18
暗い道を走っている。
心臓が痛いくらいに鳴っていた。息は上がり、足と心はバラバラに動く。ただ先を急かされる。
何かから逃げていた。足にからみつく黒い何かを振り払おうと必死に足を動かす。
果てのない暗い道。シュールな木々がざわめき、神経の敏感な部分を絶えず刺激する。
ごぽり、と足元で粘着質な水音が鳴る。それでも走った。背後に感じるおぞましい気配に足を止めるわけにはいかなかった。
水嵩はどんどん増していく。ついにからみつく水に足をとられた。
水に飲み込まれる。口から、鼻から、水が入ってくる。息ができない。
体が浮き上がり、ものすごい勢いで流される――……。
体が大きくひとつ痙攣し、由貴也の意識は現実に戻った。
悪夢の余韻が抜けきらないままで辺りに視線をめぐらす。寮の自分の部屋だった。いつのまにか部屋には濃く重い闇が垂れ込めている。
起き上がるのも面倒で、なんとなく顔を横に背ける。ベッドの上に投げ出された自分の手が見えた。
学校から帰ってきてからそのまま眠っていたらしい。制服のワイシャツが汗でびっしょりと濡れていて気持ち悪かった。
湿ったワイシャツは部屋の冷気によって急激に冷やされていく。寒いと思ったが、あえてその寒さの中に身を置いて吐き気をやりすごした。洗面所やトイレに行って吐くだけの気力が今の由貴也には残っていない。そもそも朝も昼もろくに食べていないので、吐くものもない。
吐き気よりも、今このとき巴の姿を思い浮かべても何の効力もないことに由貴也は絶望していた。
巴のところに帰ってしまえば、悪夢も吐き気も遠ざけられると思っていた。巴の側にいれば、すべてが許されると思っていた。
けれど違った。悪夢は相変わらずしつこく追いかけてきたし、それに伴った嘔吐ももちろんあった。
自分は何かから逃げている。でもそれは巴ではなかったのだ。
逃げるのを止めたはずなのに、まだ逃げている。
一体どこから、何から――?
薄く目を開くと、ドアの外に人の気配を感じた。その予感を裏づけるように、次の瞬間ドアがノックされる。
「古賀。俺、緒方だけど」
緒方――誰? と言いかけたところで、声に聞き覚えがある気がした。緒方 哲士。陸上部部長だ。
居留守を決め込んで、ベッドの上で寝返りをうった。陸上部を辞めた自分には哲士とのつながりはうっとうしいだけだ。
「古賀、いるよな?」
居留守を見透かす言葉が聞こえても、由貴也はまだ無視を貫いた。だけれどもほっとけば帰ると思っていたのに、哲士の気配はいつまでも消えなかった。あきらめずにドアの外に立っているようだった。
哲士と根比べをするのも面倒で、由貴也はベッドの上で体を起こした。
「……開いてますよ」
最高にめんどくさいと思いつつも、ドアに向かって言葉を放った。
陸上部を辞めた由貴也にとって哲士はもう先輩ではない。まどろっこしい敬語を使う必要もないのだが、運動部の気風に毒されたみたいだ。自然と丁寧な言葉が口をついた。
まもなくゆっくりとドアが開いた。
「どうも。元気……じゃなさそうだな」
居留守を使ったこともとがめもせずに、哲士はいつもの穏やかな態度で部屋に入ってきた。
部活帰りなのか薄く熱気をまとっている。絵に描いたようなスポーツマンぶりだ。
そのさわやかさが由貴也にはこの上なくうさんくさく感じてしかたなかった。部内をひっかきまわした由貴也に対し、哲士が悪感情を持っていないわけがない。むしろそうでなければ部長ではない。
「古賀はひとり部屋なのな」
部屋を見回して哲士が親しげに言う。
通常、男子寮の部屋は二人部屋だ。当然この部屋も造りは二人用である。だが、二段ベッドの上は空っぽで、部屋も由貴也の数少ない持ち物が散乱しているだけだ。
当初は由貴也にもルームメートがいた。だが誰かとの共同生活などまっぴらだったので、あの手この手を使って追い出した。
「この部屋幽霊が出るそうですよ。先輩も気をつけた方がいいんじゃないですか」
幽霊など嘘もいいところだ。ルームメートを追い出すために由貴也がそれらしい演出をしただけだ。それがいつのまにか噂になり、一人歩きしている。
