20
あのあと問答無用で病院に連れていかれた由貴也に下された診断は神経性胃腸炎だったそうだ。神経性というくらいだから、文字通りストレスから体を壊したのだろう。
だいぶ放っておいたようで、検査を兼ね数日の入院が必要になった。
香代子は花束をかかえ、学校帰りに見舞いにおもむいた。
このあたりで一番の規模を誇る総合病院だけあってとにかく広かった。受付で由貴也の名前を出し、病室に向かう。
ロビーの喧騒とは裏腹に、由貴也のいる棟は静かだった。廊下には夕陽がもの寂しげに差しているだけだった。
由貴也の病室の前に、病院には不釣り合いな顔を見つけた。
壁に背を預け、腕を組んでいるのは生徒会長で巴の恋人、不動 壮司だった。がっしりとした体や精悍な顔つきは病気とは無縁そうだ。
向こうも香代子の存在に気づき、視線を向けてきた。特に面識はないが会釈をしておくと、壮司も軽く会釈を返してきた。
「由貴也の見舞いですか?」
「あ、はい」
予想どおりの真面目で堅そうな声が香代子に問いかけを向けてきた。
急に声をかけらたことにもびっくりしたが、彼と由貴也が知り合いなことにも驚いた。壮司は由貴也を呼び捨てにした。それはかなり近い間柄だということだ。
「中、入らないんですか?」
ここまで来て壮司は病室の前に立っているだけだ。彼も由貴也の見舞いに来たのではないのか。
「俺はあいつにえらく嫌われてるもんで」
何でもないことのようにその言葉を言うと、壮司は病室の扉に手をかけた。
えらく嫌われている、それはそうだろうな、と香代子は思った。巴をはさんでふたりの仲が良好であるはずがない。
ではなぜ壮司がここにいるのだろう、と疑問が自然とわきあがってきた。
「バカッ! こんなになるまで……!!」
壮司が扉をスライドさせた瞬間、中から誰かの怒鳴り声が飛び出していた。壮司も香代子もあっけにとられる。
香代子が驚きに目をまたたかせているうちに、壮司はすぐに冷静な顔になり、わずかに肩をすくめた。
驚きの裏側で悟った。壮司は付き添いで来たのだと。そして今病室の中にいるのは――。
「巴、そろそろ帰るぞ。由貴也、お前に見舞いだ」
壮司の手が病室の前に立ちすくんでいた香代子の背中をわずかに押した。病室に一歩踏み入れる。
ベッドで上体を起こす由貴也と、その傍らに立つ巴の瞳が香代子へ向いた。
うっ、と香代子はひるむ。おそろしく整った顔がふたつもこちらを見ている。恐ろしき古賀家DNAの文字が頭に浮かんだ。
巴がそっと香代子から顔を背けた。さっきの怒声は巴だろう。わずかに目が潤んでいるように見えた。
香代子は彼女とクラスも違うし、共通の友人もいない。だから巴のことをよく知っているわけではなかったが、生徒会員として巴はいつも冷静沈着な顔を見せていた。
それが今はこんなにもとり乱している。
「……何か必要なものは?」
巴が憮然としたままで由貴也に尋ねる。その不機嫌さは心配の裏返しというところか。
「別に平気」
巴の機嫌の悪さなど意に介した様子もなく、由貴也はいつもどおりの乾いた口調で答えていた。
その由貴也と巴のやりとりを、香代子はぼんやりと眺めていた。
体を壊すまで想われるとはどういう気持ちなのだろうか。身を削るほどの想いを一身に受けるとは一体どんな気分なのだろう。
「……なら私は帰る。くれぐれも絶対無理はするな」
当たり前だが香代子の考えていることに気づいた様子もなく、巴はご機嫌斜めのまま身をひるがえした。
力が入っている口調で由貴也を叱るさまは彼の姉のようだった。
「巴」
病室を出ていこうとする巴を由貴也が呼び止める。巴は相当おかんむりのようで、そのまま無視して出ていこうとしていたが、結局ドアの前でぴたりと止まった。
「ちょっと病室の外で待ってて」
背中を向けたままの巴にかまわず、由貴也は言うことだけ言って香代子に視線を向けた。
巴は顔だけをこちらに向け、不思議そうな顔をしていた。だが、由貴也がこれ以上言葉を重ねる気がないと悟ると、彼女は静かに病室を出た。
自分をさっさと追い出して、また巴を病室へ招き入れるつもりなのだろうか、と香代子は穿った考え方をしてしまう。
ふたりっきりになった室内で、由貴也に改めて視線を向ける。西日が逆行になって由貴也の姿はよく見えないが、少なくとも数日前より元気そうに見えた。
