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「ちょっとそれ、どういうこと?」
誰もいない早朝の食堂で、香代子は哲士へ詰め寄った。
「どうもこうも言った通りだけど」
哲士は憎らしいほど平然としている。うっすら笑みさえ浮かべ、香代子を宥めるように見ていた。
「だって勝ったらリレーには出ない、負けたら二走を譲るって本気で言ってるの?」
体調不良をすっかりぬぐいさり、おはようと哲士は食堂へ入ってきた。香代子が緊張気味におはようと返すと彼は苦笑して言った、古賀と勝負することにしたから、と。
「もう根本たちには了解をとってある」
了解って、と香代子はなおも言い募ろうと口を開く。
「だって本番まであと少ししかないんだよ! 今の時期に変更なんてどうして……」
由貴也が一走、哲士が二走で今までリレーを走っていた。由貴也がバトンパスを不得手としたので一走、二走間は減速しがちだった。それも最近はかなりよくなってきて、期待の持てる仕上がりになってきていた。
それを今の時期に変えるなど自殺行為にしか思えない。しかもその理由が走りに問題がありリレーに支障をきたすからではない。ただ私的な感情による勝負だというのだから、哲士はどうかしたのかとしか思えない。
彼は誰よりも自分の感情を後回しにして部のことを考えていたはずなのに。
「なぁ、マネージャー」
おだやかに諭すような口調で言われ、香代子はぐっと押し黙る。さすがに部長として皆を諭し慣れているだけあって、哲士の言葉には妙な求心力があるのだ。
「古賀は本気で走っているわけじゃない。マネージャーもそれはわかってると思う」
香代子は反射的でなく本当に今度は押し黙った。
由貴也は肝心なところを――特にリレーを真剣に走っていない。全身全霊という言葉が彼からは抜けている。それはなぜかと突き詰めればともに走る仲間を信頼していないからだ。彼は用心深く一歩離れ、こちらの感情と同調しないようにしているのだ。
「俺らは今までそれを古賀だからで許してきたけど本当は許されるべきことじゃない。本気じゃないやつと一緒に走るのは俺は怖い。それにそんなやつを選手にするのは根本にも失礼だ」
もともと根本が怪我をし、その代わりに由貴也が選手に起用されたのだ。根本の怪我はほぼ治りつつあるが、彼はもともと中距離の選手だ。四×百メートルリレーは間違えなく短距離の種目であり、タイム的にも由貴也に根本は敵わない。結果的に根本はレギュラー落ちという形になったのだ。
立志院は一部の強豪校のように速ければ、勝てれば何でもいいという考えではない。メンタル面の強さも重視する。けれども由貴也の速さと性格に、そこを失念していたように思う。本気で走らないメンバーなど一番にレギュラーから外してしかるべきだった。
「でも、じゃあなんで部長が負けたら二走を譲るの?」
そもそもやる気のない由貴也が嫌ならばレギュラーから外すと宣言すればいいはずだ。それをわざわざ賭けのようなこんなやり方でやるのはリスクが大きすぎる。万が一哲士が本気で走らない由貴也に負け、二走を譲ったならば由貴也をますますつけあがらせる結果になるのではないのだろうか。
哲士は険しい顔つきで目を伏せる。
「それじゃあ根本的な解決にはならない」
根本的解決。香代子は合点した。例えリレーのメンバーから外したところで由貴也にやる気を出させる契機にはならないということだ。
むしろ由貴也はこれ幸いとばかりリレーに出なくて喜ぶだろう。間違ってももう一度リレーを走らせてくださいなどとは口が裂けても言わない。
納得した香代子へそれに、と哲士は続けた。
「あとは俺のわがままかな」
哲士が机の上で組んだ手に視線を落とし、どこか自嘲気味に薄く笑った。
「本気を出してない古賀に負けるんなら俺もその程度だよ。古賀の下につくのがふさわしい。逆に本気を出した古賀に負けるのなら本望だ」
そこで哲士は視線を上げ、痛いほど強いまなざしを香代子に向けてきた。息を飲むほど険しい瞳だった。
「だって二走はエース区間だろ」
