神さまの手のひら10
香代子が哲士の病室に現れたのは、由貴也が帰ってから二時間ほど経った後のことだった。
戸口に立つ彼女はいつもとは別人のようだった。笑顔でも怒りでもいつも生き生きとした表情をのせている顔は青白くやつれ、こちらに向かってくる足取りも少しふらついていた。外は悲しくなるくらいの秋晴れが広がっているのに、彼女の様子はどしゃぶりの雨に打たれてきた人のようで、弱々しく、危なげだった。
「マネージャー、具合でも……」
何だか、今にも倒れそうな香代子を支えたくなって、反射的に手を伸ばすが、自分の手が届くのはせいぜいベットのまわりの五十センチだと改めて認識して情けなくなった。こういう時に好きな人を助けられない自分の手は何のために存在しているのだろう。
「大丈夫。そんなんじゃないから」
これ以上聞くことを許さないような頑なな様子で言い切った香代子は、午前中の薄く、清浄な日が射す病室の中を哲士に向かって一直線に歩いてくる。その強くもない日は今の香代子の顔色の悪さを強調するだけだった。
香代子が自分のいるベットのすぐ横に立った時、哲士の心を支配したのは期待だとかそんなものではなく、安堵だった。これで香代子の体が傾いでもこの近さなら受け止められる。そう思うくらい、今の香代子は不安定だった。
「……部長のそばにいる」
視線を床に向けたままで香代子はつぶやく。その手がそっと動き、哲士の手をとった。
「部長じゃないあなたと向き合いたい。あなたの弱さを受け入れたい」
香代子が指す“あなた”が、今、目の前にいる哲士そのものを言っているのだと知る。香代子は部長という肩書を捨て、選手ということすら投げ出し、弱さの塊になった自分のそばにいるという。それが同情から派生した気持ちだというのはわかっていた。わかっていたが、自分は香代子の手が触れた手を返して、彼女の手を下から握った。
どれだけ夢見てきただろう、この瞬間を。彼女が自分を選んでくれたなら、誰よりも大切にするのに。そう思いながら何年が過ぎただろう。哲士は震えそうになる声を必死で抑えて、香代子に「ありがとう」と答える。
「今はこんなだけど、必ず立ち直ってみせる。マネージャーを誰よりも大切にして、守るから」
由貴也は言った。この恋は哲士の弱さで買ったものだと。その通りだった。自分が弱さを発露させなければ、こうして香代子が哲士の元へ来ることはありえなかっただろう。これは彼女の同情を引いて得た恋だった。
だからこそ、自分は強さを取り戻さなければならない。同情から生まれたこの関係を、本物にするために、強くあらなければならない。
哲士は香代子とつないだ手に力を込める。
「……抱きしめてもいい?」
思わずそう聞いてしまった哲士に、香代子は無言でうなずく。その顔にはやはりぬぐいきれない暗さがあって、彼女は非常に疲れているように見えた。
自由に動けない哲士のために、香代子がベットのふちに浅く腰掛ける。その彼女の体にそっと腕を回す。香代子の腕が哲士の背中に回った時、胸が苦しくなるような幸福があふれて、どうしようもなかった。ずっとこうしたかった。ずっと彼女に触れたいと思ってきた。本当はめちゃくちゃに力を込めて抱きしめて、想いをすべてぶつけたかったが、哲士はこらえた。大切に大切に扱いたい。それに、と哲士は思う。こんな萎れた花のような香代子に、一方的な抱擁をしたら壊れてしまいそうだった。
古賀に何かされたのか、と尋ねたくなるが、それが愚かな質問だとすぐに思い返す。今朝、ここを訪ねてきた由貴也の剣幕を見るに、香代子に何もなかったはずはないのだ。それが自分のために香代子に払わせた犠牲なのだと知って、罪悪感がこみあげてきた。
少しだけ哲士は香代子を引き寄せる。ゆるく回していた腕を移動し、香代子の頭を抱えるように抱きしめ直した。鳥が羽で大事なものを覆うように、腕の中の香代子を守る。自分は彼女がそばにいてくれるなら、どんなことでもできる気がする。
哲士は離れがたい気持ちを胸の奥にしまって、やんわりとした動きで、香代子の体を離す。香代子は少し驚いた顔で哲士を見上げた。
「いきなりごめん」
つっぱしりそうになる自分の気持ちを制御して、謝る。彼女は義務感や同情でここへ来てくれただけで、哲士に今は恋愛感情を持っているわけではない。自分ばかりが先走りして、性急な真似をしてはいけない。
自分は香代子と由貴也の仲を壊した。彼女は哲士がこういう状態だからここにいるだけで、本来の性格からすれば、由貴也と別れたからすぐ次にという女性ではない。無理してくれているのはわかってる。
「今すぐ、どうこうとか考えなくていいから。少しずつ俺のこと……好きになってくれればいいと思ってる」
努めておだやかに言った哲士の手の上に、香代子の手が優しく重ねられる。
「私も、部長のこともっと知っていきたい」
