19
「クソ生意気だった」
普段人をけなすことがない哲士が、めずらしくはっきりと断じた。しかも彼がこんなに雑な言葉を使うのは今までにないことだった。
「口は悪いし目つきも悪い。ああ言えばこう言う……本当に大変だった」
さすがの哲士も少し疲れた様子でいすに腰かけていた。
寮のロビーで香代子は由貴也の部屋から戻ってきた哲士と話していた。
由貴也が騒動を起こし、辞めると言ったのが昨日。一晩置いた今日、哲士が彼をさっそく説得しに行ったのだ。
「それで、何て言ってたの……?」
由貴也が退部には、香代子も責任の一端を担っている。それ以上に自分は由貴也に辞めて欲しくないと強く望んでいる。
由貴也が好きだ。もう目を背けられないほどに、その姿を目で追っていたいと願うほどに。
自分に恋が訪れるとは思っていなかった。恋愛をすっとばして香代子には結婚願望がまったくない。シングルマザーである母親が苦労してきたところを見てきたからだ。
母親は今再婚して幸せに日々を過ごしているが、香代子の中では結婚は博打のようなもの、という思いが消えなかった。
恋愛にうつつを抜かす暇があれば、勉強や部活などやるべきことに精を出したかった。そちらの方がよっぽど建設的だと思った。
けれど香代子の思いを無視して恋は舞い降りてきた。しかもやっかいなことこの上ない相手を指名して。
視線の先にある由貴也は身を滅ぼすほどの一途さで巴を見ている。香代子と由貴也の瞳が合うことはないのだ。
「別に辞めるとも続けるとも言ってなかった」
哲士は憎らしいほどに淡々と答えた。香代子はさらなる言葉を求めて哲士の顔へ目を向け、無言の催促をした。
「言うことは言ってきたよ。けどそれ以上のことはできない。無理やり連れ戻すわけにもいかないからな」
哲士の言わんとしていることを察して、香代子は勢いを失ってうつむいた。
ここで彼を強引に陸上部に戻しても、長続きはしないだろう。彼の意志に基づいた行動でなくては意味がないのだ。
「……古賀、ずっと真っ青な顔してた」
勢いをすっかり失ってしまった香代子を慰めるように、哲士がぽつりと言葉をもらした。
「ひどい顔色だった。今頃また吐いてぶっ倒れてるかもしれないな……マネージャー様子見に行ってやったら?」
哲士の言葉を聞いたとたんに一も二もなく駆け出していた。由貴也が寒々しい部屋で倒れている不吉な光景が頭をよぎった。
自分でも何が何だかわからないうちに走りだしていた。だから哲士がどこか寂しそうに笑っていたことには気がつかなかった。
いくつもの奇異の視線を浴びながら、男子寮の階段を駆け上がった。
三階の踊り場まで来たところで、由貴也の部屋の場所を知らないことに気づいた。まぬけ過ぎる。
哲士のところに戻るべきかどうかを迷って、とにかく辺りを見回す。
静まり返った暗い廊下の端に、何かぼんやりと白く光るものがあった。
目をこらすとだんだんそれが人形となって浮かび上がってくる。人が倒れているのだと気づくまでにそう時間はかからなかった。
声が出なかった。足がもつれそうになりながら走る。
闇の中、白くほのかに光っているように見えたのはワイシャツだった。そのワイシャツをまとっている背中を助け起こす。
肩に手を回し、上体を起こさせて顔を確認する。情けないことにずっと手が震えていた。
緑がかった非常灯に照らされたのは血の気のない、作りものめいた白い顔、由貴也だった。
「しっかりしてよ!」
悲鳴のような声が出た。由貴也の顔に差す、濃い影がどうしようもなくこわかった。由貴也は危うくて、脆くて、簡単にとりかえしのつかないところまで行ってしまいそうに思えた。
由貴也はまったく動かない。穏やかではないが苦悶の表情もない。眠ったまま氷づけにされたような弱い生命反応しか感じなかった。このまま永遠に眠っていそうだった。
「なに本当にぶっ倒れてんのよっ!」
不安が憤りの形になって外に表れた。いつのまにか泣いていて、あごから落ちた涙が由貴也の顔を濡らしていた。
香代子の涙が由貴也の頬へ滑り落ちるさまは、まるで彼が泣いているようだった。
香代子の涙の雫を閉じたまぶたに受けたとき、床に無造作に投げ出された由貴也の手がぴくりと動いた。まぶたが震え、ゆっくりと持ち上がる。
