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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
118/127

神さまの手のひら13

 由貴也は自分に与えられた部屋のベットに倒れこむ。スプリングが音を立てて軋み、低反発のマットレスが沈み込んで体を受けとめる。その瞬間、疲労が上からのしかかってきて、自分にかかる重力が増した気がした。

 二十四時間陸上に専念できる場所に行きたいとコーチの華耀子に頼みこんだ由貴也は今、とある新興大学の合宿に参加していた。その大学は根性や精神論に頼らない近代的なトレーニングが有名で、最近めきめきと力をつけてきている。由貴也はその大学の効率的なやり方を盗みながら、東日本インカレまでに自分の体を仕上げることにした。

 もちろんこの合宿は由貴也にだけメリットがあるわけではない。この大学も大学で、まだ全国で名を馳せるような選手がいないので、由貴也という全日本ジュニアチャンピオンを招いて、その在り方や練習法などを研究しているようだ。後は単純に新興大学の部員たちに刺激を与えるために自分はここにいる。

 何か、熱出そう。

 由貴也は自分の体のあまりに重い感覚に、嫌な予感を抱く。もともと由貴也は環境が変わるのが苦手で、そのストレスはことごとく体に出るのだ。

 とはいえ、東日本インカレの前に体調を崩すわけにもいかない。由貴也はベットに寝転んだままの横着な姿勢で、床に置いてある自分のスーツケースから常備薬を取り出す。面倒だったが、そのパッケージの成分表に目を通す。下手に薬を飲むと、成分がドーピングに引っかかる可能性があるので、試合前は慎重にならざる得ない。禁止薬剤が含まれていないことを確かめると、遠征の時はいつもお世話になっているそれを口に放りこんで、ミネラルウォーターで飲み下した。

 後はもうさっさと寝ることにする。噂に違わず、この大学の陸上部の練習は選手を無駄に疲れさせることはなく、効率的で、徹底的に怪我の可能性は排されていた。けれども、部員から由貴也に向けられる視線は明らかな敵意で、周囲に馴染む気もなかった由貴也をさらに孤立させた。

 おまけに由貴也の受け入れを決めたここの監督は、表面上は親切に接したが、由貴也を研究対象としか見ておらず、由貴也は由貴也で華耀子のスパイのようなものだった。彼女は話題の大学に由貴也を派遣してその練習法を探りたいのだ。若い華耀子は貪欲で柔軟で熱心だった。

 華耀子とここの監督と、ふたりの指導者の研究熱心さに挟まれ、部員からはあからさまな敵愾心にさらされた由貴也だったが、そういう雑多な思念の中にいるのはありがたかった。何も考えずに済む。華耀子は由貴也が何かに捕らわれているのを見抜いて、ここに行かせたのかもしれない。

 由貴也は目をつむる。部員たちに弾かれ、彼らが寝起きしている大部屋とは別の個室を与えられたのは由貴也にとっては良い事態だった。強化指定選手の由貴也は様々な合宿に招聘されら経験があるが、相部屋の場合よく寝れた試しがない。

 布団を被って、強制的に眠りに就こうとする。自分にだって、眠りに逃げたい夜がある。余計な思考を眠りで停止させたい日がある。

 香代子を取り戻すために、まずは自分のやるべきことをしっかりやらないといけないだろうと考えていた。それに誓いを破りたくなかった。自分は初夏の県選手権後に、一年間、すべてを懸けて陸上をやると誓った。だからそれを果たしたい。まず間近にあるのは東日本インカレだった。

 香代子がいなくなったことによる不安定さで彼女の気を引く方法も考えないではなかったが、弱さを武器にするのはもう止めたい。そうしてしまえば香代子は他の弱い誰かがいるたびにそちらに移って行くからだ――今回の哲士のように。

 なぜだろう。巴に失恋した時に、もうこんな思いをするのはたくさんだと思い、ひとりで生きていきたいと考えていた。それなのに、自分はまた同じ思いをしている。

 目を閉じただけではどうにも消し難い思いに、由貴也は寝返りをうって目の上に腕をのせた。なぜ哲士なのだ。なぜよりによって彼なのだろう。

 由貴也にとって香代子を取り戻すことは決定事項だが、相手が哲士だということに何も思わないわけではない。相手が彼でなかったら、こんな風に遠い地へ逃避してこなくてもよかった。相手が哲士でなければ由貴也は即座に行動を起こして、香代子を取り戻した。そうしないのは、どこかで香代子とともにあることで、哲士に立ち直って欲しいと思っているかなのかもしれない。

