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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
37/127

37

 日没から雨が降り始め、雨音が包んでいた。春の夜のたちこめる霧のような雨に香代子は一抹の不安を抱いた。明日の大会は大丈夫だろうか、と。

 大方明日の準備をし終わり、香代子は無人の部室でぼおっと座っていた。

 手元にあるエントリー表の四×百メートルリレーの欄には『古賀 由貴也』の名前がある。彼の名がこうして無事に載ったことはなんだか奇跡のように思える。

 振り返ってみると綱渡りのような期間だった。由貴也はいつふらっといなくなってもおかしくなかったし、その彼を批判的にとらえる部員たちによって彼が部内にいられなくなる可能性だって十二分にあった。ここまで来てやっと由貴也の不確かだった存在がしっかりしたものに固まった気がする。

 感慨深くエントリー表をしばらく眺めてそろそろ帰ろうかと思い、立ち上がる。何気なくドアへ視線をやり、そこで香代子は全身が即座に固まった。

 ドアの上半分、すりガラスになっている部分に突如人影が映ったのだ。その影は微動だにせずそこに立っている。

 一瞬の思考停止の後、誰と尋ねることもできずにそっとドアノブに触れる。息を詰めてゆっくりと回し、一気に開いた。

 ドアが外へ開くタイプのものだったのが不幸だった。香代子も緊張していたため、そこまで考えず思いっきり開く。その結果ドアはある種の凶器となって、そこに立っていた人物にクリーンヒットした。鈍い音が鳴り、目の前の人影が後ろに飛ばされたのがわかった。

 これにはさすがの香代子もあわてて、尻もちをついている人物を見た。これは相当なダメージを与えている。

「……アンタは俺になんか恨みでもあんの?」

 香代子が謝るよりも早く、由貴也の声が飛んできた。そこでは彼が地面に手をつき、もう片方の手で顔を覆っていた。どうやら顔からドアに当たったようだ。

「ごめんっ、大丈夫……?」

 香代子は心の底から申し訳なく思い詫びた。由貴也の顔に傷がついたとなったら何人の女子に土下座して謝らなければならないのだろう。それに顔の良さがなくなった由貴也などただの世間からずれた男子だ。

 さりげなく失礼なことを考えていると、由貴也が顔を覆っていた手を外す。現れた顔はいつも通り嫌みなまでに整っていてほっとした。香代子は由貴也の顔が好きなわけではないが、この誰もが認める秀でた顔を損なうのはとてつもない罪悪感を持ってしまう。

 こんな時間にどうしたの、と尋ねようとして由貴也の髪が濡れているのに気づく。髪だけでない、ワイシャツもまだらに透け、スラックスの裾は折り返しの癖がとれかかっていた。雨に長時間当たっていたのは明白だ。

「どうしたの、びしょぬれじゃない」

 棚から洗って重ねてあるタオルを一枚とり、由貴也の頭にかぶせた。髪をかき混ぜるように拭いてからしまった、と思う。あの氷のまなざしで拒絶されそうだ。

 けれど由貴也はそのままされるがままになっていた。借りてきた猫のようにおとなしい。おせっかい、世話焼きという単語が大嫌いな由貴也がこうして毒を抜かれたようにただ床に視線を向けている。

 怪訝に思いつつもよく拭いて、由貴也の首にタオルをかけて手を離す。由貴也は特に焦点を合わせていない目をゆっくりとまたたかせていた。蛍光灯が女性的にならない程度に繊細な睫毛を照らし、影を作っていた。

「髪、切って」

 その茫洋とした表情のまま、由貴也がひとりごとのように言った。それはなにか考えがあるようにも、ただの思いつきのようにも聞こえた。

 由貴也の髪を切ったのは彼が入部するときだ。髪が長すぎ、と注意した香代子に、由貴也は自らハサミを持って無造作に髪を切り始めた。ひどい有り様になった彼の髪型を、香代子が見られるまでに整えたのだった。

 以前切ったときからあまり経過していないので、由貴也の髪はそこまで伸びていなかった。それでもスポーツ選手としては長い部類に入るだろう。

「私は美容師じゃないんだけど」

 あきらめ半分で言ってみるが、由貴也はまったくもって無言と無表情で突き通した。髪を切らなければテコでも動かない気配すら漂わせている。由貴也は意外と頑固で、しかも人を使役するのにためらいがない。王子というよりはおぼっちゃま気質なのだ。

 香代子はため息をつきつつ、部室の片隅に置いてあるソーイングセットから裁ちバサミを取り出した。普段ならば人の髪を切るなんて御免被りたかったが、今宵の由貴也はいつもと違うように見えるのだ。

