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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
3/127

03

 もと中学陸上界の有名選手だけあって、由貴也は速かった。速かったけれど、けして本気は出していない。陸上をやったことのある人が本気で走れば、パタパタとムダな音を立つはずがない。

 一貫して由貴也は教師をからかうためにやっていたのだ。友人からまじめでお堅いと揶揄される香代子は、心底由貴也を軽蔑した。

 しばらく由貴也の背中を追って適当に走っていたけれど、そう長く彼のペースについていけるはずがない。昇降口のあたりで見失ってしまった。

 息を整えながら腕時計に目をやると四時過ぎだった。陸上部はもう練習を始める準備に入っているはずだ。香代子もマネージャーとして動き始めなくてはならない。

 香代子は由貴也を追いかけ続けるべきか、部活へ出るか迷った。迷ったけれど、次の瞬間には駆け出していた。日にちを置いたら、由貴也は陸上部の見学に行くことなど忘れてしまいそうだ。由貴也がどんな人物であれ、今は頭数をそろえるために彼が必要なのだ。

 あせりながら色んな場所を探した。校舎中すみずみまで探して、もう寮に帰ったのかとあきらめかけたとき、普通科の教室の中に由貴也を発見した。

 傾きかけた陽が彼の姿を照らしている。由貴也は適当な机に座り、缶コーヒーをすすっていた。追われる身だというのをまったく感じさせないのんきさに、香代子は呆れ返った。

「……アンタ、なにやってんの?」

 陸上部のマネージャーとしての顔をつくろうことも忘れ、香代子は冷ややかに問いかける。由貴也が緩やかな動きでこちらを向いた。

 逆光のせいもあり、由貴也の表情ははっきりと見えない。だけれどもまったく物怖じしない瞳がこちらに向いているのは感じられた。

「カバン、忘れてたよ」

 香代子は手に持っていた学校指定の学生カバンをさしだした。あの見事な逃走のときに由貴也はカバンを教室に置きっぱなしにしてしまったのだ。

 由貴也はずいぶん長いあいだカバンを見つめていたけれど、やがて無言でそれ受けとる。

 お礼ぐらい言いなさいと小言が口をつきそうになったが、最後の自制心でぐっとこらえる。彼の礼儀を叩き直すのは入部してからでいい。

「遅くなっちゃったけど、見学行く?」

 由貴也に言葉を発する暇も与えずに切りだす。

 彼の勧誘を始めてから一ヶ月と少し、由貴也の性格はだいぶ把握している。最初のころは昨日誘いに行ったのにもかかわらず、翌日にはアンタ誰だっけ? という顔を露骨にされたりもした。