 それでも、どうしても胸が軋む夜だった。眠れない、と瞳を開ける。胸にあるのは香代子が哲士と一緒に過ごしていることに対する胸がよじれそうな悔しさや怒りではなく、ただ一抹のさみしさだった。日中は忙しさや、環境の変化に気がまぎれて何も考えずにいられるのに、時おりじっとしていられない夜が来る。

 今まで、いつまで自分は保つだろうと思ってきた。まずいと思うたびに眠りに強制的に逃げ込んだのに、今日は薬を飲んでも眠れない。体の弱りが心の弱りまで呼んで、由貴也はたまらず、ベットから下りて、寝間着に使っているジャージのまま、財布だけ持って部屋を出た。

 後はもう勢いだった。消灯時間を過ぎ、誰もいない廊下を歩いているうちに、歩調が速まっていく。合宿所から出て、夜の闇に包まれた前庭を歩いていると、見回りと思しき懐中電灯を持った監督に「おい、そこにいるのは誰だ」と声をかけられたが、由貴也はその光に照らされる前に駆け出した。

 家々の灯火が消えた夜の街を全力で走る。耳の奥に声が響いていた。由貴也、と。実物が見たい。その声を実際に聞きたい。その想いだけで由貴也は疲労困憊の体を動かす。

 息を切らしながら、駅までやってきて、最終の新幹線に飛び乗る。自分は何をやっているのか、そんなことは一切考えなかった。激情に突き動かされての行動で、由貴也は初めて無我夢中という状態の中にいた。

 星も見えない夜の中を列車は進んでいく。同じ車両内に乗客はほとんどおらず、由貴也は何をするでもなく、じりじりとした思いを抱えながら、列車の揺れに身を任せていた。

 列車が進むのがとてつもなく遅い気がする。窓の外の闇はどこまでも続いて、時間が止まっているようだ。窓の外に目を向ける。

 この線路の先は、香代子のいる街につながっていた。









 香代子は、アパートの自分の部屋で机につっぷして眠っていた。体の表層部分は起きているのに、どうしても起き上がれない。バイトや部活や学校に加えて、毎日哲士の部屋に行っていることで、思ったより疲れているのかもしれない。それに何だか最近少し体調がすっきりしない。

 寝ているのか起きているのかあいまいな感覚の中、しんと静まり返った部屋の中に足音が響いたのを耳がとらえる。誰、侵入者? と心は身構えるけれど、まぶたが重くて、体に力が入らない。そのうちにも足音はどんどん近づいてくる。ついに自分のすぐそばに立たれる。

 キシッ、と床が鳴いて、侵入者がゆっくりと香代子のそばに腰を下ろす。――いや、この人は侵入者なんかじゃない。よく知った、けれど今の香代子にとって恐怖を呼び起こさせる気配だった。

 嫌っ、と目をきつく閉じる。圧倒的な力でねじ伏せられたあの夜のことがよみがえり、嫌だ触らないで、と胸の中で叫ぶ。ただ痛くてつらくて苦しかったあの夜。愛情など感じさせずに、由貴也はただ香代子を自分の思い通りにするために支配的な行動をとった。体はつながっても心が急激に離れて行った行為だった。

 また体を求められるのかと、香代子は体を固くする。由貴也の手が伸びてくるのがわかった。

「……香代子」

 空気が切なげに揺れた。こんな声を聞くのは初めてだった。ピンと張った糸が奏でるギリギリの音のような声。彼の手のひらが髪に、耳に、頬に触れる。指先が、想いを伝える。

 あの時とはまったく違った。彼の指先は慈しみにあふれていて、言葉よりも雄弁に愛を語る。思わず目を開くと、月明かりも射さない暗い部屋の中で由貴也が眉を寄せて、痛みを堪えているような顔をして香代子を見ていた。

 由貴也。由貴也、由貴也!