「座って」

 戸口に尻もちをついたままだった由貴也を導こうとするが、由貴也は「動けない」と言って動こうとしない。

「動けないって……」

 彼の横着ぶりに閉口しつつ、顔をうかがう。由貴也はめんどくさがりだが、無意味な反抗はしない。動けないというのだから本当に動けないのだろう。心なしか今の由貴也はくたびれて見えた。

 その時香代子の脳裏に糸が一本通ったようにひらめくものがあった。

「ねぇ、アンタまたやったの?」

 彼のスラックスの裾には泥が少し跳ねている。ローファーも汚れ、由貴也の体からはかすかな熱気すら感じる。

 香代子は疑いを確信に変え、口を開いた。

「またふらふらになるまで走りこんだんでしょ!」

 入部したばかりのころ、由貴也は練習後のグラウンドに残り、自らの限界に挑むようにひとり走っていた。由貴也はスタミナのある方ではないので、気力がすりきれる前に、体力の方が底をつきるのだろう。

「もう、風邪ひくから早く入って」

 最近はしなくなったと思って安堵したのもつかの間、すぐ無茶をする。

 由貴也に肩を貸し、部室に引き入れる。触れた由貴也のワイシャツ越しに、確かな筋肉の存在を感じた。少し前まではなかったものだ。

「少し体つきがしっかりしたよね」

 部室で唯一のパイプ椅子に由貴也を座らせてから、何気なくただの感想を口にする。そこで由貴也は初めて感情らしいものを宿して香代子を見た。その表情は何かとてつもなく苦いものを飲みこんだようにも、笑いだす前に表情が崩れた一瞬のようにも見えた。

「なんでアンタからも同じこと聞かなきゃなんないわけ?」

 由貴也はもとの仏頂面に戻ってぼそりともらした。「同じことって?」と聞き返してみるが、由貴也はもう口を閉ざして答える気はないようだった。

 香代子は由貴也が巴と会ったのかもしれない、と推測していた。超絶マイペースな由貴也が、その調子を崩すのはいつも巴のことだ。

 けれども由貴也の背中がどうしたの、と聞くことを拒んでいた。彼は凪いだ静けさの中に沈むことを今は求めているようだった。

 パイプ椅子に座った彼に、ケープのようにタオルを肩にかけた。もう部室棟から人の気配はとうに消え、宵の静寂だけが凝っていた。

 由貴也のゆるやかなクセのついたやわらかい髪を手櫛ですいた。少し茶がかった指通りのいい髪だった。彼は肌も瞳も髪も、少し淡い色彩をしている。それが彼の容貌に甘さを与えていた。

 ハサミを持ち、その刃を開き、香代子ためらいに動きを止めた。

「本当に切っていいの?」

 たかが髪を切る。それだけのことなのに、なぜ自分はこんなにも躊躇しているのか。当の由貴也からも飄々とした顔つきの下にどことなく張り詰めた空気を感じる。

 巴と何かあったのは確実だ。けれど、由貴也は少し前のように自暴自棄のすさんだ雰囲気を背負っているわけではなかった。彼のオーラはあくまで静かで透明だった。

「さっさと切れば」

 めずらしく由貴也から噛み合った答えが帰ってきて驚く。由貴也は意地の悪い顔をしているときは鋭い瞳で恐ろしいほどこちらの心の内を読み取り、痛いところをついてくる。けれどそれ以外のときはまったくもって周囲との調和というものを意識外に置いている。彼独自の世界で解釈した言葉が帰ってくることも多い。

 香代子は意を決して髪にハサミの刃を当てた。そして返事の代わりに一総切り落とす。空気を切り裂く音がして、はらはらと艶やかな髪が床へ落ちていった。

 由貴也はただ静かに目を閉じていた。まるで祈るようなおごそかな空気に包まれていた。

 次々と髪の束を手にとり、切っていく。香代子は知らずうちに顔をしかめる。ハサミの刃を閉じ、髪が由貴也から離れて散るたびに彼に苦痛を与えている気がする。由貴也が髪とともに切りはなそうとしているものは何なのか。

 ハサミの音だけが夜の部室に響いていた。

 由貴也がおもむろに瞳を開け、それからそっと伏せた。無表情の下にかすかな憂いが垣間見えた気がした。

「俺、触れないんだよね」

 唐突に由貴也に話しかけられ、香代子は首を傾げて「なにが?」と尋ねた。虫が何だ、ヘビが何だという香代子でも、カエルだけには触れない。

「女の子」

 さらりとなんでもないように付け加えられて、香代子は意味を飲み込むまでに数秒かかった。

「女の子って、あの女の子……?」

 香代子が動転のあまりとんちんかんな聞き返しをすると、他にどの女の子がいると言わんばかりに由貴也に視線を向けられた。彼にあきれられるとは香代子はよっぽどまぬけな言葉を返してしまったのだろう。

