表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
122/127

神さまの手のひら17

 哲士から別れを告げられてから香代子には行くあてがなかった。

 由貴也と過ごした自分の部屋にはどうしても帰りたくなくて、気がついたら根本の寮の部屋を訪ねていた。香代子には親しい女友達はあまりいない上、哲士のことも由貴也のことも、今は誰にも話したくないし、聞かれたくない。その点で彼らのことを知っていて、ある程度事情もわかっている根本の存在はありがたかった。

 ドアを開けた根本は驚いた顔をしたが、香代子の顔を見て、結局は中に招き入れてくれた。香代子は涙を流して玄関に突っ立っていたからだ。

 根本の部屋は言葉に言い尽くせぬほど汚くて、香代子は一日中泣きながら掃除に励んだ。ただ、雑巾がけをしているそばから涙がフローリングの床に落ちくるのには困った。涙が落ちれば落ちるほどムキになって、落ちた涙をごしごしと拭く。自分が泣いている事実さえも消してしまいたかった。

 ゴミ溜めになっていた根本の部屋は、丸二日かけて人間の住まいになった。根本はその間、持てる力すべてを持って掃除に励む香代子を好きにさせておいてくれた。香代子が後悔や自責の念を掃除にぶつけているのを彼は理解していたのだろう。

 二日間、香代子はずっと泣きっぱなしだった。鼻をすすって、涙を拳で拭きながら掃除を行っていた。

「そんなに泣いたら脱水症状になるんじゃねえの」

 アゴの先から落ちる涙を無視して、流しで鍋を一心不乱に磨いていると、根本がスポーツ飲料を差し出してきた。香代子はそれを無視して、長い間根本によって虐げられ、かえりみられず、汚れがこびりついてかわいそうな鍋を懸命にこする。根本は嘆息して、香代子のパーカーのフードにスポーツ飲料ペットボトルを入れて去って行った。根本は普段の彼から考えると、驚くぐらいに何も言わず、この部屋を提供してくれていた。

 しばらくたつと、最低限の人間の住まいどころか、根本の部屋はどこもかしこもピカピカになった。掃除はやり始めればきりがないが、それでも香代子の総力を挙げて励んだワンルームはもうどこにも手を付ける必要がなくなっていた。

 やることがなくなって、呆然とその場に座り込む。もう掃除に逃避するわけにもいかなくなって、香代子はずっと放置していた携帯を開いて、電源を入れた。ネットをつないで、検索窓にあるキーワードを入れる。『日本インカレ 古賀 由貴也』と。

 その瞬間、ぶわっと涙が香代子の内側から溢れ出て、携帯の画面が見えなくなった。何で、哲士をどうしようもなく傷つけたのに、頭の中が由貴也のことばかりなのだろう。香代子は携帯を閉じて、床に放った。

 自分の覚悟とは何と薄っぺらいものだったのだろう。由貴也への想いは捨てる。表に決して出さない。哲士とともに歩んでいくと決めたのに、結局哲士にあんな決断をさせた。香代子の行動は誰にも何ももたらさなかったばかりか、方々に傷だけを残した。

「メシ」

 香代子が抱えた膝に顔を埋めていると、その頭の上に何かが乗った。顔を上げると、コンビニ弁当が入った袋を持った根本がそこに立っていた。

「ひっでー顔。鼻垂れてっぞ」

 コンビニ弁当をかよこのかたわらに置いて、根本がティッシュティッシュと探しに行く。その姿を見ながら、香代子は鼻をすすって「……ティッシュならテレビ台の下」と答えた。

「おぉ、あった」

 どこもかしこもピシッと片付いた中で根本がティッシュ箱を持ってやってくる。香代子はそれを受け取って、思いっきり鼻をかんだ。

「まあ食えよ。食って、水分補給しろよ」

 泣くことで脱水症状を起こして死んだという人は聞いたことがないので、大丈夫だと思うけれど、根本は本気で心配しているらしかった。

 割り箸を割って、白いご飯を口に入れたら止まらなくなった。泣くことはかなりのエネルギーを使う上、香代子は落ち込んだりすることで、食欲がなくなるような繊細なタイプではない。米粒ひとつ残さずに完食した。

 根本が買ってきたお茶を、飲んだそばから涙にしているような有様で、香代子は口を開く。

「こんな時でもご飯がおいしいっておかしいんじゃないの、私」

 もはや定期的になった涙によるしゃくり上げを繰り返しながら言うと、根本は「おかしくねえよ」とやけに真剣な声音で答えてくる。

「おかしくねえから、いっぱい食べて早く泣き止めよ」

 根本の言葉に、くそうと香代子は毒づく。根本のくせに、慰めているのか、これは。そう思うと、ふつふつと身勝手な怒りが湧いてきた。私よりも哲士のこと慰めてよ。私はいいから、哲士のところに行ってよ、と。

 自分はどうしてあんなことを言わせてしまったのだろう。哲士を支えたいと思っていたのに、妊娠騒動の最中に支えてもらったのは香代子の方だった。挙句に『縛り付けてごめん』と、罪悪感の言葉を言わせ、別れを切り出させた。後悔ばかりが募る。何ひとつとして、一片も哲士を幸せにできなかった。

