神さまの手のひら4
哲士は才能に挑みたかった。
短距離は才能のスポーツだ。速く走れる体を持って生まれたか否かというところから勝負が始まっている。その時点では哲士は恵まれた体ではなかった。柔軟性はなく、歩幅も大きくなく、足のバネもキレも瞬発力も常人程度。怪我に強い体も与えられず、身長も平凡だ。
ただ、哲士は才能のうちに“努力のできる才能”も含めていた。自分にはそれがあると信じたかった。つらい基礎練習を繰り返して、ある程度強いバネを手に入れた。怪我には人一倍気をつけ、スターティングブロックとスタートの体勢を工夫して、一秒でも早い加速法を研究した。何度も何度も自分のフォームをビデオで観て、目につく箇所は直した。頭を使ってあの短い百メートル走の中でペース配分をした。そして何より、努力で才能は凌駕できると、いついかなる時でも信じてきた。
『用意』
競技場にアナウンスが響き渡る。静まり返った競技場に、精神が澄んでいくのを感じる。
地区インカレ、男子百メートル準決勝。昨日行われた予選を一着で通過した哲士は地面に手をつけながらスタートの時を待っていた。
天気は快晴。湿気が抜けた空気はやっと長かった夏の終わりを告げていた。
競技場内の熱気が最高潮にまで達した時、スターターが持つピストルから号砲が放たれた。来るべきものがきたという気分で哲士はほとんど意識することなく飛び出す。一歩、二歩、三歩で加速する。よし、うまくいったとこのレースへの手応えを感じる。
序盤は上々。哲士はまもなく自分の意図した箇所でトップスピードにのる。哲士は加速を調節して、中盤にトップスピードにのるように計算して走っている。序盤にトップスピードにのってしまうと、その後の減速時間が大きくなってしまうからだ。
この夏、自分の体をいじめぬいたおかげで、トップスピードも上がった。後はいかにこれを維持するかだ。
哲士は元々後半追い込み型の選手だ。この後半型というのは、後半に加速するということではなく、後半の減速が少ないということだ。つまり哲士はレース終盤に失速しないのだ。
意識して足の回転数を減らさずにゴールへ飛び込む。足にブレーキをかけつつ、ゴールの先のトラックを歩くと、やっとそこでまわりの風景が見えるようになってくる。哲士はスタートのピストル音からゴールするまで、ほとんどまわりの様子が見えなくなる。哲士にとってレースとは、他と争うというよりは、自分と対話するというものなのだ。
レースの緊張感が抜け、走ることに徹していた体に“緒方 哲士”の意識が返ってくるや否や、哲士は観客席を見た。左右上下と忙しなく視線を動かすが、哲士の望む人物は来ていなかった。
そのまま目線をすべらせ、電光掲示板に発表された順位を見る。哲士の名前が一番上にあった。一着なので、決勝進出が決定する。
ふ、と体の力をいったん抜いた。やっと走りに特化していた体に五感が戻ってくる。世界に色がつく。
緊張していると、レース中に周囲が見えなくなる感覚が増す気がする、と思いながら競技場の外に出る。昨夜はあまり眠れなかった。
「部長。お疲れ!」
競技場の外では香代子が待っていて、上着と特製ドリンクを渡してきた。哲士は「ありがとう」と軽く微笑んで、それを受けとる。
いい走りをした後、香代子に出迎えられるこの瞬間が哲士は好きだった。香代子に迎えられて哲士は本当に“戦闘モード”を解く。
その分、悪い走りをした後に彼女と顔を合わせるのはつらいが、香代子は意外なことに、下手な慰めを言ったりしない。逆に良かった時にもコメントを言ったりしない。走ることに極限まで神経を使っている状態では答えることにもエネルギーを使うとわかっているからだ。そういう選手の心理がわかっている辺り、マネージャー歴五年目のベテランなのだった。
ふたりして無言で部のテントまで歩く。テントの中には意外と人は少なかった。地区インカレにも当然参加標準記録があり、それを突破できずに出場できない部員たちは今日、サポートに回るか、留守番している。自県から電車で三時間、加えて四日間にも渡る大会は遠征費がかかる。必要最低限の人数しか連れてきていない。
