神さまの手のひら15
雨の音がする。
そう思って哲士は窓の外に目をやると、窓のそばにある木の梢から雫が滴り落ちていた。今朝は降っていなかった雨がついに重く垂れ込める灰色の雲から落ち始めた。嫌な天気だ。日が射さない秋の午前中は、背筋に寒さが這い上がってくる。
病院の廊下はなおさら暗く、異様な熱気に包まれていた。産婦人科医の不足が取り沙汰されている現在、午前の早い時間だというのに待合室は妊婦でぎっしり埋まり、哲士はその片隅で香代子の診察が終わるのを待っていた。
平日ということで、付き添いの男性の姿は少ない。ぽつぽつと見かけるその中でも哲士はとびきり若く、好奇の視線を向けられている。それは足をギプスで固め、松葉杖を持っているせいもあるのだろう。
朝から松葉杖で入院先の病院から香代子の部屋まで一時間かけて歩き、その後タクシーを使ったとはいえ遠出をしたため、足が激しく痛み始めてきた。痛み止めも飲んだが、痛みの波は全身に波及して、頭痛や吐き気すらしてきそうだ。
こんな少しの無理もきかなくて、これから香代子を守っていけるのだろうか。足を自ら潰してしまったことを、今さらながら悔やむ。自分は足を壊したことで陸上から逃げ出した気でいて、今度はこの四肢の不自由さに悩まなければいけなくなった。哲士の怪我をして陸上から逃避しようという安易な考えは、こういう形でしっぺ返しとして現れた。
「……哲士」
ためらいがちに声をかけられて顔を上げる。香代子が青白い顔でそこに立っていた。
「診察、終わった?」
哲士の問いかけに香代子が無言でうなずく。妊娠を確かめるためにどんな検査をされるのか想像もつかなかったが、香代子がひどく消耗しているのは哲士にもわかった。どこかに座らせてあげたいと、周囲を見回すが、座席は一人分の余裕もないほどに埋まっている。現に哲士も松葉杖をついて立っていた。
「具合は? 気分は悪くない?」
昨日香代子が吐いていた姿が脳裏をよぎって尋ねる。香代子は「大丈夫だよ」と弱く笑って答えたが、あまり平気そうには見えなかった。
それから一時間ほど経って、やっと名前を呼ばれた。「新野 香代子さーん」と看護士の声が待合室に響いた瞬間、香代子の肩が跳ねる。哲士は「大丈夫だから」と安心させようと試みるが、そんなことは気休めだとわかっていた。
哲士たちのように二十歳前後の、あるいはもっと若いカップルが、診察室に入るのを臆する場面は見慣れているのか、看護士が「付き添いの方もどうぞ」と言ってくれた。哲士と一緒ということで、香代子は少し安堵したのか、存外しっかりした足取りで歩き始めた。哲士も松葉杖を動かしてそれに倣う。
並々ならぬ緊張と覚悟で入った診察室だったが、告げられた検査結果は拍子抜けするものだった。
「『早すぎてわからない?』」
哲士は医者が言ったことを復唱してしまった。つい一瞬前、老境にさしかかった産婦人科医は言った。「まだ時期が早すぎて、妊娠しているかどうかわからない」と。哲士は頭が真っ白になる。それ以上に香代子は思考が止まっているようだった。
他にもいろいろ言っていたが、要約するとあと一週間後にまた来てくれ、ということだった。それから老人医師から説教をかまされる。望まない妊娠をしないために、とのことだったが、その怒りの矛先は主に同性の哲士に向けられ、哲士はおとなしく話を聞く。ここで否定してもややこしいことになるからだ。
老人なので、話が四方八方に飛び、どこか違う次元に行く前に、控えていた看護士が「では一週間後にいらしてください」と無理やり締めくくった。哲士は「ありがとうございました」と言って、香代子とともに診察室を後にする。
会計を終え、病院を後にすると、香代子はどっと疲れたようで、生気が抜けたような顔をしていた。その姿を見るに見かねて、哲士は「どこかで少し休んでいこう」と声をかける。
大学から遠く離れたあまりなじみのない街に土地勘はない。幸いに外に出た時は雨が止んでいて、昼過ぎの街は清々しく澄んだ空気に包まれている。
「ごめんね、哲士」
携帯で調べて、飲食店などが立ち並ぶ繁華街と思しき方向に歩いていると、後ろからついてくる香代子が謝ってきた。哲士は松葉杖を動かす手を休めて、「どうした?」と振り返る。香代子は肩を落としていた。
「嫌な思いばっかりさせてごめんね。病院でもいろいろ言われて……」
心底申し訳なさそうに謝る香代子に、哲士は「何も嫌な思いなんてしてないよ」と答える。
