神さまの手のひら1
香代子は結局、十日ほど実家に戻り、療養した。
由貴也の部屋で一晩過ごした後、香代子は実家の母親に電話ですべてを打ち明けた。それは由貴也が制裁を加えたことによって、父親が母親の元にいく心配がなくなったというのもあるし、事態はもうとうに自分の手に余っていたと思ったからだ。
電話を切った途端、すぐに義父の車に乗って母がふっとんできて、そのまま実家に半ば拉致のような形で連れていかれた。あの気丈な母親が帰りの車内でずっと香代子を抱きしめて号泣していたことに胸が痛くてしょうがなかった。「ごめんね、香代子。ごめんね」と母は何度も何度も謝っていた。
思春期の弟たちには香代子は階段から落ちて怪我をしたから実家で静養する、という説明だけされたけれど、彼らは香代子を心配した上で、歓迎した。彼らの気遣いぶりといったら、それこそ香代子が指一本動かさなくてもいいほどで、言われる前に食事が出てきて、布団が敷かれてと、至れり尽くせりだった。
そうこうしている内に、母親は香代子が住む新しいアパートを準備した。前のところだって大学生が住む平均的な物件だったけれど、今度のアパートはセキュリティ万全だ。監視カメラに管理人がいるフロントなど、母親が探しに探して選んだ部屋なのだ。
そういった防犯システムが充実しているのもありがたかったけれど、香代子がもっとうれしかったのは、由貴也のマンションに近くなったことだ。学校とバイト先は少し遠くなってしまったけれど、由貴也のマンションのそばというのは安心する。
そのアパートに引っ越しを済ませ、少し時期のずれた帰省を終わらせた時、暦は九月を迎えていた。
引っ越しの片づけを終え、香代子はすぐさまバイト先のガソリンスタンドに向かった。香代子は怪我をし、しばらく心身ともに弱って動けなくなってしまい、バイトに行けなかった。回復してから無断欠勤してしまったことを謝りに行こうとしたけれど、結果的にその必要はなくなった。由貴也が同じバイト先の哲士に話を通しておいてくれたからだ。「マネージャーは怪我してバイト出れなそうだから、部長の方から言っておいてください」と、哲士が疑問を挟む余地もなく、一方的に電話をかけて切ったそうだ。けれど、おかげで香代子はバイトを失わずに済んだ。バイト先には父親から金銭を求められた時に、給与の前借りをしている。その上で無断欠勤するとう最低なことをしていなくてほっとした。
とはいえ、急に長い休みをとってバイト先にも哲士にも迷惑をかけたことには違いないので、香代子はちょっとした菓子折りを持って謝りに行くことにしたのだ。
邪魔にならないようにお客さんの少ない時を見計らって休憩室に行こうと思ったら、ちょうどシフトには入っているけれど、接客中ではなかった哲士が駆けよって来た。
「マネージャー! 怪我はっ!?」
なるべくそっと休憩室に行こうと思ったのに、香代子を対象とした探査機がついているのではないかというくらいすばやい哲士の反応だった。いつも落ち着いている哲士にはめずらしく、血相を変えて尋ねてくるので、香代子はびっくりして目をまたたかせてしまった。
哲士に詰め寄るように両肩をつかまれて固まっていると、先に哲士の方が我に帰った。はっとした様子で「ごめん」と言って香代子の肩から手を外す。
「ごめん。階段から落ちたって聞いたから、大怪我したんじゃないかと思って……携帯も通じないし、アパートにも不在だったから……」
目をそらしてしどろもどろで話す哲士に、彼が本気で香代子を心配してくれていたとわかった。きっと何度も携帯に電話をかけてくれたのだろうし、香代子のアパートにまで地区インカレが近くて忙しい中、足を運んでくれたのだ。
自分を気遣ってくれるという相手がいることは、何て幸せなことだろう。香代子は幸福を噛み締めるように薄く笑った。
「ありがとう、部長。いろいろ迷惑かけてごめんね。バイトのシフトの調整してくれて、本当に助かった」
