神さまの手のひら11
哲士との日常はおだやかに過ぎた。
「部長」
病室の戸を開けると、窓からの日をやわらかに浴びた哲士がこちらを向く。その瞳が香代子の姿を認め、はにかんだように弧を描く。そうやって笑うといつもは大人びた哲士の雰囲気が崩れ、少し幼く見えた。
香代子はバイトや部活以外の時間はほぼ哲士の病室で過ごしていた。いつでも香代子が訪れると哲士は幸せがにじんだような笑顔をこぼし、ひかえめに、けれど確かに歓迎してくれた。その淡い笑顔を見るたびに、自分の選択は間違っていなかったのだと思えたし、これが幸せの形だとも思えた。
「あのね、今日はいいもの持ってきたよ。根本がDVDプレーヤー貸してくれたの」
日を受けながらベットに座る哲士のベットテーブルの上に、香代子は根本から借りた小型のDVDプレーヤーを置いた。画面は小さいけれど、病室に備え付けのテレビは有料だから、それに比べれば気兼ねなく見られるはずだ。
「退屈してるだろうからって、DVDも何枚か貸してくれたよ」
持参した紙袋から貸してくれたDVDも出して机に並べていく。けれども、出しても出しても萌え系美少女がケースを飾っているようなアニメしか出てこない。香代子は次第に自分の顔が引きつり、わなわなと体が震えてくることを自覚していた。
「根本……『自信作つめといたぜ!』って言ってたくせに、何なのよ、このチョイスは!」
ピンクの髪をした女の子がウインクで星を飛ばしているDVDケースがめしめしと軋んだ音を立てるほどにぎりしめ、香代子はここにいない根本に怒りとあきれを表した。その香代子を「まあまあ」となだめるのはやはり哲士だ。
「せっかくだから観るよ。けっこうおもしろいかもしれないし」
眉を下げて笑った哲士に、香代子とは違って根本に対する怒りだとかそんなものはない。いたっておだやかだった。
彼のその笑顔は、部長だった頃と変わりなくて、香代子をほっとさせる。香代子は少しずつ哲士が元気になっていくのを感じていた。彼の空っぽだった中身が、少しずつ戻ってくる。それは香代子にとって当然うれしいことだ。
「何か今度DVD借りてくるね。どんなのがいい?」
香代子がベットサイドの椅子に腰かけながら問いかけると、哲士は静かに微笑んで首を振る。
「退屈してないから」
香代子がえ、と聞き返す前に、哲士が笑みを深めた。
「マネージャーが来てくれるから、退屈してないんだ。何か他のことをする方がもったいなくて」
言った後に、自分の言葉に若干照れたように哲士は笑った。そういう反応をされると、香代子の方も照れてくる。こういう時、ありがとうと笑えるほど、香代子に恋愛経験はない。赤くなっていそうな顔をごまかすために、香代子は下を向いて、持参した紙袋に勢いよく手を突っ込み、編み棒と毛糸玉を取り出した。ころころと深い藍色の毛糸玉がベットの上を転がる。
「編み物?」
その毛糸玉を手に取って、哲士が怪訝そうに聞いてくる。その毛糸を彼から受け取りながら、香代子は「うん」と答える。シングルマザーだった香代子の実家は経済的余裕がなかったので、弟たちのセーター、マフラー、手袋はすべて香代子が安い毛糸で編んだ手作りだった。だから編み物は得意なのだ。
「今はまだ大丈夫だけど、これから寒くなってくるでしょう? だからカーディガンでも作ろうと思って。部長、この色は好き?」
他のもあるよ、と深緑と臙脂色の毛糸を紙袋から出したところで、哲士が瞠目して香代子を見ていることに気づいた。
「俺、の……?」
女物を作るには渋い色合いの毛糸を前にして、哲士がどこか信じられないという口調で尋ねてくる。それは子供が豪華すぎるケーキを前にして、おそるおそる自分のかと聞いてくる様子に似ていた。
香代子は力をこめて肯定する。
「当たり前じゃない。これから体をベットの上で起こしてるのも寒くなると思って……」
言葉がそこで途切れたのは、哲士が香代子から目をそらして、口に手を当てたからだった。
「部長、どうしたの?」
具合でも悪いのかと哲士の背に手を当てて、彼の顔をのぞき込む。心なしか、哲士の顔は赤くなっているように見えた。
