神さまの手のひら2
番外編『陽のあたる場所で』読了推奨。
「次の角を左折」
自動車学校の教官の声に「はい」と答えてウインカーを出した。
九月になり、子供の姿が消えた昼間の住宅街を哲士は“仮免許練習中”のプレートをつけた教習車で走っていた。
大学最高峰の大会、天皇賜杯――別名日本インカレの実質的な予選である地区インカレはすぐそこにまで迫っている。この夏はバイトを減らして練習に励んできたが、大会直前の調整期に入ったため時間が余るようになってきた。少しでも余分な時間があるとインカレのことを考えてしまうので、哲士はその余暇を車の免許の取得に充てることにしたのだ。
交通網の発達していないこの地方都市にあって、いずれは免許をとらなくてはと思っていたし、車の運転はいい気分転換になった。それに教習所に通うようになってから練習一色だった生活にメリハリがついた気がする。
哲士は難なく両脇を住宅に挟まれた細い路地を曲がる。生来の慎重な性格や、それなりのセンスもあったのか順調すぎるほどに教習は進んでいる。たぶん今月中には教習所を卒業できるだろう。
いつも通る見知った道を車で通ることに違和感を抱く。ここは哲士のバイト先であるガソリンスタンドのすぐ側なのだ。
「前から歩行者来てるよ。気をつけて」
教官の言葉に前を向くと、車がすれ違うことはできない狭い道の先に、自転車を押す女性と、徒歩の男性の姿が見えた。哲士はその人物を認め、わずかに目を見開く。
「緒方くん?」
怪訝そうな教官の声に、「すみません。ぼんやりしてました」と運転に集中し直した。
自転車と歩行者とのすれ違いは問題なくできた。向こうが自転車、歩行者の順で一列になってくれたからだ。すれ違う一瞬、その彼らを見るが、向こうは哲士に気づかなかった。
すれ違った後、バックミラーで彼らの姿を見る。落ち着いた赤の見慣れたママチャリ。カゴにも荷台にもたくさんの荷物がのっている。そしてこの湿気で垂れているように見えるボブヘアーを揺らして、彼女は後ろの人物を見る。彼女に視線を向けられた彼は手に何かを持ってよろよろと歩いていた。目を凝らすと、彼が米袋を持っていることに気づく。きっとスーパーの特売に行った彼女と、その荷物持ちの彼というところだろう。近くには大きなスーパーがある。
昼下がりの住宅街、危なげに米袋を持って歩む彼と、その彼にハラハラしながらも笑っている彼女は幸せそうだった。哲士の入り込む余地など一片もないほどに。
まさかこんなところで彼女と彼――香代子と由貴也に会うとは思わなかった、と思いながら車を走らせる。けれども別段不思議なことではない。ここは香代子と由貴也の部屋の近くなのだから。
おそらくふたりは今、同棲に近い実態で暮らしているのではないかと哲士は思っていた。この前、ばったりと会った由貴也に練習はどうかと尋ねると、この夏は体重が落ちなかったと言っていた。それはたぶん、彼女が食事の管理をしたからだろう。
哲士には予感があった。彼女に支えられ、気力体力ともに充実した由貴也はきっとじきに大会で結果を出し始めるだろう。これから涼しくなる季節も彼に味方している。
自分は? とどこからともなく胸の中に言葉が落ちてきた。言葉に導かれるように自分は、と改めて考える。自分は由貴也が飛び越えていった地区インカレから勝ち上がり、日本インカレへの切符をまず手にしなくてはいけない。由貴也は本選出場要件となる標準記録Bを破っているので、地区インカレに出る必要がないのだ。
哲士がインカレ本選に出るには、まずは地区インカレか東日本インカレで優勝することが絶対かつ唯一の条件だ。哲士は十秒六のB記録を破れないのだ。
ただ、地区インカレで優勝したからといって、日本インカレに出場が自動的に決定するわけではない。むしろここからが最大の障害なのだ。地区インカレ優勝者に与えられるのは、出場資格Cだ。これはB記録突破者の出場資格Bよりも一段低い出場資格である。そして、同一チーム内で出場資格C保持者と出場資格B保持者がともに日本インカレに出場することはできない。同一チーム内で出場資格C、Bが競合した場合、優先されるのはBなのだ。つまり、哲士が地区インカレで優勝しても、日本インカレに出場できるのはB資格を持っている由貴也ひとりなのだ。
一見絶望的に見える哲士の日本インカレ出場だが、まだ一筋の光明がある。だから諦めていない。
