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哲士は「ごめん、俺のせいだ」と沈痛な顔でリレーメンバーに謝っていた。後輩である由貴也にも頭を下げていた。
リレーは六位。最下位だった。
由貴也は何も言わなかった。当事者のひとりであるのに、いつも通り淡々としていた。
不満――までの強い感情ではないと思う。しかし部員は皆、感じたはずだ。由貴也に物足りなさを。
由貴也は今、哲士とともに落ちこむことが無意識に求められている。互いに自分の方が悪いと言い、慰めあうのは傍から見れば滑稽で陳腐かもしれない。だけれどもその無意味さが今は必要だった。
これは哲士だけでなく、チーム全体の痛手なのだから。
由貴也は相変わらず他と一線を引いている。四人で構成されるリレーのメンバーながら、与えられた距離をひとりで走っているようだった。
疎外感――それが信頼の代わりに由貴也と部員との間に横たわっている感情だった。
哲士はくよくよと落ちこみ続けることはなかったが、それでも帰りのバスの中は暗かった。疲れていたせいもあった。由貴也はまたしても寝ていた。
学院に帰ってきてからは今日の反省点を個々に述べるミーティングをみっちりと行い、解散となった。
翌日の日曜は休養日で部活は休みだった。気持ちを切り替えるにはちょうどいい猶予だと思った。
練習試合の反省を踏まえて部活が再開された月曜、部内の雰囲気が異なっていた。
香代子がグラウンドにきたときにはもう異変は起きていた。
「気持ち悪いんだよっ!!」
誰かの怒鳴り声がグラウンドに響き渡る。その声に聞き覚えがある気がして、香代子は声の聞こえた方へ顔を向けた。
グラウンドの端、倉庫の前に人垣ができている。人の頭の隙間から中央の様子が見えた。
黒地にブルーのロゴが入った立志院陸上部のジャージと制服姿のふたりが対峙している。
真新しい陸上部のジャージの方は思った通り由貴也だった。
相変わらず感情が読み取れない表情をする由貴也に対し、向かい合う人物は怒りに顔を赤らめていた。
「内心では俺らのこと見下してんだろっ!! 遅すぎてリレーなんかやってらんないって顔しやがって!」
声を荒げ、今にも由貴也に殴りかかりそうなのは陸上部二年の根本だった。
彼は中距離の選手だが、部員が少ないため、四×百メートルリレーの選手として登録されていた。しかし二月の初めに肉離れをおこし、次の大会の出場は絶望的だと言われていた。
由貴也は彼の代わりにリレーのメンバーへ入ったのだ。
香代子はとっさに哲士を探す。この騒ぎを収めなくてはならない。
だが、こういうときにかぎって哲士はグラウンドにいなかった。とにかく香代子は人垣をかきわけて前へ進む。
「根本、もう止めろよ」
「もういいだろ」
根本の脇を押さえる部員が彼を静かに制止する。その声に感情的な行動をとった根本を責める響きはなかった。
根本は努力家だ。今回のケガも練習のしすぎによる疲労性のものだった。皆、それは知っている。だから根本を頭ごなしに怒れない。
根本は試合に出れない無念さを由貴也に託したのだ。
由貴也にとっては迷惑千万な話だろう。彼は望んでリレーに出ているわけではない。
その温度差が根本にはやるせないのだ。
しかしいくらやるせなくとも根本は決して分別のない部員ではなかった。理不尽に後輩を怒鳴るような先輩ではなかった。
その彼に我を忘れされたのがきっとあのリレーだ。致命的ともいえるバトンミス。チームの不安をあおるには十分すぎた。
「……なんで」
うなだれた顔からうめくような声が発せられる。同級生から諭され、意気消沈した根本は立っているのがやっとのような姿だった。
憐憫を誘うその姿さえも、由貴也は淡々と眺めていた。暇つぶしにテレビを見ているような淡白さだった。
「……なんでお前なんだよ。なんでケガしたのが俺で走ってるのがお前なんだよ……」
弱々しい声だった。しかしその裏側で走りたいと悲痛な叫びを上げているようだった。
根本の両脇を抱える部員の腕は、彼を抑えるためでなく支えるためのものになっていた。
「わかりました」
突然、由貴也の口から流暢な敬語が放たれる。
嫌な予感がした。この突発的な敬語は前にも聞いたことがある。香代子はいそいで身を前へ前へと進める。
由貴也は手を伸ばし、かたわらの箱から何かをとりだす。彼の手の中で、それが夕陽で黒光りしている。競技に使う鉄製の球、砲丸だった。
由貴也は感触を確かめるように握ると、ためらいなくそれを振り上げる。砲丸を握った拳が向かう先は彼自身の膝――。
「ダメっ!!」
香代子は飛び出すように、人垣の中心へ躍り出た。
飛びかかるように由貴也に向かって走る。無我夢中で手を伸ばす。
砲丸を握った手が空を切る音を間近で聞いた。由貴也の腕をひっつかみ、そのまま押し倒した。
「……ッ!!」
直後、砲丸がすぐ側に落ちた。地面がかすかに揺れる。
周囲の音が一瞬にして消えた。誰もが落ちた砲丸を見ていた。
由貴也が当初の目的通り、これを膝へ振り下ろしきったなら、彼はもう二度と走れなくなっていただろう。スポーツ選手の体は強靭であり繊細だ。
皆、由貴也の突飛な行動に驚き、おののいていた。
香代子は倒れた身を起こし、手を振り上げた。この頃に及んでぼんやりと仰向くになったままでいる由貴也の胸ぐらをつかみ、強制的に上半身を起こさせる。そのまま渾身の力で由貴也の頬をひっぱたいた。
ビンタをまともに受け、由貴也の顔が斜めに傾く。
「バカッ! 何やってんのよ!!」
高ぶっている根本の言葉を真に受けて、本気で自分で自分を傷つけようとしたのだ。バカとしか言いようがない。由貴也がケガをしたからといって根本が復活するわけではない。
「誰もアンタがケガすることなんか望んでないの!」
由貴也は顔を傾けたまま一向に上げようとしない。夕陽が顔に濃い陰影を作り、表情がはっきりとしない。
「ちょっと聞いてんのっ!?」
怒り心頭の香代子の声で由貴也はやっとゆるゆると顔を上げる。
頭に血がのぼっていた香代子だったが、あらわになった由貴也の表情に、一瞬にして怒りが凍った。
心底しんどそうな顔で由貴也は真っ青になっていた。
怒りもいらだちもやるせなさも、あらゆる感情すべてをはじくあの硬質な瞳はなかった。
「……ちょっ、どうし――」
どうしたの? と言い切る前に由貴也がこみあげてきたものに耐えるように口に手を当てる。そのまま身をひるがえした。
由貴也の向かった方の人垣が割れる。その中を彼が脇目も振らずに駆けていく。
香代子も反射的に立ち上がる。その拍子に体のあちこちが痛んで顔を歪めた。
膝や手が擦り剥けている。血がにじんでいた。しかし今はそんなことに構っていられない。由貴也を追わなければ。
「部長呼んできて。普通に練習してて!」
人垣に向かってすばやく指示する。普通に練習する――それはこの事態の隠蔽を指示したも同然だった。
困惑している部員を置いて香代子は由貴也を追うために走り出した。