 その顔を見た瞬間、言葉にできないような想いが湧き上がってきた。理性や常識では制御できないところで、感情が走り出す。

 背を丸め、頭を机の上預ける香代子に後ろから寄り添い、由貴也は髪や頬や額に唇を落としていく。その動きに少しの荒々しさもなく、触れたところから彼の愛おしさが伝わる。

 なぜここに由貴也がいるのか、とかそんなことを考えるよりも、この人をここに引き留めておきたいとただただ思う。けれども、哲士の淡く、照れたような笑顔が頭をよぎる。

 俺、今めまいがしそうなほど幸せだよ。

 そう言って幸福そのもののように笑った哲士を裏切れない。彼との日々はゆっくりと香代子の心にも幸せと充足感を降り積もらせた。彼をもっともっと幸せにしたいと思っている。だから、由貴也に触れられるのを許してはいけない。

 制止の声を発しようと、顔を上げる。由貴也と目が合った瞬間、彼が顔を苦しげに歪めた。喉の奥から声を絞り出すように言葉を発する。

「起きないで。アンタは寝てた。だから何も知らないってことにすればいい」

 由貴也が彼らしからぬ少しのためらいを持って、香代子体を引き寄せて、抱きしめる。

「ここには誰もこなかった。アンタは朝まで机に突っ伏して眠っていた。何も見てない。何もされてない。だから――……」

 だから、と由貴也が繰り返す。けれども、その先の言葉はなかった。由貴也は存在を確かめるように全身で香代子にまわす腕の力を強めた。

 香代子のあの夜の恐怖を拭い去るように、由貴也の男にしては細く長い指が香代子の髪を梳く。香代子の恐れでこわばった体をほぐすように肩や背中を由貴也の手のひらがたどった。次第に香代子の心の中には恐ろしさよりも懐かしさや安堵が勝ってきて、それがどうしていいかわからなくさせる。

 所在がつかめず、音信不通で行方不明だった由貴也。口に出せることではなかったけれど、心配していなかったはずはない。彼がこうして無事にいたことにほっとする。同時に、由貴也に触れられるたびに、彼との思い出がひとつひとつ香代子の脳裏に浮かび、胸を苦しくさせる。

 そのうち、もつれあうようにして床に体を横たえていた。仰向けになる香代子の胸に由貴也の頭はのっていて、闇に慣れた瞳には、彼の表情が見える。けれどもそれを覆い隠すように、由貴也は香代子の肩の下に腕を差し入れ、さらに体を密着させた。

 見下ろすと、彼のつむじが見える。その子供のようにうなだれる頭を抱いてあげたいという焼けつくような欲求が、激しく香代子の中で暴れまわる。でも、それを香代子の全力を持って押さえつけた。裏切りは繰り返せない。

「知らないふりなんてできない」

 それが、夢うつつだったこの雰囲気を現実に戻す決定的な言葉だった。

「できないよ……」

 繰り返すと、涙があふれそうになったけれど、唇を噛んでそれをこらえる。それでも、せき止めきれない涙が目尻から落ちる。自分には泣く資格などないのに。

 本当は今すぐ由貴也を抱きしめたい。大好きだと言いたい。眠ったふりをして、自分は悪くないふりをして、由貴也の手のひらを感じていたい。だけどそれは『これ以上どうやって幸せになっていいかわからない』と顔を赤く染めながら言った哲士の想いに背くことになる。今この瞬間の由貴也へのいとおしさを捨てて、自分は哲士を選んだのだ。たとえ由貴也が『眠ったふりをしていい』と、逃げ道を作ってくれたところで、彼の愛情を受けるわけにはいかなかった。

 体を起こして、床に手をついて、由貴也が仰向けの香代子を見下ろす。その顔には拒まれたことに対する驚愕の表情があった。けれど、一瞬後には彼の顔がくしゃりと歪む。ひびが入ったような由貴也の姿だった。

 あの夜と同じ体勢だった。横たわる香代子の体の上に由貴也がまたがっている。それなのに、流れる空気はこんなにも違う。香代子の瞳に指を添わせ、由貴也が香代子の涙をぬぐいとる。その指も、表情も、瞳もすべてが愛しているのに、愛しているのに、と叫んでいる。

