ。こんなときにぶっ倒れている古賀に」

 哲士の言う通り、由貴也にはあまりにレギュラーだと言う自覚が足りなかった。せめて朝の時点で言ってくれていたら、根本に変えるなどまだ手の打ちようがあった。

「休ませた方がいいってわかってるんだけどな、でもあきらめられない。俺はあいつと走りたい」

 哲士は部長としてではなく、陸上選手としての顔をしていた。走る瞬間を熱望している。今回は最初からどうせ負けるだろうと投げやりで臨む試合とは違う。期待の大きさが失望をはじいてしまった。

「午後までに頭冷やす。無理はさせない。だからそんな心配そうな顔しなくていいよ。マネージャー、古賀のこと頼むな」

 香代子は口を引きむすんでうなずく。午後までに出来る限りのことをしようと思った。

 哲士はお礼を言うように笑って、今度はもう振り向かずに去っていった。

 由貴也の百メートルの欠場を申請すると、百メートルの出走時の選手紹介でその旨がアナウンスされた。

「第三レーン、立志院、古賀くんは欠場いたします」

 アナウンサーの声がよく響く。客席の隅々まで聞こえているだろう。

 香代子はグラウンドから客席を見上げた。視界に飛び込んできたものに目をまたたかせる。

 長い黒髪が風になびいている。伏し目がちにそれを抑え、視線を前に向けた彼女と目があう。巴だった。

 巴は香代子を見て微かに頭を下げ、席を立ち上がった。

 香代子は思わずあっ、と巴へ向かって手を伸ばしかけた。由貴也の欠場を知って、巴が帰ろうとしているのかと思った。

 どうしよう、と意味もなくあたりに視線をやってから、香代子は走り出した。客席の出口まで来たところで、木陰を歩く巴の後ろ姿を見つけた。

「待って!」

 香代子は今度こそ手を伸ばし、巴の腕をつかむ。有能で知られる生徒会副会長もさすがに驚いた顔をしていた。

「待って。帰らないで」

 香代子は肩で息をしていた。喉もからからに乾いている。緊張しているのではない。自分でもよくわからないうちに必死に巴へ懇願していた。

 返事が欲しくて巴を見上げると、彼女は黒く透き通った目に困ったような色を浮かべていた。神秘的ともいえる綺麗な漆黒の瞳だった。

 その巴にかまうことなく香代子はまくしたてるように続けた。

「ちゃんと出ますから、午後のリレーには必ず……!」

 どこにも由貴也が午後のリレーに出場できるなんて保証はないのに、香代子は巴を前に言い切っていた。

 自分はかつてこの人を妬ましく思った。由貴也の心に住む唯一の人。けれど今、由貴也を見守って欲しかった。彼の走りを見て笑顔を向けて欲しかった。もう彼を解放してやって欲しかった。

 巴はあっけにとられたように二、三まばたきをしていた。そしてこまっている表情はそのままに顔に香代子をなだめるような笑みをのせた。

「帰りません。由貴也からはリレーに出ると聞いているので」

 え、と香代子は今日何回目かにあたるまぬけな声を漏らし、巴を見た。彼女は香代子が呼びとめるまでバックを持ち、颯爽と歩いていた。それは帰る姿以外のなにものにも見えなかったのだが。

「昼食に行こうと思って」

 巴はあくまで落ち着いていた。彼女に言われて初めてもう十二時近いことに気がついた。開会式が九時半、競技開始が十時半であっという間に昼になってしまう。

 気が抜けて巴の腕をつかんでいた手がずるずるとすべる。

「ご、ごめんなさい……!」

 穴があったら入りたい。まったく見当違いのことを言って突っ走って、もう自分はどうしようもない。

 しばらく恥ずかしさのあまり顔を上げられなかったが、このままでいるのも気まずくて香代子はおそるおそる顔を上げる。

 目が合うと巴は淡い緑の葉を背にしてかすかに微笑んできた。その笑みに香代子にあきれたような意図はなく、安心した。

「……朝、由貴也を遠くから見ました」

 独り言のように言った巴はもう香代子を見ていなかった。遠くを見たその目に映るのは由貴也の姿なのだろう。

「由貴也をどうもありがとう。見に来て、よかった」

 巴は由貴也とよく似たおもざしでどこか寂しそうに微笑んだ。巴と由貴也はどことなく似ていたが、彼女に由貴也の影は重ならない。由貴也の後ろにはつねに巴という存在があっても。

