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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
124/127

I'm home

「帰んないの?」

 香代子が尋ねると、みかんをつめた口を盛んに動かしながら由貴也が「うん」と答えた。

 大学が冬休みに突入した初日、寒波の襲来で、底冷えしている外気を遮り、由貴也と香代子はこたつにもぐってみかんを食べていた。

 甘いものに目がない由貴也の前にはみかんの皮の山ができている。冬の初めに由貴也が箱買いして、香代子の部屋に持ってきたきたみかんだ。これがとびきりおいしいのだった。

「だって、ご両親会いたがってるんじゃないの? 夏も帰ってないでしょ」

 口を動かしながら、新しいみかんの皮をむくという忙しいことこの上ない由貴也へ香代子は暗に帰省をうながす。けれども、由貴也は香代子に答える前に、相変わらず筋が完璧に取り除かれているみかんを口に入れた。何だか最近彼がみかんの食べ過ぎで黄色く見えるのは気のせいだろうか。

「だって夏はシーズン中じゃん」

 みかんと、新しいみかんを食べるわずかな間に由貴也が答える。冬の由貴也はみかんに支配されていると言っても過言ではない。

 その甘いもの大好き人間由貴也の、根幹をなすひとつが陸上である。由貴也が盆にも帰省しないのはひとえに陸上のシーズン真っ只中だからなのだった。だからこそ今回、シーズンオフ中である年末年始に家族と過ごさないのかと聞いてみたのだ。

「アンタは帰んの?」

 逆に尋ねられて、香代子は急なことに「う、うん。帰るよ」とどもってしまった。弟たちに「ねーちゃんいつ帰ってくんの?」と瞳を輝かせて聞かれ、帰省することを決めたけれど、本当は帰りたくなかった。

 小さい頃から香代子は昼夜問わず仕事に明け暮れる母に代わって、弟たちの“母親役”だった。どうしても仕事が休めない母の代わりに、彼らの授業参観に当時中学生の香代子が参加したことがあるくらいだ。今思うと、子供が子供の参観をしているようなもので、これ以上なくおかしなことだけれども、あの時の香代子はいたって真剣だったのだ。

 中学卒業とともに母が再婚したことによって唐突にそれが終わりを告げ、母は専業主婦になった。新しい父は温和で、いたって常識のある人だった。酒乱で暴力が日常茶飯事だった実父とは大違いだ。それでも香代子は、家の中に自分の居場所がなくなった気がして、逃げるように立志院へ進学してしまった。そして、自分の気持ちに折り合いをつけられないまま今に至る。

 由貴也はそんな複雑極まりない香代子の心境に気づいていないのか、「ふーん」と次のみかんをむき始めた。いったい今日いくつめのみかんなのか。香代子は皮がなくなり、果実がむき出しになったみかんを由貴也の手から取り上げる。

「ねえ、少しぐらい帰ってあげなよ。きっと待ってるよ」

「嫌だね。帰ったところで紋付き袴着せられて、巴のいる新年会に放り込まれるだし」

 常になくはっきりとした口調で答えた由貴也は、みかんを没収した香代子の手首をつかむ。そのまま自分の方に引き寄せ、香代子の手の中にあるみかんを食べた。

 あぜんとしている香代子を、みかんにかじりついたままの由貴也が上目遣いで見上げる。そのまま指まで食べられそうで、あわてて手をひっこめた。きっと由貴也にとってはたいして意味のないことなのだろうけど、どうして動作ひとつ視線ひとつがこんなにいやらしいのだろう。平静でいられなくなる。

「俺、二日から練習だし、何も気にせずアンタだけ帰ればいいじゃん」

 みかんを嚥下して由貴也が言う。彼には世間一般の暦だけでなく、スポーツ選手としての暦が存在している。考えるまでもなく、後者の方が重要度が高い。今はシーズンオフであるとはいえ、来期に向けて練習に励まなくてはいけない時期だ。一日の休みが、ひとつの負けにつながる。その彼に、これ以上帰省を勧めることはできなかった。

 ここに残ると彼が言うので、仕方なくこの部屋で由貴也ひとりで年越しをしてもらうことになった。帰省するまでに、由貴也がいるときはごろごろする彼をけちらし、いない時はなおさら励んで大掃除をしていたら、あっという間に帰る日が来てしまった。

「お菓子は食べ過ぎないで、ちゃんとしたもの摂ってよ。冷蔵庫に後はチンするだけのものが入ってるから。ゲームは一日二時間まで。戸締まりはしっかりね。マシュマロ火であぶって火事なんておこさないでよ」

 コートを着込んで、玄関で行くばかりになっている香代子は、見送り――無理やり香代子がこたつから引っ張り出してきた由貴也へ、注意を与える。他に何か言うことあったっけ、と必死に考える香代子に、由貴也は「早く行ったら」といつも通り淡白だ。

 腕時計を見ると、駅行きのバスの時刻が迫っていた。

「じゃあ行ってくるね」

 旅行かばんを肩にかけ、そう言った瞬間、何だか変な気分になった。それを香代子はねじふせて、玄関のドアに手をかける。たかが一週間留守にするだけなのに、何らかの感慨を抱くことこそおかしなことだ。