焦点を結ばない瞳が、下から香代子をとらえた。膜一枚隔てた世界を見ているような、そういう希薄な視線だった。
「……俺、フツーに生きてたんだね」
乾いた唇が、注視しなければわからないくらいに動く。小さくて弱い、けれどいつもの飄々とした調子を失わない声で、由貴也は話した。
相変わらず寝ぼけたことを言っている。本当に寝ぼけているのかもしれないが。
「当たり前でしょ!! こんなことで死なないって!」
そう言いながらも、さっきまで由貴也が死ぬかのごとく取り乱していた自分を自覚していた。恥ずかしくなって由貴也を抱えていない方の手で乱暴に涙をぬぐった。
由貴也はどこか放心した様子で虚空を眺めていた。それは落胆のようにも見えた。
由貴也は起きる――現実に戻るということを望んでいなかったのかもしれない。具体的に生や死ではなく、あのままずっと眠っていたかったのかもしれない。
「……ねぇ、先輩。俺陸上好きそうに見える?」
「は?」
この状況で、いきなりの脈絡のない質問に、香代子はまぬけにも聞き返してしまった。涙も止まる。
「そんなこと聞いてる状況じゃないでしょ! どこが悪いのっ!?」
尋常でない顔色と弱った声音から、由貴也がどこかに異常を抱えているのは明白だ。
「いいから」
強い口調で言い切られ、由貴也が今、何よりもその答えを望んでいるのだと知った。
「好きじゃなきゃアンタの性格からしてやらないから」
香代子はこれでもかというくらいに強くきっぱりと断言した。
由貴也に陸上部に戻ってきて欲しいという打算がからんでいるわけではなかった。そういう言い方をすれば、まともじゃない状況といえども由貴也は見抜く。
「アンタは意味不明で、やっかいで、ろくでもないやつだけど、走ってるときはまだマシ!」
ゴールへと一直線に走る由貴也。そこにはグラウンドを離れればないようなひたむきさがあった。美しいフォームは見るものを魅了した。
「だから……」
香代子は今になってもためらった。この言葉はマネージャーとして部員のひとりに対する言葉ではない。香代子個人の望みだった。
「私は陸上やってるアンタがいい」
本当はこの言葉は胸に納めとくつもりだった。これは公平なマネージャーとしての視点を失っている。公私混同はしないと、入部するときに固く誓っていた。
それでも香代子は必死だった。由貴也を現実に留めておくために自らの掟を破ることもいとわなかった。
「……そう」
香代子の熱い言葉を見事に受け流して、由貴也は疲れたように瞳を閉じた。
「なら陸上部戻る」
ついでのように言って、由貴也は力尽きたのかまた動かなくなった。
どこがどうなって『それなら』なのかまったくもって不明だった。
「それってどういう……」
意味、と聞く前に、腕の中の由貴也が急に重みを増した。
「……っ!」
由貴也が顔を歪ませる。腹をえぐりとるように、指をワイシャツに食い込ませていた。
「だ、大丈夫っ!?」
由貴也が苦しんでいるのを前に香代子はただおろおろとしかできなかった。相変わらず誰かに助けを求めて視線をさまよわせることしかできない。
目を向けた先、廊下の端に人影が見えた。それはどんどん大きくなってくる。哲士が保健医を連れて走ってくるところだった。
ほっとしてまた涙があふれる。
「古賀!」
いつもは落ち着きを保っている哲士も、今回ばかりは表情や声が少し崩れていた。
香代子の頭の上で、とりあえず保健室に運んだ方がいい、と哲士と保健医の間でやりとりが交わされる。
「マネージャー、大丈夫だから」
なだめるように哲士が香代子の肩を二、三度軽く叩き、由貴也を香代子から抱きとる。そのまま由貴也の体は哲士によって抱き上げられた。
心を治めることができなかった。
昔からしっかりしていると言われてきた。ちょっとのことでは泣かなかったし、大げさに慌てることもなかった。人に必要以上に頼らなかったし、それでいいと思っていた。
恋に一喜一憂する同級生たちを見下してきた。今、もうそんなことはできなかった。
禁忌としてきた恋をしてしまったからなのか、それとも由貴也が倒れて動揺しているからなのか、香代子はその場にうずくまって泣いた。
自分は弱く、他と何ら変わりない存在だ。その事実がどうしようもなく、ただ子供のように泣いた。