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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
31/127

31

 目が覚めて一番に雨の音が感覚を満たした。

 いつのまに寝てたのか、頭がぼんやりしている。あまりに心地よくて、また寝そうになる。

 寝返りを打とうとして、なにかが邪魔をして動けない。仕方なく重いまぶたを開いて状況を確認する。

 次の瞬間、凍りついた。

 哲士の腕が自分の体に巻きつき、顔が吐息がかかるほど近くにあった。

 薄暗い部屋、雨の静けさは跡形もなく消え、香代子は思考が真っ赤に爆発していくのを感じた。

 香代子は意味をなさない悲鳴を上げ、哲士から飛びのく。そのまま壁際まで後ずさった。

 背中に壁がぶつかり、音を立てたところで香代子は止まった。乱暴な音に反応してか、哲士の瞳がゆっくりと開く。

 起きたての哲士と目が合い、香代子は妖怪が現れたかのように「ひっ」と小さな恐れの言葉を発した。

 みるみるうちに眠りに落ちる前の記憶がよみがえってくる。哲士に後ろから抱きすくめられ、二度目の告白をされた。けれど何て答えていいのか動揺しているうちに哲士が意識を失い、香代子は背中で重さを増していく哲士に押しつぶされてしまった。

 哲士の下から逃れられず、香代子は重みに耐えながらもがいているうちに眠っていたのだ。

「マネージャー……?」

 まだ半分夢の中にいるのか、哲士がはっきりしない面持ちでかすれた声を上げた。香代子はその呼びかけになにも反応できず、ただ遠くから哲士を見つめるのみだ。

「……よかった、まだいてくれて」

 弛緩したような笑みを浮かべ、哲士はまた目を閉じた。安堵からなのか彼はまたすぐに眠りに落ちた。

 部屋を満たす哲士の寝息を聞きながら、香代子は今度は違う意味で動揺していた。それは後悔に似た感情で、哲士に申し訳なさが募った。

 なんの根拠もなく、今まで哲士は部の誰より――由貴也よりもずっと強いと思っていた。

 哲士ならば告白を断ったとしても大丈夫だと思っていた。自分なりに乗り越えてくれると身勝手に考えていた。

 けれどどうだろう。哲士がどんなに大人びて見えても、まだしょせん自分と同い年だ。

 自分を含め皆が、哲士なら大丈夫だろう、という勝手な憶測を重ねたせいで、今哲士は倒れている。ずいぶん無理をさせていたのだ。

 香代子は哲士のそばまで行き、横たわる体にそっと布団の上掛けをかけた。呼吸は相変わらず浅く早く、熱は高そうだった。

 失礼、と心の中で謝って哲士の汗が浮かぶ額をタオルでふき、冷えピタを貼った。

 時計は三時を指している。夕食の準備にはまだ早かったがやることはそれこそ山のようにある。部屋から出ようと扉に手をかけた。

 けれど――。

 ドアに手をかけたままで振り返って哲士を見やる。

 よかった、まだいてくれて。

 耳の奥で哲士の声がよみがえる。出ていけなかった。

 ほっとした表情と声音。彼が目覚めたとき自分がいなかったら、その代わりにどんな顔をするのだろう。そう考えたらもうダメだった。

 香代子は部屋の隅に座ってギリギリまでいたが、その間に哲士が目覚めることはなかった。

 超特急で夕食の準備をして、部員たちに食べさせる。精根絞りつくされたのか、一日目の喧騒が嘘のように食器のふれあう音しかしない。皆青い顔をしていた。

 部長代行の根本だけは模範でいなければいけないと気負っているのか、がつがつとご飯をかっこんでいた。

 食後のミーティングでも根本はやたら熱く、そうすることで自分を鼓舞しているように見えた。

 消灯時間後、といだお米を炊飯器にセットし忘れたことに気づき、床から抜け出して食堂へ向かった。ちなみに今香代子は玄関横の守衛室で寝ている。

 雨はすっかり止み、月の光が煌々と食堂に差し込んでいた。その輝きに照らされて、誰かが食堂の椅子に座っている。誰もいないと思っていただけに香代子は驚きに身を固くした。

