神さまの手のひら7
「あいつさ、大の練習嫌いらしいぜ」
近隣の中学を集めての練習試合中、前を歩く他校の生徒の話に哲士は耳を傾けた。
「あいつって、古賀 由貴也?」
もうひとりの生徒がそう聞き返す。古賀 由貴也。この辺の中学に通う生徒なら知らない者はいないほどの有名人だ。由貴也は一年前まではまったくの無名の選手だった。女子に見間違うほどのきれいな顔で、女子からは注目されていたけれど、選手としてはまったくとるに足らない存在だった。
それが今年に入ってからめきめきと頭角を現し、市大会で優勝し、その上の地区大会でもあっさり頂点に立った。次は県大会に出場する。
「ずるいよなー。練習嫌いのくせにあんなに速いなんて詐欺だろ」
「俺もああいう楽して勝てる才能欲しかったわ」
あはは、と前を歩く生徒たちは笑った。彼らは哲士と同じく短距離走の選手なのだろう。だが、彼らの顔は印象に残っていないので、取り沙汰されるような有力な選手ではないのだろう。というよりも、哲士は前髪を長くしていたから、人の顔がよく見えなかった。逆に、人の顔が見えないということは、自分の表情も見られない。反応があると余計にひどく殴られたり、いじめられたりするとわかっていたので、哲士は親や担任に言われてもこの長い前髪を切らなかった。
「天は二物を与えずって嘘でしょ」
「だってさ、短距離って結局才能じゃん」
軽く笑いながら去っていく他校の生徒たちの背中を見ながら、哲士は自然に伸ばしていた腕の先の指を丸め、拳を作った。お前らは悔しくないのか、と胸の中で他校の生徒たちに問いかける。
短距離は才能のスポーツと言われている。持って生まれた素質がものを言う世界だ。人間の限界の速さにまで身一つで挑む短距離では、その体格や筋肉のつき方、天性のセンスが不可欠なのだ。日本人が大腰筋の発達したネグロイド系の黒人に勝てないのがいい例だろう。
だが、何でも才能で片づけることは、努力を放棄しているとしか思えない。才能の壁を努力で越えられるはずだ。古賀 由貴也が練習をさぼっている時間を凡庸な哲士は練習につぎ込み、追いついてみせる。哲士はきつく拳を握りながら、決意とともにその他校の生徒たちの背を見送った。
けれども、哲士はその後、卒業するまで先行する由貴也の背中だけを見て過ごすはめになった。それからというもの、短距離って結局才能じゃん、という言葉が耳の奥にこびりつき、ことあるごとに哲士の前に現れた。
ふっと目を開けると、夕方の病室だった。九月中はまだ夏の空気をしぶとく維持していたが、さすがに十月になり、秋が訪れつつあった。
ひんやりとした室内で、哲士はぼんやりとした頭で今置かれている状況を考える。どうやら今の自分は中学生ではなく、あれは夢で過去を見ただけだったようだ。あの頃いつも視界を覆っていたうっとおしい前髪がない。
自分の腕には点滴の針が刺されていて上をたどると。点滴のバッグが垂らされ、ぽたぽたと管に雫を垂らしていた。その点滴が規則的に落ちる姿を見ていると、精神が次第に澄んできて、体中に神経がいきわたってくる。普段よりもはるかに遅い思考回路でああ、と今の状況を思い出した。今日は骨折した足に芯棒を入れてボルトで固定する手術をしたのだった。だからまだ完全に抜けていない麻酔でどうにもこうにも頭の回転が鈍いのだ。
「結局才能、か」
夢と現実がまだつながっているようで、哲士は思わずつぶやいていた。哲士と由貴也は同じ市内の中学校に通う生徒だった。言葉も交わしたこともなく、一方的に敵愾心を抱いていたあの頃よりも、高校大学ではある程度親しく由貴也と付き合ってきたというのに、今でも哲士の中で由貴也といえば中学時代のあの背中なのだ。きっと一生そうなのだろう。
人の気配を感じて、視線を横に向けると、ベットサイドの椅子に座り、彼女が足を組んで腕も組んで寝ていた。いつの間に、と思ったが、哲士が母親に彼女が――少年の姉が訪ねてきたら病室に通すように言っておいたのだった。