 巴は歩みを再開し、香代子から去っていこうとする。

「待って、それってどういう――」

 勝手になにかしら納得して、勝手にお礼を言われてわけがわからない。巴と由貴也には通じるものがあるのかもしれないが、香代子にはまったくわからないのだ。

 香代子はまた反射的に巴の腕をつかんでいた。

「すみません……」

 よほど落ち着きをなくしているのか、先ほどから巴に過剰反応しすぎだ。巴ならば由貴也をどうにかしてくれるのではないかと根拠のない期待がある。それと同時に彼女には頼ってはいけないという思いもあった。

 巴の腕をあわてて離そうとするが、彼女がふっと力を抜く気配がつながったところから伝わって、香代子の動きは止まった。

 巴は振り向かなかった。顔をうつむけた彼女の表情は髪に隠されてわからない。それでも何かを言うためにここにとどまっているのだと思った。だから香代子は無言で待った。

「朝、私が見たのはあなたと部長さんに叱られている由貴也でした」

 巴の指す叱られている由貴也とはあの外のベンチで香代子と哲士に代わる代わる欠場うんぬんの話をされていたときの彼だろう。香代子と哲士は彼の親さながらに怒ったり、小突いたりしていた。

「……私は由貴也を甘やかすばかりだから」

 だからダメなんだ、とそっと顔を香代子へ向けて巴は笑った。少しだけ悲しそうに。

 香代子が腕を離すと、巴は一瞬目を伏せた後、とりなすように淡く笑って今度こそ去っていった。

 そのすっと背が伸びた後ろ姿が先ほどとは対照的だった。由貴也を甘やかすと言った巴は、思いつめた顔を見せた。クールで冷静沈着な生徒会副会長の顔はなかった。

 今まで巴が由貴也の想いを受け入れればうまくいくのだと思ってきた。けれども巴を隣においた由貴也にはきっと痛みをともなう成長は訪れない。彼は巴を留めておく以上の行動はしない。

 自分といたら由貴也は狭い世界から出ようとしない。そうわかっているからこそ巴は由貴也を甘やかすと言ったのだろう。

 憂いを過分に含んだ表情からは巴が痛いほど由貴也を心配しているのが伝わってきた。けれども巴は自分の存在がマイナスになることがわかっていたのだろう。だからこそ由貴也を遠くから眺めておくことにとどめた。まわりにいる香代子たちにさえわかるほど由貴也が巴を望んでいると知っていても。

 香代子は巴の姿が消えるまで見送ってから、由貴也が休むバスに向かった。

 バスで埋めつくされている駐車場はそこここで運転手の姿は見られるものの、おおむね静かだ。順々にバスのフロントガラスをのぞいていく。十台目ほどのぞいたところで、バスの入口に掲げられた『立志院高校陸上部様』のカードがフロントガラス越しに見えた。近くでは運転手が胸襟をゆるめ、一服している。運転手に断り、無人のバスに乗り込んだ。

 最後列に由貴也は座っていた。熱のせいか目尻に朱が差し、ぐったりと窓ガラスに頭を預けている。

 やわらかい春の陽射しが眠る由貴也を照らしている。そのほのかに色がついた陽の粒が人形をとって由貴也の隣に立った気がした。

 長く艶やかな黒髪を背に流し、慈しみにあふれた瞳で由貴也のかたわらにたたずんでいる。お前はまったくしょうがないな、という温かい表情だった。

 これは香代子の目の錯覚なのだろう。つい先ほどまで巴と話していたせいだ。自分が勝手に作り出した虚像だとわかりながらも香代子は目が離せなかった。そこだけ夢のようなおだやかさに包まれていた。

 白くしなやかな手が由貴也に伸びる。繊細な指が彼の髪をゆっくりとなでる。その指先から優しさがあふれていた。

 やがて陽に雲がかかり、あたりがにわかに暗くなる。それを合図にいたわるように手のひらが由貴也の額に触れ、消えた。

 香代子はバスの通路に立ちつくしたままぼんやりと由貴也を見ていた。雲が通りすぎ、陽は明るさを取り戻す。もう巴の残像はいない。

 ひだまりのなか眠っているのは由貴也だけだった。

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