 その証拠に由貴也は普段通りそのもので、ドアが閉まって、彼の顔が見えなくなるまでそのままの表情だった。

 道中、胸の中の違和感は育っていくばかりだ。ふとした拍子に、アパートの外から自分の部屋を見上げた時に、カーテンに写った由貴也の人影が目に浮かぶ。そう思ったら、乗った駅でも降りた駅でも、彼のおみやげにしようとおいしそうなお菓子を買っていた。

 気がつくと、両手に紙袋を下げているという状態に、自分で自分にあきれる。実家に着く前からこんなに荷物を増やしてどうするのか。

 駅には義父が車で迎えに来ていた。車の中には六歳下と八歳下の弟が乗っていて、まだまだ無邪気な八歳下の弟は「ねーちゃん、おかえりー!」と全力で歓迎してくれ、思春期真っ只中の六歳下の弟は「……おかえり」とぼそっと言ったのみだった。車内ではめったに会わない娘に、とまどいながらも一生懸命話す義父が微笑ましかった。

 家に帰れば、女手ひとつで香代子たちを育てようとし、ずっと働きづめだった母はずいぶんきれいになっていた。義父と母の間に昨年生まれた妹はかわいい盛りで、一日中飽きずに見ていられる。

 あんなに億劫だったのに、いざ帰ってみると実家は思いの外楽しい場所だった。みんな自分を大事にしてくれる。

 でも――こんなにしあわせなのに、考えてしまう。そもそも香代子にはこんな広い家が自分の家だと実感がわかないのだ。自分にとって“家”とは、中学卒業まで弟たちと四人で暮らしていた六畳二間だけだ。それに、この家は香代子がいなくてもいつもしあわせだ。

 今ごろ、向こうでは何してるだろうと考える。年越し寒波が来ると聞けば風邪を心配し、乾燥した気候で火事が多いと聞けば、その身を案じる。もう大学生の男子に対して、過保護にもほどがある。一週間の間に、香代子の手が必要になることなどそうそうあるはずがない。充分そうわかってはいるのに。

 そう思いながら、ふかふかのソファーに座ってぼんやりとテレビの年越し番組を見ていると、ポケットに入れていた携帯が震えた。見ると、竜二からの電話着信が入っていた。

 竜二には、時折送ってくれる由貴也の変な姿の写メで笑わせてもらっているけれど、電話がかかってくることは今までなかった。香代子は何だろうと思いながら、電話に出る。

「もしもし?」

『おー、香代子ちゃん。いきなり電話してごめんな』

 竜二の声は大きく、電話ごしでもよく聞こえる。どうやら通話口から漏れているらしく、弟たちが「男だ!」「『香代子ちゃん』だってよ」とひそひそ話している。

 竜二の背後はにぎやかで、もしかしたら彼も関西の実家へ帰省しているのかもしれない。

『ところで香代子ちゃん。由貴也、そこにいてへん?』

「『由貴也』だって!」「二股かよ、ねーちゃん」とざわめく弟たちを目で黙らせ、「今帰省してて、実家だから。どうしたの?」と尋ねる。彼に何かあったのかと、自然に声が険しくなる。

『あのな、オレ由貴也に二日の練習時間まちごうて伝えてもうて……だからメールや電話して言おうと思ったんやけど、電話には出えへんし、返事も返ってこんのや』

 電話にもメールにも反応がない。無精な由貴也はそれぐらいのことを平気でするけれども、何だか今回は不安になってしまった。

「わかった。こっちでも確かめてみるから」

 そう言って竜二からの電話を切り、ためしに香代子の方からも電話をかけてみる。やはり出なかった。至急というタイトルでメールをしてみても返ってこない。

 香代子は携帯を握りしめて立ちすくむ。香代子が帰省してから三日が経っている。由貴也は言うまでもなく、香代子もそういうコミュニケーションツールを利用するのが苦手なので、部屋を出てから今まで、連絡をとったことはなかった。

 たった三日、連絡がとれないだけだ。どうせ携帯をコートのポケットに入れっぱなしだったとかそういうことだろうに。それなのに、どうして自分はこんなにも落ち着きがなくなっているのか。彼の母親でもあるまいし、これぐらいで一喜一憂して、騒ぎ立てては――。

「ねーちゃん。ねえねえ」

 八歳下の弟が、さっきの男ダレとまとわりついてくる。この弟は特に“姉ちゃん子”なのだ。

「姉ちゃんの部活の友達」

 簡単にそれだけを無理に微笑みながら言って、香代子は部屋から出て、猛然と階段を駆け上がった。二階の客間に置いてあった旅行かばんに、持ってきた自分の荷物を手早く突っ込む。