 由貴也に触ることも、手を伸ばすことすらできなかった。指一本でも触れたら、由貴也が悲壮な音をたてて割れ、取り返しがつかなくなりそうな気がしてしまう。

 暗がりの中、ぎりり、と音が聞こえそうなほどに由貴也が奥歯を強く噛んだかと思ったら、次の瞬間、床の上できつく強く抱きしめられる。息が止まりそうになりながら、これは由貴也の最後の賭けなのだと思い知る。香代子の宙にさまよっている腕を、由貴也の背中にまわせば、彼をここに引き留めておくことができる。

 宙に浮いた手は震えていた。嵐のような感情が、香代子の中で暴風を吹かす。腕をまわしたい。一度そう思ったら、狂ったようにそれを実行したくなった。

 けれど手は中途半端に浮いたままで動かなかった。視界がぼやけて、涙が頬を伝っていく。次から次へと雫が流れていく中、由貴也が全身から力を抜いて、腕を解いたのがわかった。彼は賭けに負けたことを察し、あきらめたのだ。

 密着していた体が離れると、秋の夜気が途端に体を包み、冷やしていく。その感覚の中、どうすることもできずに、部屋から去っていく由貴也を見送ることしかできなかった。

 玄関のドアが閉まる。香代子は跳ね起きて、手を伸ばすけれど、声はついに出ない。今の自分がどうしたら「由貴也」と呼び止められるだろう。

 伸ばした手は力なく床に落ちる。傷つけた。傷つけた。自分はきっと、由貴也をどうしようもなく傷つけた。

 涙が頬を伝う中、香代子は茫洋と部屋を見回す。この部屋に越してきてまだ間もないというのに、どこもかしこも由貴也との思い出ばかりだ。部屋のどこでも由貴也の立っている姿がすぐに思い浮かぶ。

 これ以上ここにいたら頭がおかしくなりそうで、香代子は夜の街に飛び出す。このままでは由貴也で頭がいっぱいになってしまう。そうなってしまったら、自分を保てなくなる。

 息をきらしてたどり着いたのは、哲士の入院している病院だった。入口は急患のために施錠されていないけれど、ロータリーのある前庭で立ちすくんで、香代子はただただ哲士のいる病室の窓を見上げた。足が悪いのに、哲士はいつも松葉杖を使って窓辺に立って、病院から帰っていく香代子を見送る。何度危ないからやめてと言っても聞いてくれない。ためらいがちに彼は地上にいる香代子に手を振る。いつもは必死にベットに戻れと病室の窓に手を振る場所で今、香代子はただただじっとカーテンが引かれた窓を見上げた。そして、胸の中で言う。

 顔、見せてよ。いつもみたいに手を振ってよ。幸せそうにはにかんで笑ってよ。私の中から由貴也を消してよ。

 今まで無感動に流れていた涙が、急にあふれ出した。その質量に負けそうで、その場にしゃがみ込む。哲士、哲士、と胸の中で繰り返し名前を呼ぶ。そうでもしないと香代子の胸の中に神さまのように圧倒的な存在感をもってたたずんでいる由貴也に自分が負けてしまう。

 胸が痛くてどうしようもなくて、今すぐ哲士に会いたかった。けれども、同時にそうできないとも強く思う。自分はあの時迷った。由貴也に最後に抱きしめられた時、実際には手を回さなくても、心では手を回していた。哲士を裏切っていた。

 裏口から入って、人の来ない非常階段を上がって、月も星も輝かず、完全なる暗闇の廊下を裸足で走れば哲士のところに行ける。そうはわかっていても、ここから動けない。中途半端なこの位置から。

 哲士を抱きしめることも、抱きしめてもらうことも、彼を安心させるための行動のようで、その実自分が安心するための行為だっだと本当はわかっていた。その間だけは由貴也のことを考えなくて済む気がしていたのだ。それなのに、いつだって由貴也が思考を支配する。いつだって香代子の中心の一番大切なところにいる。それはもう一生変わらない気がする。

 ぽつりと香代子の靴の先を雨粒が濡らす。雨が襲ってくる。それでもここから動けない。後ろには由貴也の切なげな顔が、前には哲士の淡い笑顔がある。

 雨に濡れながら、前に進まなくちゃと思っていた。それなのに香代子はそこに居続ける。

 雨がすべて自分の迷いを洗い流してしまえばいいのに、と思うのに、ただ迷いを深めていくだけだった。

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