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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
33/127

33

 香代子を残し、食堂から出てさてどうしようと由貴也は考えた。

 二階からは絶えず騒ぎ声が聞こえ、合宿最後の夜を謳歌している。その騒乱ともいえる状態に突入する気はさらさらなかった。今日は慣れないことをして疲れているのだ。

 らしくないことをした。エースなど別になりたいわけでもなかった。むしろそんなめんどう極まりないこと死んでもやりたくなかった。部員の心の拠り所になり、部と一蓮托生など失笑ものだ。

 走っている、もっと突き詰めれば生きている理由すら希薄なのに、人のことまで抱えこむなど御免被りたかった。いつも部の安定剤という役割を担っている哲士は自分を追い込むのがよほど大好きな、マゾとしか思えない。

 急に生クリームを吐くほど食べたくなった。ケーキ、シュークリーム、ロールケーキやアイスにプリンが頭を駆けめぐる。

 合宿中なので生菓子はご無沙汰だ。さすがに生ものは持参してこれなかった。

 今なら際限なく甘いものを食べれそうな気がする。由貴也の嗜好以上に体が回復のために糖分を求めている。

 由貴也はもともと体力がある方ではない。今日のような地道な練習を真面目にこなすのはかなりキツい。しかも練習自体嫌いだ。仮に明日も同じようなことをやれと言われたら間違えなく脱走する。

 酷使した体のあちこちが軋み、集団生活のストレスと相まって体調でも崩しそうだった。幼少期の虚弱体質は長じるにつれ改善されていったが、いまだに環境の変化には弱いのだ。

 甘味への欲求が思考を埋めつくしていく。合宿所を抜け出して買いに行こうかと思ったが、最寄りのコンビニに行く体力すら残っていない。それどころか筋肉痛で階段を上ることさえ苦痛がともなう。のしかかる疲労にまかせて階段の踊り場に座りこんだ。

 体にうまく力が入らなくて、背中が壁を滑る。弧を描きながら床に寝転がった。

 高い位置にある窓からきれいな円形の月が見えた。その欠けたところがない満たされた月を、目を閉じて視界から追い出す。

 哲士を助けたわけではなかった。由貴也の行動の奥底にはもっと利己的な理由が潜んでいる。香代子の感謝は見当違いだ。

 努力と根性と辛抱が三拍子揃って抜けている自分が哲士に思い知らすためだけに丸一日真面目に過ごした。巴のため以外にこんなにも労力を割いたことなどなかった。

「古賀?」

 頭上から声が降ってきて、緩慢に瞳を開く。薄闇の中二、三度まばたきをすると階段の上からこちらをのぞきこんでいる人物の輪郭が明らかになる。

「あぁよかった。倒れてんのかと思った」

 哲士が二階の階段の手すりから顔を出していた。

「ずいぶんぶっ倒れてましたね」

 由貴也は体を起こすことなく言葉を放った。ここから見上げる哲士はもう平生の顔色をしている。階段を下る足どりも確かだ。具合は良くなったのだろう。

「二日も寝込んじゃったよ。しかも合宿明日で終わりだしな」

 哲士は由貴也の嫌みにとりあうこともなく、踊り場まで下りてきて由貴也に手を差し出してきた。由貴也は哲士の手を借りずに身を起こす。

「お前、今日大活躍だったんだって? 顧問が言ってた」

 哲士の言葉にあの顧問も暇だな、とつくづく思う。いい気分にさせといてやったから二、三日は黙っていると思っていたのにとんだ計算違いだ。おおかた病み上がりの哲士に当てこすりをかねて今日の様子を話しに言ったのだろう。

「いい加減アンタを俺の保護者にしとくわけにいかないんで」

 香代子に言ったことを哲士本人にも言う。

 哲士も香代子も自分の保護者気取りをしているが、その感情は目上のものから下の者へと与えられるものだ。守り庇い自分の羽の下に置く。それは由貴也を人間的に対等と見ていない証拠だった。

 もっとも香代子には否定されたが。

「俺もお前の保護者はもうごめんかな」

 哲士は由貴也のいる踊り場より数段上の階段に腰かけた。哲士はひとしきり薄く笑うと、表情を消し眼光鋭くこちらを見た。

「お前にマネージャーやるのは止めた」

 敵意すら混ざっている哲士の言葉に由貴也はへぇ、と感心すら覚えた。哲士はどこまでも由貴也のいい保護者を貫くと思っていたのだ。そのさまを見ものだと意地悪く由貴也は思っていた。

