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結果から言うと、由貴也はなんとか集合時刻までにやってきた。
寝間着のスウェットの上に陸上部のジャージをはおり、寝癖でツンツンしている頭で現れた。
香代子に手助けするな、と釘をさされても、哲士はやはり由貴也を迎えに行ったらしい。半分寝ている由貴也の腕をひっぱり、バスに押しこんでいた。
由貴也はバスに乗り、座席についたまさにその瞬間にスイッチが切れたようにまた眠りの世界へと戻った。
練習試合といっても部員の皆はピリピリとしている。今日の練習試合に来る高校は、今度の競技会の参加校とかぶっている。今日はいわば前哨戦というわけだ。かなり重要な位置づけとなっていた。
その尖った空気の中、寝られる由貴也はただ者ではないというか、神経が図太すぎるというか、とにかく香代子はあきれた。
由貴也を叩き起こし、バスから降りて競技場へ入る。かなり大きな練習試合だけあり会場は込みあっていた。香代子はさっさと受付を済ます。
受付から自校のテントへ戻る。さすがの由貴也もスパイクや競技用のTシャツ、ロングスパッツなどの必要なものはきちんと持ってきていたらしい。それらを身にまとうと彼もさすがに目が覚めたようだ。いくぶんかはっきりとした顔でストレッチをしていた。
「あれ、古賀じゃねえ?」
「でもあいつ、陸上止めたって聞いたけど……」
「なんで立志院?」
由貴也のまわりをいくつもの視線と言葉が行き交う。その真ん中にいながらも由貴也はまったくいつも通りだった。泰然というよりは本当に聞こえてないかのようだった。
走っていないときは忘れがちだが、由貴也は優秀な短距離選手で名前も売れている。それに加えてこの顔であれば一度見れば忘れないだろう。
彼ほどの選手であれば、陸上の強い私立高校からいくつも誘いが来ていたはずだ。由貴也が立志院の弱小陸上部で復活したことは驚きでしかないようだった。
「古賀、大丈夫か」
めいめいで準備運動をしている最中、さりげなく哲士が由貴也に声をかけていた。
「平気です」
由貴也は無愛想にそっけなく答えていた。大概無表情で淡々としている彼だが、珍しく人を拒絶するような響きが色濃く表れていた。
「そっか。無理するなよ」
哲士は小さく笑って由貴也から離れていく。
今のやりとりからは由貴也は体調でも悪いみたいだ。それともただ哲士は走りの方の調子を心配したのだろうか。
気になったが、香代子は何も聞けなかった。由貴也はもう自分の世界に入りこみ、より一層まわりの音が聞こえていないようだった。
由貴也は緊張とは無縁のようで、練習にも増して異様な集中力を発揮した。午前の終わりに試合形式でやった百メートル走ではグループ一位でゴールし、入部してからの自己ベストを更新していた。
百と二百を専門にする哲士もまた由貴也とは違うグループで走り、ベストを叩きだした。
ベストを出しても何でも由貴也の様子はまったく変わらなかった。好き嫌いが多い彼は弁当には少しも手をつけず、ゼリー飲料で済ませていた。
「大丈夫? 具合悪いの?」
それでも試合前の哲士と由貴也のやりとりが頭の隅に残っていた。蓋を開けられてすらいない弁当を回収しながら一応尋ねる。
由貴也は眠そうな顔を向け、それからエネルギー切れというように、ごろんとシートの上に転がってしまった。
あの百メートルをトップで走ったランナーの風格はどこへいってしまったのか。香代子はあきれつつ、体を冷やさないようにとベンチコートを由貴也にかけた。
午前の由貴也の走りを思い出す。今日は本番ではないが、一応試合だ。香代子は以前夜の部室で哲士が語ったような走りが見られるかもしれないと期待していた。
由貴也は走るとき、独特の雰囲気をまとっている。由貴也だけ世界から独立したような、あるいは隔絶されたようなたたずまいを見せる。何事も彼には干渉できない気がした。
