24
水道で顔を洗い、Tシャツのすそでふいた。それから細く長く息をつく。吐き出した息で空いた場所に疲労が重く溜まった気がした。
部室棟前の水飲み場は部活終わりの喧騒に包まれていた。活動中とは違い砕けた賑やかさだ。
由貴也はその和やかさに背を向け、歩き始めた。部員のくだらないおしゃべりに耳を傾けることは、由貴也にとって馴れ合いに他ならなかった。
由貴也は手探りで日々を歩んでいた。
巴という唯一無二の存在から離れ、由貴也は自己を確立させなければいけない。ふらふらと彼女の側で適当に過ごしていた由貴也にとってそれはまさしく未知の領域に足を踏み込むことだった。
由貴也の価値判断は“巴”で、いざというときに頼れる自己がないのだ。思った以上に自分が自身を把握していない。
だからどうしても目に見えるものを頼ってしまう。力を誇示することで、部内での自分の存在を確かなものにしようとしていた。
ただ闇雲に走っている。でも無我夢中になる以外のことをできなかった。
部室に向かう通路で由貴也は足を止めた。夜気を含んだ風が、踏み出そうとしていた足の爪先をなでる。
由貴也の歩みを止めさせたのは強い視線だった。鋭い眼光が由貴也を射抜く。
哲士だった。彼と香代子がここから少し離れた場所にいる。
こちらに背を向けている香代子を挟んで、哲士は一直線に由貴也を見ていた。由貴也のいる風景を見ているのではなく、明確な意思をもって由貴也だけに焦点を当てていた。
その瞳に挑戦めいた色が灯ったとき、由貴也はそっと身を退き、気配を消した。哲士は由貴也の存在をとうにとらえている。そしてたぶん、この状況は意図的に作られたものだ。
由貴也の中でなぜか警鐘が鳴っていた。これは歓迎すべき事態ではないと。早急にここを去るべきだと本能が告げていた。
しかし、それより早く状況が動く。
「俺、マネージャーのこと好きだから」
その哲士の一言が由貴也の足を地面に縫いつけた。一足早く動きを封じられた。
哲士がここまで早く行動を起こすとは思わなかった。彼は無用な騒動を望んでいるとは思わなかったのだ。
今、哲士と香代子と自分は奇妙な均衡を保っている。ふたりは由貴也の心を力業で無理やりこじ開け、土足で内側に踏み込んできたのだ。依然としてそのまま由貴也の一角に彼らは居座っている。
由貴也は強引な彼らをどうすることもできず、そのまま内に住まわせていた。身勝手にもふたりは由貴也の中で存在感を増し、こちらを圧迫するまでになった。ときに由貴也の行動を律することもあるくらいだ。
それを今になって哲士は出ていくというのだ。しかも彼は香代子まで連れて行きたいというのだ。あまりに一方的だった。
彼女の背後にいてもなお、香代子の戸惑いは由貴也をにもわかった。その香代子に哲士は穏やかに語りかける。彼の態度も表情も完璧だった。きれいにまとまりすぎていて、由貴也はうさんくささすら覚えた。
哲士の言葉や仕草のどれをとっても、流れるようで淀みがない。あまりに滑らかすぎて演技のようだ。
そう、まるで巧妙に作られたお芝居を見せられているようだ――。
そこで脳裏にあるひとつの答えが灯った。一度現れたそれはじわじわと広がり、暗い濃度を増す。
哲士との会話を終え、香代子が去っていく。彼女は最後まで自分に気がつかなかった。
彼女の背中を見送り、由貴也もまたその場から立ち去ろうとした。今は哲士と話したくはなかった。
「古賀、いるんだろ」
その足をまたしても哲士によって止められる。
彼の声など無視してそのまま足を動かすつもりだった。だが、由貴也の気持ちとは裏腹に体が重く動かない。
由貴也は動く努力を早々に諦め、その場にとどまった。その代わりに哲士へぞんざいな視線を向けた。
「……俺にわざわざアンタの告白なんか聞かせてどうするつもりですか」
思ったより険がある声が出た。心の内にある彼らの影が由貴也に影響を及ぼすのだ。
哲士はゆっくりとこちらへ向き直った。彼の靴底が地面と触れあい、耳障りな音を立てた。
彼は笑っていなかった。哲士は目がやや細く、地顔そのものが笑みの形をしている。それが今、見事なほどに笑顔の色を消していた。
いつもは弧を描いている瞳は、切れ長の鋭さだけが際立っていた。
「古賀、俺らに依存するな」
夜の闇が哲士の半身をおおっていた。その暗がりから彼の声が響く。
頭蓋の内側で哲士の言葉が反響した。体の奥底から雑多な感情が沸き上がってきて、そのうねりが由貴也を飲み込む。ほの暗い言葉がほとばしる。
「俺が依存? アンタたちに懐柔されたとでも?」
「懐柔なんて言い方するな」
哲士の反論に構わず、由貴也は不敵に笑ってみせた。おかしくてたまらなかった。そんなことあるはずがない。
「俺を手なずけたとでも思っているんですか? アンタたちがいないと俺が生きていけないとでも言うんですか?」
一息に哲士を貶め、さらなる言葉を続けようとした。
だって俺は、俺は――……。
喉までセリフがせり上がってきたところで、力をなくした。だって俺は、その先に続く言葉はもう使えなかった。
巴だけがいればいい、とはもう言えなかった。
由貴也が言葉につまった隙を、哲士は見逃してくれなかった。
「じゃあどうして俺ら以外の部員には心を許さない? 誰も彼もが敵みたいな態度で接するんだよ」
ゆっくりと息を継ぎ、そして哲士は決定打を口にした。
「どうして俺とはいっしょに走ろうとしない?」
静かに、静かに哲士は言った。落ち着き過ぎていて、かえって静かさが鋭利な凶器になるほどだった。
由貴也にその刃先は届いた。胸をえぐられる。
由貴也は他の部員を容赦なく叩き潰してきた。力で圧倒し、部員同士に流れる絆や信頼を実力で凌駕しようとした。
それこそが自分が陸上部で生きる道だと思った。速さを頼りに、自分の居場所を作るつもりでいた。
けれども哲士にはそれがきなかった。力で競り勝ち、他の部員たちのように“その他大勢”に沈めることにためらいを感じた。
そして哲士に手を出したら、香代子に軽蔑されることもわかっていた。香代子は自分を好いてはいるが、無条件の“味方”ではないのだ――。
その事実に驚いている自分をはっきりと認識した。嫌悪感が心の奥から滲み出す。
「俺はお前の“保護者”になりたいわけじゃないんだよ」
捨て台詞を吐いて、哲士は夜の闇へ消えていく。
勝者と敗者の明暗がはっきりと別れたように感じた。自分は哲士に負けたのだ。言い返すことさえできなかった。
哲士は力ではどうしようもできない。そして香代子ははなから力を重要視していない。
力では覆せない世界がそこにはあった。
いらだち、怒り、焦り。それらが由貴也のグレーだった視界にぶちまけられた。胸の奥にねばついた黒いものが溜まっていく。
このままでは自分が壊されると思った。哲士に翻弄されてはいけない。自分のペースを取り戻す。
由貴也は着替えもせずに、Tシャツが汗で冷たくなっていくのにも構わず歩いた。
由貴也は寮へと続く道の縁石に腰かけた。白々とした光を放つ外灯の下を避け、闇の中に紛れるように身を置いた。
やがて、校舎側からある人影が現れたとき、由貴也は笑った。
彼女を自分のものにしてしまおう、と思った。
狂暴な気持ちが渦巻いていた。