28
早朝、誰よりも早く起き出し、香代子は朝食の準備を始めた。
静まり返った台所にはかすかな潮の香りが漂っている。なじみの薄い感覚に新鮮さを覚えた。
朝はスクランブルエッグとサラダ、後はスープとパンだ。大量の卵を取り出したとき、背後から物音が聞こえた。
音のした方に顔を向けると、台所の入り口に哲士が立っていた。
「部長、どうしたの?」
おはよう、というあいさつより先に疑問が口をついた。香代子が起き出したとき、二階はまだもやのような眠りに包まれていた。
「昨日大変そうだったから、何か手伝えることがあればと思ってさ」
哲士は朝から相変わらずさわやかだった。眠気はすっきり払われていた。
「いいよ、休んでなって。朝練するんでしょ?」
昨日、渋る顧問を説き伏せ、哲士は朝練をすることに決めた。
朝練のメニューは主に砂浜でのランニングだ。砂浜で走ることは適度な負荷がかかったいいトレーニングになる。それを見込んでここを合宿地に選んだのだ。
オフシーズンとはいえ、迷惑がかからないように走れるのは早朝しかなかった。
ただ座っている方が落ち着かない、と言い哲士は隣でレタスをむき始めた。予想通り、その手つきは手慣れていた。
これ以上言っても休ませることは不可能だ。香代子はあきらめの息をついた。
あまり寝てないんじゃないの、と心中で哲士に問いかける。もちろん哲士はまったくそんなことおくびにも出さない。
合宿中、常に“部長”でいることはどんなに大変だろう。嫌なことも率先してこなさなければならない。時には後輩にきつく注意しなくてはならないときもある。弱音など絶対吐けない。
加えて頼りにできるはずの顧問はあの調子だ。哲士の苦労は相当なものだろう。
昨日、夜半に出ていったときの哲士の顔が思い出される。いつもは決して見せないような険しい表情、そして悔しそうでもあった。
休むべき夜に特訓まがいのことをやっても、とても効果的とは思えない。それを哲士自身がわかっていないはずがない。
そうわかってはいても、やらずにはいられないのだろう。プライドと意地が哲士を突き動かしているのだ。
たぶんそのきっかけを作ったのは昨夜の何気ない顧問の一言だ。部長のくせに下級生の由貴也に負けている、と。
会話らしい会話もなく、しばらく無言で調理をしていたが、やがてドタドタと二階から部員が下りてくる。「はよーございまーす」と食堂に入ってきた部員たちは皆一様に眠そうだった。
おはよう、と答える哲士が部員を見回して不意にいぶかしげな顔をする。香代子も哲士にならい、部員のメンツを確認した。
いない。そう香代子が気づいたのと同時に哲士が口を開く。
「……古賀は?」
いくぶんか低くなった哲士の問いかけに、部員たちは互いにバツの悪そうに顔を見合わせる。
「……古賀はその、なかなか起きなくて」
一年の一人がそろそろと言い出す。彼の目がちらちらと香代子をとらえる。
なんで私の方見るのよ、と思いつつも、香代子ははぁっと大きなため息をつく。それはあきらめのものだった。
「いいよ、私起こすから。みんなは朝練に行って」
最近、自分は由貴也の世話係として認識されつつある。香代子はそれに大いなる不満を持っているけれど、半ばあきらめつつもある。
朝練に行く彼らを見送り、香代子は二階へ上がる。
部の雑事を掌握する香代子といえども、さすがに男子の部屋には入ったことがない。少しためらいつつも三十畳ほどある大部屋に足を踏み入れる。
起床の嵐が去った後の部屋は雑然としていた。布団は一応三つに畳まれ、壁に寄せられているが、シーツがところどころはみ出て汚い。個々の大きなバックからはみ出た荷物だの寝るときに着ていたジャージだのが畳に散乱している。
その泥棒が入った後のような部屋の隅で、布団にくるまって由貴也は寝ていた。
香代子は憤然とその布団の固まりに近より、丸まっている背中を掛け布団越しに躊躇なく蹴った。
それでもなお無反応を貫く由貴也に心底あきれ、香代子は力の限りで掛け布団をひっぺがえした。
「起きなさいっ!」
