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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
105/127

幕間

 香代子は冷や汗を垂らしていた。

 香代子のアパートで父親と対峙したのは一時間半ほど前。今の時刻は草木も眠る丑三つ刻。裸足で由貴也のマンションを出ていった香代子は、当然のように由貴也におぶわれて彼の部屋に帰ってきていた。

 浴室からは部屋の主である由貴也がシャワーを浴びる音が響いている。その音を聞きながら香代子はどうしよう、とひたすら困惑していた。

 自失状態だったこの一週間、当然のように由貴也の部屋にいたけれども、彼は毎夜香代子のアパートの方で父親を待っていていなかったし、香代子の部屋に入り浸っていた時だって、由貴也は夜には自分のマンションに帰っていた。だから一晩一緒に過ごすことはなかったのだ。

 それが今現在、香代子は由貴也の部屋で一晩明かそうとしている。夜、異性の部屋でともに休むことに抵抗を感じない香代子ではない。

 どうしよう、と落ち着かなく視線をあっちこっちに移動させていると、洗面所のドアが開く音がして、の由貴也が姿を現した。

 タオルで乱雑にふいている髪から水がしたたり、体から発する熱気は言い様のない色気となっている由貴也である。香代子は濡れそぼって長さを増した髪の間から由貴也に視線を向けられ、ぎゃー、と胸の中で叫んで、思わず後ずさった。

「どうしたの」

 そんな自分の妖しい姿態にはまったく気づいていない由貴也はどこか無邪気に首を傾げる。その幼い仕草と、息苦しくなるほどの色香とのギャップが由貴也からますます目を離せなくしている。

「……何でもない」

 やっとのことで香代子はそう答え、うつむく。いつもはそのゆるく波打つ茶色の髪が、由貴也の整った造作に良くも悪くもベールをかけているのだけれど、その髪が濡れると、彼の美貌はむき出しになる。それは普段、由貴也の顔を見慣れていて免疫のある香代子にとってすら凶器になった。

 考えずにはいられない。こんな綺麗な人に添い寝されたり、抱きしめられたり、心配してもらったりしたのかと。

 考えた瞬間、顔に熱が集まってきて、盛大に赤面した。

「あの……今日はその……私の部屋の方に帰らせてもらいたいんだけど……」

 夜明けの早い夏とはいえ、朝まではまだ長い。たとえ由貴也が湯上がりでなくとも平静に過ごせる自信がない香代子は口ごもりながらも控えめにそう切り出した。その香代子を「何言ってんの」と由貴也はまったく相手にしない。

「アンタの靴ないけど、どうやって帰るの。今度こそ足の裏切るよ」

「う、それは……」

 香代子は言葉につまり、気まずさをごまかすためにずり落ちてきたTシャツの襟を直す。由貴也から必要なものを買うようにとクレジットカードを渡されても、香代子は最低限の下着類ぐらいしか買わなかった。その他はわざわざ買うまでもなく由貴也に借りているのだけれど、これがまたゆるいのだ。見た目は細身の由貴也でも、運動選手だけあってある程度がっしりとした肉体を持っているらしい。由貴也のTシャツを香代子が着ると、気を抜くとずり落ちて肩が見えそうになる。

 由貴也の前でこんな姿をさらしているのも落ち着かない。どこかに隠れたい。

 この部屋に留まることに納得したとは言いがたい表情の香代子に、由貴也は「それとも何」と言葉を継ぐ。

「俺がアンタの嫌がることすると思ってんの」

「そ、そうじゃないけど……」

 察してよ、もうっ、と八つ当たりじみた悪態を胸の中で由貴也にぶつけながら、香代子は黙りこんだ。

 由貴也が父親のように香代子を好き勝手扱うとは思わない。思わないけれど、一緒にいられない。由貴也を異性だとはっきりと意識してしまったからだ。だからこうしてふたりっきりでいてもそわそわしてしまうのだ。

 頼りにならない、それどころか香代子が守ってあげなければと思っていた由貴也は、弟などではなかった。逆に香代子を守ってくれた“男”だった。

 今までだって、由貴也が異性だということは十二分にわかっていたし、由貴也をそういう対象として好きだというのも自覚していた。

 けれど、今回のことで由貴也は単なる認識だけでなく、実感として男だというのを香代子に知らしめた。そして、恋愛感情を飛び越えて、家族に対するような親愛を由貴也に向けていた香代子の感情を変化させてしまった。

 何で私、この人のことを弟と同列に見ていたんだろう。

 こっそり由貴也の様子をうかがいながら、香代子は思う。まともに由貴也の顔が見られない。奥手な香代子に、恋愛対象と上手く接せられるほどのスキルはない。

 ここは自分のテリトリーではないのが余計に香代子を緊張させる。部屋の隅で息を潜めるようにして生息している香代子に、由貴也が息をついた。

「アンタは明日から元気になるんでしょ」

 香代子の部屋で抱き合う前に言った台詞を取り上げられ、わけもわからないままに「うん」と答える。自分は確かにそう言ったのだけれど、それが今の状態とどう結びつくのかわからない。