「ここは公園の前だから、飛び出しに注意してね」
教官の言葉に目だけで横を見る。背の低い植木に囲まれた小さな公園があった。ブランコやジャングルジム、滑り台の上部だけが剪定された植木の上から見える。つまり公園の中は植木が作る生け垣に遮られてよく見えないのだった。
今の時代に物騒だな、と思う。現にここはスクールゾーンから外れているのか人気もない。哲士は注意しながら公園の前を通る。
当然ながら、公園の入口は生け垣が途切れている。その前を通過する一瞬、公園の中が見えた。
誰もいないかと思っていたのに、子供が数人輪を作っていた。哲士は嫌な予感に目線を鋭くした。子供が作る“輪”は、経験上あまりろくなものではないとわかっていた。その中身は悪巧みか、いじめかのどちらかだ。こんな人気のない公園でなされていることなど、その二択しかない。
小学校中学年と思しき男子の手に縄跳びが、その輪の中にしゃがみこむ足が見えた時、哲士はギアをPに入れて、車を路肩に停めていた。
その後の展開が容易に哲士には想像できた。自分がかつてされたことだったから、その痛みも辛さも実感としてよみがえってきたのだ。
教官の制止も聞かずに、教習車から降り、公園へ走る。輪の中で縮こまる男の子が、かつての自分に見えた。ずっといじめのターゲットだった、昔の自分。
輪の中に立つ小学生の、縄跳びを持った手が振り上がる。哲士は間一髪でその手首をつかんだ。
縄跳びがしなって空を切るが、何も打たない。一瞬の時が止まったような静寂の後、輪の中にいた子供がすばやい身のこなしで逃げ出した。
「あっ、てめぇ!」
輪を囲んでいた方の子供が声を上げ、追いかけようとするが、哲士は「止めろ」と静かに一喝した。
輪の中にいたひとりが完全に逃げ、輪を作っていた四人だけがその場に残される。いきなり小学生の世界に割り込んできた哲士という存在を、彼等はどうやって扱っていいかわからないようで、お互いの顔色をうかがうような空気が流れていた。
ランドセルを背負って、母親が選んだちょっとこじゃれた服を着て、足が速くなるだとかCMで言っていたスニーカを履いて、彼らは本当に普通の小学生だ。けれども、いつだって悪魔になるのはごく普通のクラスメイトなのだと哲士は知っていた。この普通の小学生たちは縄跳びで輪の中にいたひとりのことを打とうとしていたのだ。
「人を縄跳びで打つのは」
小学生に流れる微妙な空気の中、哲士は地面に落ちた縄跳びを拾う。つかんだままの主犯格の小学生の手がびくりと震えた。
「自分が縄跳びで打たれる覚悟があるヤツだけにしろ」
硬質な声音で言うと、本当に縄跳びで打たれると思ったのか、哲士に掴まれている子以外、一目散に逃げていった。友達がいのないやつらだな、と思いながら、哲士は残ったひとりの手を離す。途端にぱっと小動物のような動きで駆け出した。
哲士が手の中に残された縄跳びにきがつき、「おい、待て!」と声をかけるも、後の祭りだった。
公園にひとりになり、手の中の縄跳びに視線を落として苦笑する。縄跳びは小学生の中では万能だ。人を縛ることもできるし、打つこともできる。哲士は小学生の頃、縄跳び大会の季節が怖かった。あれを持った同級生たちはさらに残酷に変貌する。縛られて倉庫に閉じ込められたり、打たれてみみず腫れを全身に作ったりしていた。
本当にこれで打たれるのは痛いんだ、と哲士は逃げていった小学生たちに向かって、胸の中でつぶやいた。/
仕方なく、ジャングルジムの小学生の背丈ほどのところに、目立つように縄跳びを結びつけ、教習車に戻った。
「勝手なことをしてすみませんでした」
詫びて、教習車の運転席に乗り込む。教官はその立場上、一言二言の注意を哲士に与えたが、車の中から公園の中を見ていたのか、「緒方くんは正義感が強いんだねえ」と最後はどこか清しい表情で言った。
哲士は曖昧に微笑んで、車を発進させる。正義感か、と胸の中でつぶやく。
さっき、あの公園の中で、縄跳びで打たれそうになった子供の顔を哲士は思い出せなかった。どうしてもあの子供が幼い自分に見えたからだ。
哲士はあの子供を助けるふりをして、その実、昔の幼い自分を助けようとしたのだった。それは純粋な正義感に基づく行動とは言えない。それにあの場面で助けたところで、どうせ明日かあさってか、大人の目のないところで彼らは今日できなかったことをやるのだ。