「さっ、部長。ここに寝て」
香代子がテントのブルーシートの上にやわらかいマットを敷いて、手でその表面を叩いた。哲士はおとなしくその上に腹ばいで横たわる。
すぐに体の上にタオルがかけられ、香代子の手が哲士の足を滑る。こういった疲労回復のマッサージは身ひとつで戦う陸上競技に不可欠だ。怠れば乳酸がたまって足が上がらなくなる。部員同士でマッサージしあうこともあるが、中でもマネージャーの香代子のマッサージは的確で、哲士は心地よさに目を閉じた。
哲士は他人に触れられることに苦手意識を持っている。それは小学生のいじめでよくあるバイ菌扱いをされたことがあるからで、今でも自分に触れるのは相手に悪いのではないかという意識がある。
けれども、香代子は最初から臆することなく哲士に触れてマッサージを行った。最初の頃は緊張してしまい、マッサージを受けているにも関わらず筋肉を余計に強ばらせてしまっていた哲士だったが、今はちゃんと力を抜いて香代子の手のひらを感じていられる。
香代子の手のひらの体温を感じながら、きっとこの手は部屋に帰れば由貴也のためだけの手として動くのだろう、と思う。でも、今は哲士のためにあってくれる。
哲士は部長らしからぬ利己的な思いに気づいて自嘲の笑みを薄く浮かべた。今日の地区インカレに由貴也は出場せず、また観戦もしにきていない。香代子は大会の時に由貴也がいても、公私混同はせず、マネージャーとしての仕事に徹する。由貴也を特別に優先することはない。
それでも由貴也がいないことで、香代子が本当に哲士を気にかけてくれる気がする。どんなに彼女が優秀なマネージャーで、由貴也を想っていることを決して表に出さなくとも、その心の一番大きな部分を占めているのは彼の存在なのだ。いつだって彼の体調が一番心配で、いつだって彼の勝利を一番に願う。
だから、哲士は日本インカレで由貴也と勝負して勝ちたいと思う。由貴也に勝ったならその瞬間、彼女の心の中の比率が哲士に傾くのではないかと思ってしまう。彼女の中で由貴也よりも大きな存在になれる気がする。
「はい部長。終わり!」
哲士の回り続ける思考を打ち切るように、香代子の元気のいい声がかけられる。彼女の手が離れていく。その瞬間、自分の体が一気に冷えた気がする。
こんなささやかな機会を大事にする哲士とは違って、由貴也はいつでも彼女に触れる。それを思い知る。
「ん。ありがとう」
哲士は体を起こし、香代子から差し出されたゼリー飲料と飴を受けとる。ゼリー飲料にはすぐに口をつける。飴はポケットの中に入れた。
ゼリー飲料を飲み終え、すぐにエネルギーになる飴をなめながら横になる。次の決勝までに体を休めておかなければならない。
部長としての性で、つねに周囲に注意を向けているので、自分の背中の後ろで何が行われているかわかってしまう。選手に配る飴やエネルギーバー、飲料を自分の鞄に補充している香代子に、テントの様子を見に来た根本が追い払われている。根本の出場競技である男子八百メートルは明日予選が行われる。だから今日は暇なのだ。
香代子に眠りを守られ、哲士は少し寝たのかもしれない。ぱっと目を開いた瞬間に、自分がいつのまにか眠りに落ちていたことに気づいた。
体を起こすと香代子はいなかった。人員が足りていないので、彼女は大忙しだからいないのも当たり前だ。哲士はテントに落ちている書きかけになっている記録表をとって、その続きをこっそり記入した。
「あっ、部長!」
半分くらいまで書き終えたところで、背中から香代子に声をかけられた。哲士は香代子に何を言われるかわかりきってたので、思わずいたずらを見咎められた子供のように、そっと記録表を閉じ、自分のタオルの下に隠した。
そんな行動もむなしく、香代子は哲士を叱る。
「部長、何やってんのよ! ちゃんと体休めてなって」
すべてはお見通しだったようだ。香代子は哲士のタオルをめくって、その下にあった記録表を取り戻す。香代子が忙しそうだから記録表の記入だけでも手伝おうと思ったのだが、怒られてしまった。
「ささっ、早く横になる! まだ決勝まで時間あるんだから」