 由貴也の言いたいことがわからない香代子に、彼がさらに言葉を足す。

「だったら、明日になる前に甘えたらいいんじゃないの」

 何でもないことのように言って、由貴也がラグの上に座って髪をふきはじめた。表情ひとつ変えない由貴也を前に、頭の中で由貴也の今の台詞をリフレインさせて驚き、次いで意を決することにした。

 香代子は誰かに甘えたことがあまりなかった。だからこそ父親という自分よりも大きくて頼りがいのありそうな存在にいけないと思いつつも強く惹かれ、今回のような事態になったのだ。だから同じことを繰り返さないために、今は誰かに少し甘えてみることから始めてみることにする。

 由貴也の隣に体育座りで腰を下ろし、ひかえめにそっと体を倒す。由貴也の肩に香代子の頭をつける。石鹸のいいにおいがした。

 由貴也は甘え上手だと、改めて思う。まったくためらいなく抱きついてきたり、膝枕をしてもらっていたりする。香代子にとってはこれが精一杯だというのに。

 と思ったら、由貴也の腕が香代子のお腹に回り、抱き寄せられる。一瞬前までささやかに触れていた由貴也と香代子だったけれど、今は由貴也の胸板に背中を預けている形になる。

 心臓が破裂しそうになる香代子とは対照的に、由貴也はその姿勢のままテレビをつけて平然と見始めた。

 深夜のテレビ放送は明るすぎる上、けっこうコアな内容のバラエティか、世界の紀行番組しかやっていなかった。『世界の夢グルメ 焼菓子の歴史を辿る』の方で由貴也のチャンネルを変える手が止まり、それを視聴し始める。

 番組の内容などまったく耳に入らない香代子は、必死に暴れる心臓の鼓動をなだめる。由貴也と密着して、硬直していた香代子の体は、落ち着け落ち着けと念じている甲斐あって強ばりが抜けてきた。緊張が解けてくると、やがて由貴也がそこにいるという意識だけが強くなる。他の誰でもない、由貴也がここにいるというのはとてつもない安心をもたらした。

 何だか居心地がいいという言葉の意味を知った気がした。向こうが受け入れてくれるという確信があり、自分も心を開いている。

 ずっとこうしていたい。そう思うやいなや、ずっと心の重石になっていた父親のことが一応の解決をみたという安堵も相まって、香代子は重くなってきたまぶたに逆らうことができなかった。

 晴れた日の波のように、おだやかに香代子の意識は眠りの中にさらわれていった。








 

『世界の夢グルメ 焼菓子の歴史を辿る』がエンドロールを迎えた頃、香代子は由貴也の膝の上で眠っていた。

 由貴也はリモコンでテレビを消し、改めて香代子に視線を落とす。片手で香代子を抱き締めているうちに眠ってしまった彼女は、ずるずると体を滑らせ、今の位置になったわけである。

 うわぁ熟睡、と由貴也は香代子を見下ろす。彼女が見にまとっている由貴也のTシャツは大きすぎ、襟から胸元が見えそうになっている。なかなか豊かなバストだな、と由貴也は冷静に分析する。

 手を出さないといった手前、どうこうしないが、あまりに無防備な寝姿だった。

 不埒な考えをとりあえず横に置き、由貴也は頑なな香代子の性格に思いをめぐらす。また何かトラブルを隠されて、怪我をされては困るので、由貴也は甘える一方だった姿勢を改め、香代子を自分に甘えさせることにした。

 とはいっても、甘え下手な彼女がひとりでに由貴也にすりよってはこないので、この先、彼女の意識改革には結構な手間暇がかかりそうだ。今夜がその第一歩だったわけだ。

 だいぶあざが薄くなった頬。健康的な腕。由貴也の視界に入るそのふたつにはほどよく肉がついている。香代子は太っているというわけではないが、全体的に肉づきがいいので、抱き心地もいい。その感覚を思い出すと、まあがんばるか、という気にはなる。

 とはいえ、父親との一件でだいぶ痩せてしまったので、彼女を甘えさせるという目標とともに、もとの体型に戻すというのも重要課題であった。

「う……ん……」

 猫のように丸まって寝ていた彼女がかすかな吐息を漏らして寝返りをうつ。姿勢を変えた香代子の顔にかかる髪が透明な音を立ててこぼれ落ちる。それによってあらわになったこみかめを、由貴也は思わずじっと見た。

 この一週間で彼女の体に散るあざというあざは見慣れたはずだったけれど、まだここにもあった。しかも治りかけの黄土色ではなく、まだ紫色であることから、このあざがけっこうひどいものだったと判断する。

 まだ残る香代子の傷に言い知れぬ気持ちになりながら、ひとつ香代子の髪をかき上げるようになでる。

 由貴也は胸の中で前言撤回と誰にともなく宣言する。

 手を出さないはずだったけど、と思いながら、まだあざが痛々しく残る香代子のこみかめに、ひとつ唇を落とした。

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