一時の救いなど、与えないで欲しいとあの子供は思うかもしれない。けれども自分はどうしても放っておけなかった。それは単なる自己満足だった。
哲士はあの子供のことを考えながら機械的に運転する。その日から、哲士のランニングコースにその公園が組み込まれた。
教習もバイトもない日、哲士は小学生の下校時に合わせてその公園の前をランニングするようになった。
数日は何事もなく過ぎた。根本的な解決になっていないとわかっていても、この前のことに懲りて、小学生たちがいじめを控えてくれたならいいと思っていた。
恐れていたことが起きたのは、そのコースでランニングを始めてから一週間が経った頃だった。
あの“いじめられっ子”の方が公園にある小さな池の前でたたずんでいた。哲士はこっそりと後ろからのぞく。
少年はランドセルを背負ってはいなかった。そのランドセルは池の中に投げ込まれ、ノートや筆箱などが藻とともに水面に浮いていた。
少年の背中があまりに悄然としていて哲士は思わず出ていって、池からそれらを拾い上げてやりたくなる。だけれども、すんでのところでこらえた。そういった同情や、手助けは、少年をよりみじめにさせる可能性がある。彼はいじめられている自分を第三者に見られることを好まないかもしれない。昔の哲士がそうだったように。
見れば少年は、この真夏にも勝るとも劣らない残暑の中、長袖長ズボンだった。しかもタートルネックを着ている。だが、哲士の視線はその長袖長ズボンよりも少年の耳や髪の生え際に引き付けられた。痛々しい赤紫色の発疹が無数に浮かんでいたからだ。
アトピーか、と哲士は合点する。この不自然な服装がアトピーの湿疹を隠すものであるなら、少年はそのせいでいじめられているのかもしれなかった。
原因がわかったことで、対処法がわかったならよかった。かえって俺に何ができるという思いが強くなっただけだった。それでも少年から目が離せずに哲士は木の幹に体を隠して視線を向け続けた。
その哲士を不審者を見るような目を向ける親子連れに気づいた時、哲士が赤面して、公園内をさりげなくジョギングしているというポーズをとる。
わざとらしいことこの上ないジョギングで公園を周回していると、少年が池の縁から身を乗り出して、水面に浮かぶ何かをとろうとしているのが見えた。ぎりぎりまで伸ばされた少年の指の先は小刻みに震え、池の縁石に乗せられた膝は今にも落ちそうだ。
少年がじりじりと体を前進させるのを見て、哲士はあわてて駆け寄る。あれでは遅かれ早かれ池の中に落ちる。
哲士が後ろから少年の首ねっこをつかむのと、少年の膝が縁石からずり落ちるのは同時だった。哲士はとっさに支えを求めた少年にTシャツをつかまれ、引きよせられる。
視界が回り、池の水が飛び、派手な音を立てる。気がついたら哲士は髪から滴を垂らしながら、池の中に尻もちをついていた。
呆然と下を見ると、余韻でいまだ揺れる緑色の水に、手作りと思しきキルト素材の筆箱が浮かんでいた。哲士は何気なくそれを手に取る。少年はこれをとろうとして無理をしたのかもしれない。
その少年はというと、哲士に近いところで同じように浅い池の中に尻もちをつき、げほげほと咳き込んでいた。
「大丈夫か?」
池の水でも飲んでしまったのか、哲士がなおも激しく咳をする少年の背をなでようと手を伸ばすと、少年の背中がびくっと震えた。動物顔負けのすばやさで、少年の目が哲士に向けられる。咳き込んだせいか、その目が生理的な涙で濡れていたけれど、明らかに哲士を睨んでいた。
「……それ、返せよ」
低い声で言われ、哲士は少年に使い込まれたキルトの筆箱を渡した。池の緑の水が滴っていた。
少年は引ったくるようにそれを哲士の手からもぎとり、荒い足取りで蹴っ飛ばすように水の中を進みながら池から出た。哲士も池から上がる。
地面にシミを作りながら、池から上がってきた哲士を少年はなおも険しい目付きで見ていた。小柄な体と、アトピーの痕が散るあざ黒い顔に怒りをみなぎらせた姿は、警戒心の権化のようだった。
「あんた、何なんだよ。びしょ濡れになってばっかじゃねえの」
辛辣な口調から、少年の感情が哲士の予想通りの道をたどっているのだとわかった。
「オレはあんたに助けてなんて言ってないんですけど。ヒーロー気取りかよ」
黙って哲士は少年の言葉を聞き続ける。他には誰もいない公園で、ほたぽたと服や髪や、体の至るところから水滴が垂れる音が響いていた。
