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部長、緒方 哲士は四×百メートルリレーに出ることを宣言し、そのように練習を始めた。
リレーへでることを本決めする前に、哲士は由貴也に内々に打診したらしい。リレーに出ようと思うけど、古賀はどう思う? と。
由貴也は県でトップクラスの選手だったが、一度もリレーには出なかったそうだ。だからよっぽどリレーには出たくないのかと思ったが、哲士の提案に積極的に賛成も反対もしなかった。自分がリレーのメンバーに組み込まれるとわかっていながら他人事のような無関心さを貫いた。
正義感の強い哲士はその由貴也の様子に強く思ってしまったのかもしれない。なんとしても古賀を更正させなければ、と。
自分のそんな態度が哲士に火を点けたとは知らずに、由貴也は相変わらずタラタラと走っていた。
リレーは一走が由貴也、二走が哲士、三、四走が二年の短距離選手となっていた。
由貴也のタイムならトップ区間である二走か、アンカーである四走が妥当だ。しかし彼はリレーの経験がない。それにスタートが秀逸であることから、バトンを“渡すだけ”の一走になったわけである。
「古賀、バトンは水平に渡せ!」
哲士の怒号がグラウンドに響く。
由貴也はまがりなりにも中学で陸上をやってきただけあって、それなりにバトンパスはできる。しかしあくまでそれは素人と比べるとの基準だ。運動会レベルから競技会レベルに引き上げると、彼は絶望的に下手だった。
バトンパスだけではない。いつも直線コースばかりを走っている由貴也はカーブの走り方もぎこちなかった。本当に百メートルしか走れない男なのだ。
哲士が連日、由貴也につきっきりでリレーのいろはを叩きこんでいる。執拗なまでに何度も何度も走り、バトンパスのタイミングを徹底的に由貴也の体に教えこんでいた。
その熱心すぎる教えようは、彼個人の種目の方は大丈夫なのかと心配してしまうほどだった。
みっちりしごかれ、由貴也の方もひとりグラウンドに残って走りこみ、限界まで自身を追いこむような真似はしなくなった。哲士も由貴也が無茶をしないようにさりげなく目を光らせているようだった。
「古賀、もっと食えよ」
練習後、哲士は必ず由貴也と夕食をともにしていた。タイム測定のため、彼らの居残り練習につきあっついる香代子もまた、なし崩し的に一緒に食事をとるはめになっていた。
「お前は軽すぎだよ」
哲士が由貴也の前にトンカツ定食を置いた。均等に切られたカツからは肉汁があふれ、その隣ではたっぷりの千切りキャベツが青々と輝いている。
ジューシーな香りは食欲を誘うものだったが、由貴也は一顧だにしなかった。クリームたっぷりの菓子パンをもそもそと口に運んでいる。
由貴也の食生活は驚くほど悪い。朝は基本的に食べず、昼も夜も菓子かそれと似たようなものを食べている。
「糖分とりすぎだよ。ちゃんとご飯食べて」
香代子と哲士、ふたりから攻撃され、由貴也はのろのろと箸をとる。心底嫌そうにトンカツを口に運び、長い時間その一切れを口の中で噛み続けていた。
半分寝ぼけたような食べ方なのに、隙あらばキャベツの千切りを香代子と哲士の皿にすばやく乗せてくる。まったく油断ならない。
やっとのことでキャベツを免除したトンカツ定食を食べさせた。
これで由貴也との夕食攻防戦は四勝五敗だ。細すぎる由貴也に哲士と香代子はきちんと食事をとることを強要していた。
初日は少し目を離したうちに逃げられ、二日目は近くの女の子に全部まるごとあげていた。そこで女の子を選ぶところが由貴也のずる賢いところだ。三日目は食堂のおばちゃんと結託して少なくよそってもらっていた。綺麗な若い男の子に頼みこまれて断れるおばちゃんはいないだろう。
やっと四日目にして香代子・哲士チームは由貴也に勝利した。その後は一進一退といったところだ。
どうしてここまでして由貴也に食事をとらせているのだろう、と香代子だけでなく哲士も思っているはずだ。
もう香代子も哲士もヤケになっているとしか言いようがない。由貴也はナチュラルにわがままで、人に迷惑をかけてもなんとも思わないろくでなし王子だ。彼をまともにすることが香代子と哲士の使命である。
自分も哲士もきまじめで、曲がったことが大嫌いだ。だからいい加減の権化である由貴也を見ると血が騒ぐのだ。
加えて哲士はアスリートとして由貴也の能力をあきらめきれないのかもしれない。由貴也が活躍するようになればリレーのタイムに大きくてこ入れができる。
甘いものは別腹とばかりに由貴也はプリンを食べていた。その由貴也に哲士はあれこれと今日の走りの注意点を挙げていた。
由貴也はスプーンをくわえたままで、一応かすかにうなずいて聞いている。しかしリレーの練習を始めてからかなりの日数が経つのに、由貴也の走りは一向によくならなかった。哲士が語ったような圧倒的な走りの片鱗すら見せなかった。