「いや、でも記録表の記入くらいは……」
「いいよ! いざとなったら根本にやらせるから」
「………………」
根本はマネージャーではなく選手だったような気がする、と思いつつ、哲士はそれ以上口にしなかった。何だかんだ言って香代子はきっちり仕事をやるだろうし、何だかんだ言って根本は不満げに口をとがらせながらも手伝うだろう。
高校一年の頃はそのあまりの気安さに、香代子は根本を好きなのではないかと思ったこともあったが、今は違うとわかっている。それは由貴也の存在があるからではなく、根本と香代子の仲の良さは、お互いをまったく異性として見ていないがゆえのものだったからだ。
これ以上起きていると本当に怒られそうだったので、哲士は再び横になった。また哲士が背中を向けた側で何が行われているかを察知してしまう。「はい、根本。これとこれお願い。これも掲示板見て書いてきて」「えー俺、これから明日に向けての精神統一を」「ハイハイ。いいから行ってきて」「マネージャー、ひでー。人使い荒くねー?」ぶつくさ言いながら去っていく根本の気配に、哲士は寝転がったまま笑いを噛み殺した。体力を回復させなければいけないのに、ついつい周囲の様子に気を配ってしまう。
哲士が懸命に笑いに肩を揺らしてしまうのをこらえていると、香代子の目が光ったことを察した。「部長! 集中して休みなさいっ」と雷を落とされ、哲士は今度こそ静かに休んだ。香代子はずっとそこにいてくれた。
そうこうしているうちに決勝の時間がやって来る。哲士は小トラックでアップをし、競技場へ向かった。
午後三時前の競技場は夕方というよりまだ昼間の様相を呈していた。前の種目である女子百メートル決勝を哲士は招集テントの中から見る。
ここに集う選手たちはいずれも、名だたるスプリンターだ。彼らのベストタイムや自分のコンディションを考え、勝算がどれほどあるかを予想することはできるが、哲士はあえてそれをしなかった。もうここまで来たら走るだけだ。
女子百メートル決勝が終わり、代わりに男子が進み出る。哲士は自分のレーンに立ち、観客席を見上げた。目だけで観客の顔を見回すが、やはり来ていなかった。
スターティングブロックを追求し尽くした自分のベスト位置へとセットし終えたところで、『位置について』の号令がかかる。哲士は熱を含んだ地面に手と膝をついた。
努めて集中を高める。音や温度が遠ざかる。
この感覚が昔から好きだった。走っている間だけは現実が切り離される。それは現実逃避ともいえるものかもしれないが、哲士はずっと昔からこの感覚にすがってきた。
自分がまるで“自分”以外になるようだ。
『用意』
腰を浮かす。嵐の前の静けさを孕んだ静寂が、競技場を支配する。
隅々まで無音が支配した後、号砲が鳴る。それは競技場中に響き渡るほどの鋭い音であるはずなのに、哲士にとっては水面に一滴の雫が落ちたほどに静かな始まりの音だった。
考え抜かれた体勢で体を起こす。空気抵抗を最小限にやり過ごした。
すべてがあいまいな感覚の中、自分はどこへ走っていくのだろう、と思う。中学生の時はここではないどこかへ行ってしまいたかった。今は日本インカレに行って――その後は、その後はどこに行くのだろう。
「……――ちょう! 部長ーっ!!」
哲士の白い世界の中に、突如として違う声が紛れ込んでくる。
「部長、がんばれー!! 後少しっ、後少しっ」
それは香代子の声だった。観客席の最前列で拳を振り上げ、全身で応援している。
その瞬間、哲士の行き先ははっきりした。自分は日本インカレに出て、香代子のもとへ走っていきたい。日本インカレに出れば、自分に自信が持てる気がする。香代子に好きだと言える気がする。自分が価値ある人間になれる気がする。この走路の先が、彼女に続いていて欲しかった。
霧から抜けたように、哲士の視界はさっと明るくなった。気がついたら自分は、ゴールラインの先を歩いていた。
隣を歩いていた選手に手を出され、握手に応じる。その際、「インカレ、がんばってくれよ」と肩を叩かれた。何だかまるで優勝者のようだ。
ぼんやりとした気分が抜けない。無我夢中のうちにレースは終わったようだ。自分のタイムや順位はと、電光掲示板を見上げた。
