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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
103/127

鎖8

 香代子を由貴也の部屋に連れてきてから一週間が経った。

 由貴也はクラブでの練習後、コンビニに寄って、香代子と二人分の昼食と夕飯を買って帰る。散々迷った末、麺類なら食べるかもしれないと冷やし中華にした。

 昼の分と夜の分。ふたつのビニール袋を下げて、マンションに入る。最新のオートロックシステムのついたエントランス、ピッキングのしにくい変わった形の鍵、加えて部屋は最上階。これだけの防犯要素がそろっていても、由貴也は部屋に帰ったら香代子がいないかもしれないと思うことがあった。それは外からの影響でなく、中から――香代子がひとりでに出ていってしまうかもしれないと思うからだ。

 部屋のドアを開ける。ドアノブが回り、ドアの開閉する音が静かな部屋に響く。けれども、キッチンの奥の寝室兼居間からは何の反応もない。由貴也は玄関の鍵を中から閉めて、香代子がいるはずの洋室に向かう。以前は毎日聞いていた香代子の「おかえり」という声が耳の奥に響いたが、それは幻聴に過ぎなかった。

 香代子はベットの上で上半身を起こし、ぼんやりと布団の上においた自分の手を見ていた。由貴也が朝に部屋を出ていった時と同じ体勢だ。

「昼ご飯」

 由貴也は短く言って、香代子の置かれた手のそばに冷やし中華と箸を置いた。そこで初めて香代子は反応を見せる。

「あ、……おかえり」

 気の抜けた言葉。かすかに首を動かして、由貴也を見上げた顔にはまだ頬に紫のあざと腫れがあった。

「……うん」

 複雑な気分になりながら、由貴也は香代子に返事を返す。けれども、それ以上の会話には発展しなかった。

 熱が下がった香代子の体は、ある程度回復しつつある。もちろん、階段から落ちた際に強打した肩はまだ動かせないようだが、それでも何とか身の回りの最低限のことはできるようだ。

 今の香代子の問題は体ではなく、心にあるようだった。彼女は目覚めて以来、物言わぬ人形のようになってしまった。一日中ぼんやりとベットの上で座っている。由貴也が話しかければ、一言二言ぐらいは返すけれど、こっちに向けられたその目は焦点が合っておらず、声も虚ろに響く。それに由貴也が何を買ってきても、あまり食べようとしなかった。

 香代子が普段の彼女だったら、由貴也の部屋に留まらずに、体が動くようになったらすぐ出ていっただろう。由貴也は現にその可能性を考えていた。けれども、今の香代子はその気力すらないようだった。

 案の定、香代子は由貴也が買ってきた冷やし中華もほとんど食べなかった。麺が伸びたそれを由貴也は仕方なく捨てる。記憶にあるかぎり、こうなってしまう前は香代子が出された食事を残すのを見たことはなかった。

 食べるという動作を止め、また動かなくなってしまった香代子を見る。今はめちゃくちゃになってしまったあの部屋にいた頃、彼女はいつも忙しげに動いていた。掃除をして、ご飯をつくって、バイトに行って、大学の課題をして、くるくるとよく動いた。それが今ではその面影すらない。無表情でベットに一日中座っているだけだ。由貴也がいなければ、何日も何日もそのままでいそうだった。

 感情が壊れてしまったように、喜怒哀楽すべてが抜け落ちてしまった香代子。それだけ彼女の心は強いショックを受けたのだろう。父親という人物によって。

 泣きもしないし、怒りもしない。落ちこむというのとも今の彼女は違う。無反応の香代子にどういうアクションをとるべきか由貴也にはわからなかった。

 その翌日。由貴也はまた練習後にコンビニに行って迷った。うどんにそば、お弁当におにぎり、パスタ、サラダ、サンドイッチ。だいたいコンビニのメニューは制覇した。どれひとつとして香代子は満足に食べなかった。アイスにケーキ、プリンにゼリー、ヨーグルトなどのコンビニスイーツも与えてみたけれど、全部冷蔵庫の中に残っている。甘いものではなく、しょっぱいものがいいのかと、スナック菓子にインスタントスープ、おつまみなどの珍味も買ってきたことがあるが、結果は同じだった。