香代子は由貴也の回復に喜ぶと同時に、彼の前に立っているのが気恥ずかしかった。どうにもこうにもいたたまれない。
由貴也が倒れた前で自分は泣き喚くという醜態をさらした。しかも香代子が由貴也を好きだというのは彼自身もう確実に知っているだろう。由貴也は香代子が自分の気持ちに自覚していない内からもう見抜いていた。
一体どの面を下げて由貴也と対面すればいいのか。
「……これ、陸上部から」
部員たちでなけなしのお金を出しあって買った花束を渡す。かなりぶっきらぼうな声が出てしまった。
由貴也はそれをまじまじと見つめ、一言「お見舞いっていったらフルーツの詰め合わせじゃないの?」とつぶやいた。
由貴也はさりげなくわがままだ。香代子のこめかみに青筋が浮かんだ。
「アンタ胃腸炎でしょうが。食べれないかもしれない食べ物よりお花がいいと思ったの」
「……ふーん」
納得したのかそうでないのかわからない顔をして、由貴也は花束をしげしげと眺めていた。
「具合どう?」
巴を待たせているなら香代子はさっさといなくなったほうがいいと思うが、あまりに早く病室を辞すのも気が引ける。当たり障りない会話の口火を切った。
「胃カメラってまずいよね」
どことなくかみあっていない答えが帰ってきて香代子は脱力する。失恋で体調を崩すほど繊細な一面もあるかと思えば、こうもわけがわからない言動をとったりもする。
胃カメラにどう言葉を返すべきか迷い、香代子は所在なげに視線をさ迷わせた。考えてみれば由貴也にお説教なしで向かい合うのは初めてなのだ。
その話のネタたるお説教も巴が先ほどしていたので、香代子が出しゃばることもない。
気まずい沈黙に視線をうろつかせた先に、ベッドの横に雑誌が積み上げられているのを見つけた。暇つぶしに読んでいたのか、漫画雑誌や下世話な見出しが踊る週刊誌、そしてその一番上に陸上雑誌が無造作に置いてあった。
読み古された他の雑誌とは違い、それだけ真新しい。表紙が夕日で光っていた。
どこかから回されてきた他と違い、陸上雑誌はわざわざ買ってきたことが明白だった。
「ねぇ先輩」
由貴也の声に香代子はあわてて雑誌の山から視線を外す。何だか見てはいけないものを見てしまった気になった。
淡く色づいた陽光が由貴也の顔を照らしていた。その中で由貴也は笑っているようにも見えた。
「陸上部戻るって俺が言ったの単なるうわごとだと思ってる?」
由貴也の体調の次に聞くべきだったことを指摘され、香代子は顔を強ばらせた。
本当はずっと聞きたかった。あのとき陸上部に戻ると言ったのは本気? と。
「なんで自分から聞かないわけ? さっきからずっと聞きたそうな顔してたけど」
由貴也は香代子があげた花束から一本ガーベラの花を抜き、手慰みに花弁をむしっていた。オレンジの花びらが夕日の欠片のようだった。
「だって陸上してる俺がいいんでしょ?」
気のない様子で花をいじくっていたかと思えば、これまた気のないようすでさらりととんでもない言葉を口にする。あんな切羽詰まった状況のときに言った言葉までしっかりと覚えられていて、香代子は赤面しながら口をぱくぱくと動かした。うまく言葉が出てこない。
そんな香代子を観察するように、由貴也が下から香代子を見ていた。動揺している自分の様子を楽しんで見ているのかと思いきや、違った。
いつもの無機質な瞳の奥に、息を呑むほどの鋭い光が宿っていた。
その瞬間、香代子は悟った。自分は由貴也に何かを試されているのだと。
羞恥やそういうものを呑み込んで、注意深く口を開いた。
「アンタが自分から言ってこないと意味がないと思ったから。誰かに聞かれたから答えるとかじゃなくて、自分から口にして欲しかったから」
由貴也は本当は陸上が好きなのかもしれない。陸上をやりたいのかもしれない。けれどそれは口に出さないと伝わらない。
本当にやりたい気持ちがあるのなら誰かに促されなくても自分から言ってくるはずだ。香代子はそれを待っていた。
香代子の答えは由貴也の中で合格だったのだろうか。由貴也には底知れない恐ろしさがある。平気でこちらを試し、満足した答えもそうでない答えも眉ひとつ動かさずに聞いている。そして彼の中で失格の烙印を押した者にはもう二度と目を向けることはないのだろう。