「体調が悪いとか、そんなんじゃなくて……」
香代子の心配を制すように軽く手を上げた哲士だったけれど、その瞳は香代子をとらえず、うろついていた。視線をさまよわせた果てに、哲士は顔を隠すようにわずかにうつむいた。
「その、ただ、うれしくて……」
いつも通りのいい声で話すのに、今の哲士は話せば話すほどしりすぼみになり、終いには消えた。予想もしていなかった反応に今度は香代子が目をまたたかせる。
「こんなもの、全然たいしたものじゃないよ」
「俺にはたいしたものだよ」
間髪入れずに返されて、言いようもない気持ちが香代子の胸を占めた。哲士はきっと、誠実に人を愛すだろうと思っていた。彼といたら、優しさを縦糸に、穏やかさを横糸にして日々を織っていけるだろう。何もかも正反対だ――由貴也とは。
由貴也の姿が脳裏によみがえった時、香代子は反射的に持っていた編み棒を強く握った。思い出したくない、あの夜のことは。止めてと声が枯れるほどに懇願してもなお由貴也は香代子を抱いた。あの夜の由貴也にはどこか冷静さすらあって、それが一層香代子には恐ろしく感じた。彼が正気で香代子の意思を踏みにじれる事実は、ただ情欲に流されたことより怖かったのだ。
今もなお香代子の中に残る、由貴也の感覚。あの夜、彼の一挙一動は香代子に“古賀 由貴也”という男を刻み付けるためにあったかのようだ。彼の体の下で、香代子は自分が自分でなくなるような気分をずっと味わっていた。由貴也は目に見えない痕跡を香代子に残し、それは今もなお自分をさいなむ。彼の存在を忘れさせてはくれない。
由貴也の存在が脳裏によみがえる時、このまま何も考えずに哲士に愛されてしまえと自分の中から声がする。由貴也の苛烈さに恐怖を覚え、今は哲士のそばで彼の優しさに浸っていたいと思う。
由貴也はもう何日も香代子の部屋には来ていなかった。彼のマンションにもいないようで、完全に音信不通になっている。由貴也と対峙すれば、もう一度彼に自分を壊されるような気がして、不在であることに安堵すらしていた。
哲士はキスはおろか、抱擁も手を握ることすら強要しなかった。哲士はわかっているのだ。香代子はまだ哲士に恋愛感情を抱いていないことを。それを知っているから、何も無理強いしない。それが由貴也との行為に傷ついた香代子にはありがたかった。
「マネージャー……?」
険しい顔をしていたのか、哲士が心配そうにこちらを見ている。香代子は慌てて自分は大丈夫だと手を振った。
「私、変な顔してた? 毛糸何色にしようかなって迷ってただけだから」
これとかも新鮮な色合いだと思わない、とマスタード色の毛糸を差し出してみる。哲士はただ「そっか」と薄く笑う。哲士の笑みは平静を装おうとしていたけれど、ぬぐいきれない一片の翳りがあって、香代子が由貴也のことを考えていることを察していることを知らせる。
どんなに綺麗なことを言ったって、香代子が由貴也を裏切って始まったこの関係は、自分たちに影を落とす。由貴也にあのような行動をとらせた原因は香代子にあり、彼からされたことばかりを取り沙汰して、被害者づらはできない。自分は加害者だ。
「部長がよろこんでくれるなら、何でも作るから」
哲士を安心させられるように、香代子は彼の瞳を見て微笑んだ。香代子は贖罪のように、哲士に愛情を注ごうとする。この人が香代子の後ろにある由貴也の姿を意識しなくなるまで、香代子は行動で哲士のそばにいることを示さなくてはならない。裏切りは後を引く罪だ。由貴也を裏切った自分が、どんなに信じてと哲士に言ったところで、信用は得られないだろう。
由貴也に許してもらえるとははなから思っていない。けれども、こうして哲士の元へ来た以上は全力で彼との関係を築いていく。それが香代子なりの償いだった。
ただ、そう意気込まなければいけないこと自体、自分に由貴也の存在がこびりついていることの証拠のようだった。
哲士とふたりで生活を送る中、根本が病院を訪れた。