哲士は冗談だと思ったのか軽く声を上げて笑っただけだった。
「それで何の用ですか?」
哲士の当たり障りのない世間話につきあう気などさらさらなく、由貴也は単刀直入に尋ねた。
ベッドの上から哲士を睥睨する。彼は由貴也の無礼な視線と物言いに少しも動揺せず、床に座っていた。
「陸上部、辞めるって言ったんだって?」
負の感情を欠片もにじませず、哲士が静かに切り出した。できの悪い生徒を諭す教師のような口調だった。
せいぜいできの悪い生徒になってやろうと由貴也は口を開く。
「内心ジャマなライバルがいなくなって清々しているんじゃないんですか」
皮肉をたっぷりこめた言葉の切っ先を哲士に向ける。
ジャマなライバル――陸上と恋愛どっちに対しても自分の存在は哲士にとって邪魔でしかたないはずだ。
「おかげさまで。誰かさんのせいで失恋寸前だよ」
哲士は恋愛の方でとったようだ。けれども由貴也の挑発にはのらず、苦笑しただけだった。
「俺のせいじゃないですよ。誘惑した覚えないし」
哲士が香代子に対し淡い恋心を持っているのは知っていた。由貴也にとってはどうでもいいことだったけれども、彼らがくっついてくれることはよくよく考えると歓迎すべき事態ではあった。
おせっかいな香代子は自分に対して妙な関心を向けている。それが他の誰かに向くようになればいいと思っていた。おせっかい第二号である哲士も片づいて一石二鳥だった。
「誘惑って……お前、本当にいい性格してるよな」
「どうも」
脱力したような哲士の言葉に軽く答える。
由貴也に言わせれば、部長として他人のことばかりを考えている哲士の方こそ奇特な性格だった。
「飴、食べます?」
由貴也はベッドの下にある非常食袋から棒つきキャンディーを取り出す。
「……や、いい。本当にマイペースだよな」
義理で勧めたキャンディーを断られ、由貴也はじゃあ、と遠慮なくキャンディーを口にくわえた。哲士はどことなく疲れた顔をして見ていた。
由貴也がキャンディーを賞味している間に哲士は視線をさまよわせていた。その瞳がある一点をとらえる。
部屋の隅に脱ぎ捨てられている陸上部のジャージ。無造作に転がっているスパイク。哲士はそれらにぴたりと焦点を合わせていた。
陸上を愛す哲士にとって、ぞんざいに扱われているそれらは腹立たしい光景だろう。
それを表すように、哲士がかすかに息をついたのがわかった。
「……少しは楽になったか?」
由貴也には顔を向けず、哲士は淡々と問いかけてきた。
「陸上から離れて、あの副会長のとこに戻って、少しは楽になったか?」
副会長。それが巴のことを指すのだと察し、由貴也は瞬時に心を硬化させた。
「そんな睨むなって」
「自顔です」
自顔なわけないのだが、しれっと答える。どうして巴のことを持ち出す相手に愛想よくしなくてはいけないのか。もともとよくする愛想もなく、愛想を振りまくという発想すらないが。
「で、アンタは俺を一体どうしたいんですか」
哲士は不用意に巴のことに触れた。その瞬間から由貴也の中で哲士に対する手加減は消えた。
「今頃になってメンバー探ししているようでは、リレーに出てもムダじゃないですか」
最初から香代子や哲士が必死になってリレーをなんとか形にしようとするさまを、無理だと思って眺めていた。補欠も充分にいないような弱小部だ。
だから自分がリレーのメンバーに組み込まれても由貴也は何も言わなかった。遠からずどこかほころびかでるのはわかっていた。
「メンバー……ね」
由貴也の切り込みに、哲士は含みのある笑み見せた。
嫌だ、と反射的に思った。こういうところが壮司とは似ていない。同じスポーツマンなせいか、事あるごとに由貴也の中で哲士と壮司の印象が重なる。
けれど哲士は壮司よりも直情型ではない。その分だけ相手にしづらい。
「今日は古賀にこれを渡しに来たんだ」
皮肉げな表情を消し、哲士は分別のある顔でカバンから紙を一枚取り出した。
自分の方に差し出されたその紙をとりあえず受け取り、ざっと目を通した。
「……何のつもりですか」