よく、瞳が焦点を結ばない。何度もまばたきをしながら、哲士はオレンジの文字を上から丁寧に読んでいった。
『ダンシ 百メートル ケッショウ 一位 百二一 オガタテツシ』
表示されたカタカナ文字のまま、哲士は何度も胸の中で反芻した。繰り返すごとに、自分が優勝したのだと実感がわいてくる。
哲士は今まで忘れていたことにはっと気づいて観客席を見る。よく見えない目を動かして、ある人物を探す。
「……やっと来たか」
思わずつぶやいた自分の声には喜色と安堵が混じっていた。
準決勝まではいなかった由貴也が、階段上の一番後方の高みから、哲士を見ていた。哲士と目があった瞬間、由貴也は微笑む。それは不敵としかいいようがない、挑戦的な笑みだった。
それにしても、決勝しか見に来ないなど、由貴也らしすぎる。言い替えれば、地区インカレの決勝にすら出れない者に見る価値はないということだ。
中学時代、由貴也の背中ばかりを見ていた自分は、彼と同じステージへ行く。
由貴也の後ろの澄んだ青空がきれいだった。きっと、自分はこの光景を一生忘れないだろう。
遅咲き過ぎる哲士の、初めての優勝だった。
優勝し、四日間の地区インカレを終えた後、打ち上げで哲士はこれ以上なく呑んだ。根本は哲士のインカレ本選出場を自分のことのように喜び、暑苦しくむせび泣いた。香代子は「インカレに向けてこれも食べて!」と、哲士の皿の上に山盛りの料理をのせた。結局、浴びるように呑んでも哲士は酔うことができず、最後は死屍累々となった呑んだくれの世話に徹したが、これ以上なく幸せだった。
きっと、これがインカレに出る最後の機会だった。来年になったら哲士は三年生になる。ジャージを脱いで、スーツを着込み、スパイクから革靴へと変貌を遂げなければならない。戦う場所はグラウンドの上ではなく、説明会や面接会場になる。
大学に入って一年半。哲士にはいまだに自分の将来のことがわからなかった。陸上をずっと続けていたいが、そうできるほど世間は甘くないとわかっていた。
だが、インカレに出場できることでほんの少しだけ、陸上を続ける道ができたともいえる。大学生にとってインカレに出るということは優秀な競技者であるということを意味する。逆に言えばインカレに出れない選手に先はない。
日本インカレに出ることを第一目標としていた哲士だったが、ただインカレ出場に満足してはいけない。インカレ本選で戦えるようにならなければならない。地区インカレ王者の余韻に浸る暇もなく、哲士の練習漬けの毎日が再び始まった。
バイトはここぞとばかりに奮起した香代子と、親切にしてくれるパートのおばさんたちがシフトを代わってくれている。香代子は夏休み中に休んでしまった分を返すかのごとく、バリバリと働いているようだった。
今だけは周囲の助けに素直にのることにした。哲士に指針を示してくれる指導者はいない。何でも自分で考え、そのつど修正してやってきた。だから遠回りしなくてはならないし、時間もかかる。練習時間はいくらあっても足りない。
哲士はジョギングで久しぶりにあの公園を通ることにした。なわとびで少年が打たれそうになっていたあの公園だ。少年に思いきり責められてから哲士は地区インカレも重なり、あの公園を通っていなかった。
午後三時半、ちょうど小学生の下校時刻だ。公園に一歩ごと近づきながら、自分はどうしたいのだろう、と思う。少年を助けたいと思う一方で、彼の矜持を傷つけたくはないとも思う。それに小学生の世界では“部外者”である哲士の場当たり的な対応で、いじめが解決するとも思わなかった。
哲士は少年に昔の自分を投影していた。そして過去のいじめられていた哲士が欲した“揺るがない味方”になりたかった。それが哲士がつけられた傷を癒したいがための行動だとわかっていても、彼を気にかけるのをやめられない。
哲士は見つからないように念入りに身を隠しながら、公園の中をのぞいた。もはやここまでくるとストーカーじみていると思ってしまう。
