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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
35/127

35

 由貴也はよっぽど疲れていたのか、朝食のときも半分寝ているような様子だった。彼はもともと無口な質だけれど無口を通り越して無言だった。

 朝食の後は全員で合宿所の中を大掃除する。あてにならない顧問ではなく、哲士の指示に従って隅々をくまなく清掃した。

 それからはお楽しみタイムだ。合宿所の前でスイカ割りをしてバカ騒ぎをする。多めに買ってあったアイスやジュースを帰る前にすべて消費しなくてはならない。炭酸を一気飲みさせたり、スイカ割りではわざと違う方向に誘導して大笑いしたりした。筋肉痛や疲労もどこへやらの騒ぎっぷりだった。由貴也は果物より人工物の方が好きなのか、終始アイスを食べていた。

 昼前にバスに乗り込み帰路へつく。遊び疲れか一般道から高速に乗り換える頃には哲士と香代子以外、顧問までも眠りに落ちていた。

「寝ないの?」

 通路を挟んだ向こう側の席から哲士が抑えた声で話しかけてきた。香代子はマネージャーの常として、二人掛けの席の窓側に救急箱やらクーラーボックスを置いて座っていた。

「私マネージャーだからみんなより疲れてないし……部長は?」

 それだけ言うのに何度も舌がもつれてどもりそうになる。バスの中の健やかな眠りの気配は少しも香代子に眠気を起こさせなかった。

「俺は丸二日寝てたし。もう寝飽きたよ」

 体調を崩して寝込むというヘマをした自分にあきれるように哲士は笑んだ。

 こうしているとなんだか何事もなかった気がする。合宿の前に――哲士に告白された前に戻った気がする。そう思うのは自分がその状態を望んでいるからだとわかっていた。

「……部長」

 いい加減ケリをつけないと、と口を開く。もう充分時間はもらった。哲士はずいぶん待ってくれた。

 座席から少し身を乗りだし、思わず哲士の袖を指でつかむ。必死になっていた。

「あのっ……!」

 切り出そうとしたところで、誰かがが身じろぎして小さな寝言を言った。その音に後ろから袖を引かれたように、香代子は現実に立ち返った。

 高速を走行中のバスが規則的に揺れていた。窓の外の海のきらめきが目につく。香代子は勢いを失い、哲士から手を離す。ここはバスの中なのだと思い出した。

「……学校、帰ったら時間を取ってくれる? 話が、あります」

 切れ切れにそれだけ言うのが精一杯だった。哲士は口の中だけで声を出したような、かすかな返事をした。昼下がりの気だるい陽を背後に受けて、彼は微笑すらにじませていた。

 哲士は全部わかっている。全部わかっていてこんな風な態度をとれるのだ。やるせない気分が胸をついた。

 どうしてなのだろう。由貴也の悪いところはすぐに見つかるのに、哲士の悪いところは見つからない。それなのに心は少しも揺れない。由貴也の方にあるままなのだ。哲士に落ち度は何一つとしてないのに、彼を傷つけなければならないのだ。