いつからいたのか、待ちくたびれて寝てしまったのだろう。真っ黒の髪が夕日に光っている。哲士は何ともなしにその顔を見ていた。
閉じていながらも意志の強そうな目元、薄い唇。鼻梁は通っていて、どちらかといえば中性的な顔立ちを彼女はしているが、彼女が持つ雰囲気は女性のものだった。それはまるで黒猫を女性的なものと連想するようなものだった。
哲士と変わらないような歳に見えるのに、何か彼女に異様な迫力があるのはその硬質な雰囲気のせいもあるのだろうし、両親がすでに亡く、誰にも頼らずに生きてきたというのも大きいのだろう。
この姉を、そして弟を早く普通の生活に戻してあげるべきだ。そう思った瞬間、彼女の目が開いた。日が当たってガラスみたいに輝き、少し緑がかって見える瞳だった。
当然目が合い、哲士はぎくりと肩を揺らした。哲士が彼女を見ていたことに気まずさを感じる前に、「何見てんの」と彼女の方が言ってきた。その口調に怒りはなく、ただ怪訝に思っただけだということはわかったが、思わず「すみません」と謝る。
「別に謝らなくてもいいけど。驚いただけだから。あたしこそ寝てて悪かったし」
いたって淡々と言った彼女は軽く姿勢を正す。彼女から堅苦しい敬語が消えているのは、まぎれもなく、あの時のことが原因なのだろう。哲士は数日前、病院を抜け出し、自分の弱さを彼女の前で告白した。当然と言えば当然だが、あの後、足の状態が悪化し、直後に行われる予定だった手術は今日まで延期したのだった。
「……手術、上手くいってよかった」
哲士があの日のことを思い出して、恥ずかしさで死にそうになった後に、迷惑をかけたことを謝ろうとした瞬間、彼女の方が先に口を開いた。手術って何のことだと思ったのは、頭がぼんやりしていたせいもあるが、自分がまだ彼女に心配させる存在であるとは思っていなかったからだ。
そういえば以前に母が、姉と弟が毎日訪ねてきていると言っていた。それにこの姉は今日が哲士の手術日だと知ってここに来たのだろう。
哲士は彼女の顔が見れず、仰向けに寝たままで天井を見ていた。
「……俺のことよりも、あなたの――あなたと弟さんの生活を元に戻してあげてください」
彼女の顔を見たら、先日はすみませんでしたと謝るつもりだった。それが口から出たのは違う言葉だった。聞いただろう、この前あの雨の中で言ったことを、と哲士は無言のうちにそのニュアンスを彼女に向けて発した。自分は陸上から逃げ出すためにあの車に飛び込み、結果的にあの少年を助けただけだ。そこに彼女たちが罪悪感を抱くべき要素はない。だからそういうものを忘れて、早く何の憂いもなく、元の生活に戻ってほしかった。
哲士が真剣にそう言ったにも関わらず、彼女はすっと伸びた眉を寄せて、あきれた顔を作った。
「自分の状態わかってんの?」
まさかこんな風に返されると思っていなかった哲士は「自分の状態?」と聞き返してしまった。
「あたし、緒方さんのことよく知らないけど、あんたが普通の状態じゃないのはわかる。そんな相手に『自分のことはほっとけ』みたいに言われても、ハイそうですかっていう人いないと思うけど」
普通ではないと言われても、哲士にはいまいち実感がわかなかった。病院から脱走した時は確かに精神的に参っていたが、あれから数日経った今ではだいぶ落ち着いてきたように思えたからだ。
哲士がそう説明する前に、彼女の方が口を開いた。
「……私たち、心配ぐらいしかできないから、勝手に心配ぐらいさせといて」
自分は大丈夫だと言おうとしていた哲士だが、こういわれたら「はい」と答えるしかない。自分と関わることで、少しでも彼らの救いになるなら、それはそれでいいのかもしれないと思った。
「別に敬語も使わないでいいよ。むしろあたしが使うべきなんだろうけど」
「俺も別に敬語はいいで……いいよ。たぶん歳同じくらいで、だよな」
