16
もういい。辞める。
由貴也の言葉が脳内でこだまする。
冷たい声、そして決して振り向かない背中。あのときのショックで香代子の中の一切が動きを止めていた。
辞める。その言葉が断頭台の分厚い刃のように、香代子へ落ちてきた。あとには自分の無力さだけが残り、動けない。
長の茫然自失から立ち直ったのは、冷たい北風が頬をなでたときだった。
はっと我に返る。長い間地面に座り込んでいたせいで体は冷えきり、辺りはすでに暗くなり始めていた。
とりあえず立ち上がると、芯まで冷えた体のあちこちが軋んだ。
――探さなくちゃ。
とにかく由貴也を探さなくては。あんなに吐いていたのだ。まともな状態だとは考えられない。
でも由貴也がどこにいるかなどわからなかった。ぼんやりと由貴也の歩いて行った方を見る。巨大な校舎がそびえていた。
その端に灯るひとつの明かりに目が吸いよせられる。本館の端、生徒会室だ。薄闇の中、そこだけやけに煌々と輝いて見えた。
香代子は光に吸いよせられるように、生徒会室へ向かった。静まった校舎の中をおぼつかない足どりで歩いた。
なぜ生徒会室へ向かっているのかわからなかった。ただ霧の中を歩いているような不確かな感覚の中に香代子はいた。
生徒会室の前に立ったとき、急に現実に立ち返った。しきりに痛みを訴える足に目をやると、すりむけた膝からは血が垂れ、上履きすらはいていなかった。
体中の感覚が戻ってくる。放課後の廊下は静けさが冴え渡り、鋭い寒さが漂っていた。
何をやっているんだろう、と唇を噛む。一体こんなところまで来て何をするつもりだったのか。
惨めさに身をひるがえす。ここには巴がいる。彼女とは会いたくなかった。
きびすを返した瞬間、少し開いていた生徒会室のドアから室内の様子が見えた。
背中から叩かれたように、心臓がひとつ大きく鼓動を打つ。
見慣れた陸上部の文字が視界に飛び込んできた。それはジャージの背中にプリントされたロゴだった。
知っている背中がそこにはあった。香代子の前では常に人を拒む冷たい背中が、今は愛しい女性に身を預けきりくつろいでいた。
香代子は動くことも、目を反らすことすらできずにドアの前に立ちすくむ。由貴也は巴の膝の上で身じろぎし、巴にすがりつくようにその体へ手を回した。
誰にも心を許さない由貴也が巴にだけは弱った姿すら積極的にさらす。彼の中で巴だけが特別なのだ。彼の抱くすべての感情は巴へと捧げられるものなのだ。
唐突に鋭い眼光が香代子を貫く。
由貴也が重なりあった体の隙間から、こちらを見ていた。由貴也はここに香代子がいることをわかっている。わかっているからこそこれ以上ないほどの拒絶を示した瞳をドアの外へ向けているのだ。
涙が一筋、頬にすべり落ちた。泣いているという自覚もないまま、香代子は涙を流した。
結局、由貴也は最後にはそこへ戻るのだ。
自分が惨めでしかたなかった。お前など必要ないと由貴也は全身で言っている。彼が求めているのはいつだって巴ひとりでそれだけで、他は何の救いにもならない。
本当に香代子の存在は少しも意味を持たない。巴はそこにいるだけで由貴也を惹きつける。けれど香代子はどんなに由貴也を気にかけたってその瞳に映ることはない。
ずるいと思った。一心に由貴也の想いを向けられている巴をうらやんだ。うらやむよりも強く、香代子は巴を妬んでいた。
そこで愕然と悟った。自分は由貴也が好きなのだと。
由貴也は香代子自身でさえも気づいていなかった気持ちを見抜き、予防線を張ったのだ。
嗚咽が漏れそうになって手で口をふさいだ。絶望が胸に広がっていく。
何に失望しているのか、何にショックを受けているのかわからなかった。ただそこには香代子の入りこめない空間があった。
脱力感に膝が折れた。これ以上なく香代子は打ちのめされていた。
崩れる香代子の腕を誰かが引き戻す。力の入らない足でなんとか立ちながら、緩慢な動きでかたわらの人物を見上げる。
そこには険しい顔をした哲士が立っていた。哲士の瞳も部屋の中の由貴也へ向いていた。
「行こう」
動揺する香代子とは対照的に、哲士は落ち着き払っていた。彼に手を引かれ、その場を去った。