香代子が改めてお礼と謝罪をすると、哲士が体が前進しそうな勢いで「それで、怪我の具合は?」と聞いてきた。
「もうすっかりいいよ。バイトにも部活にも復帰するから」
香代子の答えに、哲士は心底安堵したようで、表情から強ばりが抜けた。
ちょうどその時、スタンドに一台の軽自動車が入ってくる。
「でも、くれぐれも無理はしないように」
部長らしいというか、哲士らしいというか、そんな一言を残して、哲士は入ってきた車を誘導するために香代子から離れていく。その青いつなぎ姿の背中を見ながら、本当に哲士の存在はありがたいなあ、としみじみと感じていた。
香代子が休憩中の店長に詫びて、前借り分の賃金を返すべく、今月分のシフトを入れまくり、ガソリンスタンドを後にする頃にはもう哲士の姿はなかった。哲士はこの夏、シフトを大幅に減らして練習に励んでいる。今日ももう勤務から上がったのだろう。
そう思いながら帰ろうとすると、「ちょっと待ちなさいよ、アンタァ!」と背後から声をかけられた。腹の底から出ているドスのきいた声音に、香代子はいやな予感を抱きながら振り返る。そこにいたのはトップを不自然に盛り立てた栗色のパーマが特徴の、哲士ファンクラブ会長、パートの藤井さんだった。
「ふ、藤井さん……」
香代子がどもりながら答えると、「アンタ、怪我はどうなのよ」とつっけんどんな口調で聞かれる。
「おかげさまですっかりよくなりました。パートの皆さんにもご迷惑を……」
「そんなことはいいのよ、別に!」
そうですか、と言う暇もなく、「そんなことよりねえ、アンタ哲士くんにお礼は言ったのっ!?」と唾を飛ばされそうな勢いで言われる。
どこまでも喧嘩腰な藤井さんに、香代子はじゃっかん身を引きつつ「はい、先ほど」と答える。哲士ファンクラブの面々から香代子は風当たりがきついのだ。
藤井さんのパープルのアイシャドウが施された瞳の目力といったらなかった。眉間にシワを寄せ、「これはアンタにも知っておいてもらわないといけないわね」と意を決したように息をつく。
何だ何だ、と思いつつ、さすがの香代子もこの場から脱したくなった。二十年生きているだけの香代子に、『おばさん』と呼ばれて久しい彼女――いや、彼女たちに対抗するすべはない。いつの間にか、哲士ファンクラブの軍勢は三人に増えていた。三者三様な香水のにおいを撒き散らしながら、腕を組んで香代子につめよる彼女たちに、スタンドの業務はどうなっているのかと問いたい。ちなみに今は彼女たちのシフト中である。
「藤井さん。車が店に入ってきてます」
「そんなもんは店長にやらせとけばいいのよ!」
藤井さんはまったく悪びれず、むしろ赤いつなぎの胸を張って答える。おたおたと休憩室から出てきた店長に香代子は密かに同情する。
といっても、店長の方に同情のまなざしを向けたのは一瞬だけだった。まもなく香代子も人のことを気にしている場合ではなくなったからだ。三方をパートのおばさんたちに囲まれ、背後は壁。どうしようもない。
「いい? 哲士くんはね。バイトがない日でも毎日顔を出してアンタがここに来たかって聞いてたのよっ。アンタが音信不通になっちゃったから!」
おばさんたちから知らされた哲士の真実に、香代子は目を見開く。香代子の携帯は料金未払いのため、しばらく死んでいたのだ。加えてアパートにも香代子はいなかったので、一番接触できそうなここで哲士は香代子を待っていたのだ。
「んもうっ! アンタが今日も来てないって知った時の哲士くんの様子といったらなかったわよ!」
「そうそう。しょぼーんと肩落としちゃって!」
「くぅっ!! あと二十年若ければワタシがっ!」
「あら、抜けがけはダメよっ!」
あと二十年ではなく、三十年の間違えではと思っていても口には出さないでおく。ありえない仮定のもと、香代子そっちのけでやいのやいのやっているおばさまたちの結論が『抜けがけ禁止』になったところで、香代子を思い出したかのようにこちらを向いた。その瞳には剣呑な光が宿っている。香代子はここから生きて帰れるか心配になった。
