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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
104/127

鎖9

暴力シーンがあります。閲覧ご注意ください。

 由貴也は暗闇の中で息を潜めていた。

 時刻は真夜中。住人がおらず、荒れた香代子の部屋に由貴也は毎晩通っている。お得意のピッキングでドアを開け、電気もつけずに何時間かそこで過ごす。それがここ一週間の日課だった。

 何日も換気がされず、停滞した空気が漂うこの部屋で、由貴也はキッチンの床に直に座りながら、携帯のゲームをやっていた。携帯のディスプレイの右上に表示された時計は午前零時半。今夜もこの様子だとはずれかもしれない、と画面をタップしながら思った。由貴也の指の動きに合わせて、ブルーのツインテールの女子が画面の中で踊る。

 昼間の練習と連夜ここに赴いているために眠くなってきて、あくびを噛み殺す。その瞬間、アパートの外廊下に足音が響いた。由貴也はすばやく携帯をブラックアウトさせる。

 はずれだと思っていたけれど、当たりかもしれない。由貴也は息がつまりそうなよどんだ闇の中、さらに念入りに気配を消した。

 足音はこの部屋の前で止まる。由貴也は音もなく立ち上がり、玄関の前で待つ。その直後、外からドアが開いた。それと同時に由貴也は開きかけたドアをこじ開け、そこに立っていた人物の胸ぐらをつかんで部屋の中に引き入れた。

「……やっと来てくれた。犯人は現場に帰ってくるってね」

 その人物を床に放り投げ、後ろ手で玄関のドアを閉めた。

 無様にしりもちをつきながら、その人物――香代子の父親は由貴也を呆然と見上げてくる。目を闇に慣らしていた由貴也は苦なく父親を直視する。吹き出物の散らばった顔、肥えた体。加齢が威厳や人間としての深みには繋がらず、むしろ卑称さや意固地さというものを導いたかのように見える男だ。由貴也を見上げる目には混乱と恐れが見てとれた。

 よくこの父親から香代子のような娘が産まれたな、と思いながら、由貴也はただ男を見下ろしていた視線を聘睨という侮蔑を含んだものに変える。この男は、おそらく香代子を階段から落下させたことが怖くなって様子を見にきたのだろう。それこそが由貴也が待ち構えているとも知らず。

 何をしても香代子が元気にならないのなら、元の憂いを取り除くしかないというのが由貴也の考えだった。

「お前、誰だっ! アイツの男か!?」

 唾を飛ばしながら問いかけてくる男に「だったらなんだっていうの」と返す。それから由貴也は「ああ」とわざとらしく合点して見せた。

「俺が香代子の男だったら、アンタをぶっ殺す大義名分があるわけだ」

 由貴也は言い終わるやいなや、立ったまま男の肩を蹴りつけた。後ろに手をついていた男の体が倒れ、床に仰向けになる。その上から由貴也は肩を踏みつけてやった。男がうめくのもお構いなしだ。

 由貴也はケンカは未経験だが、この男相手では何とも他愛のないことだ。曲がりなりにも自分は体を鍛えているし、グラウンドで百分の一秒を争う由貴也にとって、こんなたるんだ体を持つ中年の男の動きなど、のろくてしょうがない。

 由貴也は淡々となすべきことを遂行する。由貴也にとっては父親だとか、相手が娘だとかいう倫理観、道徳観はそう問題にならなかったものの、この男が合意なく香代子に手を出す気にならないようにしなくてはならない。そのためにはどうするべきかと考える。

 数秒考えた後、一番手取り早い方法をとることにした。由貴也は男の踏みつけていた足を外す。男は一瞬ほっとした顔を見せ、必死に由貴也から逃れようと後ずさる。由貴也はそれをあえて見過ごした。

 男がキッチンの調理台に背をつけ、立ち上がろうとしたところで、由貴也は一気に距離をつめ、足を上げ、股間に一発お見舞いする。これが由貴也の考えついた“手取り早い方法”だった。

「うっ……ぐぅ、ううぅ!」

 床の上で、男がよだれを垂らしながらのたうち回る。ああ痛そうと由貴也は冷静に眺めた。

 使い物にならないように完全に潰そうと思ったのに、惜しむらくは少し外してしまったことだ。転げ回る男を見ながら由貴也はもう一発放つ機会をうかがっていた。

 男がよだれと涙で床の上に軌跡を描きながら絶え間なく移動している。そのため、次の機会がなかなか到来しない。由貴也は狙いやすくなるまで待つことにした。

「て、めぇ。俺はっ……香代子の父親だぞ!」

 しばらくたってやっとしゃべれるようになった男が、床にうつ伏せに這いつくばり、股間を押さえながら由貴也を見上げる。壁に寄りかかって腕を組んでいた由貴也は「そうだね」と答える。