哲士の方がついつい丁寧語を使いそうになるのは、彼女がきっぱりはっきりとした物言いをするので、気圧されているからだ。今の自分は部長だった時の威厳のかけらもないな、と心中苦笑する。
「あたし十八。あんたは?」
彼女が歳下であることに若干驚きながら「来月で二十歳」と答えた。
「私よりも歳上か」
彼女の意外そうなつぶやきを失礼だとも感じないのは、自分でも歳上に見られる要素がないとわかっているからだろう。それはもうすでに彼女の前で一番みっともないところをさらしているからだ。それに自分たちは庇った者と庇われた者の家族という奇妙な関係性を持っていいるのだが、哲士はその中で部長を務めているときのように自分を大きく頼りがいのあるように見せる必要もなかった。
「……名前を」
「何?」
「名前、聞いてなかったなと思って」
哲士は改めて彼女を見た。それはただ“見る”というだけの動作ではなく、彼女の存在を自分の中に認識するための行動だった。自分は今まで彼女たちと向き合うことを避けてきた。彼女たちを遠ざけることによって、自分の罪悪感をも起させる存在を視界に入れることを拒んできたのだ。自分の中の“彼女たち”に名前を付けることによって、その存在が確たるものになってしまうことが怖かった。
「乾 志乃。弟は志朗」
うん、と笑って、哲士も自分の名前を告げる。哲士の中で、街の雑踏の中ですれ違うその他大勢の中から、彼女の存在が浮き上がった瞬間だった。
術後、少し落ち着くと、見舞客がぽつりぽつりと訪れ始めた。大半はこうなる前に哲士の生活の大半を割いていた陸上関係のつながりと、バイト先のパートのおばさんや店長だった。
香代子にも会った。彼女は一人で来て、そのかたわらに根本がいないことを尋ねると、「部長と合わせる顔がないんだって」と顔を曇らせた。直情型の根本は先日、哲士の病室の前で志乃・志朗姉弟を責めたことを後悔し、申し訳なく思っているのだろう。哲士は苦笑して、「根本に近いうちに顔出せって伝えてくれる?」と香代子に言伝を頼んだ。
もっともらしいことを、寛大な顔をして言って見せて、自分は香代子の前ではかっこつけられる。ずっとずっと、彼女の前で自信をもって立てるようになりたかった。だが、今度はそうやってかぶった理想の自分が重たくなるだなんて。挙句の果てにその理想の自分は行き詰まり、車に飛び込んですべてから逃げ出した。インカレで活躍する自分。古賀 由貴也を倒す自分。そんな自分はこれから先に存在しえない。
おそらく自分はあの『短距離って結局才能』という言葉に屈したのだ。
「古賀は……?」
自分がこうなってから、由貴也とは一回も会っていなかった。彼自身が自発的に哲士の病室まで足を運ぶという律義さを持っているかどうかは疑問だが、香代子が連れてくるように思っていたのだ。香代子はわずかに顔をこわばらせた。
「……由貴也は、強化指定選手の、合宿に少し前から行っていて……」
ひどく言いにくそうな彼女の様子から、由貴也が行ったその合宿が、インカレ出場対象者を対象にしたものだと知る。本来ならば哲士も召集されていたはずのものだ。
香代子があまりに気まずそうな表情をしているので、哲士は「そうか」と軽く微笑んで返すにとどめた。
――才能がないやつは百メートル走を走る資格なんてないんだよ。
気持ちを立て直す哲士の耳の奥に、その声が響いた。もう誰の声だかも忘れたが、短距離を、特に百メートルを走る者ならば、常にそういったことを耳にしてきている。短距離を走るには、それに適した体であることが大前提だ。短距離走に必要な速筋の割合など、努力では変えられないことが多く、哲士の場合、体の成長が止まるとともに、記録の伸びどまりが起きた。哲士は足りない身体的能力を埋めようと、練習に励んだが、今度はその無理がたたり、去年は怪我に悩まされた。無理をすれば体を壊す。だが無理をしてもタイムが伸びない。それは哲士に限界の壁を見せた。
