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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
27/127

27

「……ジャー、起きてくれ」

 頭の中から響くように哲士の声が聞こえ、香代子は飛び起きた。

 眠気の残る頭でやばい、と思った。これはだいぶ寝てしまった。

 案の定部員は皆帰ってきていて、しかもこざっぱりした格好をしていた。もう入浴した後なのだ。

 状況が把握できてくると、カレーの臭いが香代子の嗅覚を刺激した。もうすでに夕食の配膳まで済んでいて、後は食べるばかりになっている。

 香代子は蒼くなった。一体どのくらい長い時間寝ていたのか。

「ご、ごめんなさい……」

「や、いいって。それより腹へって死にそうだから、早く食べたいんだけど」

 哲士の言葉にまわりを見回せば、部員は皆もう席についている。香代子は急いで二年生と一年生の間に空いている自分の席についた。

 哲士も一番端の部長の席につく。彼と向かい合わせに座っているべき顧問は居なかった。

「じゃあ静かに。いただきます」

 哲士の号令の後に、部員がいただきます、と続く。一斉に二年生はスプーンを手に取り食べ始め、一年生はペットボトルの飲み物を持って二年生のコップに注いで回る。

 合宿は上下関係を再確認する場でもあり、一年生には多くの仕事が課せられる。その代わり一年生は二年生に助けてもらえる立場にある。弱音も許される。

 香代子もお茶を注いでもらい、カレーとサラダを食べ始めた。

「ねぇ、先生は?」

 今まで食事の時に顧問がいないなどないことだった。去年までは違う顧問だったが、運動部の勝手がわからないなりにこちらを尊重し、時には素人でも目についたところを指導してくれた。

「夕食は外に食べに行くってよ。何考えてんだか」

 香代子が尋ねた目の前の二年生ではなく、数席離れた根本が答えた。よっぽど腹立たしいようだ。

 香代子も香代子で、自分の作った料理は食べたくないと言われたようで悲しかった。

 夕食を終え、一年生が食器洗いをし終えたところに顧問は帰ってきた。あろうことか顔を赤く染め、息は酒臭かった。そしてそれを隠そうとしない態度は部活動をなめきっていた。

「先生、今日の反省点をお願いします」

 毎回合宿時には夕食後に反省会をする。哲士が今日の合同練習で出した部員のタイムをまとめた一覧表を顧問に差し出した。

 顧問はそれを興味なさそうに眺め、おもむろに口を開いた。

「なんだ緒方。お前部長のくせに一年の古賀にタイム負けてんじゃないか。情けないなぁ」

 冗談でも言うような無神経さで顧問は哲士を非難する。部員たちの空気が凍った。

 年齢の序列と実際の実力はまた別の話であり、触れにくい話題でもある。狭い部内でプライドやメンツが絡んだ複雑かつデリケートな部分だ。

 部員たちが見守る中、哲士は一切負の感情を見せなかった。

「すみません。努力します」

 短い言葉だったが、普段通り穏やかに言い切った哲士は立派だった。

 一方、名前を出された由貴也といえばどこ吹く風で台所に置かれたコーラを見ていた。

 それから顧問はあくびをし、「後は自分たちでやって。自主性に任せるから」といって、奥に引っ込んでしまった。顧問が言うと自主性も勝手にやれと聞こえる。

 顧問不在という異様な状況の中で反省会をやり、明日の予定を確認するミーティングを終えた。

 そこからは自習時間という名の自由時間だ。ここでも一年生には洗濯という仕事がある。先輩と自分たちのユニフォームを洗濯機に突っ込み、部屋に干さなくてはならない。

 一年生は洗濯のため、二階の大部屋に上がり、二年生は勉強のため一階の食堂に残る。

 二年生は新学期が始まれば受験生だ。消灯の二十三時ぎりぎりまで勉強していた。対照的に二階の一年生は興奮して遊んでいたらしく、天井からにぎやかな音が聞こえた。哲士が「はしゃぐ余裕があるなら明日はもっとしごいてやらないとな」と、薄ら寒くなるような笑顔で言っていた。

