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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
26/127

26

 試合も近くなり、立志院の陸上部は春休みに入るとともに合宿に突入した。

 立志院は私立だけあり、各地にセミナーハウスを有している。今回はその内のひとつを借り受け、合宿を組んだのだ。

 バスで三時間。海辺の合宿所は閑散とした町並みの中にあった。立地からもわかるように、ここは夏向けの合宿所だ。周りは避暑のために建てられた別荘が大半で、中途半端な今の時期はさながらゴーストタウンのようだった。

 全国に点在する合宿所の内、いい場所にあるものはとうに強豪と呼ばれる部がことごとく押さえてしまっている。弱小の陸上部に残されていたのは使い道のないようなここだけだった。

「荷物置いたら全員食堂に集合!」

 合宿所に入りざわめく部員たちに哲士が背筋が伸びるような号令をかけた。

 彼の目が何気なくこちらへ向いた途端、香代子はパッと目を反らしてしまった。まだまともに目が合わせられない。

 視線を外した先にはこれまた由貴也がいて、香代子はどぎまぎした。逆に由貴也は一瞬だけ香代子を目の端に捉え、それから明後日の方へ向いてしまった。香代子など歯牙にもかけないといった様子だった。

 あの夜から香代子は由貴也とも哲士とも進展も後退もなかった。問題を抱えたままで合宿に来てしまった。

 由貴也は次の日には表面上はいつも通り飄々としていて、心は固く閉ざしていた。あの夜見せた弱さをもう決して見せることはなかった。

 哲士はといえばあくまで完璧な部長として香代子には映った。合宿の打ち合わせなどでたびたび近くで接しても、彼はその距離を崩すことはなく、返事を求めたりもしなかった。

 それに哲士は今、香代子には構っていられないくらい大変だった。

「緒方」

 野太い中年の声が哲士の名字を呼ぶ。

「はい」

 すぐさま哲士は荷ほどきの手を止め駆けよる。その慌ただしさといったら見ていて気の毒になるほどだ。

 哲士はだらしなく肥えた中年――陸上部顧問の前に立ち、神妙に彼の指示を聞いている。その姿を香代子は少しいらだたしく見ていた。

 顧問はいつもはまったく部活に顔を出さないくせに、こういう合宿には大いばりでついてくる。顧問なしで実質的には部活がきちんと回っているといっても、引率者は必要だ。加えて高校生である香代子たちにはできないことが多くある。それに対し、最終的に便宜を図ってくれるのは顧問だった。

 しかし以前、香代子が大会出場の書類を漏れなく記載して顧問に渡したが、顧問はそれを送り忘れて危うく大会に出場できなくなりそうにもなった。逆もあり、いつまでも渡してくれない大会の書類を催促してやっともらったこともある。

 そういうわけで香代子は顧問にいい感情を持っていなかった。

 現に今も哲士を呼び出して何を話してるかと思いきや、朝早いのは嫌だから朝練は止めろ、だった。

 顧問がいない方がこちらとしても練習がはかどるし、顧問の方でも面倒がなくていいだろう。けれどそうしてしまうと何かあったときに監督責任が問われるのだ。顧問がそれを嫌がっているのは明らかだった。

 ここまで来ると指導してもらおうと思わないばかりか、頼むから合宿の邪魔だけはしてほしくないと願うばかりだった。顧問のお守りをする哲士の苦労が偲ばれる。

 香代子があきれたまなざしで顧問を見つめていると、覇気のない足どりで由貴也が横を通り抜けた。由貴也の鞄は三泊四日にしてはやけに膨らんでいて、両腕には紙袋まで提げていた。

「……ねぇ、荷物多くない?」

 その不審さにたまらず問いかけると、由貴也はいつも通り感情のこもっていない瞳を向けてきた。その頬がかすかに膨らんでいるのをみて、香代子はまさかと紙袋を覗き込んだ。

 お菓子の特売にでも行ってきたかのように、紙袋には満杯のお菓子が詰め込まれていた。

「……アンタは何しにきたの?」

 脱力して怒る気にもなれない。遠足かと言いたくなるくらいのお菓子の量だった。

 由貴也は二の句が継げない香代子に構うことなく、紙袋から新たな飴玉を出して口に含んでいた。

 これから数日のことを思い鬱々としている部員たちを尻目に、由貴也は相変わらずマイペースだった。

 いくら弱小部といっても、遊びで合宿に来たわけではない。一日中練習に費やし、体力的にも肉体的にも自らを追い込むのだ。

 だから部員たちは暗く、口数も少ない。

 間もなく部員たちは二階の大部屋に荷物を置き、身支度を整えて下りてきた。今日はこれから近隣の高校へ合同練習へ行く。高校までは十キロ。荷物を背負いつつ彼らは走っていく。

 哲士を先頭にどよんと暗い顔をして出発していく彼らを見送り、香代子はさて、と腕まくりをした。やることはそれこそ山のようにある。

 夏からずっと閉ざされていた合宿所全体を掃除し、それから部員から集めた貴重品を持って買い出しに出かけた。

 スーパーまではなかなか遠く、なおかつ

部員二十数名分の食材と日用品はかなりの量になる。香代子は何度かスーパーと合宿所を往復しなくてはならなかった。

 やっとすべてのものを買って合宿所に戻ってきたとき、春先にも関わらず汗をかいていた。

 保養地と言っても高地の立志院に比べればここは暑い。合宿をする意味も、大会前に平地の気候に慣れておくためだった。

 冷蔵庫に買ってきたものを入れていると、スーパーのビニール袋が倒れ、床に買ってきたものが広がった。飴の入った袋が香代子の爪先にぶつかった。

 それを拾い上げ、少しの羞恥を覚えつつ見つめた。

由貴也が食べていた飴玉だった。スーパーでそれを見つけ、ついつい香代子は会計を別にしてまでそれを買ってしまった。

 日に日に頭の中を由貴也に占拠されている。特にあの夜の由貴也の姿が脳裏に焼きついている。

 あれは色じかけ――フェロモンと呼ばれるものだったのだろう。口説くとかそういう次元をすっ飛ばして、由貴也はこちらを自分の思う通りに従わせたかったのだ。

 それにしても俳優もホストも裸足で逃げ出すような色気だった。普段がぼさっとしているだけに、目が覚めるような変貌ぶりだった。男にあまり免疫のない香代子は危うく骨抜きにされるところだった。

 由貴也は四月一日生まれで、ぎりぎり高校一年だ。あれで十五歳とは、そもそもあれで高校生とは恐ろしさを感じる。

 ふー、と長く息をつき、由貴也の思考を打ち切った。由貴也のことばかりを考えているわけにいかない。買ってきた飴を戸棚に突っ込んだ。

 大量の野菜を切り、寸胴鍋に入れて肉とともに炒めた。今日のメニューは合宿の定番、カレーだ。

 香代子は家事に慣れているとはいえ、この量だ。作るのに半日かかった。

 やっとご飯まで炊き終えると、時計は四時半を指していた。そろそろ部員たちが帰ってくる。香代子はあわてて風呂場を洗い、お湯を張った。

 疲れた、とぐったり食堂の机に突っぷした。二十数人の部員に対し、マネージャーひとりではつらいものがある。とはいえ部員たちはもっと大変なのだから文句を言ってはバチが当たる。

 起きなきゃ、という気持ちに反して頭が重い。眠気が首をもたげる。

 少しだけ、みんなが帰ってきたら起きるから――、と香代子の意識は眠りに沈んだ。

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