重なった自分たちの手に視線を落としながら、自分のことを顧みた。綺麗な言葉でどんなに包んでも哲士は後輩の彼女を盗ったのだ。香代子に由貴也を裏切らせた。でも、この手を手放したくないと思う。背徳と長年の想いが成就した歓喜がない混ぜになる。
不意に、今朝の由貴也の姿が脳裏をよぎった。香代子は俺のだから返してもらうよーー。
由貴也はもはや、出会った頃の生きているか死んでいるかわからないような少年ではなくなっていた。由貴也を立ち直らせなければと思っていた自分と由貴也の立場は今や逆転した。生きているか死んでいるかわからなくなったのは哲士の方で、立ち直る必要があるのもまた自分だった。
だからこそ、こういう状態になって、どれほど香代子がまぶしく大切かわかるのだ。あの頃の由貴也もまた、香代子が今の哲士と同じように見えていたのだろう。どれほど彼は香代子を大切に思っただろう。それがわかっているだけに、彼から香代子を奪い取った自分の行為に嫌悪感がある。そのぬぐいがたい不快感をまぎらわすために、自分は香代子をうんと大事にしようと心の中で誓う――由貴也の分まで。
「……今日はここにいていい?」
ためらいがちに切り出した香代子の声はやはりいつもの彼女と違ってハリがない。だから香代子が一日中そばにいてくれるといっても、手放しで喜ぶことはできなかった。彼女の具合の方が心配で、きちんと横になって休んだ方がいいのではないかと思ってしまう。
哲士のそんな視線に気づいたのか、香代子は「大丈夫。ここがいい」と言う。その声音に、懇願じみたものが混ざっていたから、哲士はそれ以上何も言うことができなかった。彼女は哲士といたいのではなく、部屋に帰りたくないのかもしれない。由貴也と同棲していた彼女の部屋に。それでも哲士はよかった。
それからしたことといえば、ベットの上で手を重ねて、ふたりしてぼうっと同じ空間で時間を過ごすことだけだった。ほとんど言葉も交わさずに、宙を何となく見ているだけだったが、自分たちの間には今までとは違った時間が流れていた。香代子と哲士の間に声がないことは今までなかった。部長とマネージャーはいつもせわしく言葉をやり取りしていたからだ。恋の始まりの幸福というのには、ここまでの経緯が苦すぎた。だから自分たちは重ねていく言葉をまだ持たない。その苦さを抱えながら、この重なった手が唯一のつながりとでもいうように、ふたりでくっついていることしかできなかった。
そのうち、香代子は目を閉じて、静かに眠った。その顔には憔悴の色があって、哲士は触れることもできずに彼女を眺めていた。
その顔が一瞬だけ、いつだかこの病室で見た志乃の顔に重なって、消えた。
「それで」
志乃が言葉を発する。
「緒方さんはその人と付き合うってこと?」
ひどくその言葉が直接的なものに聞こえて、哲士は気管で空気が詰まったかのような感覚を受けた。
病院の中庭は公園のようになっていて、芝生の間に石畳が走っている。土曜日の午前の日は清々しく、小高くなった芝の山の上に設置された噴水の飛沫を輝かす。入院患者たちの憩いの場になっているそこを、哲士は志乃に車椅子を押されながら散策していた。
「何びっくりって顔してんの」
哲士の背後で車椅子を押しているというのに、器用にもこちらの表情を読み取った志乃が怪訝そうに尋ねてくる。
「『好きです。付き合ってください』って言葉から始める男女交際ばっかりじゃないでしょ」
図星だった。哲士の恋愛感覚では好きだと決定的な言葉で告白することで交際が始まり、何となく雰囲気で付き合っている状態になることはどうも理解できない。だから、今の自分たちが世間一般から見て、付き合ってるという状況にあたると言われて驚いたのだ。
哲士は苦笑する。
「じゃあちゃんと付き合えるように、早くまともな状態にならないとな」
哲士の答えに、志乃は「そうだね」と答えたのみだった。そのあまり動じない答えに、自分の方が急に情けなくなってくる。
「それにしても何であなたにはいろいろ話しているんだろう……」
苦く笑い続けながら、哲士は独り言のようにつぶやいていた。今朝、病室を訪ねてきた志乃が窓の外に目をやり、「たまには外にでも出たら?」と哲士を車椅子に乗せて連れ出した。ただそれだけのはずだったのに、気がついたら一切合切全部を話していた。ぽつりぽつりと近況を話すようなつもりで言葉を漏らすうちに、それが思わぬ量になっていたのだ。本来なら、後輩から彼女を奪った話など、死んでも口にしたくない話題のはずだというのに。
彼女の歩みが止まったのか、哲士の乗っている車椅子も自動的に止まる。
「そんなの簡単なことでしょ」
一瞬のタイムラグがあって、車椅子がまた動き出す。
「だってあたし緒方さんのかっこ悪いとこしか見てないし。取り繕う必要がないんだよ」
彼女の厳しいご指摘にぐうの音も出ない。右ストレートを食らったかのような衝撃だ。彼女が言っていることはいたって正しいが、かっこ悪いと言われて無傷でいられる男はいないのだ。