「アンタ、哲士くんのことどう思ってるのよ」
「そうよ。アンタみたいなちんちくりんのことを哲士くんが好きだなんて理解できないけど、応えてあげなきゃかわいそうじゃない」
「哲士くんの想いに気づいてないとは言わせないわよ」
サラウンドで思わぬところを責められ、香代子は後ずさる。けれどもう背中は壁についているから、近づいてくるおばさまたちの顔が近くなるだけだ。
「ぶちょ……緒方くんのことはいい同級生でチームメイトだと思ってます」
香代子がそういうと、おばさまたちは「んまぁぁぁああっ!」と顔をひきつらせ、悲鳴じみた声をあげた。
「『いい同級生でチームメイト』って、アンタそれだけなのっ!?」
「私たちはねぇ、そんなつまらない言葉を聞きたいわけじゃないわよ!」
「私たちが聞いてあげるから、ここではっきりさせなさいよ!」
いよいよ進退極まった香代子はおばさまたちの荒い鼻息から逃れるために顔を背ける。と、向けた視線の先にいた人物に、香代子は凍りついた。
音がしそうなほどにぎこちなく、香代子は首を回して元の位置に顔を戻す。
「藤井さん」
「何よ?」
「そこに」
「あぁっ!?」
「部長が……」
残暑厳しい九月の外気は、香代子とおばさまたちのまわりだけ真冬よりも寒くなった。香代子の視線の先で哲士が無表情で立っていたからだ。
哲士はおばさまたちの驚愕の視線を受け止めると、いつも通りおだやかにやわらかく微笑む。そこに棘や毒は一切なかった。
「て、哲……おおお緒方くん、どうして……」
「忘れものをとりに来ました」
この上なく滝のような汗を流して動揺するおばさまたちとは対照的に、哲士は落ち着き払っていた。
「もう帰りますから……マネージャーも」
――怒って、立ち去ってもいい場面なのに、何でこの人はこんな時にまで、私に助け船を出すんだろう。
「……すみません、失礼します」
哲士の助け船に乗っかって、おばさまたちの包囲網から香代子は抜ける。
「行こう」
哲士にうながされて、足を進める。最後に哲士が「藤井さん。他のお二人も……俺のこといろいろ気遣ってくれてありがとうございます」と丁寧に言い置く。おばさまたちの目には瞬時に並々と涙が溢れた。
おばさまたちではなくとも、これは目頭が熱くなりそうだ。哲士はどこまで他人を気遣えば気が済むのだろう。
香代子は唇を噛んだ。前を歩く哲士の背中をじっと見る。香代子を心配して、毎日バイト先に通いつめていた哲士。今日、香代子の顔を見た途端に飛んできた哲士。パートのおばさまたちにもわかるくらいだ。哲士はいまだに自分のことを好いてくれているのだ。
香代子は言うべき言葉を探して、胸の中を探った。ごめんね、というのもはばかられる。
「……部長。いったい何忘れたの?」
とにかく沈黙がどうにも気まずくて、香代子は忘れものをして戻ってきたという哲士に尋ねてみる。哲士は答えずにしばらく前を歩いていた。真昼の陽炎がアスファルトから立ち上って揺れる。側にある市民プールからは塩素のにおいと子供たちの遊ぶ声が響いた。
「……忘れ物なんかなくて」
え、と聞き返した香代子の声は、哲士の次の言葉と重なる。
「マネージャーにいろいろ聞きたくて戻ってきただけだから。何だかちょっと痩せたし……怪我は本当に大丈夫なのか、とか思って」
ずっと前を行っていた哲士が足を止め、香代子に半身だけで向き直る。逆光のもとで半分だけあらわになった顔は、風のない日のようなとても静かな表情をしていた。
「怪我してた時、古賀といた?」
哲士に問われ、香代子は反射的に顔を上げる。それがもう問いかけへの答えと言ってもよかった。香代子は再び視線を地面に下ろす。自分と哲士、ふたつの影が伸びていた。
「ごめん。自分でバイトのこととか連絡しなくて」
