22
「新入部員を紹介する。一年の古賀由貴也だ」
退院した三日後に由貴也は陸上部に復帰した。今度は仮入部ではなく、正式な部員として戻ってきた。
「非常に生意気なので、上級生は性根をたたき直してやるように」
哲士の冗談とも本気ともとれない言葉に、部員たちから控えめな笑い声が漏れる。その中には由貴也とひと悶着を起こした根本の姿もある。その朗らかな表情に香代子はほっとした。
哲士のおかげでなごやかになった雰囲気の中、由貴也だけがいつもの無表情だった。
ここで笑顔なり言葉なりを見せれば少しは可愛げもあるのだが、そこは相変わらずだ。由貴也らしいと言えばとてもらしい。
由貴也は元々マイペースな男だ。劇的に変わることを期待する方が無茶だ。むしろ愛想を振りまく由貴也の方が想像できない。
部にいる以上、他の部員との関わりは避けられない。由貴也もまぁ徐々に変わっていくだろうと楽観視していた。
「先輩。タイム計って」
香代子がいつもの通り水道で洗濯をやっていると、由貴也がひょいとやってくる。
由貴也はあれから香代子を『先輩』と、哲士を『部長』と呼ぶようになった。あれ呼ばわりの頃から考えるとものすごい進歩だ。
「はいはい、今行く」
ジャージのポケットからストップウォッチを取り出して直線コースの方へ向かう。
そこにはケガが回復し、リハビリ期間に入っている根本がいた。彼の専門は中距離だが、無理をしないようにまずは短距離で様子を見てみるつもりなのだろう。
二人が体をほぐし、スタートラインについたところで、香代子もストップウォッチを構える。
「じゃあいきます。位置について」
空気がキン、と尖る。二人から発せられる気彩が鋭く絞られる。
「よーい……ドン!」
スパッと切れ味のよいスタートを由貴也がきる。風が巻き起こった気がした。
一瞬遅れ根本がスタートした。
軽やかな跳躍を繰り返しているような由貴也の走り。その美しさにはついつい見とれてしまう。
彼の走りに気をとられ、手元が疎かにならないようになりながらストップウォッチを押した。次いで飛び込んできた根本に、またストップウォッチを押す。
根本より由貴也速いのは当たり前と言えば当たり前だった。根本がケガから回復したばかりということを差し引いても、由貴也は短距離走者だ。しかも百メートルだけを専門に走っている。百メートルの走り方が巧みなのだ。どこでスピードを出すべきかを心得ている。
どちらが速いか遅いかにかかわらず、先輩後輩で走ったときは下級生が上級生にアドバイスをもらいに行くことになっている。由貴也は相変わらず飄々とした顔つきと愛想の欠片もない口調で「お願いします」と根本に言っていた。
あれやこれやと根本が細かく指導をするのを、由貴也がぼんやりと聞いていた。
熱意が一片も感じられない、と思った。案の定二回目の走り、注意されたところはひとつとして改善されていなかった。
今度は根本は何も言わなかった。ただ渋い顔をしていた。
「アンタちょっと感じ悪いよ」
根本が去った後に声を潜めて注意する。
それにも由貴也は「うん」と返事したきりで、改善する気があるのかないのかわからない。返事をするだけ以前よりマシなのだが。
「うんじゃなくて――」
「由貴也くん!」
香代子がなおも言い募ろうとしたところで、誰かの声に遮られる。反射的にそちらへ向くと、小柄な女の子が立っていた。
お人形みたいに可憐な容姿の女子だった。長い髪に大きな瞳、華奢な体つき。ブレザーに紺のリボンというおしゃれな英語科の制服がよく似合っている。
「ごめんね、部活中に。話があるの……」
形のよい唇から漏れたのは、鈴を振るような声だった。憂いを帯びたその声は同性の香代子でさえもドキッとする。
一体この子は由貴也の何なんだろう、と考える。それは嫉妬ではなく、こんな可愛くてまともそうな子が由貴也に何の用があるのだろう、という純粋な疑問だった。
「俺にはないから」
由貴也は相変わらずしれっと答える。話を聞く前からもう断定している。
今にも泣き出しそうな彼女を見たらいたましくて、誰でも憐憫を誘われるというのに、由貴也はまったくもって氷の無表情だった。
何か訳ありな二人に、香代子は場を外すべきなのだが、タイミングを逸したせいで動けなかった。
「お願い、少しだけでいいから」
安っぽいドラマみたいなセリフを吐いても、清楚な彼女なら陳腐にならなかった。それどころか最強の破壊力を持っている。
しかし由貴也は彼女に冷ややかな一瞥を与えただけだった。
「アンタの話なんてどうでもいいし。てか誰?」
それは疑問でも何でもなく、ただの拒絶だった。どうでもいい。香代子が一生使えないような言葉を由貴也はさらりと口にする。
香代子は自分でも青ざめたのがわかった。この状況は最悪だ。自分が出る幕ではないと知りつつも、何かフォローを入れなくてはいけないと焦る。
