神さまの手のひら18
哲士は明るい朝の光が差し込む病室で新聞を読んでいた。そこにはインカレ初出場にて初優勝した由貴也の写真がでかでかと載っている。地元紙だからこそのこの扱いだが、全国紙でも彼の記事はきちんと存在した。
写真になると素人は普通なら実物よりも悪く写るものなのに、由貴也ときたらまったくといっていいほど彼の造作の良さを損なっていなかった。むしろ紙面を飾る“戦闘モード”の厳しい彼の顔は、恐ろしいくらい見栄えがする。今頃、女性ファンが急増しているであろう由貴也も、その彼女の香代子もこれから大変だな、と思いながら、哲士は笑みをこぼした。
新聞には由貴也のコメントも載っている。文章に起こされたそれをじっくりと読み終わった頃にちょうど病室のドアがノックされた。
「どうぞ」
哲士が答えると、すっとドアは滑ってひとりの人物が姿を現す。肩につくかつかないかぐらいのボブヘアーを揺らしてベッドへ歩いて来るのは香代子だった。あの日以降、初めて見る彼女の顔に、哲士は微笑む。
香代子は何とも言い難い表情をしていて、哲士の横に立った。無理もない。別れて一週間。何事もなかったように過ごすにはまだ時間が経たなさ過ぎた。
「来てもらってごめんな。座って」
哲士は、香代子にベッドサイドの椅子を勧める。かつては香代子の定位置になっていた椅子だ。今はもう彼女が座ることのない椅子だった。
香代子をここに呼びだしたのは哲士だった。インカレの日、哲士は根本から由貴也と香代子のふたりが収まるべきところに収まったという報告は受けていたが、遠出の無理がたたってしばらく体の調子を崩していた。香代子とは一度話す機会を得たいと思っていたが、そういうわけで伸び伸びとなり、今日に至る。
哲士は改めて香代子を見た。自分でも不思議なぐらい、彼女を見て負の感情は湧いてこない。ああ良かった。由貴也とよりが戻って良かったと思える。彼女の“心臓”を、そして彼の“心臓”とも呼べる大事なものを、哲士は元の場所に戻してあげられたのかもしれない。
「俺さ」
かつて香代子と穏やかに時を過ごした場所で、哲士は続ける。香代子を呼び出したのは懐古に浸りたいからではない。純粋に話があるからだ。
「ずっと考えてたんだ。陸上をどうしようか、このまま嫌なことから逃げっぱなしでいいのかって」
哲士は陸上から逃げた。しかも他人をまきこんで事故を起こすという最悪ともいえる逃げ方をした。
自分の能力の壁を見て、限界を感じた哲士だったが、由貴也と会うために行ったインカレの本戦でやはり自らの血潮が騒ぐのを感じていた。もっと端的に言うなら、走りたい、と思っていた。自分の陸上選手としての心は死んでなかったのだ。
だからインカレ以降、ずっとどうするべきか考えていた。その答えを今、伝える。
「俺、陸上部のマネージャーになろうと思う」
哲士の導き出した“答え”は、香代子にとって予想外のものだったらしく、現・マネージャーの彼女は目を見開いていた。
「やっぱり陸上と関わっていたいと思って……マネージャーしながら足治して、いつかまた走りたい」
自分が失ったものをもう一度取り戻したい。すべては取り戻せないかもしれない。同じものにはならないかもしれない。だが、もう一度最初から始めたかった。
「一度、退部届けを出したのに、迷惑かな」
哲士は部長でありながら、もうすでに退部届けを出している。それを部長の責任を放り出しただとか、無責任だという部員がいるかもしれない。加えて、かつて部を率いていた哲士がマネージャーとなると、やりづらさを覚える者もいるかもしれない。
香代子は様々な心配をする哲士に「そんなことないっ!」と身を乗り出す勢いで言ってくる。
「そんなことないよ。哲士が部に帰ってきて、陸上をやめないでくれてうれしい……!」
感極まって、うっすら涙すら浮かべる香代子に、自分は幸せだと実感する。こうして、戻って来られるところがあるというのはありがたいことだ。
「じゃあ、先輩マネージャーとしてご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
おどけて言ってみせると、香代子は笑ってくれた。笑顔、久しぶりに見たな、と哲士もうれしくなって笑った。香代子といて、胸が痛まないと言ったら嘘になるが、笑っている彼女を見ると安心する。だからこれで良かったと思える。
