14
由貴也がいたのはグラウンドの端、普段は誰も使うことがない水道だった。
地面に膝をつき、シンクに顔を突っ込んでいる。さかんに咳を繰り返し、時折その背中が痙攣していた。
由貴也は吐いていた。
彼を刺激しないようにそっと近づき、その背中をさする。香代子の手を振り払うだけの気力もないらしく、由貴也はなされるがままになっていた。
そのまま嘔吐を繰り返し、やっと胃の中が空になったのか由貴也は蛇口をひねり、口をゆすいで香代子の手を振り払った。
「触んないで」
由貴也は今までになく直接的な拒絶の言葉を口にした。
「うん、ごめんね」
香代子は素直に手を引く。
吐いた後だからなのか、それとも気持ちが高ぶっているからなのか、今の由貴也は普段とは明らかに違った。眼光は鋭く、話しかけるのもためらうくらい、気が立っていた。
しかし香代子を威嚇する一方で、由貴也はヒビか入ったガラス人形のようでもあった。繊細でもろく、見ていて不安になる。
「大丈夫? 具合、悪いの?」
そう尋ねながらも、由貴也の異変が身体的なものだけが原因ではないとわかっていた。
由貴也はこちらに顔を向けると不意に笑った。整った顔が歪む。ありったけの嘲りを具現化したような笑みだった。
由貴也が牙を剥く。
背筋が凍った。わきあがる恐れに体が固まった。
「アンタたちの青春ごっこには反吐が出る」
由貴也の顔にもう笑みはなかった。氷のような無表情で辛辣な言葉を繰り出す。
「……青春ごっこってどういうこと?」
香代子もこれには黙っていられなかった。自然と声が固くなる。
由貴也の言葉によって、陸上部は貶められている。
「別に」
由貴也はまたふっと心を閉ざす。
その頑なな様子に、再び怒りが再燃した。
「ちゃんとはっきり言って!」
何もかも投げやりな由貴也に香代子は腹が立ってしかたなかった。
何もかも冷めた目で見て、すべてを自分から切り離して考えている。そのくせ現状には不満をこぼすのだ。
「思ってることはちゃんと言葉にして!! アンタがそうやって心を開かないからいつまでも青春ごっこのままなの!」
陸上部の“青春”を外から見ている由貴也には、このバカ騒ぎはたいそうくだらなく見えるだろう。
だがくだらないと一蹴するには今や由貴也と陸上部の面々は近すぎる距離にいた。無視できないほど彼の日常へ食い込んでいるのだ。
だから由貴也はいらだっている。
「バトン一回落としたからって何だっていうのっ! しっかりしなさいよ!!」
焦点を結ばない由貴也の瞳をとらえる。
ここが由貴也の踏ん張りどころだ。逆境である今だからこそ彼の真価が問われているのだ。
視線がからむ。ふ、と由貴也の瞳に鋭い光が灯った。
刃のような眼光が香代子の怒りを凌駕する。
「走らないアンタに何がわかる!」
由貴也に刻まれていたのはまぎれもなく怒りの形相だった。殻を破ったように感情があふれている。
声を荒げた由貴也は普通の男子高校生にしか見えなかった。由貴也は何も感じていなかったわけではないのだ。
走らないアンタに――痛い言葉だった。彼らと多くの時間を共有しても、どんなに競技のことを理解していても、一番肝心なところを香代子は知らない。練習のきつさ、試合の緊張、そして勝敗による感情の揺らぎ。それらは実際に競技へ身を捧げるものしか体験しえない。
香代子は圧倒的な無力さの前に何も言えなくなった。
由貴也は赤い溶岩が石化するようにまた急激に表情を失わせていった。怒りの残滓すらない無表情はますます香代子を遠ざけているように思えた。
その彼を前にしても何も言葉が出なかった。由貴也と陸上をつなぎとめるだけのことを言える自信がなかった。
「……もういい」
完全に温度のない声で由貴也は独り言のように言葉を放り投げた。
「辞める」
辞める。部活を陸上を辞める。この言葉を聞いたとき、香代子は初めてこの言葉を一番恐れていたのだと知った。
目の前が暗くなる。
由貴也がいなくなると陸上部が困るからではない。純粋に彼の才能を惜しんででもない。ただ嫌だと。由貴也がいなくなるのは嫌だと心のどこかが叫んでいた。
由貴也が一瞥も与えずにこちらに背を向けた。何の未練もなく歩いていく姿にうまく声が出ない。
嫌だ、待って、行かないで。頭の中で渦巻いているのに言葉として形にならない。
由貴也の姿が完全に見えなくなり、香代子はその場にへたりこんだ。
今になってすりむいた膝が痛みを訴えていた。