だが、由貴也に哲士は限界を感じたことがない。いつだって彼は哲士が進んだ分だけ先を走っていて、哲士が止まればその差は開いていく。あの別世界にいるような軽やかな加速で、すべてを置き去りにしてぐんぐん前に進んでいく。それがどんなに悔しかっただろう。そしてどんなにまぶしかっただろう。
「――根本に」
哲士はまばたきをゆっくりひとつして、まぶたの裏から由貴也の姿を消した。顔をゆるやかに上げて、香代子に視線を向ける。
「思うようにやれって伝えて。あいつが今、部長代行やってくれてるんだろ?」
部長の顔に戻って、哲士は言う。だが、きっともうこれも最後だ。
「近いうちに退部届を出すよ。大学も今学期は休学する」
「部長……」
香代子が目を見開いて、唇を震わせて哲士を見ていた。香代子のそういう信じられないという表情を見るのがつらかった。自分は彼女に失望を抱かれないように、この数年間振る舞ってきたのだから。
香代子の視線は痛かったが、それ以上に今の自分を彼女の前にさらすことが苦しかった。それにこんな足では陸上部に戻れない。
哲士が部長、根本が副部長、香代子がマネージャー。高校時代から互いへの信頼とともに築き上げてきたこの関係は、こうももろく崩れる。だがそれは哲士自身が車の前へ身を踊らせた時に引き寄せたことで、自分はそのしでかしたことと、起きた影響に対して責任を取らなければいけなかった。例え部の中に、自分の居場所がなくなったとしても。
根本はきっと、部長業をうまくこなしてくれるだろう。初めはとまどうだろうし、部員とうまくいかないこともあるかもしれない。けれど彼は皆から愛されるだろう。足を損なった哲士を見て、自分のことのように号泣した彼のまっすぐな気性は、彼に多くの幸いをもたらすだろう。
だから、と香代子に言いたかった。だからそんな顔をしなくていいと。哲士がいなくとも、世界は何の変わりもなく動いていく。
「……私も、根本も」
声を震わせながら、香代子が言う。
「部長の足が治るまで待つよ。部長が帰ってくるまで待ってるよ」
だから、いつか部に帰ってきて、と香代子が言うのを哲士はわかっていた。哲士は無言で香代子が言わなかった言葉にも首を振る。
才能がないというのは光が灯らない明かりのようだ。今日こそは明日こそは光が灯って、輝くことができると信じながら、哲士の明かりはついに灯らなかった。中高大と選ばれた者の種目である百メートル走の走者はどんどん減っていった。それは成果が出なくなった、タイムが縮まなくなった、指導者にエントリーを止められたなど、理由は多くあるのだろうが、根本にあるのはただひとつ事柄だ。“自分の限界を見た”。
哲士もまた自分の限界を見た。肉体的にも、精神的にも。
香代子は何も言わなかった。少しの無言の間を経て、「これ! お見舞い。根本と私から」と紙袋を哲士に押し付けて席を立つ。紙袋の中をのぞけば、根本セレクトと思しき雑誌と漫画類と、香代子セレクトと思しき骨に良い小魚のつめあわせのパックが入っていた。
「今日は帰るね」
香代子が笑みを受けベて、辞去の言葉を告げるが、何だか泣きそうな顔を無理やり笑みの形にはめ込んでいるといった表情をしていた。そのいかにもとぼとぼと効果音がしそうな悄然とした背中を哲士は黙って見送るしかなかった。
彼女を喜ばせるすべも、ひきとめるすべすらも、今の哲士には思い浮かばなかった。
数日後、哲士は検査のため、車椅子を看護士に押してもらいながら検査室に向かっていた。
国立大学病院なので、建物自体に高度なデザイン性は感じなかったが、白を基調とした病院の中は、オーソドックスながらも清潔だった。
何だか、毎日ほぼ建物の中にいるせいか、曜日の感覚も時間の流れもあいまいで、事故からどれぐらいの時間が経ったのか判然としない。同時に、はっきりと時を知るのを拒んでいた。本来出場するはずだったインカレまであと何日と知ることを避けていたのだ。
