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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
30/127

30

 海辺の小さな診療所で哲士に下された診断は過労と風邪だったそうだ。

 食器洗いをする一年生が帰ってきた哲士に「大丈夫ですか!?」と群がろうとする。それを香代子が制し、二階へ連れていった。

 極限まで我慢し、その糸が完全に消えたのか、哲士はふらふらなのをもう隠せないようだった。足元がおぼつかず、表情は病人のそれだった。

 それほどの不調を抱え、よく根本に理路整然と反論できたものだ。

 哲士を連れていったのは香代子が今まで使っていた個室だった。香代子の荷物を運び出し、哲士の布団をひいてある。

「ここ……」

 哲士が熱ではっきりとしない顔に、ためらいがちな表情を浮かべた。

「大部屋では気を遣うでしょ? 部長も、みんなも」

 部長に対する心配という感情をなみなみ湛えた部員たちでも、この合宿という厳しい状況下で常に哲士を気にかけ続けるのは大変だろう。病身の哲士も彼らが目に見えるところにいたのではゆっくり寝てもいられない。

 今は哲士をいかに部長業から引き離してゆっくり休ませるかが重要なのだ。

「ここの方が静かに休めると思って」

 換気していた窓を閉め、部屋を整える。

 哲士はそれでも躊躇して部屋に入ってこようとしなかった。

「でも俺がここで寝たらマネージャーは……」

 こんなときまで他人のことを考える哲士に、香代子は思わず声を荒げた。

「今は人のことより自分のことでしょ! 私なら寝ようと思えばどこでも寝れるから」

 自分の寝床より、哲士を大部屋で寝かせておく方が心配だ。布団をめくり、「早く寝て!」と哲士をうながした。

 哲士はそれでもなおなにか言いたげな顔をしたが、香代子がにらみつけるとおとなしく布団に入った。

 カーテンを閉めてさっさと退散しようとドアに手をかけたとき、後ろから声をかけられた。

「根本は……古賀はどうしてる?」

 体調不良のためか、いつもより声に張りがない。それどころか弱々しくかすれている。

 けれども高熱も哲士と部長業は切り離せないようだった。

「根本はとまどいながらも部長代行がんばってるよ。もうひとりはまぁいつも通り」

 根本は哲士が倒れたことに責任を感じているのか、見てて痛々しくなるほど完璧に部長業をこなそうとしていた。

 もう一方の当事者由貴也は我関せずとばかりにいつも通り朝食を残していた。それをまたいつも通り香代子が叱りつけ、胃の中に収めさせた。

「根本にも悪いことしたな……古賀にも」

 あぁもうこの人は、と香代子は心からあきれかえった。哲士に勢いよく向きなおり、仁王立ちで言葉を吐き出すために息を吸う。

「あのねぇ、根本たちのことを気にするのもいいけど、部長が早く元気になってくれることが一番なの!」

 言ってもムダだと思いつつも、言わずにはいられなかった。哲士が他を心配するように、香代子たちも哲士を心配しているのだ。

 ふー、といらだちまぎれの息をつき、今度こそドアを開いた。

「じゃあ、何かあったら呼んでね。下にいるから」

 ありがとう、と哲士は答える。それから彼は少し体を揺らして笑った。

「俺、マネージャーのそういうとこ、いいなと思う」

 開いた口がふさがらなかった。哲士は熱で頭のネジが外れてるのではないのだろうか。普段はこんなストレートに好意を伝える人物ではない。

 熱が急速に首から上にのぼってくる。「なに言ってんのよ!」と力一杯目の前のドアを閉めた。

 あぁもうまったく、と照れながら階段を下った。

 午前中の練習時間になっても雨は止まず、予定されていた近隣の高校との練習試合は明日に延期になった。今日は室内練習場での活動になった。

 彼らを送り出してからすぐに昼食の準備にとりかかる。今日はチャーハンだ。

 チャーハンは強火でしかも一人分ずつ炒めないとぱらぱらにならない。雨の湿気にもやられ、香代子はまた汗だくだった。

 チャーハンを作り終え、まだ時間があることを確認すると、香代子は顧問に外出許可をもらい、合宿所を出た。

 昨夜から勢いを失わない雨と顧問の言っていた言葉を思い出していらだつ。汗だくついでにびしょ濡れになってやろうと香代子はなげやりに傘をさし、ずんずんと歩を進めた。

 顧問はあろうことか哲士が倒れたことを面倒なこと、と言い、これぐらいの練習で倒れるなんて軟弱なんじゃないか、と言ってのけたのだ。どの口がそれを言う、顧問の存在こそ『面倒なこと』だと言いかけて香代子はぐっとこらえた。