「俺がマネージャーになったら、マネージャーも選手としてがんばってみれば? 前に記録会でなかなかいい走りしてたし」
香代子は二ヶ月ほど前に、市民ランナーを対象とした記録会に出場した。ゴール前で転んでしまったが、運動音痴だと聞いていたわりにはそれなりに見られる走りをしていた。
「え、ちょっと無理だよ」
香代子が大慌てで手を振る。
「リベンジしたいって言ってただろ。俺も教えるし、走ってみたら?」
「それは……リベンジはしたいから、毎日ジョギングしてはいるけど……」
歯切れの悪い彼女がらしくなくて、おかしい。おだやかな気分で哲士は思う。きっと友人に戻ったからこそ、こういう風に笑えるようになったのだ。ここが自分たちの最適な距離だった。
それから、他愛のない話をして、香代子は「そろそろ行くね」と腰を上げる。その一瞬だけ、彼女は少しさみしそうで切ない顔をする。それは哲士と恋人同士であった時の表情だった。
「マネージャー、ちょっと」
哲士は手招きして、帰ろうとする彼女を呼びとめる。素直に近づいてくる香代子の手を取り、少しだけ彼女を自分の方へ引き寄せる。
手を握るだけの、腰を支えるだけの、ごく軽い抱擁だった。それはもう恋人の行為とは違っていた。
「古賀に怒られるかな。ちゃんと俺が弁明するから。友人としての抱擁だって」
軽く笑って、言葉を続ける。今、言わなければいけない。まだ少しだけ“恋人”であった自分たちが残っているうちに。
「ありがとう。マネージャーを好きになって良かった。俺、今何も後悔してないよ」
抱擁を解くと、香代子は泣きそうな顔をして、哲士を見ていた。だが、涙は落ちずに、ぐっと表情に力が入り、瞳が歪むに近い形で弧を描き、口角が上がる。どうやら涙をこらえて、力づくで笑おうとしているようだった。
「好きになってくれてありがとう」
笑ってて。哲士がそう言ったのを覚えていてくれて、香代子は半ば力技だったが、笑ってくれていた。
香代子の笑みはぎこちなくて、心からの笑みとは違ったが、ああいい終わり方だな、と思うことができた。四年半にもわたった哲士の恋は、綺麗なままで終われる。恋愛の澄んだ上澄みだけを得たような気がする。きっとこんな恋は二度と訪れない。
香代子の後ろ姿を見送って、哲士は由貴也がこの部屋に訪れた時のことを回想した。香代子が来る前に、由貴也も呼び出しておいたのだ。目的はお説教だ。カップルのことにむやみに口出すつもりはないが、いい加減な男に香代子を返すのは我慢ならない。のこのこと現れた由貴也に哲士は「彼女の意思はきちんと尊重して、無理やりなことはしないように。ちゃんと責任がとれないうちは、バカな行為はするんじゃない」と諭した。
対する由貴也はといえばしれっと「俺、ちゃんとしたし」と言ってきた。
「向こう意識朦朧だったから。それに俺と同じような子供ができるなんてまっぴらだね。向こうに似てるならともかく」と由貴也は何だか彼らしいことを心底忌々しげに言って、最後に「アンタも俺に説教だなんて、お人好しすぎじゃない」と生意気すぎる不敵な笑顔を残して去っていった。
どこまでも御しにくい後輩であった由貴也だったが、哲士はこれで肩の荷が本当に下りた。香代子を由貴也に返す不安要素がなくなった。
哲士は“今”に立ち返ってサイドテーブルに置いていた新聞を手に取る。由貴也の記事があるページを開いた。由貴也の優勝後のコメントをもう一度読む。
大切な人たちが支えてくれたからこそ、ここまで来ることができました。感謝しています――“大切な人たち”。複数形だ。由貴也の指す大切な人は香代子だけではない。
哲士は苦笑する。その“大切な人たち”の中に、自分も入っていると思うのは奢りだろうか。
哲士に神経を逆なでするような笑顔を向けるあのクソ生意気な由貴也を思い出して、気のせいだな、と結論づける。だが、最後にはやっぱり本当にあいつは素直じゃない、とひとりで笑った。
季節がいいためか、空港内は国内外へ飛び立つ人が行きかっていた。
「由貴也、そろそろ行くわよ」
由貴也が乗る便のアナウンスが流れて、由貴也のコーチの女性が、彼に声をかける。それを香代子は由貴也と一緒に聞いていた。
全日本ジュニア選手権で優勝した彼は、その上の大会である世界ジュニアに出場する。彼は今日、その開催地に飛び立とうとしている。
「パスポートは持った? 薬とかは大丈夫?」