 それから会話は途切れ、香代子は窓の外で太陽が傾いていくさまをじっと見ていた。暮れなずむ空がもの寂しげに映る。

 合宿所から学院までは三時間。すっかり辺りは暗くなっていた。立志院に着いてもすっかり眠り込んでいる部員を哲士が一喝して起こす。全員わたわたと慌ててバスから降りた。

 その後は用具を片づけ、簡単にミーティングを行い、解散になる。明日は休養日だ。部員たちは疲れの中に合宿をやりとげた安堵をにじませて帰っていった。

 部室には香代子と哲士だけになる。一日の最後の陽が、部室の物を照らし長い影を作っていた。風が学院のまわりの木々を揺らして窓から吹き込む。

「やっぱりこっちは涼しいな」

 哲士が窓を開ける。朱色の陽が粒のように哲士の輪郭を縁取って光っていた。さらさらと風が髪を揺らす。窓から軽く身を乗り出すその背中を香代子はただ見ていた。

「予想外だったな」

 涼しいな、と言うのとまったく同じ調子で哲士は言った。世間話の延長かと思い、何が? と尋ねそうになる。けれどその前に哲士が続けた。

「まさかマネージャーが古賀みたいのがタイプだと思わなかった」

 いきなりの方向転換に驚く。哲士は窓の外に向けていた顔を室内に戻した。

 消える前の断末魔のようにまばゆい光量を持った夕日が哲士を背後から差す。逆光となっている哲士の表情は見えなかった。

「マネージャーはさ、どうして立志院に来たの?」

 窓を静かに閉じ、哲士は床にじかに腰かけた。香代子とは向き合う形になる。

「どうしてって……」

 頻繁に方向性の変わる哲士の話についていけず、香代子はただおうむ返しになる。

「だってなにか事情がなければこんな山奥の全寮制の高校なんて来ないと思うけど、俺は」

 哲士が冗談めかして笑う。立志院は高い進学実績を誇っているが、そんな学校など家から通える公立校でも探せばないこともない。付属の中学から上がったならばともかく、香代子は高校からの外部組だ。中高一貫のメリットもない。スポーツクラスや芸術科など立志院でなければならないという特色豊かなクラスに属しているわけでもない。掃いて腐るほどある普通科だ。

 この高い母体群の中にあって香代子の成績はそこそこであり、学費免除などの待遇を受けているわけでもない。普通に考えて親元から離れてこんな山奥の学院に、決して安くはない授業料や寮費を払って来る理由などなかった。

「私はシングルマザーだった親が再婚して、ちょっと家に居づらくて……」

 女手ひとつで育ててくれた母親は、香代子の中学卒業とともに同僚の男性と再婚した。以前の香代子ならば経済的負担を最小限にとどめるべく近所の公立を真っ先に受験して進学した。なにせ香代子はまだ下に二人も兄弟を抱えているのだ。

 けれど再婚相手がそれなりの社会的地位もありそれに付随して収入もあるため、あまり金銭面を気にしなくてよくなった。加えて再婚相手の母校だかなんだかで立志院を勧められ、香代子も新婚家庭にいるのはいたたまれなかったので、ここへ来たのだ。

 へぇ、と哲士はどこか稀薄にうなずいた。

 ここで香代子は部長は、と問い返すべきなのだろう。けれど哲士がどこに話を持って行きたいかわからなくて口をつぐんだままでいた。少なくとも哲士は香代子の目的を知っている。彼はそれをはぐらかしてうやむやにすることはないはずだ。

「俺は昔、すっごいちびでさ。しかも臆病で弱虫で男の風上にも置けないヤツだった」

 哲士の独白に思わずうそっ、と声をあげてしまった。今の哲士はどんなに控えめに見たって百七十五はあるだろう。それよりも臆病、弱虫など今の姿からは想像できない単語が飛び出してきたことに驚きを隠せなかった。

 哲士は香代子の心底びっくりした様子に哲士は軽く声を出して笑った。

「うそじゃないって。背の順はいつも一番前だったし、パシられたこともある。学校から泣いて帰ってきたことも一度じゃないし」

 そうは言われても、今の哲士と結びつかなすぎる。現在の彼はむしろいじめっ子を止める正義漢といったところだろう。

「そういうわけでしょっちゅう追いかけられてたから足が自然と速くなったんだよ」

 悪ガキに追いかけられて、ということだろう。

 哲士はさもおかしげに語るが、年頃の男子にとってそれが昔の話であっても積極的に暴露したい過去ではないはずだ。それどころか必死に隠蔽し、否定してもおかしくない。哲士には変なプライドがないのだ。彼の度量の大きさを改めて感じた。

「中学から本格的に陸上を始めて、背もぐんぐん伸びたけど、どうしても俺の中で弱くてバカにされた自分が消えなくて、だから立志院に来たんだ」

 誰も自分を知らない場所で、哲士はまっさらな自分になりたかったのだ。俗にいう“高校デビュー”だ。

「それは成功したの……?」

 香代子は聞いてからなにわかりきったことを、とあきれる。今の哲士はみんなから頼られ、信頼され、陸上部のエースでもある。どう見たって成功している。成功しているが、哲士

は満足しているのだろうかという問いが胸に落ちてきたのだ。

「成功したし、失敗したかな」

 香代子の疑問を裏づけるように、哲士は相反した答えを返してきた。哲士はどこかぼんやりと自然な角度で下を向いていた。

「部長もやって、あの頃の理想の自分に近づきつつあるけど……でも俺が部長とかエースとかそういうものに固執するのは情けない自分を隠そうとしているからだと思う」

 そんなことはない、ととっさに言葉を返そうとして、哲士に笑みで制された。その表情が表面上はやわらかくてもその下に存在するかたくなさが見てとれて、香代子は黙った。

「かっこつけるなら最後までだな。途中でぶっ倒れるようじゃまだまだだよ」

 あきれとも笑顔ともとれない顔をして、哲士が目線とともに顔を上げる。徐々に香代子をとらえていく瞳は強い意思が宿っていった。

「マネージャー、返事は保留にしてほしい」

 保留。頭が真っ白になる。その一言が香代子の頭の上にクレッションマークをともなって浮かんだ後、まわりをぐるぐると回った。

「ほ、保留って……」

 事前に予測していたどんな態度とも違う哲士の言葉に香代子は聞き返した次の言葉が続かなかった。あまりに予想だにしない話が次々と出てくるので、香代子は先ほどからろくな返事ができていない。