 せめて今、自分の持てるすべての幸いが、哲士のところにいって欲しいと願う。だから根本にも香代子ではなく哲士を慰めて欲しいと願うのだ。

「誰かを慰める気があるんだったら、哲士のところに行って……少しでも元気にしてあげて」

 涙が次々と頬を滑り落ちて、前が見えなくなる。根本がすぐそばで息をつき、香代子に洗濯機フル稼働で洗った洗濯物の山からタオルを抜いて差し出してきた。香代子はそれに遠慮なく顔を埋めて泣いた。

「何でそんな別れた後もお互いに心配してんのに、上手くいかなかったんだろうな」

 近くに根本が座ったのが気配でわかる。香代子は泣きすぎて感覚が鋭敏にも鈍感にもなっていた。

「部長も電話で同じこと言ってたし。『マネージャーを元気づけてやってくれ』って」

 根本の言葉に、香代子は別段驚かない。哲士はそういう人だ。こんな時まで人のこと心配しなくてもいいのに、と胸が苦しくなる。

「なあ、ここからは何言ってんだコイツ、ってぐらいの感じで聞いてくれよ。あくまで俺の意見だからよ」

 勘違いでも何でも突っ走って行く根本にしてはめずらしく、控えめで自信なさげな切り出し方だった。

「俺さ、マネージャーは部長とでも上手くいくと思ってた。むしろ部長がマネージャーのことずっと好きなとこ見てたからさ、部長でいいじゃん、何で部長じゃダメなんだよくそーとか思ってたわけ」

「わ、私だって思ってたよ。上手くやりたいって。哲士を幸せにしたいって」

 勢いづいて反論しようとする香代子を「まあ、いいから聞けって」と根本がなだめる。

「俺さ、部長にもどっかそういう風に考えてたとこあったと思うんだよ。古賀よりもマネージャーのこと幸せにしてやれるかもしれないって。だから諦めずに長い間きちゃったわけ」

 根本が何年だよ、と指を追って哲士の片思い年数を数え始める。五本目の指を半分まで折ったところで止まった。

「こういうことがあって、部長もすっきりしたとこはあると思うんだよ。自分ではダメなんだと諦めがついたところはあんじゃねえの」

「それって、ずいぶん都合のいい……」

「そうだな。まぁ都合のいい解釈だとは思うけどよ、叶わない恋なら想い続けてるのが幸せとは限らねえだろ。ある意味部長は解放されたって考えてえよ、俺は」

 そこで、根本は笑う。眉を下げた苦笑気味の表情はめずらしく影があった。

「マネージャーをけしかけた責任はこれでも感じてるからな。都合よく解釈してえんだよ」

 だから話半分に聞いてくれって言っただろ、と根本はつけ加えた。彼は香代子に訴えた。部長を助けてくれ、受け入れてくれ、部長が好きなのはずっと前から香代子なのだと。根本の言葉がその後哲士と付き合い始める決定打になったわけではないけれど、彼はそうは思えないのかもしれない。

「人の気持ちはさ、上手くいかねえな」

 根本のしみじみとしたつぶやきに、香代子はさらに涙が止まらなくなった。哲士を幸せにしたいという気持ちだけではダメだった。好きになりたいという思いだけではダメだった。どうしても由貴也への想いは変えられなかった。

 嗚咽を噛み殺して泣いていると、根本の携帯が震えて、着信を告げた。彼は電話をするためにベランダへ出て行く。

 ひとりになった部屋で考える。いくら家主が根本といえども、ずっとここにいるわけにはいかない。この辺でもう去らないとと思っていたら、根本が電話を終えて帰ってきた。

「マネージャー、これからどうすんの? 古賀のとこ帰んの」

 哲士の問いかけに、香代子は即座に首を振る。

「……合わせる顔なんてないよ。由貴也にも哲士にも」

 由貴也を裏切り、哲士もまた自分の弱さから傷つけた香代子に、誰かの元へ戻るという選択肢はない。ひとりで強く生きて行こうと決心したところだった。

 根本はそんな香代子の決心に構うことなく、事もなげに言う。

「んなこと言ったって来てっぞ。古賀」

 下に、と言われたので、香代子はほとんど反射的に立ち上がり、ベランダに駆け寄った。窓を開けて通りに面している下を見れば、下に人影があった。その人物がゆっくりと顔を上げる。

 記憶よりも伸びた前髪が動きに合わせて揺れ、顔があらわになる。薄い色彩の瞳が香代子を射抜く。夜の暗さの中でも、その人物はほのかに光り、浮かび上がって見えた。

 由貴也――!

