17
暗い廊下を哲士は無言で歩いていた。香代子もただ時折鼻をすすりながらその後へついていった。
何も考えられない。自分が由貴也にやってきたことはムダだったのだ。まったく意味がないことだった。
哲士に連れていかれたのは保健室だった。保健医は帰ってしまったのか、室内は暗い。
「座って」
哲士の声とともに照明が点いた。透き通った光が保健室の白さに反射する。
香代子は哲士に言われた通りに適当ないすに座った。
哲士は淡々とキャビネットから脱脂綿と消毒液を取り出した。その姿をぼんやりと、景色を見るような遠さで眺める。
彼がしゃがみこみ、香代子の血がしたたる膝に脱脂綿を押しつける。消毒液が傷口に染みた。その痛さに、なぜ哲士に保健室につれてこられたかを知った。
涙腺が弱くなっているせいか、少しの痛みにも涙が出た。人前で泣くなど何年ぶりだろう。香代子は強情な子供だったので、涙を見せることは負けと同義に考えていた。
感情がコントロールできない。香代子は長女という立場から、甘えるより先にそれを抑制することを覚えた。長年馴れ親しんだ感覚のはずなのに今は上手く発揮できない。
涙の膜が張った目で哲士を見た。怒っているのか、困っているのか、呆れているのか。どれもあてはまりそうな気がして、どれもあてはまらなそうな顔をしていた。
哲士はおそらく、今までの経緯を聞いただろう。由貴也が根本と揉め、砲丸を振り上げ、そして走り去ったと。その行動から裏にある由貴也の感情まで彼は考えたはずだ。哲士とはそういう人物だった。
哲士は巴に甘える由貴也を見てどう思ったのだろう。香代子と同じように落胆し、裏切られたような気分になったのだろうか。自分たちに何もできることはないと無力感に苛まれたのだろうか。
「……古賀、吐いてたろ」
キャビネットに消毒液を戻しながら、哲士は何でもないことのように言った。思いがけない言葉に、香代子は驚きに何も言えない。哲士は首だけを動かし、こちらの反応を確かめた。
「やっぱりな」
香代子はよほど図星だという顔をしていたのか、哲士は苦笑した。それからキャビネットに向き直り、静かにその扉を閉めた。
「練習試合の日――」
哲士はゆっくりと語り始める。彼はキャビネットの前にあった長椅子に腰かけた。香代子とは向かい合う形になるが、哲士の瞳は別段香代子をとらえようとはしていなかった。
「朝、古賀を迎えに行ったらあいつ部屋にいなくて」
意外な話の展開だった。由貴也は集合時間など気にせず、惰眠を貪っていたのかと思った。
「探したら洗面所で吐いてた。何度も何度も」
会場についた後、大丈夫かと由貴也に尋ねた哲士。昼休みに由貴也が見せた青白い顔。それらが急につながった。
「なんで……?」
なぜ由貴也は吐いたのか。最後まで香代子が言わなくともわかったように、哲士が口を開いた。
「嫌な夢を見るって」
「夢?」
嫌な夢。子供かと突っこみたくなるような話だ。しかし悪夢と由貴也の嘔吐に奇妙な関連性を感じた。
「夢の内容がなんだかは知らないけど、古賀は吐いたり、夢を見たり、そういうことでしか感情を発散させられないんじゃないかと思う」
夢は普段その人の抑圧されている感情が出るという。悪夢はすなわち由貴也の恐れ。そして吐くことは由貴也の不安定さの表れではないのか。そう哲士は言っているのだ。
由貴也は人とは違う次元でものを見て、人とは違う感情の吐き出し方をする。笑ったり怒ったりではなく、自分には抱えきれないものを嘔吐という直接的な形で排泄する。ひどく不器用なあり方だった。
「古賀、何て言ってた?」
再び話が由貴也が走り去った後のことになる。哲士は香代子を問いつめようだとかそういった感情はなく、困ったような笑みすら浮かべていた。
「……辞めるって」
香代子はたっぷり逡巡してから答えた。部長である哲士に話してしまえば、この事態は香代子の胸だけで納めることはできなくなる。退部の手続きをとらざる得なくなってしまう。
香代子は不安な気持ちで哲士を見たが、彼は「しょうがないなぁ」と呆れ半分の声を出した。どうやら哲士は香代子ほど深刻にこの状況を考えていないようだった。
「明日、古賀の部屋行ってくるから」
さらりと告げられたその言葉に、香代子は目を見開く。陸上に背を向け、巴のところに行った由貴也の姿を見ても、哲士はあきらめていない。由貴也を陸上部に連れ戻すつもりでいる。
香代子は由貴也に拒絶されるのが怖くて、あの冷たい目に射抜かれることに耐えられそうになくて、由貴也から離れたいと思った。哲士を前に、その自分を恥じた。
「……ごめんね、大会前なのに。リレーのメンバーもまたいなくなっちゃって――」
ごめんね、とつけ加えた語尾が涙にかすれた。
哲士の瞳が初めて香代子をはっきりととらえる。彼はいつもの大人びた笑顔を浮かべていた。人を安心させるような笑みだった。
「古賀は多分逃げてるだけだって。それにどっちかといえば責任は俺の方にあるし」