「ねーちゃん、どうしたの?」

 香代子のあまりの勢いに驚いたのか、追いかけてきた弟が開け放たれたままの戸口からこちらを見ている。香代子は荷物を整理する手を止めずに答える。

「姉ちゃん、ちょっとアパートの部屋に忘れ物しちゃったから見てくる」

「え、でももう夜だよ」

 弟の困惑した声を置いて、香代子は部屋を飛び出した。

 大晦日の夜の街は閑散としていた。今年最後の夜を皆、大事な人と過ごすのだろう。そう思うと家の灯がやけに明るく目についた。

 少し様子を見に行くだけだ。彼に何もないならそれでいい。そう誰に対してでもなく言い訳する。

 バスと電車を乗り継いで、向こうの駅に着いたときには深夜になっていた。大半の人が家にこもっているためか、いつも以上に静かな夜だ。

 息を切らして外灯だけが照らす道を走りながら、ひとりきりのあの部屋でこたつに入っている彼の後ろ姿が頭に浮かんだ。あのさみしがりやな由貴也がひとりぼっちで新しい年をむかえるなんて――。

 アパートの自室のドアを、走ってきた勢いを殺さずに開いた。真っ暗で、冷蔵庫の中のように冷えた部屋が香代子を迎える。

「ゆ、由貴也。いないのー?」

 寒々しい部屋で声が反響する。急速に嫌な予感が胸にじわりと染み出すように広がる。

 とにかく、奥の居間へそろそろとした足どりで進み、てさぐりで電気のスイッチを探す。スイッチを押すのと、香代子のつま先に何かが当たるのは同時だった。明るくなった部屋で、つま先に当たる何かを見やる。

 言葉を失った。

「由貴也! アンタどうし――」

 香代子の怒鳴り声の最中で、カーペット敷きの床に仰向けに転がっていた由貴也がふっと目を開けた。この冬一番の冷え込みと各地で言われている今夜は、室内でも息が白くなるほどに寒い。その中でたいした防寒もせずに床に横たわっているなど、倒れてるとしか思えなかった。

「夢……?」

 いまだぼんやりとした声音と瞳で、由貴也は下から香代子を見上げてくる。その頬を、香代子は思いきりつねった。

「夢じゃなくて現実!」

 由貴也の顔色から、具合が悪いわけではなく、ただ単に寝ていただけだとわかる。いや、顔色は香代子が実家に帰る前と違った。みかんの食べすぎによる黄色っぽさが抜け、白くなっている。

「いひゃい」と、痛みを訴える由貴也の頬をつねるのをやめる。いつのまにか自分は気が抜けて床にへたりこんでいた。

「何でいるの」

 由貴也がこちらの心配など知らず、のんきに尋ねてくる。こっちの気も知らないで、と理不尽な怒りを抱いた。

「アンタこそ、何でこんなとこで転がってんのよ! 寝るならちゃんと布団に入って寝なさいよ」

「……お腹減って動けない」

 寒く暗い部屋の中で転がっていることといい、この返事といい、香代子の予想の上を行く事態ばかりだ。思わず「はあっ!?」と答えてしまった。

「チンするだけのものが冷蔵庫の中に入ってるって言ったじゃない。みかんも食べてないの?」

 キッチンの隅に視線を向けると、まだたくさんのみかんが入った箱が見えた。由貴也がいつもどこからか頬が落ちそうにおいしいみかんを探しだしてきて、絶やさず常備してある。そういえば、由貴也ひとりになったら片づけなどしなくて、散らかるだろうと思っていた部屋は、香代子が出ていった時のままきれいだった。それがかえって部屋の中をがらんどうに見せる。

 この部屋には食事をした跡がない。生活感も薄い。

 由貴也が床の上で寝返りをうって、香代子に背を向けた。

「……アンタがいないと布団は冷たくてやだし、ご飯もおいしくないから食べたくない」

 子供がだだを言うような声が、由貴也の背中を越えてきた。その背も、すねて縮こまっているように見える。

 何でもない顔をして香代子を送り出したというのに、由貴也のこの言葉は直訳するとひとつの言葉にしかならない。――さみしかった。

「い、今、何かを作るから。こたつに入って体温めてて。これ、おみやげだから。食べて待ってて」

 口がうまく回らないのは、照れているせいではなく、寒いせいだ。さっさと由貴也の前から退散しようと思い、立ち上がろうとした瞬間、体に重みがかかった。ふたたび座りこんだ香代子の太ももの上に、由貴也の頭が乗っている。そのまま胴に手を回された。

「……おみやげなんていい」

 由貴也が安心したように目を閉じる。

「もう帰んないで、アンタがここにいればいい」

 冷たい体。弟たちよりずっと厄介で甘えただわ、と思いながら、由貴也の頭をなでた。とてつもなく世話のかかる、けれどもかわいい男。

 自分はここに帰ってきてよかったのだと思えた。そして、ここが自分の居場所だとも。

「あ、明けた」

 いつのまにか年が明けていたらしく、除夜の鐘が遠くから聞こえる。

「あけましておめでとう。今年もよろしく」

 香代子のあいさつに、由貴也は「うん」とそっけなく答える。その顔にはかすかに笑みが浮かんでいた。

 その由貴也に、「来年もこうしてふたりでは明かせたらいいね」と言った。

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