布団と怒声の二重攻撃に、さすがの由貴也も観念したようだった。仰向けのままでぼんやりと目を開けた。
至近距離で目があって不覚にも動揺してしまう。香代子の心中の荒れぶりなどまったく気にかけた様子もなく、由貴也は望洋と数回まばたきをした。
やっと現状を把握したらしい由貴也だが、そのまままた目を閉じて寝ようとする。筋金入りの寝起きの悪さだ。
眠りの世界に逆戻りしようとする由貴也の襟首をつかみ、渾身の力で洗面所に引きずっていく。
「私はねぇっ、アンタの、世話係じゃ、ないのっ!」
ひょろひょろでも由貴也がけっこう重いのはもう実感済みだ。息を切らしつつ由貴也を引きずる。Tシャツが伸びるのに構っている余裕はない。
大部屋に隣接する洗面所に着いたときには、さすがに由貴也も目を覚ました。
「先輩。朝から怒って疲れない?」
「誰が怒らせてると思ってんのよ!」
洗った顔をふきつつ、由貴也は相変わらず飄々と尋ねてくる。
「明日起きなかったらゲームとお菓子取り上げるからねっ!」
布団をひっぺがえしたとき、由貴也とともに敷き布団に横たわっていたのはお菓子とゲームだった。
合宿夜の浮わついた闇の中で、由貴也はお菓子片手にゲームをして、夜更かししたのだろう。
彼を放り出すように合宿所から朝練へ向かわせ、香代子は一息ついた。本当に由貴也は協調性の欠片もない。
由貴也のせいですっかり遅れてしまった朝食作りを再開する。高地である立志院の涼しさに慣れてしまった身には、台所の火も相まってここの気候は蒸し暑く感じる。潮風が肌にまとわりつく。
額の汗をふきつつ、一心不乱にスクランブルエッグを量産する。スープの煮え具合を確かめ、バターロールを大皿に並べたところで面々が帰ってきた。
そろいもそろって彼らのTシャツは汗の染みができていた。額からも滝のような汗が流れている。
そして一様に一気に体重が五キロぐらい減ってしまったようにげっそりしていた。朝、なにも胃に入れずに走るというのはかなりきついのだ。
彼らが汗をぬぐい、着替えたところでやっと顧問がのっそりと起きてきた。こちらもこちらで二日酔いでげっそりしていた。
「俺、朝飯はいいわ。勝手にやって」
まったくもってめんどくささをオブラートに包むことをせず、顧問はなげやりに言い放った。
こちらが唖然としている隙に顧問は「あー、頭いてぇ」と言いながら個室に引き取ってしまう。
食堂は不穏な沈黙に包まれた。
「なんなんだよ、アイツはっ!」
一番最初に怒りをあらわにしたのは根本だった。彼の怒鳴り声が食堂の空気を震わす。
「俺らの合宿なんだと思ってんだよっ。ふざけんなっ!」
叩きつけるような根本の言葉を皮切りに、部員の間に不満を含んだざわめきが広がる。
――あの人なんなの。
――俺らの邪魔してるだけじゃん。
――辞めさせることとかできないのかな。
部員たちの風向きがどんどん悪い方向に向かっていく。運動部の風潮として、顧問には絶対に逆らわないようになっている彼らでさえ崩れつつある。
「静かにしろっ!」
哲士の鋭い声が口々に顧問を責める部員たちの口をつぐませる。食堂内は水を打ったように静かになり、皆哲士に視線を向けた。
「朝食とっててくれ。俺が、話す」
それだけ言うと、哲士はきびすを返し食堂から出ていった。
哲士が顧問を連れてきたのは食事も中盤にさしかかった頃だった。哲士に何を言われたのか、顧問はだるそうながらも借りてきた猫のように大人しかった。
「古賀、来い」
食事が終わるや否や、哲士は厳しい声音で由貴也を呼んだ。
部員たちは皆固い面持ちになる。これはお説教の体勢だと直感的にわかっていた。
気になるのかちらちらと視線を向けてくる部員たちを、哲士が視線で散らす。部員たちはずこずこと二階へ上がっていった。
食堂には哲士と由貴也、その奥の台所に香代子が残された。
お説教も無理ないよね、と香代子は離れた台所で片づけをしつつふたりを見ていた。
一年生が寝過ごして朝練に遅れるなど前代未聞だ。昔風に言うと体育館裏に呼び出しの事態だ。