午前中の予約受付が終了した時間だというのに、待合室には多くの人が椅子に座って診察を待っていた。哲士は見るともなしにその人々を見る。
大学病院の例に漏れず、ここも内科、外科はもちろんのこと、眼科、形成外科、小児科などを備えた総合病院である。哲士の視線は産婦人科の前で止まった。
廊下に置かれた茶色い合皮のソファーに、若い夫婦が座っていた。両方ともまだどこか大人というには幼さを残した顔立ちをしていたが、大きなお腹をさする夫らしき人物は幸せそうだったし、妻もまたそんな夫を愛おしそうに見ていた。
舞台の装置のように、急に自分の立っているところが暗くなった気がする。後ろから弓が射られるってこんな気分なんだろうな、と感想を抱くような精神的な衝撃が哲士を襲った。
哲士にとってその若夫婦の光景は微笑ましく見れるものではなかった。胸が早鐘を打つ。肺まで空気が送り込まれず、気管の浅いところで息をしている気がする。苦しい。
なぜこんなところで会うのだろう。忘れたことはなかった。忘れられなかった。髪を黄色く染め、面差しが無骨に変化したが、哲士にはわかった。彼は小中と哲士を執拗にいじめていたひとりだった。
哲士の目には希望に満ちあふれた若い夫婦しか目に入らない。かつて、哲士に痛みと屈辱と傷を与えた手で、今度は生まれてくる子供を慈しむことができるだなんて。伴侶とおだやかに微笑むことができるだなんて。哲士のことなど記憶の一片にも残ってなく、罪悪感も抱かずに彼は少しの曇りもなく幸せになれるだなんて。
それにひきかえ自分は、こんな不自由な姿で、弱い自分にのたうちまわって苦しんでいるだなんて。そばで一番に支えてくれるような存在もおらず、ここにひとりでいるだなんて、何て不公平なのだろう。
いじめに耐えながら、哲士は中学時代、勉強に陸上に打ち込んだ。自分は徒党を組んで、哲士をいじめるあいつらよりも上等な人生をつかんでやると決意していた。そうして勉強して、走った結果がこれだ。いつまでもいじめの記憶は哲士に消えない劣等感を抱かせ、苦しめた。そして、上等な人生など自分には存在し得なかった。
どうして、同年代の少年たちが友人とかけがえのない経験をしている間、自分は地獄を体験しなければいけなかったのだろう。どうして自分は何も持っていなかったのだろう。生まれながらにして輝く人間がいるのに、どうして自分はいつまでも輝けないのだろう。どうしてこの世の中はこんなにも不公平なのだろう――。
彼の明るさは、哲士に自分の立っているところの暗さを自覚させた。それは世界が無意識のうちに光の中で生きれる者と、暗がりに立つものと分かれていることをいやがおうにも哲士に再認識させた。
検査を終え、看護士の手も借りずに哲士は逃げるように自分の病室に帰った。万が一でもあの夫婦に自分の存在を気づかれるのが嫌だった。今の自分を見たあの元同級生から、いじめられっ子はいつまでたっても変わらないな、という目を向けられるのも耐え難く、逆に自分のことをきれいさっぱり忘れられている反応をされるのはより耐え難かった。
ひとりきりの病室で、哲士は腕の力だけを頼りに車椅子からベットに戻ろうとする。その拍子に、ベット脇にあった紙袋を倒してしまう。それは香代子と根本が持ってきてくれたもので、雑誌が紙袋の口から雪崩を起こして滑り落ちた。
床に広がった雑誌を、換気のためか開いた窓から入ってくる風がめくった。ページが音を立てて開く。何の因果だろう。そのページが開かれたのは。
哲士に見せつけるかのように開かれたページは、陸上雑誌の直近の大会の特集だった。最近開かれた大きな大会といえば、由貴也が出場した全日本ジュニア選手権だった。『次世代を担う選手たち集合』の見出しとともに、メダルを下げた表彰式後の由貴也と同着一位の坂井が映っている。黒地に赤いラインが入ったユニフォームを着た由貴也は相変わらずの無表情で、坂井はあまり特徴のない顔に淡い笑みを浮かべている。『東の坂井』と呼ばれる彼だ。こういう風に紙面を飾るには慣れているのだろう。嫌みのない笑顔だった。