「ごめん、勝手だってわかってる。けど俺、最初は古賀を刺激するためにマネージャーに告白したんだ」

 頭を下げた哲士に香代子はおととい、あの雨の音に包まれた部屋の中でのことを思い出した。

 ――俺、古賀に譲るつもりでいた。マネージャーが好きならそれでいいと思った。香代子を腕の中に捕らえ、切羽詰まった声音で哲士はそう言ったのだ。

 利用されただとか、そういう不快感はなかった。ただあのときのことを思い出し、赤面しそうなのを抑えるだけで精一杯だ。

「でもだから今、本気で告白してないのに真剣に考えてくれた返事をもらいたくない」

 哲士は相変わらず自身に言い訳を許さない潔さだった。まっすぐな視線が痛い。香代子は目をそらしたくなったが、目尻に力を入れてぐっとこらえる。

「今度はちゃんと告白するから、その時まで待っててくれる?」

 哲士の真摯さが胸を衝いて、香代子は壊れた首振り人形のようにうなずくしかできない。安心した。哲士を失わなくて済んで心の底から安堵していた。

 哲士は香代子の行動をただ苦笑して見ていた。

「本当言うと俺、古賀に勝てる自信がまだあんまりないんだよ。だからちゃんとあいつに負けないような男になってから、な」

「部長は今でも充分勝ってると思うけど」

 誰がどう見たって哲士の方が人間的に優れている。風にそよぐ柳のような由貴也とは違って、哲士は根を地に下ろしている。

 けれど哲士はそういうことではない、と言うように静かに笑っていた。

「マネージャーはもっとなんていうか堅実な相手を選ぶと思ってたよ」

 哲士の言葉に同意する自分がいる。由貴也はどこをどう見ても堅実さの欠片もない。とらえどころがなく、油断すれば鋭い拒絶の刃が飛んできそうな相手だ。

 そう、自分だって思っていた。恋をするなら哲士のような相手がいいと――。

「俺も古賀みたいなダメ男にならないとだめかな」

「ダ、ダメ男って……」

 今日は予想外な言葉ばかりぽんぽんと哲士から出てきて、自分は呆気にとられて聞き返してばかりだ。そんな自分を前に彼はいたずらっぽい笑みを深めた。

「だってマネージャーはダメ男が好きなんだろ?」

 思いもよらないことを言われ、反射的に「はぁっ!?」と返してしまった。

 ダメ男イコール由貴也であるのは否定しないが、自分の好みがどうしようもない男だと言われると不本意だ。

「マネージャー、古賀叱ってるとき生き生きしてるし」

 生き生き、その単語を否定できない自分がいる。自分の愛情表現とは怒ることのだろうか。

 思いつめて固まっていると、哲士がケタケタと笑っていた。

「なに……もうっ、笑わないでよ!」

 香代子は憮然として哲士に視線を投げた。なおもまだ哲士は笑っていた。

「だってマネージャー、恋愛のことになるととたんにおとなしくなるんだもん」

 哲士のいつもはない碎けた口調に地味に腹が立つ。人の動揺っぷりを楽しみやがってという気分になる。こちらは許容量を超えた事態が続いて、慌てきっているというのに。

「このままがいいって思ってるだろ?」

 ひとしきり笑った後、哲士は笑みを納めて聞いてきた。その瞳にはおだやかな色が宿っている。

 香代子は彼には悪いと思いつつも、哲士とはどうこうなりたくない。一方の由貴也はそれ以前の問題にある。現状のままで、このなごやかな世界を壊したくなかった。

 哲士はそれから仕方なさそうに、さみしそうに、でも納得したようにやわらかく笑みを浮かべた。

「今は俺もそう思う」

 哲士が存外気持ちよさそうに笑ったので、香代子もつられて微笑んだ。

 もう少しこのままで――それは嵐の前の静けさかもしれないし、あるいはゆるやかに停滞へつながっていくかもしれない。それでももう少しこのままでいたいと願った。

 大会までは残すところ一週間となっていた。

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