 由貴也は何だったら香代子は食べるのか、と考える。彼女の心の傷が癒えるには時間が必要なのかもしれないが、ウサギの餌ほどしか食事を摂らなければ、先に体の方の限界がきてしまう。

 由貴也はじっと、菓子棚の前できゃあきゃあと騒ぐ女子大生を観察した。香代子と同い歳ぐらいの女子は何を好むのだろう、とその動向を見守る。

 けれども、女子大生たちは、由貴也と目があった瞬間、顔を赤くしてそそくさと出ていってしまった。かろうじて彼女たちの手にあったのが空腹時にさっと食べるようなチョコバーだったとわかったが、それは若い女子の嗜好を通じて、香代子の好きそうなものを探るという点においてまったく役にたたなかった。なぜなら由貴也がここ一週間に買ってきたものの中で、唯一香代子が反応を示したのがチョコバーだったからだ。

 それがチョコバーが好きだという反応ならよかった。それなら由貴也は毎日チョコバーを買ってきて香代子に食べさせた。けれども、香代子が見せたのはチョコバーに対する嫌悪だったのだ。あまり口をきかなくなってしまった香代子が「……これはいい」とはっきり言って、由貴也に返したのだった。

 こうなってしまって初めて知る。自分は香代子の好物も知らない。結局、何も買えないままコンビニを後にする。由貴也はそれから駅に行き、電車に乗った。三駅離れたところに、若い女性を中心に人気を博している和菓子店があるのを思い出したのだ。最近毎日練習でそれどころではないが、由貴也の趣味はスイーツ名店巡りだ。

 午後二時の街は陽炎が立ち、めまいがしそうなほどに暑かったが、由貴也は行列に並んで午後からのできたてわらびもちの販売を待った。夏休み中ということもあって、列も長い。

 クラブのシャワーで汗を流したというのに、すっかり汗まみれになった頃、由貴也はわらびもちを購入することができ、いそいそと帰る。スイーツ名店研究員第一号を自認する由貴也が太鼓判を押すぐらい、ここのわらびもちはおいしかった。

 マンションの部屋に帰って、相変わらずベットの上に座っている香代子に「昼ご飯」といってわらびもちを渡す。香代子は「……あ、ありがとう」と緩慢な動きで受け取った。とりあえず受け取ったものの、開こうとしない。業を煮やした由貴也は、ベットのそばに腰を下ろし、包みを解いた。

 ぷるぷると弾力をもって震えるわらびもちには、きな粉がまんべんなくまぶされている。その上に由貴也はチューブに入った黒蜜をかける。そして竹串を刺した。

 わらびもちのみずみずしさもさることながら、甘くそれでいて上品な味わいのきな粉と、対照的に甘さ控えめの黒蜜が絶妙にマッチして美味であるこの一品なら香代子も食べるに違いないと、後は口に運ぶのみになったわらびもちのトレーを香代子の手の上にのせる。

 由貴也はしばらく香代子を見守っていたが、一向に彼女は動こうとしない。自分が見ているから食べづらいのかと、由貴也はシャワーを浴びることにした。

 由貴也が浴室から髪をふきながら出てきても、香代子はそのままの姿勢を保っていた。虚空を見る目は何もとらえていない。目の前のわらびもちの存在すら失念してそうだ。

 由貴也は髪をふくのもそこそこに、ベット近くの床に座りこむ。手のつけられていないわらびもちのパックをつかんだ。竹串を器用に使い、わらびもちにたっぷりと黒蜜をからめて、香代子の口に運ぶ。

「口、開けて。食べて」

 由貴也がそう言うと、香代子はぼんやりとこちらを見て、言われるがままに薄く口を開いた。その口の中に由貴也はわらびもちを入れる。

 さすがに香代子も舌の上にわらびもちがのってしまっては咀嚼するしかなかったらしい。嚥下する音を聞いて、由貴也は竹串に次のわらびもちを突き刺して、香代子の口に持っていった。