「あんたがどう思ってんのか知んねえけど、オレはいじめられてなんかねえ! わかったらどっか行けよっ!!」
早くどっか行けよっ、と叫ぶ少年は、泣きそうに見えた。
「そうだな。ごめんな」
哲士には少年の心情が理解できた。自分がいじめられていると認識するのは痛みが伴った。クラスの最下層に位置し、自分はあいつらの壊れてもいいおもちゃなんだと自分を粗末に理解するのはみじめだ。理解するのに抵抗があって、そうして理解した後はそれがずっと染みついて消えなくなる。
哲士が立ち去ろうとしたところで、先に少年の方が先に駆けていった。最後に哲士は少年から腹立ちまぎれか黄色い帽子を投げつけられる。それを反射的に受けとめて、少年が駆けて行った方を見るともう彼は公園から出て行った後だった。
哲士は手の中の絶えず滴で地面に模様を描く帽子を見下ろす。もう中途半端なヒーロー気取りなど止めるべきだとわかっていた。哲士の自己満足に少年を巻き込んではいけなかった。
哲士はその晩、夢を見た。
中学生の頃だった。哲士の体は手すりから半分ほど乗り出していた。
夢の中ではよく音が聞こえなかった。けれども、哲士の制服をつかんで、手すりの外へ押し出す同級生の口はひとつの言葉を笑いながら紡ぐ。「死ねよ」と。
哲士たちの教室は三階にあった。教室の窓の外には外廊下があり、そこで哲士は同級生に囲まれていた。手すりの外にある哲士の上半身は下からの風をもろに受ける。そのたびに、頼りない浮遊感を抱く。足は同級生につかまれ、その手を離されれば哲士の体ははるか下の地面に向かって落下する。いまや彼らは哲士の生殺与奪を握りながら、楽しげに笑った。
恐怖で声が上手く出なかった。同級生たちは気まぐれに哲士の片足を離しては怯えるこちらの反応を見て楽しんでいる。
そのうち、ひとりが言った。「本当に落としていいんじゃね」と。
「人って落としたらどうなんの?」
「まじ死ぬ?」
「いや死なないっしょ。下芝生だし」
「別に死んでもよくない?」
彼らの口調は本当に軽かった。それはそのまま彼らの中の哲士の生命の重さだった。
沈黙があって、同級生たちが陰惨な笑みを浮かべる。理性と感情が曖昧な笑み。善悪を考えようとしない残酷な笑みだった。
「止め……っ!」
ろ、の声が空中に放り出された。足が離される。ニタニタとした同級生の笑みが遠ざかる。それと同時に、哲士の体は空気に包まれた。
落下する。死ぬ。
その二文字が胸に強烈に刻まれた時、哲士はベットの上で飛び起きた。
心臓が壊れそうなほど乱暴に鼓動を打つ。真っ暗な部屋の中で、自分の今の状況を整理した。
ここは自宅の自分の部屋で、今自分は中学生ではなく大学二年で、生きている。あれは真実に基づく夢だ。
荒い息をつきながら、周囲をうかがう。カーテンの隙間から月明かりが差し込む静かな夜だった。まぎれもなく、こちらが現実だ。
そう、あれは夢だった。哲士は結局、あの手すりから落ちなかった。すんでのところでばたつかせた足が足を押さえていた相手のあごに当たり、拘束が緩んだのだ。文字通り、哲士は命からがら逃げ出した。
しかし、そこからが大変だった。哲士の足があごにヒットした同級生は吹き飛び、背後の教室の窓ガラスに突っ込んだのだ。彼は腕を切り、何針か縫った。怪我をさせた哲士は、一方的に次の部活の大会への出場停止が言い渡され、内申点もだいぶ下がった。この時点で内申を重視する公立校への進学は不可能になったのだ。
それよりも、哲士は大会出場停止になった方がこたえた。大人という存在に諦感しきってた哲士だったけれど、中学三年間で初めて担任に抗議した。
教室で屑のような扱いを受けていた哲士は、陸上という心の支えがあったら生きてこれたのだ。その自分から陸上を奪わないでくれ、と哲士は懇願した。次の大会は当時中学三年だった哲士の引退試合だったのだ。
担任は哲士の言うことなど一切聞いてくれなかった。それどころか、出てもムダだという目で見た。哲士などが大会に出ても意味がないと。教師すら哲士を人間扱いしていなかった。
哲士は過去の記憶をしまい、真夜中の自室のベットの上で、息をついた。昔の夢を見たのは、昼間会ったあの少年のこともあるのだろうし、この部屋のせいももあるのだろう。全寮制の立志院に進学する前、哲士は小中とこの部屋で過ごした。哲士は大学進学を機に実家に戻ってきていたのだ。
この部屋のベッドの中で、朝を迎えるのを恐々としていた頃を思い出す。そして、朝が来るぐらいなら死にたいとすら思っていた。