部の規律を守るためにも哲士が由貴也を叱るのは当然のことだった。
香代子がいる台所と、哲士と由貴也のいる食堂の端までは距離がある。ふたりがなにを話しているかは聞こえなかった。それ以前に香代子は哲士が気兼ねなく話せるように作業に没頭し、空気のように振る舞っていた。
哲士は感情のままに声を荒げることを滅多にしない。冷静に話し、後を引きずることもない。
その哲士が注意し終え、由貴也を大部屋に帰した後、疲れたように息をついた。
哲士が疲れるのも無理はない。部長の責務とはいえ、哲士はまわりに気を配り過ぎている。
大丈夫かな、と思いつつも、香代子は哲士に声をかけられなかった。声をかければ哲士はなんでもない顔を即座にとりつくろうのは目に見えていた。
そのまま哲士はろくに食休みもせずに午前中の練習へ出ていった。
哲士と由貴也、足して二で割ればちょうどいいのに、と香代子は忙しく掃除をしながらそう思った。
お昼はさっぱりとうどんにした。
立志院の陸上部は休日でも一日中練習することはない。午前中、あるいは午後のどちらかだけだ。
けれど合宿では朝練から始まり、夜のジョギングまでめいっぱい練習に費やす。
体が慣れていない今日が一番こたえるのだ。食事を受けつけなくなったり、倒れたりするのも今日、あるいは疲労が蓄積してくる明日だ。
現に今日の昼食時には、それまでの和気あいあいとした雰囲気はまったくなくなり、皆なにかの苦行のように食事を押し込んでいた。
毎回のことなので香代子は苦笑しながら部員たちを見守った。
午後は食後しばらく休み、午後二時半から始まる。部員たちはここぞとばかりに昼寝をして体を休める。間もなくして二階は静かになった。
昼食の片づけをして、ぼんやりと食堂の椅子に座り、香代子も休んだ。大鍋でうどんをゆでたので、汗びっしょりだ。首筋を風が通り、汗を冷やしていく。
首や顔をタオルで拭くが、Tシャツの中まで汗をかいていて気持ち悪い。
軽くまわりを見回して、誰もいないことをざっと確認すると、香代子Tシャツをめくり、体をふいた。
合宿所全体が眠ったように静まり返り、香代子はすっかり油断していた。
まさかいきなり目の前の扉が開くなんて思わなかった。
哲士が筆記用具片手にそこに立っていた。
一瞬、香代子は固まる。哲士は面食らった顔をしていた。
肌もあらわな自分の状況を自覚して、香代子は声にならない叫びとともにTシャツをすばやくずり下げた。前の扉も勢いよく閉められる。
「ごめん!」
よほど動揺したらしく、扉の向こうの哲士の声は裏返っていた。
香代子はばくばくと鼓動を打つ心臓を押さえつつ、ジャージの上をはおった。Tシャツが汗で透けていることに今、気づいた。
気恥ずかしく、ぎこちなくそっと扉を開く。向こう側で律儀にも待っていた哲士の顔が心なしか赤かった。
気まずさが漂う。
「こっちこそごめんなさい……なにか用事?」
照れ臭さのせいかつっけんどんな聞き方になってしまった。
「や、ちょっとやることあって、食堂貸してもらおうと思ってさ」
「やること? 雑用なら私やるよ」
哲士の今一番すべきことは体を休めることのように思えた。
「いや、俺がやんないと意味ないから」
哲士はあっさりそう言うと、持参したノートパソコンを食堂のコンセントにつないだ。
ノートパソコン? といぶかしむ香代子をよそに、哲士はキーボードを叩き、文章を作っているようだった。ちらりと見えた画面に、香代子は思わず叫んでいた。
「なにこれっ!」
テーブルに手をつき、身を乗り出してパソコンのディスプレイをよく確認する。
「『練習試合参加のお礼』ってなんでこんなもの部長が作ってるの!?」
おそらくこれは明日立志院主催で開く練習試合のお礼状だ。こういったことは顧問がやることが通例になっている。どうせこの手紙だって顧問の間で見るだけで終わるような儀礼上のものなのだ。
つまりお礼状うんぬんは“大人の世界”のことなのだ。
「部長は顧問の仕事押しつけられてるってこと?」
怒りが収まらない。どこまであの顧問は腐ったら気が済むのか。