 思考が止まる。感情が、自分の中で様々に混ざり合って渦を起こす。それが最終的に歓喜に収束して行きそうで、それを認めるわけにはいかなくて、香代子は根本に向き直る。

「根本っ! どういうことっ⁉︎」

 きっとさっき電話していたのは由貴也だったのだと思いながら、香代子は根本を問いつめた。

「どうもこうも、俺はさっき『下にいるから、伝えてください』って古賀から電話受けただけだし」

 根本を問いただしても仕方ないのだと実感し、香代子はうつむいて拳を握る。

「私、由貴也に会えない!」

 床に叩きつけるようにして叫ぶと、なおさらその思いが強まった。会えるはずがない。心は歓喜に震えても、裏切っておいてどんな顔をして会えばいいのか。一度他の男性のところへ行った香代子に、由貴也のところへ戻る資格はない。

 香代子は肩を怒らせて、じっと無言で床を睨みつけていた。根本が肩をすくめる。

「あいつ、インカレ会場から直で来たんだぜ、あの格好。しかも、インカレの結果知ってるか? 優勝だぜ。金メダルぶら下げて来られちゃ会わないわけにいかねえだろ」

「そういう問題じゃない!」

 たとえ由貴也が金やダイヤモンドのメダルをとってきたところで、香代子のしでかしたことが消えるわけでもない。頑なに会わないという態度をとる香代子に「なあ」と根本が呼びかける。

「俺、部長に電話でマネージャーとのおおまかな事情を聞いた時にさ、言われたんだよ。『古賀がマネージャーのところに来たら、何としても会わせてやって』てよ。もうここまで来たら、誰に悪いとか、義理立てとかそんなものじゃなくて、自分の気持ちに正直になれよ」

 香代子は驚いて目を瞬かせた。哲士が根本に言ったことに驚いて、でもそれがあまりに哲士らしくて、また泣けてしょうがなかった。

「それに古賀、マネージャーが来るまで何時間でも外で待ってるってよ」

 だめ押しのように「あーあ、今晩は冷え込むってさっきテレビで言ってたなぁ。インカレから帰って来て疲れてんのに、外で待たされたら、風邪引くんじゃね、あいつ」と根本に言われて、もうどうしようもできなかった。心の奔流が香代子を飲み込む。もう止まっていられなかった。

 世話が焼ける、という根本の視線を浴びながら、香代子は部屋を飛び出した。一気に階段を下り、学生寮のエントランスから出る。冷たい夜気が香代子を包んだ。

 根本の言った通り、寒い夜だった。十月ももう半ばを過ぎている。身震いさせるような外気の中、由貴也は街灯の光の元で立っていた。その顔がゆっくりと香代子へ向く。

 いつの間にこんな風な顔をするようになったのだろう。彼の足は地について、揺るぎない。彼の存在感がひとまわりもふたまわりも大きくなった気がした。もう不安定な由貴也は消え、そこには堂々たる雰囲気を持つひとりの陸上選手が立っていた。

「私……」

 何て言っていいかわからない。そもそも自分に何かを言う資格があるかがわからない。硬直する香代子に、由貴也がすっと近づいてくる。そのまま手を振り上げた。

 身を固くする香代子に、何かが頭から滑り落ちてくる。目を開けておそるおそる確認してみる。香代子の胸元に何か光るものが収まっていた。

「これ……」

 由貴也の手から、自分の首にかけられたものを手に取る。それはインカレの金メダルだった。自分が首から下げていていいとは思えないものに、香代子は由貴也に視線を向ける。

 由貴也は視線を受け止め、どこまでも迷いなくまっすぐに香代子を見ていた。

「俺はアンタが――香代子がいるから走れる」

 真摯な言葉の間に由貴也の腕が伸びてくる。次の瞬間、由貴也に抱きしめられていた。

「俺のところに帰ってきてよ」

 しんとした夜の中に、由貴也の言葉だけが響いて、もうダメだと思った。彼の言葉に逆らう術をもう持たない。会いたかった。会いたかった、ずっと。

 声を上げて香代子は由貴也の腕の中で泣いた。自分の中でこらえていたものが全部泣き声と涙とともに出ていく。

 由貴也、由貴也、由貴也。しゃくりあげるので精一杯で、声には出せなかったが、何度も心の中で名前を呼ぶ。一回呼ぶたびに自分の中の枷が外れる。止まらなくなっていく。

「――アンタが」

 由貴也が体をそっと離し、香代子に視線を向けた。香代子を見下ろす由貴也は、今まで見たこともないような真剣な表情をしていた。

「嫌だと言っても連れて帰る。攫っていくよ」

 由貴也の顔が、近づいてくる。香代子はもうそれを拒まなかった。拒めるはずがなかった。

 唇が重なり合う。香代子は由貴也の髪に手を差し入れ、より深く唇を合わせる。もう離れられない。自分の中で何かが満ちていく。それは由貴也じゃないとダメだという思いだった。

「攫って、いって」

 かすれた声でつぶやくと、香代子のつま先が地面から離れる。腰に由貴也の腕を回され、抱き上げられ、香代子はあわてて彼の肩に手をついた。

「攫っていくよ」

 そのままの体勢で、つぶやいてかすかに笑った由貴也の頭に腕を回す。由貴也の髪に頬を寄せながら、香代子はまた泣いた。いろいろなものが混ざった涙だったが、悲しみだけではもうなくなっていた。

 もう二度と離れない。そう胸の中で誓った。

これ以後、申し訳ありませんが、いただいたご感想のレスは控えさせていただきます。

ご了承ください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

サイトに戻る
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