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「よっ」と声をかけられ、テレビから緩やかな動きで視線をそらした。
昼下がりにやる愛憎をテーマにしたメロドラマは、ちょうど三角関係がもつれにもつれ、女二人の泥沼と化したところだった。男をめぐる口論がヒートアップし、取っ組み合いにまで発展している。
このバイオレンスな展開に、由貴也は心中喝采を送っていた。
あまりにも数日間の入院生活が暇だったため、主婦向けのドラマを毎日欠かさずに見ていた。
退院手続きを終え、荷物もすっかりまとめた後だというのに、由貴也は病院のロビーでドラマの最終回を見ていた。
「……空気読んでくれません?」
いわゆるいいところを邪魔され、由貴也は非難のまなざしと言葉をかたわらの人物に向けた。目を向けた先の哲士は何がなんだかわからないようで怪訝そうな顔をしている。
もう一度ロビーの超大型テレビに視線を向ける。だが重要な場面を見逃したため、わけがわからなくなっていた。
一気にドラマへの興味をなくし、由貴也は隣のショルダーバッグをつかんで長椅子から立ち上がった。哲士に構わず歩き出すが、彼はあまり気にした様子もなく、こちらの後に続いた。
自動ドアをくぐると淡いやわらかな日射しが心地よく降りそそいだ。快晴だった。高地にある立志院とは違い、ここはもう春の気配すら感じた。
由貴也に無視されようとも哲士はまったく意に介した様子もなくついてくる。
由貴也に煙たがられているのをわかっていないわけではないだろうに。哲士の強みは究極の鈍感を装い、図太く無神経な行動をとれることだ。
「……俺になんか用ですか」
うっとうしさに耐えきれず、由貴也はことさらそっけなく問いかけた。
「今日退院するって聞いたからさ。具合は?」
「普通です」
普通としか言いようがなかった。検査の結果どこにも異常は見られず、正式に神経性胃腸炎の診断が下った。心療内科を紹介されたが、これ以上の病院暮らしはもううんざりだったので断った。
気休め程度の点滴と投薬を受け、検査と医師の診断という一通りの形式を踏み由貴也は今日退院する。巴が中心でなくなった世界へ復帰する。
「……マネージャーを見舞いに寄越したのアンタでしょう」
由貴也は前を向いたまま、数歩後ろを歩く哲士に問いかけた。
前方から来た若い看護婦が「由貴也くんまた来てねー」と手を振ってきた。由貴也はもう病院に来たいとはちっとも思っていなかったので、軽く受け流す。
それを見て、背後の哲士があきれたように息をついた。
「お前は病院でなにしてんだよ」
哲士の問いは無視し、近くにあった自販機でアイスを買った。病院食は薄味で物足りなく、体が糖分を求めていた。
「あんひゃはほんなにひぶんの――」
「なに言ってっかわかんないって」
ものぐさにも口に加えたままだった棒つきアイスを哲士に取り上げられる。哲士は苦笑したままゆったりとした動きでこちらにアイスを返してきた。
「俺は確かにマネージャーのこといいなとは思っていたけど、なにがなんでも古賀から奪いたいと思ってるほどじゃないよ」
なに言ってるかわからないと言っておきながら、哲士はしっかりと由貴也の言葉に答えていた。アンタはそんなに自分で自分の恋路を壊したいのか、と由貴也は言ったのだ。
「へぇ、偽善者」
そもそも由貴也はマネージャーのことは別段なんとも思っていない。それなのに哲士に譲ってもらったって別に嬉しくもなんともない。ありがた迷惑だ。
さすがの哲士もほとほとあきれたという視線を寄越してきた。
「お前ほんっとうに可愛くないよな」
「別にアンタにいい顔する必要ありませんから」
ここでいっそう哲士が爆発して由貴也に愛想を尽かしてくれれば楽だったのだが、彼は一拍の後、見事に感情を立て直した。
「……お前には必要だと思ったんだ。マネージャーみたいな人が」
ポツリと、観念したように哲士が口を開いた。そのまま由貴也に言葉を挟ませる隙もなく、哲士は続ける。
「だってお前さぁ、放っとくと道踏み外しそうで見てらんないんだよ」
言い訳のような、だけれどもその場しのぎだけではない哲士の言葉に、由貴也は加えていたアイスを放した。凍りすぎていて固く、当分食べられそうにない。
「……アンタたちのせいで道を踏み外し損ねましたよ」
落とすようにつぶいた言葉に嘘はなかった。認めざるえない事実だった。
哲士に真実を突きつけられ、香代子に堕ちていくところを引き上げられ、由貴也は今ここにいる。
望んだことではなかった。真実など見たくはなかった。堕ちていくなら底まで堕ちて、光など忘れてしまいたかった。自分を騙し騙し生きていけるならそれでよかった。やがて静かに破滅へ踏み込んでいこうとも別に構わなかった。