哲士はそれでも根気よく教えていた。ジレンマもきっとある。ケガをして四×百メートルリレーから戦線離脱した部員への顔向けもあるに違いない。それでも哲士はあせりを見せなかった。
「お疲れ」
由貴也が立ち上がったのを見計らって、哲士が声をかける。
「お疲れさま。明日の集合は七時だからね」
香代子も食堂から出ていこうとする由貴也に声をかけた。由貴也はわずかに顔をこちらに向けてから、人の波にまぎれた。
「……心配?」
哲士の苦笑ぎみの声で、自分がずっと由貴也の後ろ姿を追っていたと気づいた。
あわてて視線を反らし、なんでもないようにつくろう。
「心配だよ。だって集合時刻にちゃんと来なそうだもん」
明日は近隣の学校を集めて大規模な練習試合が行われる。バスで競技場へ行くわけだが、見るからにだらしない由貴也が出発時間までにきちんと来るとは思えなかった。
「まぁいざとなれば俺が引きずってくから」
哲士がなだめるように言うが、香代子はすぐに言葉を返した。
「ダメ! だってそんなことしたらためにならないじゃん」
できないから、と手をさしのべてしまっては由貴也はそれにすがるだけだ。彼には自立心のかけらもないのだ。
「最近お前、なんか古賀のお母さんみたいだよなぁ……」
しみじみと哲士がつぶやく。この言葉にはさすがに香代子もいきりたった。
「止めてよー! 私あんな息子やだっ」
由貴也が息子だったらなんて考えたくもない。そもそも自分が母親だったらあんな息子に――と思ったが、由貴也は誰に育てられても超絶マイペースなような気がした。
「じゃあ息子じゃなくて彼氏は?」
突然放たれた突拍子もない哲士の言葉に、香代子は固まった。
哲士は別段変わった様子なく、カレーをスプーンですくっていた。その小さな仕草さえもきびきびしている。
「彼氏? あの電波王子を?」
何を考えいるのか哲士は。由貴也は香代子を認識しているかどうかすらあやしいというのに。
それに万が一、由貴也の彼女にでもなったらそれこそ朝から晩まで彼の世話をやいていなくてはならない。苦労の連続だ。
「古賀のこと気にかけてるみたいだったしさ。それにメチャクチャあいつ顔いいし」
「私、あの顔の横に並べるほどずうずうしくなれないよ」
間髪容れずに返すと、哲士は眉をハの字にして小さく笑った。何をするのもはっきりきっぱりやる彼の、こんな表情は珍しかった。
何か悪いことを言ったかな、と何気なく視線を落とした。自分のがさがさの手が目に入る。
クラスの女の子は爪の先まできれいなのに、香代子の手といったらひどいありさまだった。
つやつやとした髪、ぱっちりとした瞳、かわいい声に華奢な体。そのひとつとして香代子は持っていない。
長い髪は弟たちの世話をしているときに引っぱられるので切ってしまった。かわいい声どころか、いつも小言ばかりのやかましい女だと自覚している。体が丈夫なことだけがとりえで、守ってあげたくなるようなはかなさとは縁がない。
全体的に自分ほどかわいげのない女もいないと思う。香代子が男だったら、自分のような女は願い下げだ。
男だったら皆――。風になびく黒髪が脳裏をよぎった。誰もが彼女にみとれる。
無意識のうちに香代子は口を開いていた。
「……それに古賀はあの副会長が――」
そこではっと口をつぐんだ。
数日前の夜、意識がないながらも、由貴也は巴を求めた。
あの切実な声を哲士もともに聞いていた。巴は有名人だ。おそらく哲士も由貴也が呼んだ人物が生徒会副会長の古賀 巴だとわかっただろう。そして由貴也がどうしようもなく彼女に心を傾けていることも。
けれども哲士も香代子もそのことを話題には出さなかった。
香代子は今まで恋とは、女子高生の遊びの一種ぐらいにしか考えていなかった。腫れた惚れたと騒ぎ、退屈な日常のスパイスにしているとしか思えなかった。
しかし由貴也は想いにとりつかれているようだった。その強さゆえに自家中毒に陥っているように見えた。ほんのりとピンクに色づいているような生易しい恋ではないのだ。
だから軽々しく口に出すことをためらってしまう。一途という美談にもできない重い恋だ。
それにうっかり由貴也の前で口にしたら最後。この前のように無機質な目で由貴也は香代子を切り落としにかかる。由貴也は自分のテリトリーに入られるのを決して許さない。
本当に古賀 由貴也とは難しい男なのだ。
「明日は早いし、もう部屋に戻るかぁ」
哲士は何事もなかったかのようにほがらかに言った。
ほっとした。もう巴の話は聞きたくない。もういい。
きっと彼女はたった一言で由貴也に言うことをきかせることができる。自分たちはじだばたと由貴也に翻弄されているというのに。
むなしくてやりきれなくなる。だからもう彼女のことは思い出したくなかった。