後半、哲士は翳りを見せて苦笑いした。彼の言う責任とは練習試合でのバトンパスの失敗を指しているのだろう。
哲士は部長になってからずっとエース区間である二走を努めてきた。彼の几帳面な性格を表してバトンパスは抜群で、誰が相手でも上手く調整していた。
その彼が練習試合のあの日、由貴也相手に目算を誤った。あまりにもらしくない失敗だった。
「古賀には悪いことしたな」
薄く笑って哲士は窓越しにゆるく空を仰ぎ見た。その目は遠いものを見ていた。
「俺、中学のときから古賀の背中ばかり見てた」
哲士は相変わらず笑っていたが、その笑みは部長としてのものではなかった。部長の仮面をとり払った下にある、哲士本来の表情だった。
「俺は古賀と同じ地区の中学に通ってて、よく同じグループで走らされてた」
中学では陸上部があるところは少ない。その上、哲士て由貴也は同じ短距離選手だ。否が応でも練習試合などでたびたび顔を合わせることになっただろう。
「スタートダッシュで差がついて、中盤で引き離されて、最後にはもう全然届かないとこにいる。だから背中ばかり見てた」
背中を見る。それが陸上選手にとっていかに屈辱的なことか香代子にもわかる。横に並ぶことすらできない、完全なる敗北の光景だ。
「だから余裕ぶった先輩ヅラしてたけど、古賀が入ってきたときはけっこう複雑だったな」
まぁ、あの顔も複雑だったけど、と哲士はおどけた様子でつけ足した。
哲士は中学時代、由貴也の顔の良さなど目に入らないくらい、由貴也の背の印象が強かったのだろう。
「だからダメだな。リレーのとき、古賀が真正面から走ってきて頭真っ白になった。中学のときのことばかりが記憶に残って、今の古賀の力量を上手く計れない」
哲士の話を聞きながら、由貴也は台風の目だ、と思った。彼を中心にして哲士も根本も、陸上部までもがからめとられていく。そして自分もその渦の中にいる。
「俺も正直思うよ。根本と同じように、何で古賀なのかって」
根本が由貴也に言ったセリフは『何でお前なんだよ』
――何でケガしたのが俺で、走ってるのがお前なんだよ……。
根本の悲痛な叫びがまざまざとよみがえってきた。
「何で才能を持ってるのが古賀なんだろうって」
嫌みも誇張もなく、哲士はごく自然に才能という単語を使った。それでも根本とは違って、自分との対比を持ち出さなかったことは、哲士の意地か。才能があるのが何で自分じゃないんだろう、と。
フォームの美しさ、スタート時における勘のよさなど、由貴也は陸上選手が渇望してやまないものを最初から持っている。あの勝ち負けに対するこだわりのなさも、ある意味才能だ。欲が出たとたん、スポーツ選手は堕ちる。
天分に恵まれた由貴也は、才能の上に無造作に立っている。生まれながらにして皆より一段上に立ちながら、何もしようとしない。それは傲慢だ。許されはしないことだ。
周囲の人々は由貴也に努力を要求する。彼の持っているものは才能だけではなく努力で勝ち得たものだという図式を作る。
そうでもしなければやっていけない。“割りに合わない”普通の人はそう思う。哲士のように。
努力は万人が持ち得るが、才能はそうではない。そのことから目を反らすために、人は努力を才能よりも上位に置く。努力を尊ぶ。
才能を持ちながら努力をしないことは自らを危険に置くことだ。その他大勢から攻撃され、足を引っ張られ、つぶされる。それが彼らにとって自己防衛だからだ。才能を持っていても努力をしなかったからダメだったじゃないか、そういう結果を作って安心する。
由貴也は殊更危ない。彼は圧倒的な天才というわけではない。他よりも才能があるという程度だ。
届きそうで届かない存在。届きそうだと錯覚させる存在。人の心を煽るにはこれ以上ない人材だった。
「古賀には復活してもらわないと困る。俺の中でいい加減ケリをつけたい」
哲士は少し皮肉さをこめて笑った。その皮肉さは中学時代の呪縛にとらわれ続ける自身へ向けているものなのだろう。
その証拠に哲士の目はまったく笑っていなかった。
香代子は夢でも見ているようだった。哲士はいつだって大人で余裕があった。一歩退いて全体を見ているような落ち着きがあった。
それが今はこんなにも自分のことばかりだ。
香代子は驚きを隠せない。哲士を改めてまじまじと見つめると、彼はばつが悪そうに笑った。
「せっかく古賀がかっこ悪いところさらしてくれたのに、俺までやっちゃったよ」
我に返ったように、哲士がいつもの大人びた態度をとりもどす。
「古賀は連れ戻すから」
部長としての顔に戻ろうとして失敗し、哲士はくしゃりと顔を歪めた。それからそれをごまかすように首裏に手を当てた。
「……損な性分だよな。邪魔者がいなくなっても素直に喜べないなんて」
「え……?」
哲士らしからぬ小さな声でつぶやかれたその言葉の意味がとれずに聞き返す。
しかしそのときにはもう哲士はすっかり見慣れた部長の顔に戻っていた。
「帰るか」
何度か瞬きをしているうちに哲士はゆったりと歩き出す。香代子もその後を追った。
もう瞳に涙の気配はなかった。