だから一番速いやつが走る、とそう哲士の目は言っていた。
香代子は不安に口を開く。哲士は負ける心積もりなのか、と。由貴也にエースを譲る準備をしているのか、と。
「でも部長は――」
「そう簡単には負けない」
香代子の心配を跡形もなく打ち砕くような強い言葉だった。
「俺が古賀の鼻っ柱をへし折ってやるよ」
闘志が満ちた言葉が彼から立ち上った。
それ以上哲士はなにも語らなかった。口を固く結び、部屋から出ていった。朝日に向かって敢然と歩くその背中には純然たる闘争心がみなぎっている。部長としてではなく、戦いに臨む陸上選手としての姿がそこにはあった。
哲士と由貴也、どちらの勝利も確信できなかった。同じ部にいて、機会はそれこそ数えきれないほどあったはずなのに、二人が対戦することはなかった。本人たち以上にまわりも彼らの激突を避けてきたように思う。
この部そのもののような哲士と過分に問題を孕んだ由貴也。仮に哲士が負けたなら部全体が揺らぐような心地がするのだろう。由貴也は部に属していながらも部のものではなく、哲士が由貴也に負けるということは、この部を否定されるような屈辱さえ感じるのだ。
部内の安定と平穏のために、二人の対決はずっと阻まれてきた。この平和でぬるい陸上部は年齢の秩序が失われた混沌に陥ることを部員全員の総意で拒んだのだ。
由貴也は今までの慣習を取り払ってしまうような危険な存在だ。三年生だから、上級生だから試合に出してもらえるだろう――そういう暗黙の了解を壊しかねない。勝負の上ではこの上なく甘い観念だといっても、それはある意味部員の心の拠り所となっていた。
一体どちらが勝つのがいいのだろうか。どちらに、自分は勝って欲しいのだろうか。考えてから香代子は純粋なレースを自分本意な考えに貶めたことを恥じた。
二人の勝負は朝練の後に設けられた。
快晴の空の下、白いラインがグラウンドの端まで伸びている。その白さがまぶしかった。
香代子はタイム係としてグラウンドに立っていた。
体をほぐすふたりを、部員たちは遠巻きにして見ている。陸上にはそれぞれの種目があり、それぞれ見るところがあり、おもしろさがある。けれど短距離は、言い換えれば百メートルは一番の花形だ。皆が自分の種目に誇りを持ち、懸命に取り組んでいる。その中でも百メートルはスプリンターとしての素質を持つ者だけがそれを極めた果てに勝利を得る。努力だけでは侵せない陸上の王者だった。
この部の“王者”はどちらなのか、部員はじっとそれが決まる瞬間を待っている。
「いいか、古賀」
かたわらで相変わらずけだるそうにスパイクの様子を確かめていた由貴也に、哲士が声をかける。由貴也は顔を上げ、哲士に視線を少し置いてから「はい」と答えた。
ふたりがジャージを脱ぐ。白日の元に哲士の均整のとれた肢体がさらされた。それに比べ由貴也はまだ発展途中の細い体つきをしている。体ひとつで戦う陸上選手にしてはあまりに頼りない体だ。
由貴也の準備ができたのを見て、哲士がまわりの部員を見回して口を開いた。
「昨日も言った通り、この勝敗によってリレーを変える。俺が勝ったらリレーには出ない。負けたら二走は古賀に変える」
哲士の声は朗々とグラウンド中に響いた。彼は潔かった。この衆人環視の中、見せ物のように走ればもう逃げ場はない。彼のプライドは粉々に砕かれるかもしれない。それでも哲士は腹を括ったのだ。
哲士はにわかに目を細めた。
「いいな」
普段のおだやかな哲士とはうってかわったその鋭い眼光に、彼の本気さが知れた。ねじふせるように言われ、全員が知らないうちに息を飲んで押し黙った。
「じゃあ、走ろう」
皆の沈黙を了解と受け取り、哲士が宣言する。思い出したように香代子は動きだした。ゴールへ向かって歩きながら、香代子はスターティングブロックを調節するふたりを見やる。
張りつめた顔をしている哲士とは違って、由貴也はいつものだらけた顔だ。緊張とは無縁に思える。彼は感情というものを何にも干渉されない遥か彼方に置いてきているようだ。