「なんで部長、嫌って言わないの! 言いづらいなら私が……」
「いいって。マネージャー落ち着けって」
「落ち着いてなんかいられないよ!」
怒りのままに反論したが、とりあえずもやもやしながら哲士の前に座る。哲士の意向を無視して、呑気に昼寝しているだろう顧問に文句を言いにはさすがに行けなかった。
哲士はなにも言わない。無言でキーボードを叩き続けている。
その哲士に香代子は不満たらたらの視線を送った。いくら顧問に絶対服従が原則の運動部とはいえ、哲士が甘やかすからあのどうしようもない顧問がつけあがるのだ。
香代子の険しい視線を受け止め、哲士はかすかに苦笑した。
「……今、問題を起こすわけにはいかない」
ぽつり、と哲士が独り言のようにつぶやく。
「いかないんだ」
繰り返したその言葉には、自分に言い聞かせるような響きがあった。
大会はもう目前だ。今ちょっとでも騒ぎを起こしたらどうなるか想像に難くない。
加えて哲士は顧問の他に内にも火種を抱えている。今にも顧問に歯向かいそうな部員たちだ。
いくらしょうもなくとも、顧問と全面対決なんてことになったらどう考えてもこちらの方が分が悪い。それを見越して哲士は彼一人ですべてを抱えこもうとしているのだ。
香代子はもうなにも言えなかった。哲士が顧問になにも言わないのは彼が意気地なしだからではないのだ。
「部長は」
香代子の呼びかけに、哲士は画面を見据えながら「うん」と答える。
「もう少しいろんなことに手を抜いた方がいいよ」
哲士はあいまいに笑っただけだった。
またしても哲士はろくに体を休めもせずに練習に行ってしまった。
雲行きがあやしくなり、夕方からスコールのような雨が降り始めた。ひどい豪雨に夜のジョギングは中止になり、室内での筋トレになる。合宿所にはさまざまな機械を置いたトレーニングルームがあるのだ。
トレーニングルームといっても、合宿所の一室にトレーニングマシーンを置いただけだ。ランニングマシーンの動く音、バイクマシーンの回る音などかなり響く。
ここでもまた顧問が文句を言いに来たらしく、部員たちが憤慨していた。確かに静かにトレーニングをしろと言うのは無茶な話だ。
本当にあの顧問は自分たちのやる気を盛り下げに来たのかと疑う。
部屋に戻ろうと階段を上がったとき、顧問の部屋から出てきた哲士とばったり会った。
こちらと目があった瞬間、哲士の顔がしまった、という具合に歪む。そのバツが悪そうな様子に香代子は部屋の中でなにがあったか知った。
「まさかお説教でもされてたの?」
『まさか』を強調して尋ねる。とにかくやかましい香代子に知られたくないことといえば顧問のしょうもなさだけだ。
「たいしたことじゃないって」
哲士は笑ってごまかそうとするが、それは肯定に違いなかった。
「どうせトレーニングがうるさいって文句言われたんでしょ!?」
顧問はイライラしているのだ。部員たちのお守りと運動部の顧問という窮屈な立場に。それを態度を諫められた哲士に腹いせにぶつけている。
はたで見ているだけでも腹が立つのに、よく哲士は我慢しているものだと思う。
ジレンマを感じる。哲士は“なにも感じてません”という顔をしているが、内心相当ストレスがたまってるのではないのだろうか。すべての負担が哲士にいっているのが今の状況だ。
「部長、大丈夫?」
哲士は「なにが?」と笑い、早々に大部屋に戻っていった。
なにが、という答えに違和感を感じた。普段の哲士ならすべてをわかっている顔で「大丈夫だよ」と答えそうだった。なにが、というのはとぼけたわけでなく、わずらわしさと余裕のなさが無意識に表されたように思えた。
考えすぎなのかもしれない、と思いながら香代子も部屋に入る。ドアを閉めると雨の音が室内を満たす。
この雨ではさすがに哲士も夜中にランニングに出かけたりはしないだろう。それだけでも安心して香代子は眠りについた。
まさか翌日、行儀よく並べられた哲士のランニングシューズの下に小さな水溜まりができているとは思わなかった。