「でも、だって元カノ……」

 由貴也を訪ねて、びっくりするほどかわいい元カノがきたのは記憶に新しい。もっとも由貴也に「アンタ誰?」と言われ撃退されていたが。女の子に触れない人が男女交際を望むとは思えなかった。

「俺、キスもエッチもなんにもしてないもん。手すら握ってないし」

 不用意に告げられた言葉に、香代子は手元を誤って由貴也の頭皮にハサミを突き刺しそうになる。そういう卑猥な単語を涼しい顔で発しないで欲しい。

 香代子は心を鎮めて、冷静に考える。由貴也の性格からして彼女が大事だから手を出さなかったとは考えづらい。そもそも巴以外眼中にない由貴也が、他の誰かと一時的にでもつきあったということが疑問だった。

 ふっと由貴也のまわりにただよう空気が歪んだ。

「気持ち悪くなる。巴じゃないと思うと」

 独り言のように由貴也は言い、かすかに笑った。冷たく揶揄するような酷薄さがにわかに香り立つ。彼が嘲っているのは自分自身なのだろう。ごく薄いトラウマのような気配がそこには存在した。

 由貴也は潔癖だ。彼の突き抜けた感性が巴以外の温度を許さないのだろう。

 けれども自虐的に笑う由貴也は決して平気そうには見えなかった。巴以外を受け入れられないという事実に傷ついているように見える。

 香代子ははっきりと悟った。由貴也は他者を必要としないのではない。受け入れることがどうしてもできないのだ。

 人一倍敏感で、繊細な由貴也の在り方を感じた。彼は冷たい無表情の下に瑞々しく傷つきやすい心を凍らせているのかもしれない。

 ハサミの刃がふたたび合わさり、最後の一房を切り落とした。

「……どこかで」

 髪を切り終わるのを待っていたように、由貴也が口を開いた。

「巴は最後には俺を絶対見捨てないって思ってた」

 最後の最後に漏れたたったひとつの真実。夜の気配に溶けるように発せられたまぎれもない由貴也の本音だった。

 驚きの後、胸に痛みが流こんでくる。本当はずっと一緒にいたかった。そう胸で思いつつもこれは由貴也の最後の想いの形なのだろう。もうすぐ消えていく、最後の――……。

 パイプ椅子に座る由貴也の前に回り込み、香代子はゆっくりと膝をついた。そこから見上げる由貴也の顔には何の表情も浮かんでいなかった。いつもの世間一般すべてに興味のない無表情とは違う。意図的に表情をおしこめているのが香代子にさえもわかった。

 上手く悲しむことさえできず、そして巴以外と触れあえない不完全な由貴也。

 香代子は無造作に膝の上に置かれた由貴也の手に自分の手を重ねた。

 緊張と不安に胸が早鐘を打つ。どうしてこんなことをしているのだろう。触らないでとはねのけられるかもしれない。事実はねのけられてきた。

 けれど香代子は由貴也に何かを伝えたかった。暗い海に漂っているような由貴也にひとりではないのだと教えたかった。

 由貴也はわずかに驚いた顔をする。けれど体は正直だ。香代子の手の下で、由貴也の手が震えるように動いた。

 巴でないと気持ち悪くなる、という由貴也を挑むように見据えた。由貴也に染み付いたものの、その先へ彼に手を差しのべたかった。

 由貴也はただ遠くを見ていた。それでもよかった。彼が嫌だとはっきり拒絶するまでずっと由貴也に触れ続ける気でいた。

 不意に彼の手が動いた。ただ香代子の下敷きになっていた手が裏返される。手のひらが向かい合い、温度がより確かに伝わる。下から由貴也の指が香代子の手に巻きついた。それは痛みをこらえるように、けれど由貴也の恐れを封じ込めた最大限の行動なのだと思った。由貴也は大丈夫なのだと自らに言い聞かせるように、つながった手をじっと見つめていた。

 香代子もそっと由貴也の手を握り返す。そして笑った。

「明日、がんばろうね」

 つながった手からつながる体温が心地よかった。本来、人と触れあうというのは、癒しや安らぎをともなうものだ。

「……アンタは『がんばれ』とは言わないんだね」

 由貴也はぽつりと漏らす。がんばろうとがんばれ、前者は一緒に戦う仲間に向けられるものだが、後者はただ思いだけを託した言葉だ。香代子はマネージャーであっても、ともに試合に臨むような気持ちになりたいとがんばろうを選んだ。

 だってマネージャーだもん、と言おうとして顔を上げる。そして香代子は驚きもなにもなく、まっさらな気持ちで由貴也の顔を眺めることになる。

 由貴也は正面を向いて、ひどく綺麗な涙を一筋流した。それはまばたきの一瞬の間にも満たないようなわずかな時間のできことだった。

 ああ由貴也はこれが目的だったんだな、と香代子は悟り、由貴也の手を強く握り返した。

 ただ雨の音が満ちていた。

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