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「元カノねぇ……」
香代子の予想に反して、哲士はあまり驚かなかった。それどころか逆に腑に落ちたというか、納得の表情すらしていた。
「すっごいかわいい子だったよ」
「まあ古賀は顔だけはいいからな」
何気ない口調で何気なく失礼なことを言いつつ、哲士は顔を洗い、部活の汗を流していた。香代子は部員たちが使ったコップを洗う。部活後のいつもの風景だ。
由貴也のことに関しては、自分も哲士も必要以上に気にしている。香代子は自分のことをそこまでおしゃべりだとは思っていなかったが、哲士と話すときは違う。話題の大半が部と由貴也のことなのでついついあれもこれも話しがちだ。
「で、その元彼女を古賀はどうした?」
「興味ない、アンタ誰? っていって、ビンタされてた」
哲士の問いに間髪容れずに答えると、彼はあきれた顔で「相変わらずだな」と苦笑した。
そのいつもと変わらない穏やかな表情にふと思う。哲士が声を荒げている姿など見たことないな、と。
たぶん哲士は強靭な精神力で自らの感情を統制しているのだろう。それを考えると、彼の抑制力は同年代と比べ並外れていると思えた。
「あの副会長にフラレて、運動部に入って、よりの戻し頃だと思ったんだろ、その子も」
「よりの戻し頃って……部長、何その女子みたいなラブハンター目線は」
今度は香代子があきれる番だった。こちらのつっこみに、哲士は声を上げて軽く笑った。
ひとしきり笑い、哲士はふと笑みを納める。
「――でも、古賀はただかわいいだけの女の子じゃダメだろ」
かわいいだけの、女の子。哲士の言葉は由貴也が容姿を越えた何かを熱烈に求めていることを感じさせた。それは下手をすると相手もろとも壊しかねない強い感情だった。
そもそも自分の身を飾ることにすら無頓着な由貴也が、他人の美醜を気にしているとは思えなかった。生理的嫌悪の基準は高そうだが、それさえ乗り越えれば絶世の美女であっても十人並みでも、あまり構わなそうだった。
でもそう思うのは、自分の容貌が平凡であるがゆえの都合のいい解釈なのかもしれない。なにせあの副会長――ずば抜けた美少女である巴を由貴也はずっと追ってきたのだ。目は肥えていそうだ。
「まぁ、かわいい女の子じゃあの電波にやられちゃうよね」
哲士の言葉に同意しつつ、洗い終えたコップと三十リットルポットを持って歩き出す。すると哲士の手がポットの持ち手にかかる。彼の手へ結構な重さのあるポットは移っていった。哲士らしい気遣いに香代子は顔が緩んだ。
それに引き換え由貴也は女子に対して辛辣だ。彼に女の媚びはまったく通用しない。それどころか、元彼女相手に見せたあの冷たさからすると、そういう態度全般に強い不快感を持っているようだった。
あの格別に優れた容姿を持っている彼は、昔から嫌というほど女の媚態を見せられてきたのだろう。
由貴也は矛先が自分に向きさえしなければ他人に無関心だが、そうでないときには徹底的に拒絶する。
香代子の頭の中は彼のことがめぐっていたが、なんとなく由貴也の話はとぎれ、そのまま部室へ歩いた。
「マネージャーは、さ」
人気のない通路で哲士がおもむろに口を開いた。いつもとは違って歯切れの悪い口調だった。
「古賀に特別扱いされてうれしい?」
不意打ちのような哲士の質問に目を瞬かせた。彼は笑みとも真顔ともつかない顔で地面に視線を向けている。
「……特別扱いってほどじゃないでしょ。それに部長だってそうじゃん」
平静を装おうとして、声がかえってぶっきらぼうになる。
巴という“別格”はいても、由貴也は香代子を『先輩』と呼んでくれるようになった。大勢の中のひとりではなくなった感覚。それをうれしく思わないといえば嘘になった。
でもわかっている。由貴也は哲士にも同じような態度で接する。だからそれは親愛であって恋愛では決してない。由貴也にとって巴以外との恋愛はまだ遠い場所にある。香代子が恋を望んだならば、由貴也は間違えなく拒むだろう
。
第一そこまでうぬぼれられるほど、香代子は自分に自信がなかった。
「前に、マネージャーに話があるって俺、言ったと思うけど……」
そう言って、哲士は少しだけ目元の固さを緩めた。逆に口は一層引き結ばれ、次の言葉が出る気配がない。
冬をまだ存分に引きずっている風が吹く。空風が頭上を吹き抜けた。
哲士の話がある、という言葉は心のどこかでは引っ掛かっていた。何でも早くすっきりきっぱりさせたい香代子だが、自分から哲士に聞くことはできなかった。いつもとは違う哲士の固さが、香代子に口をつぐませた。
現に今も、哲士は彼らしくない言い淀みを見せている。緊張感が高まる。
風が凪ぎ、哲士がこちらへまっすぐに顔を向けた。
「俺、マネージャーのこと好きだから」
香代子のめいいっぱい見開いた目に、彼のはにかむような笑顔が焼きついた。普段の一歩引いたところがある表情とは違う。少しだけ幼い顔だった。
それだけに、その“素”の表情に、哲士が本気で言っているのだとわかった。
本当に? どうして? という声にならない想いがぐるぐると渦巻いた。
あまりのことに体が硬直している。哲士がそんな風に自分を見ているなんて思いもしなかった。言葉が出ない。
「えっと、あの……」
やっとのことで出てきたのはそんな意味のない言葉だけだった。
顔が熱い。体中のすべての熱が首から上に集まっているようだ。
かなり真っ赤になっていたのか、哲士はこらえきれないという具合に笑い始めた。
あまりの笑いっぷりに腹がたってきた。こちらは真剣に動揺して悩んでいたというのに。
「……笑わないでよ」
憮然として言い放つと、哲士が「ごめんごめん」と笑いの残る声で謝ってきた。
それから軽く息をついて笑いを抜くと、哲士はもういつもの彼だった。穏やかな色を宿した目にほっとする。
「別に今すぐ返事が欲しいわけじゃないから、とりあえず頭の隅にでもおいといて」
ゆったりとした物言いにうなずくしかできなかった。恋愛初心者の香代子には哲士の性急でない姿勢がありがたかった。
「俺はいつも通りに接するから。もしふられたとしても、部長としてそれは約束する」
トップである哲士と、雑務を一手に引き受ける香代子が不通になってしまっては、部の円滑な運営に関わる。
哲士らしい気の回しようだな、と思う反面、そこまで考えられる彼がなぜ、とも思う。
そこまでわかりながら、なぜ哲士は突然告白してきたのだろう。彼は香代子が由貴也のことを好きだと知っている。だからさっき、特別扱いされてうれしい、などと尋ねてきたのだ。
恋愛はそういった理屈は抜きのものかもしれない。それでも鉄の理性を持つ哲士に限って、と思わずにはいられなかった。
告白の興奮の裏で、香代子は考えずにはいられなかった。だけれども哲士はただ落ち着いた笑みを浮かべ、その他の感情が表に出ることはなかった。それが香代子の疑問を封じているように思えてならなかった。