25
ほてった顔と混乱した頭を抱え、寮への帰路へ着く。
頭が混乱していた。いままで他人事だと思っていた恋愛が突如降ってきた。この自分が誰かに望まれている。
哲士は申し分ない男性だった。人望が篤く、温厚。公明正大でリーダーシップもある。道理をわきまえながらも、男子高校生らしく活闥だった。
その哲士が、なぜ自分なのだろうと思う。香代子は必要以上に自分を卑下するつもりはないが、女としての自信はまったくなかった。
混乱を打ち消そうとかぶりを振るたびに、哲士の顔が浮かぶ。それを追い払おうと足を早めた。
顔を上げるとふと、ゆるくカーブを描く歩道の先の人影が目に入った。等間隔に両端を彩る外灯がその姿を照らしていた。
うなだれたように縁石に座るその人物にまさか、という思いがよぎる。意図的に早足にしていた歩が自然と急いだ。
近くまで寄り、重力に従って垂れているその顔を伺い見た。
「何やってんの!?」
由貴也かもしれないという疑念が確信に変わった瞬間、香代子は叫んでいた。あろうことか由貴也は練習着である半袖Tシャツのままだった。空気が日に日に温んできたとはいえ、朝晩はまだ冷え込む。それに由貴也のTシャツの背は汗で濡れていた。
「早く着替えなって! 風邪ひくよ」
せかせかと追いたてるが、由貴也はまったく反応を示さなかった。
由貴也が何を考えているのかわからないのはいつものことだが、今は少し様子がおかしいように見えた。
注意深く口を開く。
「ねぇ、どうし――」
「先輩」
由貴也が唐突にはっきりした声でこちらを呼んだ。そして彼は万を辞したように顔を上げる。
外灯の蒼い光を背にして、由貴也の瞳が光っていた。一瞬で香代子の意識は由貴也にとらえられた。それ以外のことはすべて封じられてしまった。
由貴也の瞳に吸い込まれる――。
香代子の様子が変化するさまを確認したのか、由貴也は瞳の奥の深淵を覗かせて笑った。彼の顔の陰影が濃くなった気がした。
逆光の中、由貴也は目がくらみそうになるくらい綺麗だった。凄みががっている由貴也の双眸は彼を危険だと告げている。けれども目が放せなかった。
す、と由貴也の伸びやかな腕が伸びた。
思わず肩を大きく震わせ、身を引く。けれども完全に距離をとる前に由貴也に手首をつかまれた。
遠慮のない手つきだった。暴力的とすらいえる強い力でつかまれた。油断すると骨を折られてしまいそうだった。
痛い、と抗議をあげる前に由貴也が先回りして言葉を発する。
「先輩は俺のために部長をふってくれる?」
思いもよらない言葉に目を見開いた。
それは問いかけの形をとっていながらも疑問ではなかった。言葉で従わせるだけの力を持ち、香代子を意のままに操ってやろうという意図が透けて見えた。
由貴也がなぜ突然こんなことを言い出したのかわからない。けれども理由などどこかへ吹き飛ばしてしまうほどの強烈な表情をしていた。
由貴也と視線がつながった瞬間、背に悪寒に似たしびれが走った。
純粋な懇願と切実さが彼の顔には乗せられていた。それでいて唇には完全に計算されつくした微笑が浮かんでいた。作り物めいた表情を気だるさが包む。
その退廃的な雰囲気は彼に言い知れぬ色気を与えていた。どことなくおぼろげで恍惚とした世界がそこにはあった。
「……放して」
香代子は弱々しく言葉を吐き出した。彼の容貌のよさを甘く見ていた。
冷気と熱気を一度に浴びたようにくらくらする。由貴也は完璧な表情をしていた。無邪気な少年でいて、女を落とす手管を知りつくした男のようでもあった。
「じゃあ、選んで」
俺か、部長か――、由貴也の瞳はそう言っていた。
彼は自分の顔がいいのを存分に心得ている。その上で最大限に生かす術を知っている。
それは普段の茫洋としている彼からは考えられないほどの研ぎ澄まされた狡猾な表情だった。
そしてこの上なく魅力的だった。
うん、と言いたかった。彼の望むことをすべてやって、その苦痛を取り除いてやりたかった。かわいそうに、と無条件に甘やかしたかった。
安易な感情に流されそうだった。たとえ香代子が哲士か由貴也のどちらかを選んだとしても、彼は責任など取るつもりはない。きっとすぐに香代子を放り出す。