このレースは哲士が背水の陣を敷いたのと同時に、由貴也の弾劾に変わる可能性を秘めている。勝敗いかんによっては――そんなこと、哲士に言われなくとも部員は目を皿にしてこのレースを見るだろう。今まで散々出し惜しみしてきた由貴也の“本気”が自分たちの満足にたるものかどうか裁定を下す。
準備を万端にして、哲士と由貴也がスタートラインに立っていた。スターターである根本が準備完了である白い旗を上げる。香代子も手元の旗を上げた。
「位置について!」
根本の声が百メートル先のスタートラインから風に乗って運ばれてくる。ふたりが地面に膝を折り、スタートラインに手をついたのが遠目にもわかった。
「用意」
注意深く告げられたその言葉で、由貴也と哲士が腰を浮かせた。飛びかかる前の獣のような格好だった。
高まる緊張が空気に溶けている。ゴールから風が吹く。向かい風だ。
そよそよとぬるい春風が髪をなでた。気の遠くなるような無言の時間だった。
無風になった瞬間、ついに空気が破裂した。号砲が青空を切り裂く。香代子はすばやくストップウォッチを押した。
由貴也と哲士がほぼ同時にスタートした。
香代子はふたりが並んでいる光景に違和感を覚えた。由貴也は前半型、哲士は後半型だ。由貴也が今だかつてスタート時に誰かと並んだことがあっただろうか。由貴也が誰かと並ぶとしたら後半、どんなに早くても中盤だ。哲士が前を走る由貴也をとらえ、後ろから迫り並ぶ。そういうレース展開を誰もが想像していたはずだ。
由貴也はスタートを抑えたのか。いや、圧倒的なスタートを切れなかった――……?
由貴也に目を凝らす。いつもは重力の影響がないかのように走る由貴也が今は地面に足をとらわれているようだ。見本のようなフォームが崩れてベタついた重い走りをする。
前半の貯金だけで走っているような由貴也が、その特性を生かせなかった。それでも哲士についていっているのはさすがだ。けれど堅実に距離を詰め、スピードを上げる哲士に喰われる。
トップスピードを出した後、由貴也は崩れた。最適なフォームからはずれた姿勢で走ったせいで体力の消耗が激しいのだろう。スピードを維持できていない。
急激に失速する由貴也の脇を哲士が抜けた。哲士は淡々と走っていた。いつも通り自分の体を知りつくした巧みな走りをする。足底がしっかり地をとらえ、地面を力強く蹴る。由貴也との距離が開いた。
走路を駆けるふたつの風はどんどん大きさを増す。そのまままわりの大気を揺らし、ゴールへ飛び込んできた。香代子はストップウォッチをほぼ続けざまに二回叩く。
先にゴールに入ってきたのは、ストップウォッチに表示された速い方のタイムは、哲士のものだった。哲士が由貴也を下した。
ふたりとも息を切らしていたが、ことに由貴也は激しく、ゴールした瞬間地面に転がった。哲士はその近くに尻もちをつくような形で座りこみ、空を仰いで息を整えていた。
哲士は空に向かってわずかに笑った。
「古賀、走りが全体的に固かったよ」
哲士からはもう勝負の険しさが消えていた。空気のこわばりが溶け、地面に伏す由貴也のまわりを蝶が飛んでいる。やわらかい雰囲気がただよっていた。
「あと後半の体力不足が顕著に表れたな。バテただろ」
由貴也なにも答えない。今までになく疲れきった彼は息を吸う以外に裂く余裕がないようだった。
こんな由貴也は初めて見た。彼はどんな走りをした後でも涼しい顔で飄々としていた。
「フォームは乱れて、スピードの出し方もひどかった。らしくない走りだったな」
哲士は眉を下げて笑う。なんだか今にも泣き出しそうな表情だった。そしてこらえきれないように笑いの気配を含んだ言葉がはじけた。
「なぁ、古賀。お前緊張したんだろ? 気負いすぎたんだろ?」
ひどいな、ひどいと言いながらも哲士はにじみ出る笑みを抑えられないようだった。先走る感情を制すように一拍置き、それから再び由貴也を見た。
「……でもやっと本気で走ったな。安心した。お前にもそういう人間らしいところがあって」
満足げに笑った哲士を、由貴也が寝転がったまま顔だけ動かし「俺のことなんだと思ってるんですか」軽く睨みつけた。こんなときでも憎まれ口を叩くのを忘れない由貴也がおかしかった。