哲士の予想を裏切らず、今日も公園では小学生数人によるいじめが行われていた。ここの公園は確かに穴場だ。ここからいくらも離れていない通学路沿いには遊具の充実した広い公園があるから、この砂場と池と滑り台ぐらいしかない面白味もなく立地も悪いこちらへは来ないのだ。だから何か見られたくないことをするにはうってつけだ。
そんな人気のない公園の端で、四、五人の小学生がひとりを追いつめていた。アトピーの痕がひどかったあの少年だ。どうやら肩を押されたりなど軽い暴力と口での攻撃を加えられているようだ。ここまでは何と言っているかまでは聞こえないが、哲士はハラハラと見守る。
そのうち、少年たちの動きは荒く、大きくなっていく。小突く程度だったものが突き飛ばしに変わり、そのまま標的にされている方の少年の頭をつかむ。そして何のためらいもなく、その頭を手近なゴミ箱の中へ突っ込む。笑い声が上がるのが聞こえた。
その光景を見た哲士の中に、やるせない憤りと問いかけが落ちてくる。なあ、その子はゴミ箱に顔を突っ込まれなければいけないような存在なのか。多勢に無勢の彼が何をしたというのか。彼は――俺はどうしてそこまで虐げられなければいけなかったのか。
握りこんだ拳の中で強く圧迫された爪が悲鳴をあげていた。ゴミ箱に顔を埋めてもがく彼を尻目に、少年たちはいじめられている方のランドセルを漁る。教科書や体操服などが地面に散らばった。その中の何かをいじめっ子のひとりが手に取る。
それはかつて哲士が池の中から拾い上げてやった手作りと思しきキルト素材のペンケースだった。それがいじめっ子の手にあるとゴミ箱から這い出てきた少年が認めた時、その目の色が変わった。少年の中のスイッチが入ったかのように、ペンケースを取り返そうといじめっ子たちに立ち向かっていく。
だが、その姿が返っていじめっ子たちの加虐心をあおったようだ。彼らは楽しげにそのペンケースが少年に渡らないように仲間内でパスしあい、挙げ句の果てにそれを遠くへ投げた。思いきり投げられたぼろぼろのペンケースは、公園の入口を越え、車道に落ちる。少年は一も二もなく、それを拾いに走っていった。
なかば、あっけにとられて見ていた哲士だったが、その耳に少年の駆けていく足音とは違う音が届く――車が近づいて来る音。
『ここは公園の前だから、飛び出しに注意してね』という教習所の教官の声がよみがえる。
少年は周りが見えていないのか、ただひたすらに走っていく。公園の入口付近にいる哲士には、近づいてくる車の音ははっきりと聞こえたが、少年はキルトのペンケースしか見えていなくて、何も聞こえていないようだった。こうしている間にも車は速度を緩めず、一刻一刻と近づいてくる。
哲士は手を伸ばす。少年を止めなければと。だが、服をつかもうとした手は何もつかめず空をかく。少年は哲士の手をすり抜けて、道路へと踏み出す。車の車輪は絶えず回り続ける。
直後、けたたましいクラクションが響いた。間髪容れずにあたりを切り裂くようなブレーキ音が鳴る。そこで初めて事態を察した少年が、道路の真ん中で立ちすくむ。
人間が太刀打ちできない速度で車は少年と激突しようとしていた。間に合わない、そう思ったら体が動いていた。哲士は車道へ躍り出る。哲士を言いようのない感情が突き動かす。
こんなことで、この少年が死ぬなんておかしい。いじめている方はこれからも生きていって、この少年だけが死ぬなんて、傷つくなんて。そんなのは不公平だ。間違っている。
哲士は『今我慢すればこの先良いことがあるよ』という言葉が嫌いだった。いじめられていた頃、良い未来などいらないから、ここから消えてしまえたい。なくなってしまいたいと思っていたのだ。
だが今この時、哲士は少年に言うことができるだろう。この先死なないで良かったと思うことが必ずあると。高校一年の春に見た香代子の笑顔が哲士にとってのそれだった。
哲士は道路で恐怖で動けずにいる少年を、渾身の力をこめて向こう側へ突き飛ばした。迫りくる車の方を向くと、すぐそこにドライバーのこれ以上なく強ばった表情がある。
その刹那、四肢がちぎれるほどの衝撃が哲士を襲い、意識が暗転する。
最後に浮かんだのはやはり、あの時の香代子の笑顔だった。