ちょうど哲士は診察に出かけていておらず、主のいない病室で香代子は編み物をしながら帰りを待っていた。そこに根本がやってきたのだ。彼はぐるりと病室を見回して、一言発する。
「……部長と付き合い始めたのかよ」
哲士の病室に香代子だけがいる光景に、根本はすべてを察したようだった。根本は何とも言えない表情をしていて、心なしかバツが悪そうだった。
「うん」
香代子は薄く笑った。哲士は無理しなくていいと言うけれど、哲士と付き合っているのか、という問いに自分はよどみなく答えなくてはいけないと思っている。哲士を傷つけないために、自分が臆してはいけない。
「俺のせいだな、ごめん」
根本は目に見えて萎れていた。彼は以前、香代子に由貴也ではなく哲士を選べと言い、その直後に香代子は哲士の元へ行く決心をしたのだ。根本はそのタイミングから、自分の言動がこうなる引き金になったと思っているのだろう。香代子はそれを否定するように、首を振る。
「根本のせいじゃない。自分で決めたの、部長と――哲士と付き合うことは」
香代子はこれ以上なくきっぱりと言い切ってみせる。誰に何と言われようと、迷わない。揺らがない。そう決めたのだ。
「そんな顔しないでよ。根本が浮かない顔してると哲士が気にするから」
そう言いながらも、根本が暗い顔をするのも当然だとわかっていた。自分たちの間にはどこまで行っても由貴也の存在がある。すべてが丸くハッピーエンドというわけにはいかないのだ。
根本は無理やりという感じで顔に笑みを貼りつけた。
「強いな、マネージャーは」
香代子は根本の顔から視線を外して、窓の外を見た。光が燦々と降り注ぐここにいると、あの夜のことはすべて嘘のことのように思えてくる。
「……強くないよ」
強くない。自分は決して強くない。そんなことは自分が一番よくわかっている。
何気なく窓の外を見ていた香代子の視界に、哲士の姿が飛び込んできた。彼は中庭で子供たちに囲まれて何かをしていた。
診察が終わったらまっすぐ帰ってこればいいのに、あんなところで、しかも薄着で何をしているのだろう。先ほどから風が出てきたのか、時おり風が窓ガラスを揺らしていた。
香代子はここ最近でこの病室のどこに何があるのかすっかり覚えたので、ベットサイドテーブルから哲士の上着を取り出し、それを持って彼を迎えに行くことにした。病院内ならともかく、車椅子の操縦に慣れていない彼が中庭で転んだら危ないからだ。根本を病室に残して中庭に向かう。
哲士がいたのは噴水がある中庭の中央部ではなく、石畳の道からも外れた茂みの中だった。
哲士はそこで車椅子から降り、芝の上にじかに座っていた。まわりには小児病棟の子供たちか、パジャマを着た女の子が三人ほど一緒に座っている。哲士は害がないことが相手にも伝わるのか、子供に好かれる質のようだ。たしかにいかにも彼は良いお兄さんだ。
仲良くしているところに悪いけれど、と思いながらも、哲士のTシャツ一枚の背中が寒そうに見えて、香代子は哲士を呼ぶことにした。
「哲士」
数日前、彼の母親と病室で鉢合わせした。息子の彼女かと母親から期待のこもったまなざしで問いかけられ、香代子は「いつも哲士くんにはお世話になっています」と答えて、暗に哲士とそのような関係にあることを肯定した。予想外に哲士はよろこんでいた。もちろん香代子が母親の前で交際を認めたこともうれしかったようだけれど、一番は『哲士』と名前で呼んだことがどうやらうれしかったようなのだ。だから香代子はそれから『部長』とではなく、名前で哲士を呼ぶようにしている。
呼びかけられた哲士は座ったまま振り返って笑った。周りにいた女の子たちが「あの人ぉ?」と哲士に聞きながら、香代子を指さす。哲士は微笑んだままうなずく。
何なんだろう、と思いながらも、香代子は哲士のところまで行って、「そんな薄着で外でたら風邪ひくよ」と、その背に持ってきた上着をかけた。
「マネージャー、ちょっと座って」
哲士も、まわりの女の子たちも、目くばせし合い、何か意味ありげに笑っている。本当に一体何なのだろうと思いながら、言われた通りに芝の上に哲士と向き合って座った。