入部届け。B5の紙にはゴシック体でその文字が黒々と印刷されていた。メンバー……ね、と言った哲士の意味深な笑みが脳内で閃いた。
「古賀、お前は陸上部に始めから入ってないよ」
だから退部もしてないし、厳密に言うとリレーのメンバーでもない、と哲士は続けた。
思い返してみれば、由貴也は香代子と口頭で入部すると言葉を交わしただけだった。入部届けなど書いた覚えもない。
「正式に部員にはせず、ずっと仮入部の状態だったんだ」
仮入部。それではリレーの選手になれるわけがない。哲士の意味有りげなセリフの意図を理解した。
選り好みできるほど贅沢を言っていられないあの部が、由貴也に対し仮入部に据え置いたわけはひとつしかない。乾いた笑いが口をついた。
「つまりは俺の様子を見てたわけだ、アンタたちは」
由貴也は自分の素行があまりよくないことを重々承知している。ましてや体育会系の気質とは程遠いことも。
部長として部を守る責任がある哲士からすれば、由貴也は不穏分子に他ならない。部に入れるのをためらうのも当然だ。
そこまでわかっているのに、なぜ哲士に対し失望に似た感情を抱いているのか。今、この瞬間だまされたと思っているのか。
「俺に心を開けとか言っときながら、アンタたちは俺を信用していなかったわけだ」
暗い愉悦に由貴也は顔を歪めて笑った。哲士の化けの皮がはがれて、自分はあからさまに安心していた。
香代子のおせっかいも、哲士の親切さも、すべては由貴也を見定めるためのものだったのだ。試すためのものだったのだ。
無償で他人に心を砕く人間などいない。優しさには裏があり、思いやりにはそれなりの理由がある。
「退部する手続きがはぶけてよかったんじゃないですか」
哲士の予想通り、自分は騒ぎを起こして陸上部を辞める。筋書き通りにすべてが丸く納まる。
「古賀、すべては俺の一存だよ。部のやつらは関係ない。マネージャーもな」
「いまさら」
哲士の弁明を喉の奥で笑って退けた。
それでも哲士は揺るがない瞳でこちらを見ていた。由貴也の本質を暴こうとする強いまなざしだった。
壮司と哲士の存在が由貴也の中で乖離する。巴と壮司だけが確たる輪郭を持って存在していた脳内に、哲士の姿が刻みこまれる。
巴と関わりがない人物である哲士を、心が拒絶する。気持ち悪い。
吐き気を押さえ込むように、キャンディーを噛み砕いた。
「なぁ、古賀。楽になってないよな。陸上からも、失恋からも逃げて……でも結局、お前逃げ切れてないよ」
哲士が心の嫌な部分に触れてくる。嫌悪感が強まる。
「苦しいだろ、今。そうやっていろんな気持ちに知らんふりしているけど、もう限界だろ」
哲士は何を言っているのか。由貴也のすべての感情は巴に捧げられるものだ。巴が去った今、胸からあふれてくる様々な思いは枯渇した。
蓋をする感情などもうない。
それなのに胸の奥が哲士の言葉に呼応しているようにざわめく。
「そのスパイクも、中学のときから使ってたやつだろ。捨てずにとってあったんだな。しかもこっちに持ってきてさ」
由貴也の部屋には最低限のものすらない。学校から配布されたものと、巴にそろえてもらった少しの日常品だけだ。
その殺風景な部屋の中にあって、陸上の用具一式がそろっているさまは確かに不自然だった。
「人を感動話の主人公にするの止めてくれません?」
陸上をもう一度やると決める前から、陸上の用具はこの部屋にあった。入寮時に家からここへ送ってもらった。
だけどそれに大きな意味があるわけではない。部屋に置いておけば何かの役に立つかもしれないとの軽い思いだった。
深い意味はなかった。にもかかわらず哲士が“実は陸上が好きだった”というストーリーに由貴也を当てはめようとしているのがわかって嫌になる。
「作り話じゃないって。お前さっきからめちゃくちゃ口悪いけど、部にいた頃はそうでもなかったろ? 少しは我慢してたんだなと思ったよ」
古賀は好きじゃないもののために我慢できんの、と哲士はしたり顔で聞いてきた。
「それがアンタの常套手段ですか。口先で丸めこむ。部長ってずいぶん口がうまくないとできないんですね」