けれど最低すぎる由貴也をフォローすることなどできず、その間に彼女の瞳に涙が盛り上がる。
その涙に香代子があたふたと動揺したのも束の間、次の瞬間彼女は真っ白な腕を振り上げた。
彼女のビンタが由貴也の頬を直撃した。おとなしげな外見からは想像もできない強烈な平手だった。
何が起こったか理解できなかった。香代子が目を瞬かせてるうちに彼女はくるりと背を向けて泣きながら走っていく。その背中を茫然と見つめた。
「またビンタ……」
由貴也が叩かれた頬をさすりながらボソッとつぶやく。依然としてその目には何の感情も浮かんでいなかった。
「またって……アンタたち、一体なんなの?」
意思の疎通がまったくできていない二人。もっとも由貴也相手では難しいことだが。
「元カノ」
またもやするりと放たれた言葉に、香代子は理解が追いつけない。
もとかの、モトカノ、元カノ。元の、彼女。
「……本当に?」
アンタ誰? とか言いながらしっかりわかってるじゃん、ということはともかく、由貴也が彼女。理解不能だ。
「最近つきまとわれてんだよね」
どこか他人事のように言って、由貴也はジャージのポケットに手を入れながら去っていってしまった。
由貴也は基本的に余分な他人を必要としない。根本しかり、そして彼女しかりだ。その余分な存在を由貴也が一時期でも許容したことが驚きだった。
由貴也はうぬぼれでなければ、香代子と哲士には態度を軟化させている。しかしその他には相変わらずだった。
それはこの狭い“部”の中にあって、危険だと言えた。由貴也は露骨すぎる。
「これだから気難しいおぼっちゃんは……」
休憩中、ペットボトル片手に哲士がはぁ、とため息をついた。その視線の先には回りを気にせず堂々と寝ている由貴也の姿がある。まったく神経が図太いんだか細いんだかわからなくなる。
「従順そうに見えてそうじゃないからタチ悪いよな」
哲士の意見にまったく同感だった。由貴也は何にも興味なさそうに見えて意外に我が強いのだ。
「絶対これじゃあ根本たちはいい気分しないよね」
スポーツドリンクを作る手を休め、香代子は哲士に言葉を向けた。
「そうだよなぁ……」
哲士は思案に暮れた声を出し、困ったように首裏へ手を当てていた。
日に日に由貴也の態度の悪さは顕著になっていく。
目に見えて刃向かうわけではない。けれど香代子と哲士以外の人物への扱いに差があるのだ。
由貴也にとっての陸上部とは香代子と哲士と自分の三人だけだ。それで彼の世界は完結している。だからそれ以外の人物はいないかのような扱いをする。
以前は皆均等に空気のような扱いを受けていたので気にならなかった。けれど今、香代子と哲士を由貴也が認識したことによって、その差異がはっきりわかるようになってしまった。
哲士が注意したことなら由貴也はそこそこ素直に改善しようとする。以前あんなにも哲士に言われていたバトンパスも、復帰後は一発で直った。つまり以前の由貴也にはまったく直す気がなかったということだ。あるいはわざとヘタに走っていたか。
「それにあいつ相当プライド高くてなぁ」
悩みの種は尽きないといった具合に、哲士のため息はまた深くなる。
運動部には明確な学年の序列とともに、もうひとつ上下の別が存在する。それが競技の実力だ。
強さは運動部において絶対の力を持つ。時に先輩後輩の立場をも凌駕する。由貴也はたぶん技量の面においては、この狭い部内のヒエラルキーの頂点に近い場所にいるだろう。
彼は自分の走力を自負している。だから傲慢とも言える態度で上級生からのアドバイスを無視する。自分よりも遅い者の言うことなど聞く価値がない、きっとそう思っている。
哲士の言うプライドの高さとはそういうことだ。そしてそれを無意識にやっていることがさらに由貴也のタチの悪いとこだった。
「ただ速ければいい。そういうの私やだな」
力を一番の信条とする由貴也に香代子は反発した。
香代子の意見は甘いかもしれない。部活とは互いに切磋琢磨しあう場所であって、部員同士の馴れ合いになってはいけない。
しかしすべての価値尺度を力とするのはどうしてもいいとは思えなかった。
「ああいう世間知らずのおぼっちゃんには鼻っ柱ヘシ折るのが一番なんだけどな……」
「誰がヘシ折るの?」
「だよなぁ」
誰か由貴也の自信をくじける部員がいたなら、そもそもこんな状況になっていない。
「部長がんばってよ」
「善処はします。まぁ中学のときの借りは返したいしな」
軽口を叩きあって、哲士が腰を上げる。それから首から下げているホイッスルを吹いた。休憩終了の合図だ。
「マネージャー、近々話したいことがあるんだけど」
不意に哲士がこちらを振り返って言った。いつもと変わらない穏やかな表情だ。
「本当にあいつに負けてばっかりいられないから」
せっかちな香代子が話って何? と聞く前に、哲士はそれだけつけ加えて背を向けた。
香代子には話の内容も、哲士の指す『あいつ』もまったくわからなかった。