「娘を殴って叩いて襲って、階段から突き落とす父親だね」

 都合のいい時だけ父親という立場を行使する男に、痛烈に皮肉ってやる。男はうめくように「違、う……っ」と涙の膜が張った目を向けていた。

「突き落とし、たんじゃない……あれは、あれはっ、勝手に香代子が――」

「アンタが突き落としたかどうかなんて俺にはどうでもいい」

 父親の言葉を遮り、由貴也はおもむろに男の顔のそばにしゃがみこんだ。男の体がびくりと大きく震える。

 一拍の静寂。男の恐怖を増長させるかのような静けさだった。

「俺がアンタをぶっ殺すっていう今後の展開に変わりはないから」

 あえて優しく男の耳元でささやくと、とたんに震えて硬直し始めた。

 由貴也は男に見せつけるかのように緩慢な動きで立ち上がり、亀のように手足と背を丸める男の下につま先を差し入れる。そのままテコの原理で男の体をひっくり返した。男のかすかな抵抗もむなしく、仰向けに転がる。

「止めっ、止めてくれ! 助けてくれっ」

 二発目を放とうと、男の中心部めがけて足を上げる。

「俺をっ、俺を痛めつけたら香代子が悲しむぞっ。俺はただひとりの香代子の父親なんだからな!」

 男の苦しまぎれの言葉に、由貴也は足を止める。その隙を見て、男はさらにまくし立てた。

「アイツは母親の再婚相手の男とは上手くいってないからな。父親を欲しがってんだよ」

 なあ、と男が由貴也にとりすがる。

「香代子は再会した俺がやったチョコの菓子をうれしそうに受け取ったぜ。その香代子から父親を奪うのかよ」

 必死の男の話に、由貴也は一考した。香代子に元気になってもらうには、原因となっている父親を取り除くべしと思ったのだが、それに際して肝心な彼女自身の意見を聞いていなかった。聞くまでもないと思っていたからだ。

 由貴也は男を見下ろしながら、「じゃあ、聞いてみようか」と言ってみる。

「香代子にアンタが必要かどうか」

 ポケットから携帯を取り出した由貴也に、男は青くなった。どうやら先ほどの香代子の父親うんぬんは彼自身詭弁だとわかっていたらしい。百害あって一利なしそうなこの父親を、たとえ菩薩のような心の持ち主でも必要だとは言わないだろう。

 男の動揺を無視し、香代子の携帯にかけると、ほどなく彼女が出た。『由貴也、どうしたの? 今どこにいるの?』と聞いてきた。

「アンタの部屋にいて、アンタの父親が目の前にいる。何か、ロクなことしなそうだから、この辺でぶっ殺しとこうと思うんだけど、アンタはどう思う?」

 一息に言うと、通話口の向こう側の香代子が絶句しているのがわかった。

『何……言ってるの? 私の父親って――』

 香代子の言葉半ばで由貴也は携帯を手放す。重力に従い落下していく携帯を見ずに男に視線を向けて、「まあ」とつぶやく。

「香代子がどう言おうと関係ないけどね」

 逃げようとする父親の退路を塞ぐように、足で壁を蹴る。

「俺がアンタをぶっ殺したいからぶっ殺すだけだ」

 無表情な顔の中、瞳の奥に冷たい怒りを宿して、由貴也は男に手を伸ばした。

「悪かった! 俺が悪かったっ。金も返すから、殺さないでくれぇっ!!」

「何? 金も借りてたの」

 初耳の事実に、場違いなほどのんきにつぶやいて、余分に自分はこの男に制裁を与えないといけないのだと認識を新たにした。

「じゃあ、まずは階段から落ちようか」

 ご飯食べようか、と同じレベルの気楽さで由貴也は男に言い、その襟をつかんで立ち上がらせ、階段まで引きずっていこうとする。男は手足をばたつかせて暴れた。

「頼むっ。何でもするから。香代子にもう何もしないから、助けてくれ!」

 何でもする、という男の言葉に、「そう」と由貴也は反応した。次いで男から手を放す。男は気が抜けたのか、その場にへたりこんだ。

「その場から動かないで」

 由貴也の突然の指示に、男は「えっ?」と間の抜けた声でつぶやく。その男に「何でもするって言ったじゃん」と言いながら、調理台の上の包丁立てから一本抜く。キッチンの出窓から差し込んだ外灯の光が、不穏げにその刃を青光りさせた。