「“あなた”は」

 由貴也は口調を改める。哲士が由貴也のことを下に思っていたのと同じく、由貴也もまた哲士を自分より下だと今まで見なしていた。敬意もなにも持っていなかった。けれど今ので少し見直す。

「俺の保護者でいることで優位に立ってるつもりでいたんでしょう。マネージャーを譲って争いから逃げていたんでしょう」

 違いますか、と哲士を問い詰める。

 由貴也は他の部員に対し、走りで相手を下して力の差を見せつける一方、哲士との対戦を避けてきた。けれど由貴也は自分から仕掛けなかっただけで、哲士に勝負を申し込まれて断ったわけではない。

 それはすなわち哲士も由貴也と戦うことを避けてきたのだ。だから由貴也も哲士を見下してきたのだ。

「部長、俺はね」

 ゆっくりと膝を立てて、体ごと哲士の方を向く。哲士は適度に広げた膝の上に肘を乗せ、体の中心で組んでいる。瞳には夜の海のような静かな闇が宿っていた。

 哲士はいい保護者としての仮面を剥がれることを承知しているようだった。

「例えばあなたに四六時中敵意を向けられるのもうっとうしいけど――」

 由貴也はそこでわざと言葉を切った。瞳に力を込める。哲士の内側を暴いてやろうと凶暴に笑った。

「恩着せがましい顔して女をあてがわれるのはもっと胸クソ悪い」

 鋭い言葉で哲士を一閃した。

 哲士は香代子を与えることで由貴也を飼い慣らそうとした。いや、そこまで強い意図ではなかったのかもしれない。けれど哲士はまぎれもなく由貴也を自分の下に置こうとした。

 今まではその通りであった。由貴也は哲士と香代子の作った殻の中で安穏と過ごしていた。

 哲士の手の中にいると気づいたからこそ、今日は彼にとって代わって“エース”の地位に就いたのだ。哲士を出し抜き、凌駕するつもりでいた。

 誰かの思惑の中で生かされるなどまっぴらだ。

 由貴也の刃の切っ先を避けることなく、哲士は真正面から受け止めてそっと目を閉じた。自らを省みるように伏せられた目を再び開いたとき、哲士はどこかあきらめたように微笑んでいた。

「容赦ないな、お前」

 苦笑して哲士は静かに話す。容赦など期待していたのか、と由貴也は哲士に嘲りの笑みを向けた。

「あなたが言ったんでしょうが」

 哲士はわざと由貴也に香代子への告白を聞かせ、それから保護者になる気はない、と言ったのだ。由貴也に哲士の保護下にあると気づかせたのは他ならぬ彼自身なのだ。この展開は哲士が望んだことであるはずだった。

「お前が牙を向けてくるのを待ってたよ」

 視線を由貴也から外し、憂いを帯びた瞳を哲士は床に落とした。

「俺は初めからお前に勝てる気がしなかった」

 月光の死角となった場所に闇が溜まっている。哲士の言葉はそこへ落ちていくかのようだった。

「いや、タイムの上では五分五分だった。俺は勝てたかもしれないし負けたかもしれない」

 由貴也も哲士に勝てるかどうかはわからなかった。体格では哲士の方がずっと優れている。体のバネもあり、なにも意識せずに走っている由貴也よりも数段上手い走り方をする。彼はどこでスピードをトップに持っていけば効果的かきちんと心得ている。

「けれど俺は古賀より歳上で部長だ。仮に勝負して負ければ言いわけはできない。お前みたいに華々しい実績もなければ才能もない。自分の中でなぐさめてくれるものは何もない」

 そこで哲士は片頬を上げて笑った。彼のこんな投げやりな表情は初めて見た。

「根本には部長は実力じゃないって反論しときながら実際はこうだもんな。お前に負けるのが怖かった。だからお前の世話を焼いて適当に満足して、自分をごまかして守って……」