 反射的に後ずさり、かかとが壁に当たって鈍い音を立てる。その音に座っていた人影が動く。

「なにしてんの?」

 淡い月光に照されたのは由貴也だった。思いきり動揺しているこちらに無味乾燥なまなざしを向けている。

 由貴也の存在を認めたとき、香代子は体中の力が抜けていくのを感じた。

「なんだぁ。幽霊かと思った……」

 張り詰めていた意識が安堵に溶ける。普段は幽霊などと現実味のないことは考えたりしないが、今日の昼間、部員たちがびしょ濡れだった自分のことを幽霊幽霊と言っていたので覚えていたのだ。

「ふーん幽霊ね」

 たいして興味がなさそうにつぶやいて由貴也はポケットから棒つきの飴を取り出して口に含んでいた。

「ところでアンタこそなにしてるの?」

 消灯時間はとうに過ぎ、二階は一応静かだ。といっても、部屋の中で何をしているかはわからないが。

 彼らにとって昼の練習のつらさと夜のはしゃぐ楽しさは別物なのだ。

「避難」

 由貴也は器用に飴を片側の頬に寄せて言う。

「避難? なにから?」

「部長代理から」

 部長代理――それは根本のことだった。

「まさかまた根本とケンカしてんの!?」

 由貴也と根本の仲の悪さはもう決定的になってしまった。けれど哲士がダウンし、まとまりがなくなっている状態でこれ以上のトラブルはまずい。

 香代子はつい詰問口調になってしまったが、由貴也はこちらを一瞥しただけで答えなかった。それは暗に違うと否定していた。

「じゃあ、どうしたの?」

 根本とケンカしたわけでもなく、でも避けている。確かにふたりは今朝いさかいをおこしたばかりだが、それに気まずさを感じる由貴也でもないだろう。

 由貴也は飴をまだひとつ食わえたままで、新たな飴を開けて口に入れた。二本の棒が口から出ている。

 彼の甘党加減には見ているこちらが気持ち悪くなりそうだ。

「別にケンカしたいわけじゃないから、俺」

 三本目の飴を躊躇なく開けながら、由貴也が独り言のようにつぶやいた。

 香代子は驚きに目を丸くする。散々今まで周囲と対立し軋轢を生んできた由貴也が争いを好まないとは。由貴也は好んで敵を作っているのかと思っていた。

「アンタ……ならもうちょっと“イイ子”でいなよ」

「“イイ子”ね」

 香代子の助言に由貴也は鼻で笑ってみせた。

 別にケンカはしたくない。けれど由貴也は屈服もしたくないのだろう。

 相手を競技の力量だけではかる由貴也のやり方は感情的には間違っていると言いたいが、実際に重視される側面であるのは確かだ。突き詰めれば突き詰めるほど上下の関係よりも実力だけがものを言う。

 由貴也の性格ではおべっかは使えない。思ってもいないことを言い、根本を持ち上げ、表面上だけでも仲良くなどできないのだ。

 だから由貴也は寄ると触ると根本が噛みついてくるのでとりあえず顔を合わせないようにしているのだろう。この由貴也が争いを回避する努力が見えるだけでもかなりの進歩と言えた。

 三本目の飴を放り込んだばかりだというのに、由貴也は四本目の飴を開けようとしている。思わず「四本は止めなって」と由貴也の手首をつかんでしまった。

 その瞬間、電流のように由貴也の拒絶が掴んだ手首から伝わった。指先がしびれる。

 無意識の拒絶。香代子はハッとして手を離したが、由貴也はああ、とけれど悪びれもせずにこちらを見た。

 彼がおもむろに棒つきキャンディーを口から取り出した。繊細な動きだった。

 由貴也は少し首を傾けて笑んだ。ほのかに色を帯びた月光が彼の半身を照らす。

「ねぇ先輩。俺はこういうヤツだよ」

 意地が悪い、突き放すような笑みだ。でもそれすら目が離せない艶やかな表情だった。

 遠回しに自分のことはあきらめろ、と言われているのだと、香代子でもわかった。

「俺よりも部長のご機嫌とりでもした方がいいんじゃないの?」

 完全なる皮肉を由貴也の口から聞いたとき、香代子の頭に瞬時に血が上った。怒りのままに目の前の机を叩く。静まり返った部屋の隅々までその音が響いた。手がビリビリとしびれたが別によかった。