初の海外遠征ということもあり、香代子はあれこれ心配するのをやめられない。由貴也は大丈夫と言うけれど、アスリートの常として、彼の荷物は多く、忘れ物がないか気になってしまう。
「古賀は英語できるんだろ? だったら現地で何とか調達できるかな。お金は持ったか?」
結局哲士も由貴也に忘れ物がないかどうかの心配をしている。哲士は車椅子を彼が庇った少年の姉に押してきてもらって、由貴也を見送りに来ていた。
「まっ、男はパンツさえあれば何とかなるだろ」
皆が由貴也が十八歳の男子だということを失念してあれこれ幼児に対するように心配する中、根本だけは豪快すぎる持論を披露していた。
皆が各々由貴也に声をかけ終わって、「じゃあ……」と香代子は名残惜しい気持ちを断ち切って由貴也を搭乗ゲートへ促す。由貴也も「ん」と短く答えて、国際線の方向へ向かおうと足を向ける。
ちょうどその時だった。「待てや!」と後方から声がかけられる。由貴也のみならず、香代子も哲士も根本もコーチまでもそちらの方を向く。そこには黒髪長身の男が息を切らせて立っていた。
「間に合うたか!」
顔を下げて、息を整えていた男が、顔を上げてにっと笑った。一同はその男が誰だかわからず、ぽかんとしてその闖入者を見つめる。由貴也は相変わらずマイペースにガムを噛んでいた。
「竜二」
フリーズする一同の中に冷静な声が響く。少し離れたところにいた由貴也のコーチが、こちらに歩み寄ってくる。
「久しぶりね」
声をかけられた男は、とたんにどこか子供っぽくいたずらじみていた笑みをしまい、「ごぶさたしてます、コーチ」と大人びた口調で応じた。
このふたりの関係といい、「竜二」と呼ばれたことといい、目の前にいる人物が誰だかわかった瞬間、根本が声を上げる。
「お前、五十嵐か! イメージ変わったなー、わかんねえよ」
「根本、オレの顔忘れてたんかい!」
根本と竜二の応酬の間、香代子は改めて竜二を凝視していた。トレードマークの金髪を切り、黒く染めた竜二は以前とはガラッと印象が変わっていた。その竜二が由貴也へ向き直る。
「オレの方が先に海外遠征に行ったるって思ってたんやけど、負けてしもうた。気いつけてな……コーチもお気をつけて」
前半を由貴也に、最後をコーチへ向けた哲士の言葉に、由貴也は無言で、コーチは「ありがとう」と応じている。アンタもお礼くらい言ったらどうなの、と香代子はかたわらの由貴也の背をこっそり肘でつつくが、それでも由貴也はどこ吹く風でガムで風船を膨らませていた。
その姿に、これが本当にジュニアチャンピオンでインカレ王者なのかと香代子が疑わしい目を向けていると、もう一度由貴也が乗る便のアナウンスが流れる。それは見送りの時間の終了を告げるものだった。
「本当に気をつけてね。帰りをエビフライ作って待ってるよ。何かあったら飛んで行くから」
競技のことはこの場で香代子が口出ししていい方向に転がることはない。だから普段通りのことを心がけて言う。それに対しての由貴也は「タルタルソースとレモン忘れないでね」と言い残して、ゲートへ向かおうとする。香代子はおおいに脱力した。エビフライの箇所しか聞いていないのではないか。
その場にへたりこみそうになりながらも、由貴也がゲートに消えるまで見送っていると、不意に彼が足を止め、反転する。こちらへ戻ってくる由貴也に、何かあったのかと不安になる。
「どうしたの? レモンとタルタルソースなら帰りに買ってく――」
言葉が途切れる。
香代子は突然のことに、目を開いたままで突っ立っていた。こちらに戻ってきた由貴也は、目にも留まらぬ速さで香代子の腰を抱き寄せ、唇を重ねていた。
香代子が混乱の最中にいる間も、口づけは続いていて、香代子は目を白黒させながらそれを受けていた。
「忘れものあったから」
やっと唇を離した由貴也が相変わらずの無表情でつぶやく。香代子はあまりのことに腰を抜かし、その場に座りこんだ。
さっと踵を返して歩いていく由貴也の背中を見ながら、公衆の面前であんなことをされた羞恥に「な、な、ななな」と意味のなさない言葉を発する。その一秒後、香代子の中の火山が爆発した。
「何すんのよーっ‼︎‼︎‼︎‼︎」
その声は、キスよりも周囲の人々の視線を集めていたことを香代子は知らない。由貴也が前を向いたまま、笑っていたのも気づかないままだった。
空港のキスなんか、彼の中ではまだ序の口だったことを知るのは、由貴也が帰国した半月後のことだった。