それでも彼の言いなりになってしまえば歪んでいるが至上の快楽を得られるだろう。この綺麗な男の心に一瞬でも触れられるなら、夢のような気分になるだろう。
今の由貴也を受け入れることは甘美な堕落だった。そうわかっていながらも、彼の手をとってしまいたかった。
由貴也へ手を伸ばす。香代子の手首をつかむ由貴也には暗い感情しかない。それでも香代子は彼に触れたいという欲求をおさえられなかった。
地面に膝をつき、由貴也と同じ目線に合わせた。そして空いている手でやわらかく彼の頬を包む。
手のひらに伝わる感覚は驚くほどに冷たかった。それにもかかわらず、彼の目は不穏にギラつき、くもっていた。
それを見た途端、熱に浮かされたような感情が急激に覚めていくのを感じた。残っていたなけなしの理性が急激に存在感を増す。
気持ちが落ち着いたのを確認するために、目を伏せた。一拍の後、言葉を発するために息を吸った。
「……ごめんね、アンタの望むようにはできない。部長を振るかどうかは私が決める」
包んだ手の中で、由貴也がかすかに震えたのがわかった。彼の体が強ばっていくのを知りながら、香代子は続けた。
「私はどうしても古賀さんの代わりにはなれないの」
伏せていた目を上げると、息がかかりそうなほど由貴也の顔が近くにあった。
その由貴也の表情を見て、香代子は泣きたくなった。直後、眼光の鋭さが消え、香代子をつかんでいた彼の手も力なく地面に落ちた。
力が抜けたように由貴也が崩れた。彼を支えようとした香代子も一緒に地面に座り込んだ。
そのまま許しを乞うかのように、由貴也は向かい合って座る香代子の膝に額をつけた。無防備にさらけ出された、丸まっている背中が痛々しかった。
由貴也もまた、激しい感情から覚めたようだった。
唐突にはっきりと由貴也がなぜ根本たちを無視するのかわかった。彼は人との距離の取り方がわからないのだ。拒絶されるのがどうしようもなく恐ろしいのだ。香代子が彼の言葉を退けた瞬間、由貴也は寄る辺のない子供のような顔をした。
誰かを熱烈に求めていながらも拒んでいる。存在することのない不変の、無償の愛を求めている。
由貴也は香代子ではなく、ありのままの自分を際限なく受け入れてくれる誰かが欲しかったのだろう。
由貴也はその理想を巴に見たのだ。しかし巴は手に入らない。だから美化される一方で由貴也はそこから抜け出せない。
痛みにこらえる由貴也の体を上から抱きしめた。由貴也は抵抗しなかった。すべての気力を失ってしまったようにぐったりとしていた。
あると思っていた反発はなかった。それは図星だったからなのだろう。容姿も性格も立場も違う香代子を由貴也は巴に擬していた。打ちのめされた様子から彼はこの事態を一番恐れていたのだとわかった。
香代子に心を許しているわけではないだろうに。それでも今の由貴也は誰かの熱を感じていなければいられないようだった。恋人のように近い距離で今、触れあっていた。
「俺、いつまで……」
こらえきれない思いの欠片が一人言のように由貴也からこぼれた。
いつまで苦しいのか。いつまで悲しいのか。いつまで巴を好きでいなければならないのか――。
さ迷っている由貴也をなだめるように彼の背をなでた。
由貴也はなされるがままになっていた。そのまま自分の内なる気持ちと折り合いをつけるようにじっと動かなかった。
香代子の頭の中はもう由貴也のことでいっぱいだった。繊細で弱くて脆い彼が心配で、いとおしかった。
不意に由貴也の背が小刻みに揺れた。唸るような低い声がくぐもって響いた。
「本当に俺、これじゃあ“懐柔”されてる……」
由貴也は笑っていた。『懐柔』が何を意味しているか香代子にはわからない。しかしそれは彼が自身に向けた激しい嘲笑だった。
声を押し殺して由貴也はしばらく笑っていた。虚ろに響く声は嗚咽のようにも聞こえた。
外灯に照らされた彼の姿は幼く、頼りなかった。けれど何かから身を守るように丸めた体の中で、由貴也は嵐のような激情と戦っているのがわかった。
香代子はただ由貴也に添い、彼が立ち直るのを待っていた。
月明かりのない夜、外灯だけが白々と自分たちを照らした。そして無表情の仮面がはがれた由貴也は長く動かなかった。
張りつめていたものが切れ、力尽きた由貴也にはまだ多くの時間が必要に思えた。