いくら怪我をしてそれどころではなくても、バイトとは何の関係もない由貴也に欠勤の連絡をさせてしまったというのがだらしのない。そこまで思って、そうではなくて、と思う。そうではなくて、哲士は今のを聞いてどう思っただろう。
けれども、次の哲士の反応は香代子が考えていたどの予想とも違った。
「よかった」
ほっとした表情で言うその言葉に皮肉の色はなくて、哲士が心の底から言っているのがわかった。
「マネージャーひとり暮らしだからどうしてんのかと思ってたんだよ。誰かいてくれたんなら安心だな。ひとりだったら本当に無理してそうで――」
哲士が屈託なく話すので、香代子は安堵して聞いていた。哲士の顔に男としての色はなかったからだ。
そしてその安堵こそが香代子の哲士への思いの答えなのだろう。勝手だとわかっていても、哲士と今のままでいたい。
哲士は何事もなかったように香代子が休んでいた間のバイトのことや、部活のことを話す。いくら香代子が探っても、その表情の裏を見つけられなかった。いまだに哲士の視線に含まれる色が友情だと信じたい自分がいる。
「俺はこれから学校行って練習するから」
大学と香代子の前のアパートに続く道の分岐点で哲士が言う。彼には引っ越したと言っていないことに気づいた。
「マネージャー。俺のせいでいろいろ言われてごめん」
引っ越したと申告する前にそう言われ、香代子は滞りなく流れていた思考が止まる。どこかで哲士がパートのおばさまたちとのやりとりを聞いていなければいいと思っていた。けれどこの一言で哲士は“謝らなければいけない”ということがわかるほどには香代子たちの会話を聞いていたことがわかった。
ううんといえばいいのか、うんと言えばいいのかわからない。返事ができなかった。
香代子の困惑をよそに、哲士はこちらに視線をそそぎ続ける。
「俺が今すべきことは地区インカレに向けて全力を尽くすことだと思う」
だから、と言う。
「マネージャーが困ることは言わないし、しないから」
哲士の意を、香代子は正しく理解したつもりだった。恋愛よりも陸上を今は優先すると哲士は言ったのだ。
彼が自分の想いを突き詰めて、行動を起こさないことに、どこまでも安堵の念を覚えてしまう。それに、地区インカレに向けて全力を尽くすということならば、香代子の応援できることだ。
「……私、何でもするよ。マッサージでも特製ドリンク作りでもどんどんやるから」
任せて、と胸を叩くと、哲士は無言で笑ってうなずく。哲士がその笑顔と、引き結んだ口のうちに隠した心の内を、ついに香代子は理解することができなかった。
哲士と別れて、自分の新しいアパートに帰る途中で、赤い夕日を背負ってゆらゆらと向こうから歩いてくる人物が見えた。まさかとは思ったけれど、由貴也だった。
「由貴也。どうしたの?」
目的もなく歩いてそうな由貴也に声をかけると、まじまじと香代子を見た後で由貴也は、「ああ、いた」と間の抜けた声を上げた。
「『ああ、いた』って、私のこと探しにきたの?」
香代子の問いかけに、由貴也はこっくりと深くうなずく。
「だってアンタの新しい部屋入れないから」
理由を付け加えた由貴也にああ、と納得する。香代子の部屋の鍵は引っ越しに伴って複雑な作りになった。ピッキングがお得意の由貴也といえども、さすがに開けられなくなったのだろう。とはいっても、部屋には入れないといっても、うろうろと香代子が行った先も知らず、探しには来ない気がする。
やっぱり変人な由貴也に「帰ろ」と言うと、また首がもげそうな感じでうなずいて、香代子について来た。今はこうして香代子の後ろを追ってくる由貴也だけれども、本当に父親の一件では助けられたなあ、としみじみ思う。おかげで香代子は心身が回復したのみならず、バイトも失わなくて済んだ。
振り返って由貴也が着いてくることを確認する。赤く透けるその髪を見ながら、部屋に帰ったら由貴也に部屋の鍵のスペアをあげよう、と思った。