「その彼女とか根本とかいう人の前では緒方さんかっこよくてびっくりした」
「必死にかっこつけてるからな」
ダメージを隠しつつ、軽口を叩いて笑った。哲士はずっと人からどう見られているかを気にして生きてきた。中学時代はクラスメイトの気を引かないように空気のように存在感を消した。高校に入ってからは周りから浮かないように普通の学生を装い、部長になってからは他者に埋没しないように努めてきた。取り繕うことばかりだった自分だが、志乃の場合はお互いのことをよくも知らないうちに哲士の方が崩壊してしまったのだ。志乃の前で演じる自分のビジョンを哲士は持っていなかったので、今の自分は素の自分というものかもしれない。
「……たぶん緒方さんはできないよ」
上から唐突に降ってきた志乃の声に車椅子に乗ったままで斜め後ろを見る。その哲士の動きを予見していたように、志乃の瞳は振り仰いだ哲士に焦点が合っていた。目尻がピッとつりあがっているので、じっと見下ろされると睨まれているように感じる。そう思った哲士を敏感に感じ取ったのか、「あたしこれが地顔だから。怒ってるとかそんなんじゃないし」と言ってきた。ここで思わず「すみません……」と謝ってしまうのは草食系としての性なのだろうか。
「謝られると本当にあたしがアンタをいじめてるみたいじゃん」
「いや、そんなことは……」
うろたえながら否定の言葉を口にしてみるけれども、哲士が怪我人だからどうこうを抜いても、志乃と自分、どちらが強いかといえば彼女だろう。
正直なところそう思ってしまった哲士と志乃の間に微妙な空気が流れた後、彼女の方が目を伏せて、かすかに微笑んだ。つり目の彼女がそうやって笑うと、少しだけ悄然として見えた。
「まあ、いじめてもいないけど、役に立ってもないけどね」
車椅子の車輪が回る音が、言葉と言葉の間を埋める。
「あたし、何かするべきことがあればって思ってここに来てるけど、何の役にもたってないし」
そんなことはないと言いかけて、哲士は口をつぐんだ。自分が志乃の罪悪感につけ込んで依存していることはわかっていたからだ。彼女が後ろめたさから、どんな哲士でも受け入れることをわかって自分は振舞っている。それが正常な関係とは思えない。ここで哲士が否定したのなら、志乃の贖罪はまだ続くことになる。
会話が途切れた自分たちは、無言で病院の中に入り、病室のある階に続くエレベーターが来るのを待っていた。その頃には日が陰り、少し肌寒さを感じるようになっていた。
「……あたし、もう来ないから。緒方さんの彼女に嫌な思いさせたら悪いし」
言うべき言葉を探して、出てこなかった。自分はこの人を普通の生活に戻したいと常々思っていたはずだ。だったら何も言わないことこそが彼女を解放することなのかもしれない。
何を口にするにもエレベーターが下ってくる時間が早すぎて、気がついた時には目の前でドアが開いていた。降りてくる人もいないエレベーターに志乃の手助けで乗り込んだ。ただ、哲士の車椅子を反転させ、扉に向い合せると、志乃はエレベーターから降りた。
エレベーターにさえ乗せてもらえば、後は自分の病室まで哲士は自力で帰れる。だが、ここで志乃がエレベーターに乗らないとは思わなかった。唐突な別れだった。
エレベーターの中と外、自然と向き合う形になる。哲士ひとりをのせて、扉が閉まり始める。
両側の扉が狭まって、合わさる一瞬前に、志乃が不器用に顔を歪めるように笑った。
「緒方さんにはできないよ。略奪愛なんて。似合わない」
最後の一音にかぶさるようにして、エレベーターのドアがぴったりと合わさる。そのままかすかな起動音を発して、エレベーターは上へと動き出した。
――できないよ。略奪愛なんて。志乃の今しがたのセリフを反芻する。
略奪。志乃は相変わらず、というほどに彼女を詳しく知っているわけではないが、直截な言い方をする。語感の悪い単語だが、まぎれもなく事実だった。哲士は奪いとった。その行動に対して、愛しているからとか、自分が今こういう状態だからだとか、そういう言い訳が免罪符とならないのはわかっていた。
正しくないことをしている。わかっている。でも、やっと今、生きているという気がする。底辺だった自分が、幸福という言葉を実感を伴って知ったのだ。ずっと長い間、日陰から明るい場所を見ていた。胸が焦がれるほどあこがれて、それをようやく手に入れた。
手放す気はない、何としても。息をひそめるようにして生きてきた哲士は、香代子の笑顔を胸で温めて過ごしてきた。その愛されることが当然でない人間は、差しのべられた手を、恐る恐る取って、その奇跡のようなぬくもりを必死に守って生きていくしかないのだ。
エレベーターが哲士の病室のある階に止まる。ドアが開くと同時に哲士は廊下のまぶしさに刹那、目をすがめた後、車椅子の車輪を回した。