「当たり前だよ。お前みたいに本心を隠してたら誰もついてこないからな」
哲士からいつもの穏やかな表情が消えていた。まわりの雰囲気を固く変えるような真剣な表情だった。
山の稜線にしぶとく残った夕陽が、哲士の顔に濃い陰影を作っていた。
「俺は古賀を信じる。だからこれを渡す」
薄闇の中でも哲士の差し出した入部届けが白く際立っていた。まるでそれが正しいかのごとく浮かび上がっていた。
「お前はこれ書いて戻って来い」
哲士に手をつかまれ、無理やり入部届けを受けとらされる。ぐっと手首を握られ、哲士の顔が間近に迫る。夜明けの光明のような、強い光が瞳に宿っていた。
「逃げんなよ。自分と向き合え。いつまでも楽になんないぞ」
糸がほどけるように、ゆるやかに哲士の手が離れていく。視線を落とすと、つかまれた手首が赤くなっていた。
わけがわからなかった。信じる、戻って来い、楽になる、哲士の目的がわからない。
静かに由貴也は混乱していた。哲士が立ち上がるさまをただうつむいた視界の端で感じていた。
「……俺には今のお前がずいぶん弱く危うく感じるよ」
哲士のその言葉を最後に静かにドアが閉まった。
哲士に言われたことを無意識に考えようとして、体が拒否する。強まった吐き気に由貴也はほとんど這う体で部屋を出た。
人気のない廊下をおぼつかない足取りで歩く。トイレの扉を体当たりするように開けた。手洗い場の鏡に映った自分の顔が憔悴していて舌打ちしたくなる。これでは哲士の言葉にダメージを受けているようだ。
個室の扉を閉める余裕もなく、そのまま嘔吐した。胃の中は空っぽで、胃液だけを吐いた。
慣れきった一連の作業を何も考えずに行う。トイレを流し、手洗い場で口をゆすいでついでに顔も洗う。制服のスラックスからだらっと出たワイシャツの裾で顔を拭いた。意図的に目の前の鏡は見なかった。
トイレから出たところで急激な胃の痛みに襲われた。
誰かに胃をつかまれているような痛みに耐えきれず、膝をつく。胃のあたりのワイシャツを強くつかんだ。
視界がぼやける。そりゃあれだけ吐いていれば、胃も痛くなるな、とこの期に及んでもどこか冷静に考えている自分がいた。
立ち上がれそうになく、少し休んでから部屋に戻ろうと、崩れるように廊下に寝転がった。氷のように冷たい床だった。
目を閉じて、思い浮かべるのはただひとり。激痛から逃れるように、その姿を心に描く。
――巴。
数秒の空白の後、由貴也は信じられない思いで目を開いた。
一番身近で、一番側にいたはずの巴が今は遠かった。どこかよそよそしさをまとって由貴也の中で蘇った。
そのとき自分の中で巴の立ち位置が変化していることに気づいた。
巴のところに戻っても楽にならなかった自分。
“自分と向き合え”
哲士の言葉が鋭く由貴也を一閃した。
逃げている。何から、どこから――?
突如、天啓のように由貴也の中であるひとつの答えがひらめいた。
この胸に落ちて溜まっていくのは、巴を恋い慕う気持ちではない。
想いはもうすでに終末へと向かっていたのだ。巴との別離。それを見据え、刻々と心は変化していた。
変わっていく自身の感情を認めたくなくて、いつまでも不変にしがみついていた。変わらないことが正だと思っていた。
認めてしまえばどうにかなってしまうと思った。気が狂うほどに衝撃を受けてしまいそうだった。
巴を好きなままでいるほうが楽だった。自分の意志もなにもなく、巴の世界に自分も浸っていれば心地よかった。
だけどなにも変わらないでいることなどできなかった。目を背けてもほころびが生じ、歪みに軋む。
それがこのざまだ。
全身がひきつり、息がつまる。痛みの嵐は去るどころか存分に暴れている。
焼けつくような胃の熱さとは対照的に、体の芯にぼんやりとした熱が灯った。その熱が頭までめぐり、脳内にもやがかかる。痛みも寒さも、すべての感覚があいまいに溶け合い、遠ざかっていく。
自分は巴から離れることから逃げていた。由貴也の望みと裏腹に、心はもう巴の元を去る準備をしている。
巴と離れるか、自分が壊れるかの二者択一に、絶望の中もうこのまま目覚めなければいいのに、と意識を手放した。