 お望み通りびしょ濡れになって着いたのはコンビニだった。

 ぽたぽたと水滴をたらしながら、濡れた靴でキュッキュと店内を闊歩する香代子に店員が顔をしかめた。

 スポーツドリンクやら冷えピタやらを買い込んで、帰りはもう傘すらささずに歩いた。

 濡れ鼠になって帰ってきた香代子を見て、すでに戻ってきていた部員たちは「ヒイッ!」と声を上げた。

「ゆ、幽霊だ……」

「呪われる!」

 香代子が一歩近づくたび、彼らが一歩下がる。本気で怖がる彼らに「私だってば!」と叫んだ。

「あのマネージャーは怖かった」

「ホラー映画顔負けの恐ろしさだよな」などとこそこそつぶやく彼らを黙らせるために昼食を食べさせ、二階の哲士の様子を見に行ったときはすっかり遅くなってしまった。

「部長」

 ドアの前で呼びかけ、そっとドアを開ける。

 哲士が横たわる布団がもぞもぞと動いた。緩慢な動きで哲士はこちらへ寝返りをうち、焦点を結ばない瞳で香代子を見た。

 相当しんどそうだ。あの気遣いのかたまりのような哲士が一言も発しない。

「寝てた? ごめんね。なにか食べた方がいいと思って。薬とか買ってきたから。朝からなにも食べてないでしょう」

 哲士の枕元にそっと座り、買ってきたものをひとつひとつとりだしていった。

「ゼリーとか、そういうものなら食べられるかと思って……」

 喉ごしのいいゼリー飲料や、スポーツドリンク。プリンやアイスを並べた。

 哲士はそれらを一瞥しただけでなにも言わない。暗に食欲がないことを示していた。

「……マネージャー、濡れてる?」

 代わりに布団の中から香代子を見上げ、ほとんど無意識のような動きで香代子に手を伸ばしてきた。髪に触れられそうになって、ああと合点する。濡れた毛先からしずくが垂れていた。

 さすがに服は着替えたのだが、髪をふくのはおざなりだった。

「あぁ、うん……」

 イライラしてろくに傘をささずに行ったとは言いづらくて、あいまいに答える。

「この雨の中、わざわざ……?」

 哲士の視線が買ってきたものを越えて香代子をとらえる。高熱なせいだけでない熱が哲士の瞳に灯った気がした。

 その目の強さに香代子はひるんだ。今の哲士は鋼の自制心が崩れ、いつもはオブラートに包まれているさまざまな感情がむき出しになっている。

 その様子に、居心地な悪さが募る。

「……ここに薬置いておくから。好きなもの食べて、飲んで」

 このままここにいては新たな墓穴を掘りそうだ。香代子は口早に言い、立ち上がり早々に退散しようとする。

 病人の部屋に長居をしては向こうもうっとうしいだろう。

 ドアだけを見据えていた香代子の視界がぐんっ、とぶれる。後ろからの強い力に体がバランスを失う。

 哲士に腕をつかまれ、後ろに倒れた。

 しりもちをつく寸前でなにかに背中が当たる。布団の上で上体を起こした哲士に香代子はよりかかっていた。

「……ぶ、部長」

 かつてない密着度に声が震える。胸が早鐘を打つ。

 哲士の体が背後で動く。

 香代子の呼びかけに答える代わりに、哲士に後ろから抱きすくめられた。

 呼吸が止まりそうだった。

 香代子に回される腕の力は強く体が軋みそうだ。燃えるような哲士の体温が香代子を包む。

 哲士の荒い呼吸が香代子の耳朶に触れた。

 反射的に体がこわばった。

「俺、古賀に譲るつもりでいた。マネージャーが好きならそれでいいと思った」

 哲士がしゃべるたびにかすかな振動が伝わってくる。

 哲士はなにを言っているのだろう。頭が働かない。哲士の熱に香代子まで冒されそうだった。香代子は混乱の極みにいた。

 哲士が一瞬のためらいの後、口を開いたのがわかった。

「けどもう古賀に、渡したくない」

 古賀に渡したくない――。その言葉が切なげに空気を震わせた。

 薄暗い部屋、階下の部員たちの声が遠くで聞こえる。

 ここだけが別世界のように感じた。

「好きだ。マネージャー、返事を聞かせてくれ」

 必死な哲士の声が香代子の胸に迫った。

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