あの頃の自分は、死ぬことにそう恐れを抱いていなかった。死ななかったのは陸上があったからだ。走ることだけが、哲士の救いだった。
大会出場停止にされた後は、あの時、同級生に落とされてあのまま死ねばよかったとすら思ったのだ。それもこっちのテレビ番組はおもしろくなかったから、違う番組を観ればよかったというほどの日常的な思考で哲士は死を思っていた。
そんな死ぬことに片足を突っ込んでいた哲士は、香代子に出会って初めてここまで生きてきて、死ななくてよかったと心の底から思ったのだ。鬱屈した日々の中、このまま遠くへ駆けていきたいという願望を具現化するだけのものだった陸上は、たちまち意味のあるものになり、高校生の哲士にとって走ることは現実逃避ではなくなった。
哲士は自嘲する。そんなこと思われたって、彼女は困惑するだけだろう。
まだ時計は午前四時を指していた。体を休めないとと目をつむって再び眠りの体勢に入るが、精神が昂ぶっていてどうにも落ち着かない。地区インカレのために規則正しい生活を送っていたので、それを破ることに不安はあったが、哲士はベットから下りて、ジップアップシャツとハーフパンツに着替えた。
家族の眠りを邪魔しないように、静かに顔を洗い、足音をひそめて玄関から出たところで、哲士は忘れ物に気づいて二階の自室に戻る。今度はちゃんとそれを手にして、庭の門扉を閉めた。
外はもう明るくなってきていた。闇を払うように雲がなびき、払暁の光に赤く染まっている。
どこか白っぽく光る外灯の下を哲士は走る。あんな夢を見たこんな朝は、自分が世界でひとりっきりのようで、今いる世界が夢なのか現実なのかわからなくなる。哲士は悪夢の余韻を断ち切るように、中学卒業後の日々を思い返していた。
ありがとう、緒方くん。そう高一の春に香代子に微笑みかけられた時の自分の顔は、さぞかしまぬけなものだっただろう。手に提げていたポットを落とさなかったのが奇跡だと思う。それぐらい香代子の笑みはあの時の哲士にとってまぶしかった。いや、今でもまぶしい。
香代子だけではない。根本も由貴也も、哲士にとってはまぶしく見える。根本の底抜けの明るさ、遠慮のなさ、香代子の気の強さ、由貴也の何をしても許される別格の雰囲気は、クラスの中で存在すらしていなかった哲士にはないものだった。それは教室で日の当たる場所にいた者だけに許される気質だった。
中学を卒業し、誰も知り合いがいない立志院に進学してから、哲士はずっと演じてきた。小中時代に自動的に培われた観察眼を使って、人の顔色をうかがいながら最初は普通の高校生を、その次は陸上部の部長を、そして香代子の理想の男を。彼女が何気なく口にした『真面目で堅実で誠実な人』というタイプの異性像を脳裏に刻みこみ、今日まで演じてきたのだ。だが皮肉にも彼女が恋に落ちたのは、そんなセリフにかすりもしない由貴也だったが。
目的地についた哲士は足を止める。そこは昼間、少年と一悶着あった公園だった。
哲士は家から持ってきた少年の登下校に使う黄色い帽子をビニール袋に入れる。昼間、少年から去り際に投げつけられたそれを、哲士は家で洗ってまた持ってきた。緑色の池の中に落ちたはずのそれは、いまや元の黄色を取り戻していた。
帽子の入ったビニール袋をジャングルジムに結びつけて、少年が気づくといいと願う。きっとなければ学校の先生に怒られてしまうものだろうから。
哲士は頭によぎる少年のことを一時考えた後、走り出す。毎日の日課であるジョギングを淡々と続ける。
哲士は奇跡など信じていない。それでも馬鹿なことを思って走り続けてきた。インカレに出て、古賀 由貴也に勝ったなら、もしかしたら、もしかしたら彼女が振り向いてくれるかもしれない、と。
あり得ないとわかっていながらも、その奇跡を願うのを止められなかった。止めたら自分を支えている柱がなくなるのがわかっていた。
万が一にも哲士の恋が成就することはない。彼女に想いを伝えたところで、拒絶されるだろう。そしたらどうすればいいのかわからない。ずっと彼女の好みである『真面目で堅実で誠実な人』を目指してやってきた哲士は、次に何に擬態すればいいのかわからない。
素の自分になるという選択肢はなかった。素顔の自分など大嫌いだ。消えてしまえばいい。
だから哲士は走るしかなかった。起こるはずのない奇跡を信じたふりをして、夜明けの街を走った。