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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
125/127

たとえ優しくない世界だとしても

『神さまの手のひら』読了推奨。

本編終了約二ヶ月後。志乃視点。

 哲士に温かいコーヒーの入ったマグカップを差し出すと、「ありがとう」とかすかに笑って彼は受けとった。けれどもその表情はすぐに温かみを失い、石のように無機質になっていく。

 六畳ニ間の今どき平屋の県営住宅。今、哲士と自分はそこにいる。ここは志乃と志朗が慎ましやかに生活している自宅だった。

 外では思いがけない雨が降っている。今日は一日晴れの予想だったけれど、出先で志乃と哲士は雨に降られ、ここに急いで帰ってきた。哲士を自分たちの暮らしているところへ招くのは初めてだった。

 哲士が退院して、志乃は数少ない休日を使っていろいろなところへ哲士を連れ出した。まだ彼は杖をついてでないと歩けず、人に迷惑をかけることを気にする彼は、内に閉じこもりがちになっていた。

 その哲士を、外に連れ出そうとする志乃の意図を正しく理解して、彼は志乃が誘えばどこへでも行った。大学を休学し、今はリハビリに病院と自宅の往復という味気ない彼の生活に少しの彩りを与えてあげられたらと思っていたけれど、事件は今日起こった。

 十二月の半ばになって、師走の街は人でごった返していた。しかも、予想にはない氷雨でアスファルトは濡れていた。案の定、哲士の杖の先は滑り、転倒した。しかもそれだけではなく、後ろを忙しく歩いていたサラリーマンの男が、哲士が転んだことによって自分が進もうとしていた道を塞がれたことにいらだって、舌打ちし、「邪魔! どけよ」と足で哲士を蹴るようにして押しのけたのだ。

 志乃は当然、この扱いには黙っていられなかった。一言物言おうと息を吸いかけた志乃だったが、哲士がそれを制して「すみません」と先に謝ってしまった。

 その場をとりあえず丸く収めた哲士だったが、その出来事が彼を傷つけなかったわけではないのだ。志乃の手を借りて立ち上がった哲士は「今日はもう帰りたい」と言ってきた。

 思うに、今回のことだけが彼に暗い影を落としたわけではない。足の不自由な彼はきっと人ごみの中を歩くのにずっと恐れを感じていたのだろう。その上、リハビリは痛くて、つらい。元々が普通の人よりも自在に動く体を持っていた運動選手ならなおさら焦れったい思いをしているだろう。その中でも哲士は我慢強く取り組んでいたけれど、今回のことでその糸がプツンと切れてしまったように見えた。

「外に出るのが嫌になった?」

 ぼんやりとコーヒーカップから立つ湯気を見ていた哲士に尋ねると、「えっ?」と彼が顔を上げた。事故直後は短かった彼の髪も伸び、耳にかかるぐらいまでになっている。その髪が揺れた。

「外の世界は緒方さんにとって嫌なことが多いから、もう嫌になった?」

 哲士を見据え、改めて尋ねる。この世界は哲士のようなハンデを持つ者にとって優しくない。それどころか恐怖ですらある。駅の階段、歩道に停められた自転車、広がって歩く人々、突然の雨、そして他者と同じ動きをできない人に寛容でない者たち、それらすべてが哲士にとっての脅威となる。挙げればきりがない。

 哲士はいや、と答えかけたけれど、また口を噤んだ。それは最近の彼の癖だった。たぶんずっと哲士はいや、とだけ答えて、自分の本心を隠してきたのだろう。けれどもここにきて彼はその心の蓋を外して語ろうとしている。しばらくの沈黙ののち、口を開いた。

「あなたが俺を外に連れ出してくれるのは本当に感謝してるよ。もともと、外に出るのは好きじゃなかったから、本当に家に閉じこもっていただろうし」

 哲士がコタツの天板の上で組んだ手を見ながら発した言葉に、なぜ、と聞きかけてやめた。弟の志朗がそういえば言っていたことがある。緒方さんは昔いじめられたんだって、と。怪我をする前から哲士にとって外の世界は優しくなどなかったのだ。

 今の哲士からは怒りも悲しみも感じなかった。哲士ははなから人間が美しいものだと思っていない。だから自分が虐げられても怒りを露わにしない。ただ他人とはそういうものだという諦観がある。