 そこで哲士は息をつく。傾きかけた気持ちを立て直すような行動だった。

「でも全部自己満足のための嘘じゃない。古賀のそばにマネージャーみたいな人がいれば安心だと思ったし、なんとかお前を立ち直らせてやりたかった」

 立ち直らせてやりたい。その施しのような感情が嫌だった。嫌悪感に由貴也は哲士の言葉の邪魔をする。

「俺が立ち直って、マネージャーまで持っていかれて、それでその後あなたはどうするんです」

 しばらく哲士は口をつぐんだ。場を静寂が満たす。月に雲がかかり、あたりがにわかに暗くなった。

「……それでもいい、って言えればかっこよかったんだけどな」

 どこか悲しげに哲士は笑う。その顔を雲間から弱々しげに差す月光が照らした。

「俺は途中で保護者で、お前のライバルにすらなれない自分に嫌気がさした。全部けっきょくお前に持ってかれるのかとどうしようもない気分になった。だからお前にあんなことしたんだ」

 哲士の指す『あんなこと』とは香代子への告白を聞かせ、保護者ではないと言ったあの夜のことだろう。

「でも、まぁ実際今日お前が俺の手助けなんか必要ないってところを見せつけられて思った以上にこたえてる。つらいし悔しいしさみしい」

 哲士の独白を聞きながら、由貴也は巴のことを思い出していた。由貴也は巴にも哲士と同じような思いを抱かれていたのだろう。助けてやらなければ、自分が見ていてやらなければ。だって危なっかしいから。自分はきっとそう思われていたのだ。だから巴はいつまでも弟扱いしかしてくれなかった。

 だからこそ由貴也は、こんなにも哲士の見方を改めるために躍起になった。今度こそ、と。

 どうして巴と関わり合いのないこんな遠くで、彼女の面影と今の状況が重なるのだろう。何人も侵してこなかった心の最奥に手を掛けられたのだろう。

「古賀。俺らは陸上選手だ。やっぱり走らなくちゃダメなんだよ」

 陸上選手。哲士のその言葉に違和感を感じた。こんなに走ってもまだ、自分はランナーであることを受け入れきれていない。体は刻々と変化しているのに、心の一部をまだ置き去りにしたままなのだ。

「勝負しようか、古賀」

 ゆっくりと反動をつけて哲士が立ち上がる。そのまま一段一段重々しく階段を下り、由貴也の前に立った。

 哲士の存在感が急激に増す。由貴也もそれに応戦するように腰を上げ、瞳を細めた。

「明日、走ろう。俺が負けたらお前に二走の座を譲る」

 二走。現在哲士がいるエース区間だった。それを譲る。つまり哲士は由貴也の下に自らをつくことになる。

「あなたが勝ったら?」

 哲士は笑みの気配すら見せずに断言した。

「リレーには出ない」

 真剣さに空気をとがらせ、哲士は続ける。

「俺はもうお前の気の抜けた走りなんて見たくないからな。そんなヤツにリレーの一端を任せたくない」

 甘さがないその厳しい目に、哲士は自ら保護者という安全で妥協したポジションを脱ぎ捨てたのだと知った。

 彼の言葉を平然と聞くふりをして巴の姿が頭をよぎった。次の試合でリレーを走ると言ってあるのだ。しかも見に来てもらうことになっている。

 由貴也にとってそれは彼女と過ごした十数年間の区切りだった。ここで走るところを巴へ見せなければ、由貴也は前に進めない。由貴也はそのために走ってきたと言っても過言ではなかった。

「本気で走れよ、俺と対等になりたいんなら。俺もお前と真正面から向き合う」

 哲士は崖っぷちに追い込まれている。そして由貴也もまた後はない。もう巴のところへ戻る道はない。

 面倒なことになった――が、由貴也はこうなることを半ば予想していたように思う。

 自分は哲士と戦うのを避けてきた。それはこの高揚感を知りたくなかったのかもしれない。哲士が敵に回るというかすかな恐れと、戦いに臨むよろこびを認めたくなかった。

 陸上にからめとられていく自分を直視したくなかった。

「わかりました」

 甘く幼い感情を飲み込んで由貴也は口を開く。

「走ります」

 ――先輩と後輩、歳上と歳下、守るものと守られるもの、強者と弱者。その垣根を超え、哲士と“対等”になった瞬間だった。

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