直後、頭に何かを乗せられて、反射的に「ひゃっ⁉︎」と身をすくめて、目をつぶる。
「な、何?」
おそるおそる頭の上に乗っている何かに触れる。そんな香代子を哲士と女の子たちはおかしそうに見ていた。指の先に伝わる感覚と、哲士や女の子たちのまわりに最後の盛りを見せるシロツメクサが咲いていることで、頭の上に何が乗っているか察する。
「花冠……?」
香代子のつぶやきに哲士も女の子たちも笑みを深める。その表情は、どんな言葉よりも香代子の問いかけに雄弁に答えている。どうやら正解みたいだ。
「作り方教えてもらって俺が作ったんだ」
教師役の女の子たちは、哲士の言葉に少し誇らしげにすまし顔を作っている。彼女たちをちらりと見て、哲士は微笑ましげに目を細めた後に、再び彼の視線は香代子に戻ってくる。
「何かマネージャーに返したくて……今はこんなことしかできないけど」
「「「こんなことぉ!?」」」
哲士の言葉尻にすぐさま食いついたのは香代子ではなく、少女たちだった。彼女たちの顔には一様に憤慨の色が浮かんでいる。少女とはいえ、三人の女に一気に責められて、哲士が目に見えて狼狽する。
「いや、こんなことじゃない。立派な花冠が贈れてよかった」
あわてて取り繕う哲士に、何だかおかしくなった。香代子は声を上げて笑う。笑いすぎて涙が出てきた。楽しいはずなのに、うれしいはずなのに、涙が止まらなくなって、気がついた時には哲士に手を伸ばしていた。その懐に入り、腕を彼の胴に回す。
「マネージャー……?」
哲士の戸惑った声がして、少女たちがきゃあと歓声を上げていたけれど、構わず香代子は哲士を抱きしめていた。腕に力を込め、より強く哲士を抱く。
「何も……何も返さなくていいんだよ」
震える声で、香代子は続ける。
「私があなたに何かをするのは当たり前のことなんだから」
哲士は何かを返さなくてはいけないと思っている。それはきっと香代子に何かを失わせたと思っているからだろう。哲士には罪の意識が絶えずにあって、香代子に失わせた以上のものを返そうとしているようだった。それが香代子をたまらない気分にさせる。
哲士が抱きしめられながら、ゆるく首を振ったのがわかった。
「俺が古賀に言ったんだ。『マネージャーくらい俺にくれよ』ってあいつを前に叫んだんだ。だから……」
哲士と由貴也の間にそんなやりとりがあったとは知らなかった。でも彼の『だから』の言葉の後を香代子はわかっていた。由貴也から香代子を奪ったという意識は、彼の中からずっと消えないだろう。
「あなたに略奪愛なんてさせてごめんなさい……」
香代子は謝らずにはいられなかった。自分がもっと早く哲士と向き合っていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。この人にここまで罪の意識を背負わせずに済んだかもしれない。欠けた陶器がもう二度と満ち足りた完全体にならないように、自分たちの関係はどこか瑕疵があり続ける。その鋭い割れ口をさらしているところに触れては繰り返し傷つく。
何かを差し出し、何かを返すような不自然な関係を止めたい。香代子はそうする方法をすでにわかっていた。愛している、と哲士に言えばいい。由貴也よりも愛しているのだと。今この瞬間、あなたとともにいることが何よりの幸せなのだと言えば、哲士の罪悪感も薄まるのだろう。
胸の中で根本に答える。自分は強くはない。この人に愛しているとたった一言言ってあげられない自分は決して強くない。こんなにもこの人を大切にしたいと思っている。傷つけるものすべてから守りたいと思っている。それでもどうしても言えない。それが悔しくて、香代子はただ哲士を抱きしめ続けていた。
哲士はたぶんわかっている。こうして香代子が哲士を抱きしめながら、由貴也の影を消そうとしていることを。それでも、世界中にふたりきりとなった心地で、抱き合い続ける。先を見ないようにして。何とかなると信じて。
幸福だと信じこもうとしたものは、いつしか悲しみに似たものとなって、哲士と香代子の間に横たわっていた。