「俺としては、マネージャーが不安な思いしてるのに、何も知らない方が嫌だな」
「……私が不安な思いとかするのは自業自得だもの」
そう答え、落ちこむ香代子に、哲士は「行こう」と優しく促す。このままここでいたら、どんどん彼女が自己嫌悪の深みにはまっていく気がした。
少し歩くと、小さな公園が見えた。自然と足はそこに向かう。学校が終わるのにはまだ早い昼間、滑り台とベンチだけしかない公園に若い母親と幼児などの人影はなかった。
木の下のベンチにふたりで並んで座る。雨の後だが、葉が雨を遮ったのか、運よくそのベンチは濡れていなかった。
隣り合って座るのは好きだ。両手が埋まる松葉杖と不自由な足に煩わされずに済むから。
「不安なら不安だって言ってもいい」
身の内に不安を隠して、決して口に出そうとはしない香代子にそっと語りかける。吐き出せずに、彼女の身の内に溜まる不安はどうなるのだろうと哲士は不安になるのだ。
こうしてうながして、ようやく香代子は話し始める。
「わ、私……」
香代子の声はわずかに震えていた。
「まだ学生で、産んで育てていけることなんてできないってわかってて……」
でも、と声を詰まらせながら、香代子は続ける。
「子供を殺すなんて、そんなこと許されていいのかわからなくて。自分のやったことに対して、責任を取らなきゃいけないのに、ちゃんといろいろ考えなきゃいけないのに、すごく混乱してて……」
泣きそうで、泣かない香代子の頭をそっと引き寄せた。
隣り合って座るのは好きだ。こうやって、松葉杖がなくて自由な両手で、香代子を慰めることができるから。自分の手は香代子の役に少し立てるかもしれないと思うから。
香代子が哲士の胸に頬を寄せる。その仕草が彼女の不安をすべて代弁しているようで、哲士は香代子の髪を優しく撫でる。ためらいがちに哲士と香代子の体にはさまれていた彼女の手が、ぎゅうと哲士のシャツの生地をつかむ。子供をあやすように、哲士は香代子の背を弱く叩いていた。
「マネージャーがどんな選択をしても、俺はその選択を全力で支えるから」
自分では本気で力強く言った言葉だったが、外気は哲士の言葉を響かせなかった。虚しく落ちていく。その無力さを埋めるように、哲士は香代子を力強く抱きしめる。
長い間、そうして抱き合っていたが、自分たちがどうすればいいかという答えは出なかった。
哲士は病院から抜け出し二回目ということで、両親からはこっぴどく叱られ、看護士たちの監視の目が厳しくなった。当たり前だが、哲士の足は例え松葉杖を使っても、長時間歩行できる状態ではなく、出かけた後は必ず悪化した。
その悪化を香代子に悟らせないようにしながら、哲士は懲りずに来週どう病院を抜け出して香代子と病院に行くかを考える。
幸いなことに、哲士の脱走は香代子に会いにいきたいがためだと思われていて、その後も香代子が病室に会いに来ることを咎める者はいなかった。むしろ病院から抜け出して治りを後退させるくらいなら、香代子が会いに来ることを両親は歓迎すらしていて、妹には「お兄ちゃんはよっぽど彼女のこと好きなんだね」と呆れまじりに言われた。
香代子と病室でなら会うのを制限されなかったことに、哲士は安堵する。今、香代子のそばにいなくていついるのか。今、無理をしなくていつするのか。
とはいえ、産婦人科に行った日以降、香代子はしゃんと顔を上げて、振る舞うようになっていた。五日後に迫った再診を前に、できる限りのことを香代子と話しておきたいと思っていた矢先に、香代子は言う。「検査薬で調べてみる」と。
検査薬というものがどういったものか哲士にもわかっていた。それを使えばもう逃げも隠れもできなくなる。現実を直視しなくてはならないものを前に、香代子は落ち着いていて、その瞳には決意が見える。
「本当は一番先に検査薬で調べるべきだったんだよね……先延ばしにしてないで、一刻も早く向き合って、自分のやったことに対して責任をとらなくちゃ」
そう言って、ほんのかすかに香代子は笑った。その笑みが消えないうちに、「今日は帰るね」と彼女は立ち上がる。
その姿や笑顔が、もう二度と帰ってこない人のもののようで、哲士は思わず「マネージャー!」と呼びかける。哲士の胸にはこの妊娠疑惑が持ち上がった時からずっと同じ恐れがある。香代子はもし本当に妊娠していたとしたら、哲士の前から消えるのではないか。香代子とともに生きるとしたら、哲士の人生は今までのレールとは違う道に進むだろう。それを香代子は哲士の人生を壊すと解釈して、哲士の前から姿をくらますだろう。