「な、何を……」

 ひたすら目を白黒させてとまどう男に、「何って、これでぶっ殺すんだよ。冗談だと思った?」と言ってやる。恐怖の限界値を超えたのか、男の顔が恐怖にひきつったっきり動かなくなった。

 なでるように男の喉に手を滑らせ、次の瞬間、由貴也は男の首をつかみ、壁に押しつけた。男が声にならない悲鳴を上げる。由貴也は包丁の反射光を顔に浴びながら、にっこりと微笑む。

「俺、腕力ないから、一撃で死ななかったらごめんね」

 誠意の欠片もないおざなりな謝罪を口にして、由貴也は包丁を握り直し、手を振り上げる。そして、硬直して瞳孔を開く男へと刃先を振り下ろす――。

「止めてー!!」

 刃の怜悧な輝きを瞳に映す由貴也と、その獲物と化した父親の現実離れした光景に割り込んだのは、あるひとつの声だった。







 枕元で携帯が震える音で香代子は目を覚ます。

 どこまでも暗い部屋に着信のバイブレーションが響く。息が詰まりそうな闇の中、体を起こした。

 ソファーで寝ていたはずなのに、またベットに戻っている。この部屋の主である由貴也の方にベットを使う権利があると香代子は毎夜ソファーで眠りにつくのに、朝にはいつもベットにいるのだった。

 香代子はソファーの方に目を向ける。けれども、空っぽだった。多少闇に慣れてきた目で室内を見回すけれど、由貴也の姿はなかった。

 まさか、と震え続ける携帯を手に取る。二つ折りの筐体を開くと、画面には『着信 古賀 由貴也』と表示された。あわてて通話ボタンを押す。

「由貴也、どうしたの? 今どこにいるの?」

 こんな真夜中にどこに出かけているのか、と心配になって、由貴也の応答の声も聞かずに尋ねた。

『アンタの部屋にいて、アンタの父親が目の前にいる。何か、ロクなことしなそうだから、この辺でぶっ殺しとこうと思うんだけど、アンタはどう思う?』

 由貴也があまりにも淡々と普通通りの平坦な声で話すので、香代子は事態がすぐには飲み込めなかった。

「何……言ってるの? 私の父親ってどういうこと?」

 言葉尻が通話口から漏れる雑音に遮られた。由貴也側で生じる音は歪んで聞こえたけれど、携帯が彼の耳の側にないのはわかる。

「由貴也!? もしもしっ?」

 応答はない。由貴也の携帯は通話口がふさがれているのか、向こうの音もよく聞こえない。香代子は呆然と自分の耳から携帯を下ろした。

 アンタの父親が目の前に――この辺でぶっ殺しとこうと――。由貴也が言った言葉が頭の中でぐるぐるとめぐる。ただ、自分がこの場でのんきに留まっていてはいけないということは強く感じた。

 布団を跳ね飛ばして、暗い部屋を横切り、玄関へ向かう。三和土にもちろん香代子の靴はない。由貴也の他の靴がどこにあるかもわからなかった。けれど、自分が履けそうな靴を探している猶予などないのだとわかっていた。由貴也は冗談を言う性格ではない。ぶっ殺すと言ったなら、本当にぶっ殺しかねない。香代子は裸足のままで由貴也のマンションを飛び出した。

 夜道を必死に走りながら、ひどい混乱にさいなまれていた。由貴也はどこで香代子の父親のことを知ったのか。何で由貴也が父親と一緒にいるのか。ぶっ殺すとは本気なのか。胸の中で次々と問いを発するけれど、どれひとつとして答えは出ない。けれども、いくら由貴也の言う通り、ロクなことをしない父親でも殺させるわけにはいかない。

 由貴也のマンションから香代子のアパートまでは歩いて五分ほどの距離だ。香代子はその間を全速力で走り、アパートの階段を駆け上がる。由貴也の言った言葉が嘘であればいいと思っていた。だけど、その願いは自分の部屋のドアを一週間ぶりに開けたところで破られる。