 この人は他人に何の期待もしていないのではないか。そう思うと志乃の中には形容し難い焦りと怒りが湧き上がってきた。この人はそういう風に灰色の世界を生きていっていい人ではない。 内に閉じこもって、穏やかだけれども、寂しい日々を過ごしていい人ではない。陽の元を歩くべき人だ。

 志乃はどこか勇ましさすら持って、隣に座る哲士に手を伸ばした。そのまま哲士の両頬に手のひらを添わせる。彼は驚いて身を引くそぶりを見せたけれど、志乃はそれを許さなかった。身をのりだして、哲士との距離を詰める。

 後ろに手をついた哲士に覆いかぶさるようにして、志乃は哲士に迫る。至近距離で目が合った哲士の表情はどこまでも混乱と驚きが浮かんでいた。

 唇が重なり合う。その瞬間、哲士が体を固くしたのがわかったが、触れ合うだけの軽いキスにするつもりのない志乃は、手を移動させ、哲士の頭にまわして、そのまま彼の顔を引き寄せた。より深く唇を重ねる。

 唇を離し、自分と彼の吐息を感じるほどに至近距離で顔を付き合わせていたけれど、哲士は自分の身に何が起こったか理解できていないのか、呆然と虚空を見ていた。

「こっち向いて」

 哲士の頬を包み込むように手で触れて、無理やり自分の方へ向かせる。これは予想外の行動だったらしく、哲士は何の取りつくろいのない素の顔を無防備にさらしている。ふたつも上のはずの彼は何だか歳下にも見えた。

 志乃の瞳は哲士を射抜く。

「あたし、緒方さんが好き」

 他の誰が哲士を虐げたって、哲士が彼自身を好きでなくたって、志乃はそれを払拭するように、胸を張って言ってみせる。彼が好きだと。

 いつから彼に惹かれだしたのかはわからない。ただ唯一の弟・志朗を助けてもらった時なのか、彼が『ここから消えてしまいたい』と雨のグラウンドで弱さを吐露した時なのか、彼の退院を志朗とふたりで迎えに行った時なのか、ふたりで色々な場所へ――枯れ草が舞う公園、夕暮れの鉄塔に吹く風、工場地帯の夜の灯り、列車の車窓から見える等間隔の街灯――そんな風にふたりで見た風景が重なって、胸に降り積もっていったからなのか、それはわからない。でも、哲士は誰かに愛されるにふさわしい人間だ。当の本人は、自身が誰かから好意を向けられるとは露も思っていなかったらしく、目を瞬かせている。この人はいつもこうだ。自分自身を必要以上に卑下している。

「緒方さんが何度転んでも、あたしが支える」

 この人を取り巻く世界すべてを優しくすることはできないけれど、せめて少しだけでも彼が生きやすい世界にしたい。志乃はその決意を込めて、哲士を見たままで言い放つ。哲士の瞳がやっと志乃の上で焦点を結んだ。

 けれども、哲士の顔はみるみるうちに赤くなっていく。盛大に赤面した彼は、「……ごめん、ちょっと……」と言って、志乃から顔を背け、そのまま片手で顔を覆った。

 この初心を通り越して、乙女な哲士の反応に、志乃の顔にも熱が集まってくるのを感じた。

「そういう反応されると、あたしも恥ずかしくなってくるんだけど……」

 哲士のこの反応は予想外だった。けれど考えてみれば、この人はこういう人だ。自分に自信がなくて、人に愛されることに免疫がなくて、器用なようで不器用だ。志乃は彼同様赤い顔を隠すために、彼の懐に手を伸ばす。そのまま彼の背に手を回す。

「……緒方さんのそういうかっこ悪いところも、好きだから」

 こんなことを言うのはどこかに隠れたくなるほど恥ずかしかったけれど、志乃は決めていた。自分なんかが誰かに愛されることなどないと決めつけているこの人の前提を覆すほどに愛してみせよう、と。

 志乃に抱きつかれて、宙で戸惑っていた哲士の手が、やっと志乃の体にまわされる。その手のひらはぎこちなくて、彼の指先が愛を語るまでには途方もない時間がかかるだろう、と志乃は気が遠くなる。

 でも、それでも、緊張して力が入りきっている彼が愛おしく、志乃はわずかに微笑む。きっと彼の頭の中から、今日外で受けた心ない仕打ちなど吹き飛んでいるだろう。

 彼の心の傷を消して、その指先まで愛で埋めよう。そう思い、志乃はすばやくもう一度哲士に口づけた。

 その後、彼の中の何かの許容量を超えたのか、哲士が死にそうな顔をしたのは言うまでもない。

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