層状の雲が、由貴也と坂井の後ろにかかっている。あの日は秋晴れのいい日だったと思いだす。その背景を背負って、立つふたりは、『次世代を担う』と評されるのにふさわしく、若いエネルギーと無限の可能性を感じさせた。そして、哲士に光を見せた。自分の光はどこから射しているのかも、そもそも存在しているのかもわからないのに、由貴也の光はこんなに鮮やかに、明るく、まぶしく見える。
哲士は衝動的にそのページを手でつかみ、そのまま壁に投げつけた。雑誌は無残につぶれ、病室の端に落ちる。哲士もまた、勢いあまって車椅子から落ち、床にしたたかに膝を打ち付けた。衝撃が足全体にまで広がって、患部の痛みに悶絶する。それ以上に、自分の情けない姿に打ちひしがれた。
由貴也、坂井、竜二。彼らには彼らの苦しみがあるだろう。彼らには彼らの壁があり、見えない努力があり、悩みがあるだろう。だが、彼らは自分の中の素質や才能を疑ったことはないだろう。光が翳り、細くなることはあっても、その光の存在を疑ったことなどないはずだ。
だが、哲士はその光の存在を疑った。何年も何年も、自分の中の光を探してきた。悪いところをひとつ直すたび、今度こそ自分に光が灯るのではないかと期待してきた。いつしか意固地になり、短距離を才能と言うやつは、最初から努力を放棄しているだけだと心中で軽蔑し、あきらめられないままここまで来て、それがこのざまだ。
「ふ、は、ははは……っ」
乾いた笑みが口から漏れた。本当はとうに気づいていた。努力をし続けられるという精神面の才能と、身体面の才能というのは違うということ。努力で何とかなると思っていた方が、哲士自身が楽だったこと。だって、努力ではどうにもならない、生まれながらに勝負が決まっていると知ったら、あの頃の自分は生きていけなかった。陸上にすがって、何とか日々をしのいでいた中学生の自分は。
なぜ、とやりきれない思いとともに、哲士は誰にともなく問いかけた。なぜ自分に才能は与えられなかったのだろう。中学時代の哲士は、現実から逃れるために、陸上にすべてを懸けていた。それに対して由貴也は、あの通り容姿に恵まれ、気ままな振る舞いも許され、彼のあり方を受容する美しい従姉の存在もいて、陸上がなくとも十二分に生きていけた。なのになぜ、哲士ではなく由貴也に天分が与えられたのだろう。
哲士は長い間、床に直に座り、ベットの縁に体をもたれかけさせて窓の外を見ていた。日が傾き、赤みを増していく。昼が完全に夕方になった頃、不意に哲士の病室のドアが開いた。
ノックもなく入ってきた訪問者に、哲士は視線を向けなかった。視界の端に映る姿だけで、誰だかわかったからだ。スニーカーに、紺色のジャージ。今まさに帰ってきたと言わんばかりにキャリーケースをかたわらに置き、こちらに歩いてくる。哲士が全身でこちらに来るなと拒んでいるにも関わらず。
「ベットから転げ落ちて、何やってんですか、アンタは」
いつもと変わらない飄々とした声で、哲士のすぐそばに立った彼は、こちらに手を伸ばす。何というタイミングだろう。よりによって一番会いたくない相手が、ひとりきりでやってくるとは。
ささくれ立った心に、由貴也の姿は毒にしかならなかった。哲士の欲しくてたまらないものを持ち、あまつさえ彼女の心まで手に入れる。哲士はベットに戻るのを手助けしようとした由貴也の手を乱暴に振り払う。
自分の中の何かが必死に叫んでいた。止めろ、止めろ、と。それは理性という名のものだったかもしれない。哲士は由貴也の前だけではみっともない人間でありたくなかった。それが哲士のせめてもの矜恃だった。才能も何も持っていなくとも、自らに恥じるような人間でありたくないと思っていた。
自分の力ではどうしようもない激情が哲士が持っていた最後のプライドを崩す。
「……何で、お前なんだよ」