 暗いキッチンに、ふたつのシルエット。壁に押し付けられている男は間違えなく自分の父親で、壁に押し付けている男は間違えなく由貴也だった。その手には包丁が握られていて、青い光が由貴也の目には映りこんでいた。こんな時でなければきれいだと見とれていたかもしれない。香代子は無意識のうちに手を伸ばす。

「止めてー!!」

 絶叫しながら、香代子が今にも振り下ろされそうな包丁をつかむ前に、由貴也の手が予想していたかのようにピタッと止まる。香代子の存在を認めた由貴也はすぐに興が削がれたように息をついて包丁を手から離し、流しの中に落とす。けれども、父の首を戒める手は離さない。

 由貴也は緊迫した空気に似合わないおっとりとした動きで、顔をこちらに向けた。

「何でさ。アンタの父親だか何だか知らないけど、この男は生かしておけばまたロクでもないことするでしょ」

 香代子の登場にまったく驚いていない由貴也は、まるで香代子がずっとそこにいたかのような自然さと落ち着きで話しかけてきた。

「まあいいけどね。その気になればこの手で首絞めて殺すよ」

「由貴也!」

 物騒極まりない発言に、香代子は慌てふためいて由貴也の手を父親から外させようとする。けれども、由貴也はさらに腕に力を込めた。ぎりぎりと父親の首が嫌な音を立てる。由貴也の目に宿る光がさらに強まる。

 闇の中で不穏に光る一対の瞳にあったのは怒りだった。由貴也は怒っている。この上なく。

「由貴也、止めてっ。離して!」

「嫌だね」

「由貴也っ!」

 香代子が悲鳴に近い懇願をすると、由貴也はしぶしぶといった様子で腕を放す。父はその場でくずおれ、咳き込んだ。その姿をなおも由貴也はそれだけで射殺せそうなほどの冷たい瞳で見ているので、由貴也を押しとどめながら「咳き込んでないで早く出て行って!」と父親の方を急かす。父親はつんのめりながらも立ち上がる。

「待って」

 そのまま脱兎のごとく部屋から出て行こうとする父親を、香代子は呼び止めた。父は涙と鼻水とよだれでひどい有様になっている顔を向ける。その父親に向かって香代子は言い放った。

「もう二度とここには来ないで。私や、母さんや弟たちに関わらないで」

「それだけでいいの」

 背後で冷気を出していた由貴也が、またもや剣呑な雰囲気と口を出す。

「俺はこんな男、今でも殺してやった方がいいと思ってるけど」

 シャレにならない由貴也のセリフに、父親は這う体で転びそうになりながら逃げ出した。背中に感じる由貴也の気配に気をつけながら、父を逃がす。落ち着きのない足音が外階段を下りて行った。

 香代子はほっと息をつく。父親は去った。次はこっちだ。

「由貴也! アンタ何やってんのよっ!!」

 由貴也に向き直って、その服をつかんで揺すった。由貴也は先ほどまでの鋭い気配が嘘のように気が抜けた表情で、香代子が由貴也の体を揺さぶるたびにこだわりなく自分の体を揺すっている。

「暴力振るったら大会出場停止になっちゃうのわかってんのっ!? 運動選手なんだから、もっと自覚を持ってよ!」

 暴力というより、殺人未遂に違いないけれど、心の平穏のため、そこは突っ込まないでおく。

 香代子の怒りをよそに、由貴也はこちらを凝視していた。

「……なった」

「えっ?」

 由貴也が何かぼそぼそとつぶやく。香代子は聞き取れなくて由貴也の服をつかんだまま聞き返す。

「やっと元気になった」

 思いもよらない言葉を向けられて、香代子は驚いてとっさに言葉が出なかった。心配させていた。心配してくれていた。きっとずっと、この一週間。そう思ったら、次々と自分が無気力に過ごしていた間のことを思い出した。毎日由貴也が食事を買ってきて、食べさせ、寝させ、ずっとそばにいてくれた。怪我の手当てをしてくれた。台風の中、香代子を拾いに来てくれた。不器用になぐさめてくれた。助けてくれた。ひどいことをした父親に怒ってくれた。こうして今、かすかにうれしそうな表情で、元気になった香代子を喜んでくれた。

 全然頼りにならないと思っていたのに、由貴也は充分すぎることをしてくれた。この一週間、本当に大事にしてくれた。そのひとつひとつが胸が痛くなるほどに優しくて、うれしくて、あふれそうになる感情が涙になる。やっとこの一週間、止まっていた感情が戻ってきた。

