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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
29/127

29

 翌日、早朝に起き出した香代子が見つけたのは哲士の濡れたランニングシューズだった。

 いかにも“普通”を装ってきちんと下駄箱に入っているが、下にできている小さな水溜まりは隠しようがない。

 哲士があの雨の中、ランニングに行ったことを知り、香代子はあきれるやら驚くやらでため息をつくのをこらえられなかった。

 とりあえず哲士のシューズをふき、中に新聞紙を詰めて、風通しのいい窓際に置いた。

 まさか哲士がこんな無茶をやらかすとは思わなかった。普段はこんな考えなしの行動をするような人物ではない。

 今の哲士は少しおかしい。やはり昨夜感じた違和感は気のせいではなかったのだ。

「おはよう」

 台所でエプロンのヒモを結んでいると、昨日と同じように哲士が現れた。ふと食堂の壁時計を見ると五時過ぎ。昨日より現れる時間が早くなっている。

 香代子は非難の意をこめて哲士をにらんだ。一言いってやらなければ気が済まない。呑気にあいさつを交わすどころではない。

「部長」

 香代子の気持ちそのままに、険しい声が出た。

「ん、なに?」

 哲士は相変わらずのさわやかさだ。その完璧なさわやかさが憎い。

 香代子は無言で窓の外に干してある哲士のランニングシューズを指差した。

 さすがの哲士もうっと言葉につまった顔をする。

 哲士が弱々しく笑ってごまかそうと口を開いた。それに先んじて香代子は言葉を向ける。

「夜中に走るなんて無茶なことしないで」

 無茶以外のなにものでもない。哲士の休息時間は絶対に足りていない。

「……すみません」

 叱られた子供のように哲士は素直に謝った。しょぼんと小さくなる哲士を前に、香代子は息をついた。

 わかったら休んでて、と哲士を追いたてようと背中を押した瞬間、「部長ー!」と二階から切羽詰まった声が降ってきた。

 なにごと、と目を瞬かせている内に、一年生の部員が勢いよく階下へ下りてきた。

「部長っ、古賀と根本先輩がケンカしています!」

 息を切らせつつ食堂に飛び込んできた下級生に、朝の静寂は跡形もなく打ち砕かれた。

 慌てる一年生に続いて二階へ上がる。とりあえず現場を見ないと始まらない。

「たくっ! 昨日から危なそうだと思ってたけど……」

 哲士が階段を上りながらいまいましげに吐き捨てる。

 由貴也と根本は確かに仲がよくない。仲が悪いというよりも、根本が一方的に由貴也を問題視しているのだ。

 他の部員がまわりにいるにしても、そのふたりが四六時中一緒にいるのだ。ケンカのひとつも起こすだろう。そもそも血気盛んな年頃だ。

「根本! 古賀!」

 哲士が双方の名前を呼びながら大部屋の扉を開ける。部屋の中にいた部員たちが哲士の登場にあからさまにほっとした顔をした。

「ふざけんなお前いつもいつもっ!」

 根本の怒声が耳をついた。

 哲士の背中越しに部屋の中をうかがうと、根本が由貴也の体を壁に押しつけ、胸ぐらをつかんでいた。

 由貴也は相変わらずの無表情で根本を見ている。かえってそれは反抗的に見えた。

「根本、止めろ」

 哲士が冷静に根本に声をかけ、由貴也の胸から彼の手を外させる。

 根本がいらだちのこもった瞳をかたわらの哲士に向けた。

「部長は腹立たないのかよっ! 古賀は部活をなめてる!」

 哲士に食ってかかった根本に、外野が声を上げた。

「根本、お前だって嫌がる古賀の寝顔、写メ撮ろうとしただろ」

 痛いところを突かれたのか、根本が押し黙った。

 話が大体読めた。要は寝顔を写メに納めようとして、由貴也に断固拒まれたのだろう。それを根本は反抗的ととったのだ。

 由貴也の気持ちもわからなくはないが、運動部は上級生の言うことは絶対だ。そうして代々回ってきた。ある程度後輩は先輩に従わなくてはならない。

 だが今回は根本が理不尽だといえなくもない。しかし香代子の知る根本は理由らしい理由もなくそんな行動をとるような非常識な人物ではなかった。

 彼はおそらく由貴也の、日頃自身より実力の劣る上級生を先輩とも思わない態度に不満を溜めていたのだろう。

「古賀の態度は昨日俺が注意した」

 哲士が淡々と事実を突きつけた。それは言外にお前はやりすぎだ、と言っていた。

 根本の顔が苦々しげに歪む。それから自分自身を叱咤するように目を細め、哲士を睨みつけた。

「部長のやり方は甘いんだよ」

 一層根本の声が低くなった。空気がより固くなり、緊張が高まる。

「根本止めろよ」

「部長に八つ当たりすんなよ」

 二年生が控えめに制止にかかる。だが根本の瞳の凶暴な色は消えなかった。

「古賀には甘いし、顧問にもけっきょくご機嫌とりだよな」

 根本はいびつな笑顔を浮かべていた。そのまま吠えるように口を開く。

「部長もどうせ古賀にタイム勝てないから強く言えないんだろっ!」

 根本の声が何重にも反響する。誰もが呼吸すら忘れ、その場に立ちつくしていた。

 沈黙が重く深くのしかかる。全員が思わず息をひそめた。

 香代子から見ると哲士の背中しか見えないので表情はうかがい知れない。けれど温厚な哲士だってこれには黙っていられないだろう。

 これは、言ってはいけないことだった。哲士のプライドを全員の前で陸上選手と部長という両側面から傷つけたのだ。

「……俺は俺なりに古賀を指導してきたつもりだった」

 全員が息を飲んで見守る中、一語一句はっきりと喋った。いつものおだやかさこそなかったが、激昂の気配もなかった。

「だけど、それが甘く見えたなら俺の指導力不足だ。悪かった」

 スッと哲士が流れるような仕草で体を折り、頭を下げた。

 外では相変わらずの雨が降っている。言葉を失った自分たちの間に雨音だけが厳かに響く。傍観者然としている由貴也を除き、皆が食い入るように哲士を見ていた。部長が頭を下げるなど今までになかった。