「ふざけないでっ! 私は誰かに媚を売るほど落ちぶれてないっ! 部長やアンタがいなくてもひとりで生きていく!!」

 気がついたときには由貴也に向かって身を乗り出していた。

 さすがの由貴也も香代子が前傾した分だけ身を引き、若干あっけにとられた顔をしていた。

 香代子は由貴也の表情を前にすばやく我に返る。こんな啖呵を切るからかわいげがないと言われるのだ。

 退くに退けなくなって、香代子はその体勢のまま由貴也を見ていた。半ばヤケになって彼を睨み付ける。一体好きな人を睨みつける女子など自分以外にどこにいるのだろう。

 由貴也が喉を鳴らして低く短く笑った。悔しくなるくらい綺麗な顔で、同時にゾッとするくらい意地悪な顔だった。

 これは何か嫌なことを言われるぞ、ととっさに身構えた。

 由貴也がイスから立ち上がる。相変わらずだらっと立ち、こちらに瞳を向ける。香代子は視線を外してなるものか、と由貴也と目を合わせ続けた。

「勇ましいね」

 拍子抜けした。もっと入れようとすれば毒を入れられた言葉だったのに、その感触はなめらかだった。皮肉も嫌みも棘もない、ただ感想を言っただけの由貴也の言葉だった。

「アンタ、そんなんじゃ一生ひとりなんじゃないの」

 最後にこれ以上ないくらいひどい台詞を、由貴也は不敵に言い放った。

「うるさい! 余計なお世話!!」

 食堂から出ていく背中に言葉を投げつけて、ふっと息が抜けた。いからせていた肩の力が抜ける。

 気を抜いたその瞬間、誰もいなくなった食堂の静寂が胸を満たした。

 押し出されたように涙がこぼれ落ちる。それが癪で手の甲で乱暴にぬぐった。手と顔の皮膚が擦れてピリッと痛んだ。

 ねぇ、ともうひとりの自分が耳元でささやく。ひとりでなんてもういられないでしょう? と。

 哲士にあんなにも真剣な想いを向けられながら、結局由貴也を目の前にすると彼のことでいっぱいになってしまうんでしょう。哲士の想いには応えられないんでしょう。由貴也に恋をしているから、満たされない想いを抱えているのでしょう。だから寂しいのでしょう。そんな弱い自分が嫌なんでしょう――絶えず胸の中で言葉が反響する。

 プライドを捨ててでも、哲士ではなく、由貴也の“ご機嫌とり”をしそうな自分がいた。でもそうした途端に自分は由貴也の奴隷に堕ちるだろう。

 由貴也は自分を試している。わざと自分自身から遠ざけることを言い、それでも着いてくるかどうかを見定めている。彼を裏切らないことで、なにか見返りがあるわけではないのに、自分は無数に空いている彼の罠をかいくぐろうとしている。

 絶対に哲士のように誠実な気持ちを由貴也が向けてくれることはない。それなのになぜ自分は哲士を選べないのだろう。

 本当は自分だって大ケガする前に由貴也から逃げだしたいのだ。安全な哲士のところに行って、そしたらどんなに幸せだろう。

 自分は変わってしまった。弱くなった。一年前より、半年前よりずっと。

「恋なんてしたくなかった……」

 つぶやいた自分の声はあまりに小さくて、もうどうしようもなかった。ただ情けなかった。

 でも恋を知らなかった前の自分には戻りたくなかった。

 誰もいない食堂の闇の中、戻れも進めもしない自分の立ち位置を自覚し、気が済むまで泣くしかなかった。それしかできなかった。

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