けれど、それを哲士と香代子が許さなかったのだ。
そして今、自分は絶望の一番深い部分から脱したと思っている。巻きついていた巴への執着の蔦を切り、何もまとわないまっさらな姿で立っている。幾重にも自分を取り巻いていた巴への想いはそのまま、自らを守る鎧に他ならなかった。
「おせっかいでうるさくってごめんなー」
哲士は苦々しく笑っていた。言葉の内容とは裏腹にちっとも悪いと思っていなそうだった。
「俺、言っときますけどマネージャー、全然タイプじゃないですよ」
とりあえず釘を刺しておく。このままだと自己犠牲に徹して、本当に哲士が自分と香代子をくっつけかねない勢いだった。
「じゃあ古賀のタイプって?」
「歳上で余裕があってうるさくなくて干渉しない人」
即座に並べた条件に、哲士はまたもやあきれを含んで破顔した。
「それはタイプとは違うだろ。ただ単に都合のよくて、甘やかしてくれる相手だろ」
哲士の言う通り、自分は傷つきたくなく、傷つけない相手を望んでいた。関係に中身がなくともよかった。
これからたぶん自分は揺れ戻しに悩むだろう。巴の存在が薄くなった世界におののき、絶望するのだ。孤独を初めて知り、その身を切るような一撃を真正面から受けるのが怖かった。
由貴也はもう巴から離れてひとりで歩いていくしかない。ひとりという心もとなさに、巴の身代わりを無意識に求めてしまいそうだった。
「お前に今必要なのは、無遠慮にずかずかと踏み込んできて、外に連れ出してくれる相手だと俺は思うよ」
小言がちょっとうるさくてな、と冗談めかして哲士はつけ加えた。
「……おせっかい」
嫌みを込めたつぶやきにも、哲士はどこか称賛を受けたように笑っていた。その手応えのなさがつまらなくて、アイスを一口かじる。
「そんなに人のことばっかり気にしてるとハゲますよ」
「それは困る」
哲士の軽やかな笑い声とともに、口に含んだアイスを嚥下する。やけに甘く感じられた。冷たさが喉の奥でじんわりと熱を発した。
風が額を撫でる。常緑樹の葉が風に鳴った。あてもなく歩く足をゆるめて、瞳を少しだけ伏せた。
「……何をしたらいいかわからなくて」
驚くほど自然に言葉が出てきた。嫌みから地続きに、自分は内面を吐露している。
「だから……」
好きも嫌いもなかった。もう幼いときから由貴也は巴に自らの感性を委ねてしまった。
その自分が巴から離れてまず行おうとしていることが陸上だった。
ポケットから無造作に突っ込まれた紙を取りだし、哲士に突きだす。哲士は相変わらず苦く笑ってる。その瞳はどこかやわらかくて、この瞬間を予期し、待っていたようだった。
そのすべてがお見通しという目が気に食わなかった。入部届け。由貴也が渡したそれを、哲士はそっと受け取った。
「歓迎するよ。新入部員」
余裕綽々の態度がますます由貴也をひねくれさせた。隠すことなくその顔をさらしていると「ガンつけんなって」と哲士に言われた。
「まだ怒ってんの? 俺がお前のこと姫だっこしたこと」
さらりと思い出したくないことを言われ、自分の顔がさらに険しくなるのを感じた。
廊下で倒れて動けなくなった自分を哲士は横抱き――俗にいう“姫だっこ”で保健室に運んだ。しかも軽々と。
逆は恐らく無理だ。自分の腕では哲士を抱き上げることはできない。
「仕方ないだろ。あんまり動かさない方がいいと思ったんだよ」
「俺、根に持つ方なんで覚えといてください」
哲士の弁解をさらなる言葉で封じこめ、歩みを早める。しゃべりすぎて疲れた。
無理やりに止めていた時が動きだし、人と話し、風を感じ、そして走る。
「古賀。お前が部に復帰したら勝負しようぜ」
負けず嫌いの子供のような口調だった。挑発と興奮の炎がその目に揺れている。哲士らしからぬ子供っぽさだ。
「いいですよ。アンタを打ち負かすのは楽しそうですから」
「奇遇だな。俺もお前をぶちのめしたい気分なんだ」
完璧な微笑のなかに、静かな怒りが見えた。目が笑っていない。
この人も怒っていないわけではなかったのか、と思う。由貴也が香代子を傷つけたことに対し、相当怒っている。
部長という分別のある顔の下に、こちらへの腹立ちが見てとれた。
哲士から向けられる敵対心に胸の奥のなにかが呼応した。彼の宣戦布告に応じる構えができている。
苦笑した。なんだ案外自分もしぶといな、と。
巴への恋情はどんなに望んでも由貴也を殺しはしなかった。自分は意地汚く生にしがみついている。
それが幸か不幸かはまだわからない。けれど今、生まれ変わるってこんな気分なんだろうな、と思っていた。
 