由貴也はただ香代子を見ていた。その表情はいつもと変わらず凪いでいて、何の色も読み取れなかった。
その顔がふとした自然さで、出口である扉に向いた。
「巴」
由貴也の声が静かに病室の外で待つ巴を呼んだ。
呼ばれたのは巴だというのに、香代子は反射的に身を強ばらせた。
彼の中で唯一無二の存在である巴。由貴也と過ごした時間もその存在の重さも、なにもかもが彼女には遠く及ばない。そうわかっていても由貴也に切り捨てられるのは嫌だった。巴の存在を受容し、香代子の存在が抹消されるのは耐え難かった。
病室の扉が音もなくスライドする。茜色の西日の中たたずむ巴は神々しくすら見えた。
ややためらいがちな歩み巴は由貴也がいるベッドまで歩いた。由貴也の意図がわからず、また香代子に遠慮しているようだった。当然の反応だ。
サイドテーブルの前で、その足は止まる。香代子はベッドを挟み、その反対側に立っていた。
巴はただその場で由貴也の言葉を待っていた。
たっぷりとした時間をかけて、由貴也の顔が巴へ向けられる。
彼の視線が上がっていくたびに、その目の色が変わっていった。鈍色のガラス玉のようだった瞳が、意志という名の強さを内包して光っていた。
由貴也と巴の目線が一直線につながった。
「俺、次の大会でリレー走るから見に来て」
強いまなざしが巴に向いていた。いままでにはなかったはっきりとした感情がそこにはあった。
なにかしらの決心が由貴也を突き動かしている。彼の中で筋の通った軸として由貴也を動かしている。
香代子の反対側で巴は驚いた顔を由貴也に向けていた。綺麗な顔がめいいっぱいの驚きを表していた。
でもそれは一瞬ですぐに微笑みに変わる。かすかな感慨が笑みにただよっていた。
「行くよ。必ず」
巴が小さく、けれど力強くはっきりと答えた。
「うん」
返事のやりとりが交わされ、心なしか由貴也の表情がわずかに緩んだように見えた。それを待って、巴は身を翻した。その潔さを感じさせる行動は由貴也の意志を悟り、酌んでいるようだった。
由貴也も出ていく巴へ目を向けることはなかった。
「そういうことだから」
病室のドアが閉まるやいなや、由貴也は香代子に言葉を向けた。その顔にはもう先ほどの真剣さのかけらも残っていなかった。
「……ちゃんと言って」
小言を言おうとしたのに、角やトゲがすべてとれてしまった。声が震えていた。はっきりとした言葉で彼の口から真実を聞きたかった。陸上部に戻ってくるのは本当だと確信したかった。
「陸上部に戻る」
由貴也の後ろから夕日が差している。やわらかそうな髪が赤く染まっていた。
まぶしくて目を細めようとすると涙がでそうになって、それをなんとかこらえる。
「……アンタがそう言ってくるの待ってた」
ただそれだけの言葉を発するのにかなり手間取った。喉の奥が痛い。
由貴也は何も言わなかった。ぼんやりと窓の外を見つめていたかと思うと、瞳を伏せ、かすかに息をついた。
「あら由貴也くん、彼女?」
沈黙を破ったのは、由貴也の部屋にやってきた看護婦だった。美人な看護婦が点滴片手ににっこりと白衣の天使の微笑みを浮かべた。
「……点滴はいいよ」
由貴也は看護婦の問いには答えず、子供のような言葉を返した。
「そんなこと言わないで、由貴也くん。ちょっと我慢してくれる? 腕出して」
看護婦の猫なで声から、由貴也はここで至れり尽くせりの状態のようだった。どうやらその顔の良さを最大限に生かして、ここを過ごしやすい場所に変えてしまったようだ。こういうときだけ由貴也は抜群の行動力を発揮する。
看護婦に優しく点滴を刺され、由貴也は眠そうに横たわっていた。やがて充電切れと言わんばかりに瞳を閉じた。
「……真面目に生きるのは疲れる」
吐息に乗せたかすかな言葉の後を寝息が追った。最後にそれだけをつぶやいて、由貴也は眠っていた。
その寝顔にほっとした。ちゃんと生きている。数日前に倒れたときとはちがい、確かな生命力を由貴也から感じた。
何より由貴也は言った。真面目に生きるのは、と。
消えてしまいそうな希薄さの代わりに今の由貴也には意志が備わっていた。
夕陽の照らされた彼の寝顔はこれまでになく穏やかだった。まるで大仕事を終えた後のようだった。