「どんな結果になっても、明日も俺のところに戻ってきてくれ。もし、いなくなるようなことがあったら、一生探すよ」
ともに背負うことより、ひとりで生きていく選択をすることが容易に想像できる香代子に哲士は釘を指しておく。香代子は少しの無言の時間の後に頷いた。そして静かに出て行く。
ひとりになった病室で、今まで何度もしてきた問いかけを、改めて繰り返していた。味方になる、そばにいる。そう口先だけで言うことは誰にでもできる。それをどう実行するかが重要なのだ。足を治すことがまず先決だが、それから大学を中退し、職を得る。それを自分はためらいなく実行しなければならない。向き合わなくてはいけないのは哲士もだ。
そこまで考えた時、一度は香代子を送り出し、閉まっていたはずのドアが開いた。音を立てたのはドアがレールを滑る音のみで、そこに立つ人間は言葉もなくどこか呆然と哲士を見ていた。
「どうした……?」
あまりに彼女から――戸口に立つ香代子から表情が抜け落ちているので、何かあったのかと哲士は不安になった。一度帰ったはずの香代子が戻ってきてここにいる。それは異常事態を指し示すことに思えた。当然、哲士の心はざわめく。
「哲士、私……」
顔色をなくした香代子が、ふらふらと近づいてくる。かと思えば、おぼつかない足がもつれたのか、膝が折れ、その場にへたり込む。その体勢のまま、香代子は呆然と床を見ていた。あまりに香代子が茫洋としているので、声を掛けることすらできなかった。
「今、遅れてた月のものがきて……私、妊娠してない」
哲士は目を見開く。何と声をかけていいかわからなかったし、これまでそのことばかりを考えていた日々を送っていたので、妊娠していないと言われても、気持ちがうまくついていかない。
香代子もそうだろうと思って、視線を向けると、やはり彼女も放心状態の最中にあった。
哲士は彼女が放心状態から立ち直った後に一番に見せる感情は安堵だろうと思っていた。
だが、違った。
真っ白な紙のように何も浮かんでいなかった彼女の顔は、徐々に表情を取り戻す。それはほとんど予想通り安堵といって良かったが、違う一片の感情が彼女の顔に過ったのを、哲士は見逃さなかった。同時に、香代子と過ごした時間が無になるくらいの衝撃を受ける。
激しい感情が交錯した後、哲士の中には凪いだ音のない時間が訪れた。時が止まったような胸の中に一滴、納得を携えた水滴が落ちる。ああ、夢はどこまでいってもやはり夢なのだ。
香代子が自分のところに来てから、毎日が夢のようで、だからこそ、いつかは醒めるのではないかと不安で、その瞬間を恐れてきた。それなのに今、不思議と心は落ち着いていた。
それから、妊娠したという勘違いをしたことに、香代子はひたすら謝り始めた。その謝罪に「そんなに謝らなくていいよ」と微笑んで答える。彼女はこちらが恐縮してしまうほどの謝りようだった。
彼女はその後も謝り通しだったが、哲士は別のことを考えていた。
香代子はあの時、妊娠していないとわかった先ほど、安堵の中にほんの少しの落胆をにじませた。その時に哲士はすべてを悟ったのだ。ああ、きっと俺は古賀に一生勝てないのだろう、と。
だから夢を終わらせる時なのかもしれない。香代子をこれ以上苦しめる前に。
その考えは胸を潰すほどに苦しく、暴れまわるだろうと思っていたのに、驚くほどストンと哲士の胸に収まった。だからこそそれが正解のように感じていた。いつかこの時が来るのがわかっていた。
「兄ちゃん、何考えてんだよ」
その声で哲士はハッと我に返る。志朗の手当てをしていたのに、その手は止まっていた。
香代子と付き合い始めて姉の志乃は来なくなったが、代わりに弟の志朗が来るようになっていた。しかも毎回怪我をしてくるので、ベットサイドテーブルには香代子に頼んで買ってきてもらった救急箱が常備されている。
「あ、ああ。ごめん」
ぼんやりしていたことを謝って、消毒液を脱脂綿に染み込ませて、志朗の膝の傷に当てた。彼へのいじめはまだしつこく続いているらしく、生傷が絶えない。それを毎回哲士はここで手当てして家に帰している。志朗は出会った頃の反抗的な態度はなりを潜め、哲士に対して素直になっていた。
「さ、終わったぞ」
すべての傷を処置し終え、救急箱を閉める。志朗がいつものように不安げに哲士を見上げてきた。