走りはしなやかでムダがない。ブランクがあるとは思えない軽やかな走りだった。
それでも多分、それは由貴也の本気ではない気がする。
弁当を始末しながら、香代子はため息をついた。自分は何をこんなに由貴也に期待しているのだろう。マネージャーならば部全員に公平でなくてはならない。由貴也を中心に回るようではいけないのだ。
午後の開始時刻十五分前になると、テントの中で転がっていた部員たちは一斉に起き始める。
陸上の体力の消耗はすさまじい。選手たちは空いた時間に少しでも体を休めようとする。なので昼休み中はテントに部員たちが死屍累々と横たわっていた。
部員たちが次々とウォームアップに行くかたわらで由貴也だけはベンチコートにくるまって寝ていた。誰が声をかけてもぴくりともしない。
問題児な下級生を指導するのも上級生の役目だ。二年生が困惑ぎみに由貴也を揺さ振る。
立志院陸上部は上下関係が弱い。というかなごやか過ぎるきらいがある。部員が少ないためにレギュラー争いとは無縁であるし、歴史が浅いため伝統の重みも存在しない。OBの過干渉もない。だから縦の縛りがゆるいのだ。
普段後輩を怒り慣れていない同級生たちが、香代子に助けを求めるような視線を送ってきた。
何で私、と思いながらも情けない“先輩”たちに行って、と目で合図する。伝わったようで、彼らはウォームアップへ向かって行った。
貴重なアップの時間を削らせるわけにはいかない。香代子は嘆息しながらも由貴也を請け合った。
つかつかと由貴也に歩みより、ためらいなくベンチコートをはいだ。
「そろそろ起きなって! 午後始まるよっ」
憤然と由貴也を見下ろし――そこで香代子は目を見開いた。
てっきり非難がましい目を向けられると思っていたのに、由貴也は蒼白な顔でこちらを一瞥しただけだった。
「………どこか悪いの?」
少し顔色が悪いどころではない。まったく血の気がない顔に、一瞬動揺に固まってから口を開いた。
由貴也は香代子の問いには答えず、膝に手をついて立ち上がる。
「ちょっと待って!」
明らかに由貴也はおかしい。自らの体調などかまわずにトラックへ向かう由貴也の腕をつかむ。
視線が交錯する。
完璧なまでの無表情。何の輝きのない双眸。香代子の心配など少しも由貴也にはかすらない。作り物めいた表情に、背筋が冷たくなった。
ただ彼の腕に添えられただけの手は一片のためらいもなく振り払われる。
にわかに彼のまとう雰囲気が鋭くとがった。触るな、かまうな、近よるな。全身でそう言っていた。
力なく振り払われた手を下げる。たいした力で振り払われたわけではないのに、しびれたように手が痛んだ。
急激に冷却されたように、由貴也の表情が消える。ただ何もできずに立ちつくす香代子に関心など払わず、由貴也はグラウンドへさっさと歩いていった。
由貴也の背中を見ていたくなくて、香代子はその場でうつむいた。どうしてこんなにもショックを受けているのだろう。
由貴也が他人を受けつけないのはもうとうにわかっていた。香代子も例外なく拒絶される存在だということも。
ショックの奥にある気持ちから香代子は目をそらした。そうするべきだと本能が言っていた。どうしてこんなにも衝撃を受けているのか――それをつきつめてしまえば、自分が根底から覆されるような気がする。
グラウンドが静まり返った。その後に監督の説明の声が響く。午後の練習が始まったようだった。
香代子は由貴也を頭の中から追い出し、マネージャーの仕事にとりかかった。落ちつけ、落ちつけと何度も念じる。その言葉すら鎮静剤のようだ。
無理矢理グラウンドへ目を向け、気をそらした。
ちょうどグラウンドでは四×百メートルリレーの準備が行われていた。
レーンの抽選を終え、グラウンドの中心に集まっていた選手が散っていく。スタート付近に一走目の由貴也が立った。しかももっとも内側の一レーンだ。そこは一番カーブがきついのだ。カーブに不慣れな由貴也には悪いレーンだった。