由貴也は今回、走力以前に精神面で哲士に負けたのだ。哲士の方がよほど追い詰められていたにも関わらず、彼は崩れなかった。由貴也は完璧なポーカーフェイスをもって顔面だけは平静に装えたが、体は彼の心に忠実だった。
もっとも緊張なんてしたことがなかったのだろう。ある程度実戦を積んだスポーツ選手ならば緊張の御し方を心得ている。緊張を高揚に昇華させられるはずだ。だけれども由貴也は心に手綱をかけるのがあまりに下手だった。
「俺の勝ちだ」
哲士は子供のように歯を見せて笑った。そこに上位者の見下しや由貴也を嘲笑うような色はなかった。どこまでもさらりと乾いていた。
「部長!」
『勝ち』という言葉に反応して香代子は思わず呼びかけていた。
「リレーこのまま続けようよ」
この勝負は哲士が勝った。つまりリレーには出ないということだ。
香代子はあまりにももったいないと思った。哲士の目的が由貴也に本気を出させることならば十分に達成した。由貴也は緊張して上手く力が出せないほど真剣にこの一戦を考え、懸命に走っていた。
「きっといいチームになるよ」
香代子は必死に哲士へ訴えた。このまま丸投げしてしまうにはまだ惜しむ余地が有りすぎた。
けれども哲士はゆるく首を振る。
「俺は部長だ。だから一度言ったことを簡単にひるがえすわけにはいかない」
静かに、けれど固い意思をこめた言葉に、香代子の言葉は勢いを失った。代わりに由貴也へ視線を向ける。
「アンタは走りたいの?」
香代子は思わず由貴也の前に仁王立ちになった。由貴也は上体を起こし、口を閉ざしたままぼんやりと香代子を視界に入れている。
「他人事じゃないの。自分のことなんだよ。自分の口でどうしたいか言って」
これは香代子の戦いではない。由貴也と哲士の戦いだ。香代子が助太刀したところで肝心の本人が後ろで傍観しているだけでは絶対に勝てない。
由貴也はそれでもなお表情を変えなかった。
「部長」
香代子と哲士と由貴也しかいなかったゴールに、いつのまにか根本が歩いてきていた。根本は由貴也に一瞬だけ視線を与えてから哲士へ向き直る。その目からはいつもの気弱さが消えていた。
「俺はリレーをこのまま続けて欲しいと思う」
はっきりと哲士を見すえ、根本は迷いなく口にした。
思わぬ援護に目を瞬かせる。一方哲士は泰然と構えて聞いていた。哲士は目で根本に続きをうながし、根本はそれに応じるように由貴也に目線を向け、口を開く。
「俺は今でもこいつは優秀な陸上選手かもしれないけど、優秀な部員ではないと思っている。陸上を舐めてるとも思う」
あまりにストレートすぎる根本の物言いに、香代子はぐうの音もでない。客観的に見て、由貴也には速いという利点以上の問題があるのだ。
「でもこいつ昨日はがんばってたし、今だって本気で走っただろ……ひどかったけどな」
根本と哲士が顔を見合わせていたずらっぽく笑った。まさか何にも動じなさそうな由貴也が、こんなところで力の入れ具合を間違えるとは思わなかった。
由貴也の人間くさい失敗に親近感を抱いた。
「部長の目的は古賀を本気で走らせることだったんだろ。だったらもういいじゃん」
「無様な本気だったな」
哲士がらしくなく嫌みを言い、かすかに笑った。由貴也はまた哲士を睨みつけるかと思ったが、代わりに周囲を舞う蝶を目で追っていた。これ以上反抗しては滑稽だと思ったのかもしれないが、由貴也のこの脈絡のなさはいい加減慣れない。
「さて、古賀。どうする?」
哲士はなかなか意地悪だった。この流れからすると由貴也をリレーに出すのが妥当だが、自分からは言い出さなかった。由貴也の受動的な流れを打ち切ろうとしていた。
「俺から見れば古賀 由貴也は陸上選手だよ。いい加減腹くくれ」
哲士は中途半端だと言っているのだ。部になじまないことで部員にはなりきらず、真剣さを捨てることで、陸上選手に徹しなかった。どれからも周到に距離をとっていた彼が崩れつつある。こちら側に傾きつつある。
「いい加減認めろ。こっちはお前を迎え入れる準備はできてんだよ」