「姉ちゃんには言うなよ」
志朗は毎回手当てを終えた後にこう言う。「言わないよ」と、哲士はいつもと同じ答えを返した。毎日毎日傷を作ってくるので、さすがの哲士も見兼ねて「お姉さんに相談した方がいいんじゃないのか」と聞いてみたが、志朗は断固として拒否した。理由を聞いてももちろん教えてくれなかったが、ある時ぽつりと漏らしたことがある。「姉ちゃんいつもへとへとだから、これ以上疲れさせたくない」と。
聞けば、志乃は中学卒業後、運送会社の事務員として昼は働き、夜は工場でバイトをしているらしい。以前、毎日哲士のところへ来てくれた時は、昼の仕事と夜の仕事の隙間に、相当無理をして来ていてくれていたのだろう。おまけに彼女は、哲士のひとつ下ではなく、本来なら高校三年生に当たるふたつ下の十八歳だった。
志朗はこうとも漏らした。「オレと姉ちゃんに親切にしてくれる人なんて、あんたぐらいだよ」と。父親が飲酒運転の末に死亡事故を起こしたというのは、彼ら姉弟を取り巻く環境を過酷なものにしたに違いない。その中で、志乃は弟を養っていくために肩ひじを張って生きている。自分が昔いじめられっこだったので、志朗の誰かに心配かけたくない、という気持ちもわかり、今のところ哲士は、志朗の手当てをするに留まっていた。
これ以上いじめがひどくなるようだったらさすがに言わないとな、と思っていると、志朗が「悩みごとなら聞いてやってもいいけど」と哲士の顔を覗き込んで来た。哲士はその偉そうな態度と、不器用な気遣いにおかしくなり、笑いを必死にこらえる。その笑いの波が治まった後に、ふっと笑い直す。そして、半分ひとり言のようにつぶやいた。
「……夢から醒めなくちゃな」
小さな哲士のつぶやきに、志朗が「何だって?」と聞き返してくるが、哲士は笑顔を返すにとどめた。
その時、音もなくドアが開く。
「あ、ごめんね」
哲士を訪ねて来た香代子が来客に気づき、ドアを再び閉めて出て行こうとする。その前に志朗が野生動物のような俊敏さで、病室から出て行く。彼は他人の気配を嫌う。哲士にはある程度心を開いてくれたが、こうして他の誰かが来ると、さっと踵を返してしまう。警戒心が強いのは、彼の今まで辿ってきた道の険しさを暗示しているように見えた。
「ごめん、哲士」
かなりの頻度でここにいる香代子も志朗のことは知っていて、彼が哲士を訪ねやすいようにわざと小学生の下校時間には病室から出ていくこともあるほどだ。迂闊な行動をしたと香代子は反省しているのだろう。
「手当ては終わっているから大丈夫」
最低限のことは済んでいると伝えると、香代子はほっとした顔をした。そのやわらかい表情を見ると、自分の中にこらえがたい悲しみに似た何かが湧き上がってきたが、自分の中の決心を揺るがせるのには至らない。
哲士はサイドテーブルの上のデジタル時計に目を走らせた。日付は日本インカレの一週間。いくら由貴也が姿をくらましていても、大会に出場しにそろそろ帰ってくるだろう。
「マネージャー、こっちにおいで」
哲士が呼ぶと、香代子は「どうしたの?」と、素直にこちらに歩いてくる。その姿が愛おしかった。同時に、彼女の顔によぎる影も見える。妊娠騒動以後、香代子の顔には影がある。きっと彼女も自分の内にある気持ちに気づいているはずだ。
香代子が定位置の椅子に座る前に、手を引く。香代子がバランスを崩して倒れこんできた。ベットに膝をついた香代子の驚いた顔が至近距離にある。哲士はすっと瞳を細めた。
「香代子」
低い声で名前を呼ぶと、がらりと部屋に中の空気が変わった。自分のことをゆっくりゆっくり好きになって欲しかったから、哲士は今まで性急なことをするのを避けてきた。急に男だと意識させて、香代子が怯えてしまってはかわいそうだと思っていた。だが今、それをあえて行う。
すっと手を伸ばして香代子の頬に触れる。彼女の体が震えてすくむのがわかったが、哲士は構わず事を押し進める。顔を近づけた。
ありがとう、緒方くん。
彼女の吐息を感じた時、不意にそんな声がよみがえってきた。高一の香代子が笑いかけてくれた最初の記憶だ。あの笑顔に哲士は惹かれ、ずっとずっと焦がれてきた。
それが今は、こんな泣きそうな顔で哲士の行為に耐えている。もうずっと彼女らしい顔なんて見ていない。
唇が重なるか重ならないかの距離で、香代子が小さく「や……」とつぶやいたのがわかった。無視できるほどのかすかなつぶやきだったが、哲士はそこで動きを停止させる。