「何で泣くの」

 顔を覆って本格的に泣き始めた香代子を前に、由貴也は少し困惑した様子を見せていた。香代子は涙を拭きながら首を振る。

「ちがっ、違くて。う……うれしくて」

 次々と頬を伝う涙を止めたくても、止められない。どうしようもなくてしゃくり上げる。

 しばらく向かい合ったまま泣いていると、唐突に由貴也が香代子の頭の上に手を置いた。そのまま髪の毛をかき混ぜるようになでられる。

 その自分よりも大きな手のひらが心地よくて、しばらくその感覚に身を委ねていた。由貴也はこういっては悪いけれど、バカのひとつ覚えのようにかたくなに香代子の頭をなで続ける。由貴也にとって頭をなでるしか、泣いている香代子の慰め方のレパートリーがないのだろう。

 その様子がおかしくて微笑ましくて、香代子は小さく笑いながら口を開く。

「もうあんなことしちゃダメだよ」

 微笑みの形のまま言うと、「あんなことって?」と由貴也が聞いてくる。自覚がないのかと、香代子は薄ら寒くなった。

「人に包丁向けたり、首絞めたり! 犯罪者なんだから、わかってるっ?」

 基本的に香代子は暴力は否定派だ。けれども今回、あの父親に話し合いという方法は通用しなかったのではないかと思う。だから、由貴也がこういう手段に出てくれたことを完全には非難できないけれど、香代子は一瞬前のおだやかな気持ちを吹き飛ばして一応怒鳴る。こう言っておかないと、倫理や道徳観の薄い彼は本当に一線を踏み越えかねない。

 香代子の心中など知らず、由貴也はどこ吹く風で涼しい顔をしている。まったく反省の色はない。それどころか「アンタこそ」と返してきた。

 香代子は由貴也と違って、父親に手を出したこともないし、脅したこともない。由貴也の言う“アンタこそ”の意味がわからなくて、由貴也に問いかけの視線を向けた。由貴也はそれに答える。

「アンタこそ、父親に金せびられたり、殴られたり、階段から落とされたり、襲われたりしても誰にも何も言わないの止めなよ」

 そういう風に言われるとは思っていなかったけれど、彼の言っていることはもっともだったので、「はい」とおとなしく返事をしておいた。誰にも相談しなかったことで、父親の行動はエスカレートしたともいえるし、由貴也はきっとかなりびっくりしただろう。

「……ごめんなさい。次はちゃんと相談します」

 しおらしく謝る。香代子はどうしても由貴也にああいう人物が自分の父親だと知られるのが嫌だったのだ。けれども、彼が父親を見て、香代子を軽蔑するようなことはしないと今はもうわかっている。

 由貴也はそこで押し黙った。口を閉ざすと、夜半のアパートには何の音もしなくなる。その静寂を香代子は身に受けながら、今夜父親がらみのトラブルが終わったことを感じていた。由貴也という危険極まりない存在が香代子のそばにいることを知ったから、父親はおそらくも自分と自分に連なる人たち――母親や弟たちと関わろうとしないだろう。由貴也の剣幕はそれほどにすさまじかった。

 そう思い返していると、不意に由貴也が口を開く。

「――アンタの好物も、怪我を直す方法も、なぐさめ方も何にもわからなくて。でも……」

 でも、ともう一度彼がつぶやいた。

「どうやったら元気になるかずっと考えてた」

 由貴也の朴訥とした告白に、香代子はどんな言葉を返していいかわからなかった。でも、言葉を考える前に体が動く。由貴也が香代子の頭をなでる時と同じように、こわごわと手を伸ばす。彼の着ているTシャツの生地が香代子の腕を擦る。そのままそろそろと腕を由貴也の背中に回して、そっと頭を由貴也の胸につけてみる。香代子は由貴也に抱きついていた。

「……ちゃんと明日からは元気になるから」

 体が重なっているところから伝わる、心地よい体温。明日からは明日からは元気に笑って過ごすから、今夜は泣き顔で許して、と香代子は胸が言いようのない温かいもので詰まって涙をこぼした。

 由貴也の力をこめずに下がっていた手が、香代子の頭を抱き、腰を引き寄せた。ふたりの体がひとつになったように密着する。

 窓から差し込む外灯に照らされ、長い間、ひとつの影が床に落ちていた。やっと夜が終わろうとしていた。

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