 深々と頭を下げた哲士の向こうに根本の顔が見えた。驚愕と狼狽に中途半端に口が開かれている。根本は今にも止めてくれ、と哲士に言いそうだった。

 けれどその前に哲士の体が起こされる。

 その背中に先程までと違う、冷静さだけでない雰囲気をまとっていた。

「俺は確かに古賀には勝てないかもしれない。けどそれを理由に古賀に特別な態度をとったつもりは一切ない」

 余韻をまとわずに、きっぱりと断じた哲士の言葉が肉薄した。怒りではない、純粋な強い意志がその声に表れていた。

「強豪校の中にはレギュラーではなくても人をまとめる資質を買われて部長になるやつがいる。実力で負けて選手ではなくマネージャーにされるやつもいる」

 俺は、と哲士は一拍置いて続けた。

「そういうやつらを心から尊敬する。たとえレギュラーから落ちたとしても、みんなを裏方で支える部長になりたいと思う」

 真摯に告げられた哲士の言葉を、甘いと笑えそうもなかった。哲士はこれ以上ないほど真剣だった。

 この部で哲士を笑える人物は誰もいない。

「部長、俺……」

 かすれた根本の声だった。聞いていて気の毒になるほどか細い声だった。

 根本は激しい怒りから我に帰ったのだ。

 哲士は許すだろう。なにもなかったようにふるまうことができるのが哲士という人物だ。たとえ裏でどんなに悩み傷ついていても。

 しかし哲士は答えなかった。なにも言わず、なんの行動も起こさず、それがあまりに長いので不審に思った頃だった。

 哲士の体が唐突に傾いだ。

 あまりのことに驚きに思考が固まる。けれど体は反射的に動いていた。

 手を差し出し、反射的に哲士を受け止める。彼の背後にいた香代子が一番哲士のそばにいた。

 けれど由貴也よりもずっと筋肉質な哲士は受けとめきれず、香代子は彼とともに床にへたりこんだ。

 ぐったりとこちらに体を預けきる哲士は熱く、呼吸も荒かった。

「部長!」

「部長、大丈夫ですか!?」

 声の出し方を思い出したかのように、部員が騒ぎ始める。

 香代子の腕の中で哲士が体を起こそうとする。その必死な様子に怒りが込み上げてきた。

 この人は、顧問にも腹いせに雑用を押しつけられても、同級生から部長として選手として非難を受けても、高熱でふらふらでも、それでもこの人は大丈夫と言うのだ。

 哲士の動きを押し込めるように、彼の体に回す腕の力を強めた。

「誰か先生呼んできて!」

 ぽかんとしている部員たちに向かって、香代子は続けた。

「病院連れてってもらうの! 車出すように言って」

 やっと事態を飲み込んだようで、扉の近くにいた部員が駆けていく。

 それを見送ってから、香代子は青ざめる根本に視線を向けた。

「根本!」

 鋭く香代子に名指しされた根本は、びくりと肩を震わせる。かわいそうなくらい彼は動揺していたが、香代子は言葉を継いだ。

「今日はアンタが部をまとめて。副部長でしょ」

 いつもは哲士が部長としての存在感を発揮しすぎて忘れがちだが、根本は副部長で部内では哲士に次ぐ地位を持っている。

 あまりにも副部長として指揮する機会がないからだろうか。根本はたじろぎ、不安げに視線を揺らした。

「……ぶ、部長は……?」

 頼りなげに尋ねた根本を、香代子はくわっと睨みつけ、一蹴した。

「今日は部長は臨時休業っ!」

 香代子が一喝して、やっと騒がしかった部員たちが黙る。倒れた部長に仕事をやらせようとでも言うのか。

 偉そうに部長は甘いだのなんだの言ったところで、この部は哲士に依存しているのだ。彼が前後不覚の状態になったとたんに部は統制を失う。

 動転している根本に、同じく浮き足だった部員たちを任せるのは酷かもしれないが、誰かが部をまとめないといけないのだ。それは副部長たる根本をおいて他にはいない。

 まもなく寝起きそのままの顧問がおたおたとやって来た。

 顧問は相変わらず「お前らは普段通りにやってて」という具体性を欠いた役に立たない指示を残し、車で哲士を病院に連れていった。

 結局、顧問不在と雨のため、合宿所を出てのランニングには行けず、昨夜と同様にトレーニングルームでの朝練となった。

 香代子は平静さを失わないように心がけたが、朝食の漬け物を切りながら指まで切ってしまった。

 傷口を口に含みながら部長がいないって不安だな、と思う。部内でも香代子の中でも哲士の存在は小さくなかったのだと思い知らされる。

 哲士が顧問に連れられて帰ってきたのは、朝食後のことだった。

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