 最近ではさすがにそれはなくなった。けれど由貴也のことだ。昨日陸上部に入ると言ったのも忘れていることもありえる。

「いいよ。行かなくて」

「え……」

 それきり言葉がでない。やっぱり陸上部に入るのはやめるというのだろうか。

 香代子の動揺をまったく気にした様子もなく、由貴也はどこまでもマイペースにグラウンドを指差した。香代子もつられてて彼の指差した先に視線を向ける。

「だってもう練習見たし」

 由貴也の指の先では陸上部が練習していた。夕陽に照らされながら、皆思い思いにトレーニングに励んでいる。

 弱くても、人数が少なくても、仲のよさが自慢の陸上部の姿がそこにあった。

「俺、陸上部入るけど、どうすればいいわけ?」

 由貴也はナチュラルに不遜だ。教えろという命令形が透けてみえる。

 彼の調教は部に入ってからと思っていたのに、ついつい口が開いた。香代子は曲がったことが大嫌いだ。

「まず歳上には敬語! 運動部だからそういうの厳しいよ。それからその髪! 長すぎ。切ってきて」

 見るからに由貴也は運動部体質ではない。ぼさぼさの髪、だらっとした制服。覇気のない口調。

 まだまだ言ってやりたいことはたくさんあったが、香代子はこらえた。

 部員は喉から手が出るほど欲しい。それに純粋に由貴也は速い。中学のときに短距離で県の記録を塗りかえている。陸上部にも彼の名前を知っている部員は多くいるほどだ。

 だけれども部の風紀を乱す者ならいらない。まして今は大会前の大事な時期だ。部をひっかきまわされてはたまらない。

 不穏分子を部に入れないのも、マネージャーの役割だと思っていた。

「わかりました」

 突然、流暢な敬語が由貴也の口から放たれる。

 彼は香代子の強い口調にもまったくうろたえた様子はなく、相変わらずうつろな瞳をしていた。

 それから何を思ったか、黒板に向かって歩き始める。雑な手つきで教卓の引き出しをあさり、何かをとりだした。

 残照が彼の手元の物をきらりと光らせる。ハサミだった。

 まさか、と思った瞬間、由貴也はハサミを髪に入れる。ジャキッという物騒な音が教室に響きわたった。

 彼は何のためらいもなく、髪を切っていた。

「ちょっと、何してんのっ!?」

 これには香代子も仰天した。一も二もなく由貴也に駆けより、その手首をつかんだ。

「髪切れって言ったじゃないですか」

 頭にはてなマークをつけ、由貴也は無邪気に首をかしげる。その口調は何が悪いという不満すらかすかに感じられる。自分のやったことがおかしいとはまったく思っていなさそうだった。

「髪は美容室に行って切るの!」

 どうしてこんな当たり前のことを言わなくてはならないのだろう。どうしてこんな当たり前のことをがわからないのだろう。

 本当に“電波王子”の名前はバカにできない。

「美容室は嫌です」

 無愛想にそれだけ言うと、由貴也はまた髪を切り始める。

「やめなって!! 嫌とか嫌じゃないとかそういう問題じゃないでしょ!?」

 香代子の声などまったく聞こえてないかのように、由貴也は黙々と髪を切り続ける。

 結局、髪を切り終わるまで香代子ひとりでわめき続けた。

 由貴也の髪はひどいありさまだった。ざんばらであっちこっちにはねている。これなら長くても切る前の方がずっとマシだった。

 由貴也が近くの机にハサミを置く。何だかどっと疲れた。由貴也にペースを乱されっぱなしだ。

「これでいいですか?」

 乱れた髪のすき間から、由貴也の無機質な瞳がこちらを見ている。

「いいわけないでしょ……」

 声を張り上げる気力すらない。脱力して近くのいすに座った。

「こっち、来て。髪整えるから」

 母親はシングルマザー。四人兄弟の長女として生まれれば、否が応でも世話やきになる。

 地味で安定した毎日を積み上げていきたい香代子にとって、由貴也は近よりたくない相手だ。それでも放っておけなかった。

「それじゃ走るときジャマでしょ」

 走ることを引き合いに出すと、由貴也は渋々ながらもこちらへ来た。

 床にじかに座らせる。後ろから彼の髪を手櫛でおおざっぱに整えた。

 由貴也は嫌がるそぶりを見せたが、「じっとしてて」と言うと動かなくなったが。

 不自然に長いところを手ですきながら、ハサミを入れていく。無心にハサミを動かしながら、いったいどうしてこんなことをしているんだろう、と思った。こんなことはマネージャーの範疇を越えている。

「できたよ」

 ハサミを置き、自分のカバンから手鏡をとりだして由貴也に渡す。香代子だって素人だから不恰好だが、何とか見れる頭になった。

「寒い……」

 由貴也はうなじに手を当てていた。始めに彼がめちゃくちゃに切ったので、整えるにはかなり短く切るしかなかった。

「我慢して」

 それしか言い様がない。

 改めて由貴也に目をやる。こざっぱりした彼はまともな人に見えないこともなかった。

「……明日、放課後また教室まで迎えに行くから待ってて。部室案内するから。運動できる服持ってきて」

 疲れた声音でそれだけ言う。由貴也はわかったのかわかってないのかまったく読めない目をこちらに向けているだけだった。

「わかったらちゃんと返事して」

 つい反射的に口うるさいことを言ってしまう。由貴也は一瞬きょとんとした顔をして、それから「はい」と小さく言った。

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