動くのを止めた哲士の背中を殴るように、激しい感情が追いついてくる。全部、全部、全部無視できればよかった。知らないふりをして、見ないふりをして、香代子のそばにいられればよかった。それができない哲士はもうしないよ、というように、体を離して笑って見せる。そして、終末向かう決定的な言葉を発する。この一言が、自分たちの関係を取り返しのつかないものにするとわかっていた。
「そんなに古賀のことが好き?」
香代子は妊娠していないとわかったあの時、安堵の中にほんのわずかな落胆を見せた。それは想像妊娠で生まれた母性本能ではないだろう。もしそうだったら、その感情を隠すことはない。
あの瞬間、香代子が抑えきれなかったもの。それは由貴也に対する思慕ではなかっただろうか。妊娠で、由貴也とのつながりを失わずに済んだことは、彼女の心の拠り所になっていたのではないだろうか。哲士の心の中の問いかけに応えるように、香代子の顔がくしゃくしゃに歪んでいく。哲士のところへ来た時も、妊娠の可能性があるとわかった時も、不安を吐露した時も泣かなかった香代子が、目から大粒の涙をこぼして泣いていた。
「ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
自分自身を責めるように、何度も何度も繰り返し泣ながら謝る香代子を、哲士はそっと抱きしめた。どんなにかかってもいい。いつか自分のことを好きになってくれたなら。彼女が哲士のところに来てから毎日毎晩思っていた。だが、どんなにそばにいたって、どんなに想っていたって、香代子が哲士を由貴也以上に好きになることはなく、彼女が哲士へ恋愛感情を抱くことはない。努力の次元を超えて、どうしようもならないことがあると、今はもう、正しく理解していた。
オルゴールが止まるように、幸せな日々が終わる。
「マネージャー、別れよう」
夢を醒ます。夢のような日々に終止符を打つ。
香代子の体に回していた腕を解いて、代わりにその肩に置く。香代子の体は細かく震えていた。
「今までそばにいてくれてありがとう。縛りつけてごめんな」
「部長、私っ」
泣き濡れた顔を上げて、香代子が何かを言いかけるが、哲士は微笑んで首を振った。
「俺が好きになったのは、くるくるとよく動いて、怒って、笑うマネージャーなんだ。苦しめて、悲しい顔ばっかりさせて、泣かせて、そんなマネージャーじゃないんだよ」
由貴也あっての香代子だった。それは、香代子が由貴也に依存しているとかではなく、由貴也といる時、香代子は生き生きと輝いていた。由貴也がいないと、香代子の灯は消えたようだ。そうさせたのは哲士だった。
彼女を解放する。ずっと縛りつけていた哲士という存在から自由にする。哲士は笑ったままで、香代子の涙を手のひらでぬぐった。
「そんな顔しなくていいよ。マネージャーが俺のところに来てくれて、本当にうれしかった。楽しかった。夢のようだった」
堰を切ったように、泣きじゃくる香代子が、なぜだか四年半前に桜の下で笑ってくれた姿に重なった。あの笑顔を自分のものにしたかった。だが、それは笑顔の源があってこそのものだった。自分はその源にはなれなかったのだ。想いの強さや長さ、距離の近さでは埋められないものがある。
「俺は絶対に立ち直ってみせるから。だからもうマネージャーは何も心配しなくていい。マネージャーが笑って怒って――一番らしくいられるところに戻っていいんだよ」
香代子の笑顔を取り戻したい。自分がなれなかった香代子の心臓とも呼べるものを返してあげないといけない。自分が奪ったそれを、戻してあげたい。それにはまず、哲士から離れることが第一歩なのだと哲士は香代子の肩から手を離した、
「泣かないで。笑ってて」
香代子を誰よりも何よりも大切にして、幸せにしたかった。かつての自分はそれができると信じていたが、今の哲士は違う。人の心は決意や一方的な想いだけで、どうにかできるものではなかったのだ。
だが、哲士にはまだ、彼女のためにできることがある。夢は終わったが、哲士にはすべきことが残っている。
「俺が後はやるから」
何も心配しなくていい、と哲士はそのすべきことを思ってつぶやく。
だが今は、今だけは――。
こうして香代子を抱きしめて、彼女の存在を胸いっぱいに吸って、夢の終わりを感じていたかった。
これが哲士の、恋の終わりの形だった。