 香代子が勉強道具を持って二階に引き上げると、由貴也が階段に座ってゲームをしていた。

「混じらないの?」

 ムダだと思いつつ由貴也に尋ねる。相変わらず大部屋からは楽しそうな声が響いていた。

 由貴也はこちらを一瞥し、またゲームの液晶画面へ視線を戻した。

「もう少しでエリカが落とせそうなんだよね」

「エリカぁ? アンタなにやってんの?」

 ぼそっとつぶやいた由貴也の手から思わずゲーム機を取り上げる。そこには萌え系の女の子が『ゆ、ゆきやくんなんでそんなこというの?』と頬を染めながら言っていた。いわゆる恋愛シュミレーションゲームだ。

「…………」

 由貴也と恋愛シュミレーションゲーム。不思議な取り合わせすぎてあっけにとられた。そもそもこんなところで疑似恋愛している暇があったら、現実での交流をがんばれ、と言いたくなる。

「ねぇ先輩、こんなとこで俺なんか構ってていいわけ?」

 奪ったゲーム機を手渡すと、いつも通り表情が乏しい由貴也の顔があった。けれどそこに不敵な色が混ざっている。

 とっさに警戒した。由貴也の言葉は容赦ない。

 由貴也はゆらりと立ち上がる。それすらこちらをあおっているように感じた。

「部長生殺しにしとくなんてカワイソ」

 意地の悪い笑顔を見せて、由貴也は香代子の前から歩き出す。そのまま大部屋の中に消えた。

 嫌なところを突かれた。由貴也はなぜか香代子が哲士に告白されたことを知っている。そして今の言葉は痛烈な皮肉ともとれた。

 俺のこと拒絶したくせに、否定したくせに、と由貴也の瞳は無言で香代子を責める。もう構うなと訴えてくる。

 あの夜見せた由貴也の色香を含んだ態度は、彼にとって捨て身の行動だったと知った。以前由貴也は元の彼女の“媚び”に嫌悪感をあらわにした。

 しかしあの夜、彼は自らそれをやった。媚態で香代子に迫った。

 由貴也はそれほどまでに追いつめられていたのだ。それにさらに追い打ちをかけたのは香代子だった。

 誰かが階段を上ってくる音で香代子は思考から立ち返った。

 話を聞かれたか、とあわててその人物を見る。哲士だった。

 他の部員じゃなくて安心した反面、一番まずいとも思う。由貴也と話していることに対し、後ろめたさを感じる。

「マネージャー、お疲れ」

 哲士のいつも通りのあいさつにほっとした。声音や柔和な表情にも別に変わったところはない。

「お疲れさま、おやすみ」

 答えた香代子の横を哲士はそのまま通りすぎていくかのように思えたが、彼は香代子の目の前で止まった。

 ほんの少しだけ、哲士は口を閉ざして香代子を見たが、やがてそっと口を開く。

「別に、あせって返事してくれなくてもいいから」

 哲士のその言葉を聞いたとき、息がつまった。彼の顔を見つめ返す前に、哲士は大部屋の中へ消えていく。

 話を聞かれていた。しばらく呆然と立っていたが、脱力して深く息を吐きながら座りこむ。

 合宿に専念すべき哲士に、余計な雑念を与えてしまった。

 哲士に返事をしなくてはならないとわかっている。でも由貴也を目の前にすると彼のことばかり考えてしまう。そこに哲士の入り込む隙間はなかった。

 由貴也は危なっかしくて見ていられない。それに比べ、哲士は安定している。人格的にも完成している。

 由貴也に自分が必要だとうぬぼれる気はないが、それでも香代子は由貴也の方を見ていたい。部員とマネージャーという、恋人じゃない男女の許されるギリギリの近さで。

 胸を焼くような罪悪感を感じつつ、個室に入った。香代子は女子ひとりなので、二つある教師用の個室のひとつを与えられていた。

 夜中、眠れなくて布団の上で体を起こすと、階下から物音が聞こえた。

 不審に思って、窓から下を見下ろす。

 玄関口に人影が見えた。見慣れた後ろ姿で誰だかわかった。哲士が秘密で夜のジョギングに出かけるところだった。

 スパイクのひもを結び終え、彼が立ち上がる。

 その横顔は例えようもなく険しかった。

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