 その繰り返しで、半分くらいわらびもちを消費した頃だった。わらびもちを噛んでいた香代子の動きが唐突に止まる。おもむろに口を抑える。

 どうしたの、と問う前に、ベットを抜け出して香代子が駆けていく。由貴也は遅れてその後についていく。彼女は洗面所で吐いていた。

 自分がいつもされているように、落ち着くまで香代子の背中をさする。口をゆすがせたところで、由貴也は香代子を横向きに抱き上げて、ベットに連れていく。

「……ごめんね。せっかく買ってきたのに」

 マットレスに横たえると、香代子がかすかな声で謝ってくる。由貴也はその体に布団をかけながら「いいよ」と答える。残りのわらびもちは自分のお腹の中に入れて片づけた。

 香代子を寝かせて、由貴也は静かにキッチンに出てきて敗因を考えた。どうやらお腹に納めさせればいいという問題ではないようだ。食べても戻してしまっては意味がない。

 キッチンの床に座りこんで知恵を絞る。無理やり食べさせても、いいことはないかもしれない。だが、少し無理やりにでも食べてもらわないといけない気もする。専門家ではない由貴也にはその辺の判断がつきかねた。

 今まで買ってきたものばかりなのがいけなかったのかもしれないと思い、由貴也は生まれて初めて料理に挑戦してみることにした。こういう時は愛情たっぷりの手作りに限る気がする。

 消化がいいお粥にメニューを決め、米と水を鍋に突っ込んでIHのクッキングヒーターのつまみを回す。昆布やかつおぶし、煮干しなどのダシがとれそうなものを片っぱしから入れてみる。滋養がありそうな卵も割り入れる。これだけでは味が足りなそうなので、この部屋に越してきてからほとんど使ったことのない調味料をとにかく鍋に放り込んだ。最後に砂糖を入れて蓋を閉じた。

 由貴也はその場で待った。ひたすらおとなしく待った。立ちっぱなしでいるのも疲れてきたので、コンロの前で座ることにした。

 火の元から離れてはいけないという有名な教訓を由貴也も知っていたので、キッチンのフローリングの上で体育座りをしながら、ひたすら鍋とクッキングヒーターの接地面を見ていた。ちなみにIHなので火は出ない。なので、そのうち何の変化もない鍋を見続けていると、抑えがたい眠気が込み上げてきて、激しい攻防の後、由貴也はついに睡魔に負けた。

 由貴也が目を覚ましたとき、鍋の中には炭化した何かが出来上がっていた。不幸中の幸いというべきか、最新型のコンロは、火災になる前に加熱するのを止めてくれたようだ。

 到底人間の食べ物ではなくなったそれを、むなしく鍋ごと流しに置き、水につける。部屋には全体的に焦げ臭いにおいが漂っていた。

 手料理を香代子に食べさせようという試みはあえなく失敗に終わり、万策尽きた由貴也は、居間兼寝室に重い足どりで戻る。いろいろしているうちに気がつけば夕方から夜になろうとしていた。

 夏の長い昼は、太陽が地平線に隠れることで終わろうとしている。部屋は蒼い闇が満ちていた。

 フローリングをきしませないように気をつけながら、由貴也は香代子のいるベットに歩み寄る。彼女は静かに眠っていた。

 そばに座って、その寝顔を眺める。呼吸は細く、顔にかかる影は濃く、普段の彼女とは別人のようだ。今にも呼吸が止まりそうで、由貴也を不安にさせる。

 自分でもわからないうちに由貴也は必死になってこの一週間を過ごしていた。体は生きていても、心が虚ろになってしまった香代子を見て、働きアリのようによく動きまわり、時には由貴也を叱ったり、励ましたりする彼女が作る毎日を、どれほど自分がかけがえなく思っていたか知った。香代子の声が聞こえないだけで、由貴也の毎日は火の消えたように静けさばかりが目立つようになった。

 由貴也は日が完全に落ちるまでずっと香代子のやつれてしまった顔を見続けながら、静かに問いかける。どうしたら元気になってくれる、と。

 由貴也の心の中で発した問いかけに、当然答えは返ってこない。けれども、答えを期待して由貴也は長い間そこにたたずんでいた。

 やがて、部屋が重い闇に包まれる頃、由貴也はあきらめ、その場から立ち去る。

 そして、いつものように部屋を出て、夜の闇にまぎれてある場所へ向かった。

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