レーンうんぬんより今は由貴也の体調の方が気になる。あんな真っ青な顔でちゃんと走れるのか。
香代子の心配をよそにスターターがピストルを構える。
「用意」
その声でカーブの差を考慮したそれぞれのスタート位置で走者が手をつき、腰を浮かす。選手たちは微動だにしない。ここで少しでも動くとフライングと見なされるのだ。
高々とかかげられたスターターのピストルが陽光に反射して輝いた。直後、空を切り裂く銃声がレースの始まりを告げた。
弾かれたように選手たちがスターティングブロックを後ろ足で蹴り、駆ける。しかし、間髪容れずに鳴らされた二砲目のピストル音が選手たちにブレーキをかけた。フライングだ。
極限まで高まった集中力を削がれ、彼らはやや白けた顔でスタート位置まで戻っていく。
フライングは一回目誰がやったかに関わらず、二回目にやった選手が失格になる。皆より一層スタートに慎重となり、ダッシュを抑える。
二回目のスタートに向けて、選手たちがスタート位置で用意の体勢をとった。
緊張が高まる。皆、全神経を研ぎ澄まし、すべてを支配するピストル音を待つ。
グラウンドに刹那の静けさが満ちる。
気の遠くなるような長さに感じた空白期間を経て、冬の天高く乾いたピストル音が鳴り響いた。
二発目の射砲はない。正規スタートだ。
由貴也は残像だけを残し、爆発的なスタートをきった。フライングの失格にまったく恐れをなしていないようだった。
フライング防止のため、スタートを抑えていた選手が大半だった。スタートダッシュに長けている選手が多い一走では長所を封じられたも同然だ。
立志院は一番内側のレーンなのでもっとも後方からスタートをする。由貴也の恐怖心のないスタートはその差を縮めた。
直線コースでは由貴也の速さは際立つ。群を抜いている。向かい風すら彼には脅威ではないようだ。
きれいな走りだ。人間ではなく、動物のようだった。由貴也は手足を極限まで使い、伸びやかに走る。走ることに特化した体だ。
しかしカーブでは経験不足が顕著に現れる。本当に野生の動物のようだ。人工的に作られたきついカーブなど走れないとでもいうように、走りにくそうにしている。
カーブかバトンか――哲士はずいぶん迷ったようだった。由貴也の直線コースに強いという特性を生かすなら二走か四走に持ってくるべきだった。
しかしそこに彼を持ってくるとバトンパスという大きすぎる障害が待っている。四走は受けとるだけだが、三走の様子を見てスタートを調整しなくてはいけないので、経験がものを言うところがある。リレー未経験の由貴也には厳しい。
それに哲士は自分の前に由貴也を置くことで、負担をすべてしょいこむつもりでいるようだった。
カーブも後半にさしかかり、バトンの受け渡し可能場所であるブルーゾーンに突入する。
由貴也がひっさげてきた順位は三位。しかも一位、二位との差はほとんどない団子状だ。万年下から数えた方が早かった立志院としては快挙だった。
ゾーン内は人が入れ代わりたちかわりでにわかにあわただしくなる。
由貴也が迫ってきたところで、二走目である哲士が加速し始める。
まずい、と思った。香代子でもわかる。哲士の加速が早すぎる。由貴也が追いつけない。
あの哲士が目算を見誤ったのだ。
バトンを受けとる体勢になれないまま、テイクオーバーゾーンの端まできてしまう。四位だったチームが脇を駆け抜けていく。
もう後がない。テイクオーバーゾーンを出てしまっては問答無用で失格となる。由貴也がフォームを崩してバトンを突き出す。哲士が急激に減速する。
次の瞬間、立志院の誰もがあっと声を上げた。
ふたりの距離がつまりすぎた。タイミングがあわなかった。互いに体勢が乱れすぎた――。
バトンがグラウンドの上へ落ちた。
まさしくリレーでは最下位宣告、悪夢のようなできごとだった。