香代子と哲士と根本は並んで立っていた。由貴也へ視線を送る。こちらに来い、と訴えかける。
これが最後の機会だろう。由貴也がこちらに足を踏み入れられる本当の最後の機会だ。
香代子は地面に座る由貴也に手を差し伸べた。蝶が飛ぶようにさまよっていた由貴也の瞳が香代子の手で固定される。
彼はしわの数さえも数えられるほど香代子の手の平をじっと見ていた。それからおごそかとも言える動きで目を閉じる。
陽の光を避けるように由貴也はうつむいていた。それは自らの感情を整理させるような間だった。運動選手が本番前に精神統一するのにも似て、容易には声をかけられなかった。
香代子は手を差し出し続けた。
再び由貴也がその手に視線を戻したとき、彼のまなざしにはあきらめのような色が混ざっていた。けれどその中にほんの少しの決意が見える。ひどく純粋で透明な色をしていた。
由貴也は香代子の手を前に首を振る。拒んだのではなかった。由貴也はひとりで腰を上げる。
誰の助けも必要としない、ひとりの男として彼は立っていた。
「……走ります、リレー」
こちらと目線を同じくして由貴也が言葉を発する。彼の目はきちんとこちらをとらえていた。彼の目にはやっとこちらの姿が写っている。
「真面目に走れよ。じゃなきゃ当日でも俺が走るからな」
根本が由貴也の肩を叩いた。微妙に嫌そうな顔をしているが、香代子は今回に限り見ないふりを決めこんだ。
視界を白いものが横切りあっ、と声を上げる。ひらひらと陽気に誘われたような蝶が由貴也の頭にちょこんと止まった。ちょうどリボンのようで、そのかわいらしい姿に三人で笑いをこらえる。
当の由貴也だけが省エネモードのようなぼうっとした顔をしていた。と思ったのもつかの間、由貴也のまぶたが落ち、そのまま体も崩れ落ちた。哲士があわてて抱き止める。香代子も根本もぎょっとしていそいで由貴也の様子をうかがった。
「……寝てる」
ぼそりとつぶやいた哲士に呼応するように、由貴也は綺麗な顔を惜しげもなくさらして寝息を立てて眠りこんでいた。省エネモードどころか、本当に彼はスイッチを切ってしまったのだ。
「こいつ、疲れたじゃねえの? めずらしく本気なんか出したから」
根本があきれ気味にやれやれとため息をつく。おそらく昨日の疲労も溜まっているのだろう。体力不足の由貴也はとうに限界が来ていたのだ。
「根本、今なら撮り放題だぞ」
由貴也を支えながらにやり、と哲士が根本へ向き直る。根本は哲士の意図がわからなかったのかきょとんとしていたが、ややあってああと同じく企みのある表情になった。
根本はおもむろにポケットを探り携帯を取り出す。そのまま間髪容れずにシャッターを切った。カメラ機能を起動させたのだ。由貴也の無防備な寝顔が根本の携帯画面に収まっていた。
「よっしゃ!」
根本がガッツポーズをしながら携帯を閉じた。警戒心が強い由貴也もさすがに疲労困憊なのか起きない。
「ちょっと、そんなもの何に使うの?」
由貴也が女ならばともかく、どんなに顔が整っていようとも彼は男だ。根本にそういう嗜好があるならばわかるが、たぶんノーマルであるはずの彼が由貴也の寝顔を見てよろこぶとも思えない。
根本はほくそ笑みながら答える。
「女子に売るんだよ。もう何人かから頼まれてんだ」
急に由貴也に同情したくなった。そんじょそこらのアイドルも裸足で逃げ出すこの優れた容貌も、由貴也に益ばかりもたらすわけではないのだ。
「部長! 見過ごしていいの!?」
哲士を非難してみるが、彼は「試合の打ち上げ代しっかり稼いでもらわなくちゃな」といつものさわやかさにさらに磨きをかけて言った。ますます由貴也が不憫になってきた。
哲士が起きる気配のない由貴也を肩に担ぎ上げた。
「おっ、ちょっと重くなってるこいつ」
哲士がうれしそうな声を上げる。それがなんだかおかしくて笑ってしまった。根本も笑っていたし、哲士も笑っていた。
気持ちのいい陽気の中、グラウンドを笑いながら歩いた。胸が晴れ晴れとしていた。きっと今この瞬間を自分はずっと忘れないだろう、と春の澄みきった空の下で思った。