最初のつぶやきは小さかった。だか、声に出したら、その言葉に吸い寄せられるように、自分の中で見ないようにしていた感情が呼び起され、あふれてくる。哲士にその激流を止めるすべはない。
どうして哲士に才能がないだけならばまだしも、そばに由貴也がいるのか。由貴也がいるから、自分はよりみじめになる。陸上も得られず、香代子までかっさらわれて――ずっと、前から好きだったのに。由貴也よりも前からずっと、ずっと。
哲士は由貴也を下から睨みつけた。ひびが入った自分の心が、完全に割れる。
「お前には陸上があるだろっ! だったら……っ、だったらマネージャーくらい俺にくれよっ‼︎」
自分の声が幾重にも赤い病室にこだましていた。自分の呼気がやけに大きく聞こえる。哲士は顔を歪める。立って自分を見下ろす由貴也は圧倒的勝者に、そして、床に座り込んで彼を見上げる自分はどこまでいっても変わらぬ敗者に感じた。
すっと心が冷えていく。言った言葉は返す刀で哲士に後悔と自己嫌悪を与え、黒く心を染めていく。自分の体が、底なしの沼の中に沈んでいくようだった。
自分は取り返しのつかないことを言った。もう垂れた顔を上げる気力もなかった。
「……ごめん。今日は帰ってくれないか」
それだけを言うのが精一杯で、言ったっきり哲士はすべての力を使い果たしたように息をして目を開いているだけの人間になり、じっと押し黙っていた。やがて、由貴也が静かに部屋を出て行った。
もう何も考える余裕のない心に、あるひとつの単語が落ちてきた。神さま。
神さま。神さま、神さま! 才能があなたから与えられるものであるならば、あなたが数多の人間からすくい出して選ぶならば、俺は、俺は――……。
哲士は薄く笑った。このことを認めるのにこんなにも時間がかかった。神さま、俺はあなたの手のひらからこぼれ落ちたひとりだ。
もうこのままここで座ったままで朽ちていきたかった。実際、それを願って、哲士は長い間座っていた。時刻は夕方から夜に移り変わりつつあったが、哲士の目には何も入らない。
すべての感覚を遮断していたので、そばに誰かが近づいてきたこともわからなかった。ふわりと何かで肩を覆われて、それで初めて自分の前にいる存在に気づいた。
「風邪ひくよ」
何度かまばたきをして、そこにいるのが少年の姉――志乃だと認識する。自分の肩にかけられているのは、彼女のアイスブルーのストールだった。
日が落ちた今、病室は何とかお互いの顔が判別できるぐらいの薄い闇が落ち、空気は温みを失っていた。彼女にかけられたストールが温かく感じて、自分の体が冷え切っていたことに気づく。
哲士は反射ともいえるような動きで、首を折り、頭を前に倒した。寒くて仕方ない時、目の前に毛布があったら包まるだろう。温かい飲み物があれば迷わず口にするだろう。それと同様に、苦しくて情けなくて辛い時、目の前に自分を受け入れてくれる人間がいるのなら、身を委ねるだろう。哲士は彼女の肩口に額をつけた。
「……俺は、あなたに甘えすぎているのかもしれない」
彼女は哲士に対して負い目がある。それを自分は利用している。決して哲士を拒まないとわかっているから、こういう行動をとれる。
「バカな人」
ぎゅっと彼女の手が、哲士の頭をつつむようにして置かれる。
「肩ぐらい減るもんじゃないんだから、いくらでも貸してあげる」
バカな人、バカな人と繰り返しながら、その手が哲士の後頭部を何度か優しく叩いた。
「自分が苦しくなるようなことばかりして、本当にバカな人」
その言葉に、もしかしたら彼女は由貴也との一部始終を聞いていたのかもしれないと思う。だとしたら、自分のもっとも愚かしいところを目撃されているということだったが、哲士は不思議と羞恥より先に安堵の念が沸いてきた。今ここにひとりきりでなくて、よかった。
もしかしたら、と思う。もしかしたら、彼女は――志乃は、いつもは無慈悲な神さまが少しの憐みで哲士に遣わしてくれたのかもしれない。そう思うことで、救われる自分が確かに存在していた。