鎖6
由貴也が香代子を見かけたのは、台風直撃の四日前だった。
クラブでの練習後、疲れはてた由貴也はロッカールームで眠り込んでしまい、気づいたら夜だった。戸締まりのために見回りに来た警備員に起こされ、眠りに半分足を突っ込んだままクラブを後にした。
そのまま歩いて自分のマンションまで帰るのが億劫になり、大通りで流しているタクシーを拾う。クラブからはマンションの方が近いはずなのに、香代子のアパートに帰る時とは違って、足が進まない。香代子は予定では数日前から実家に帰っているはずだった。
タクシーに乗り込み、ぼんやりと夏の夜の外の風景を見る。熱帯夜ながらも、夏の夜をそれなりに楽しんでいる人々が見られた目抜通りから、住宅地へと車は進む。車一台が通れる細い通りには、外灯が夜道を照らすだけで、人影はなかった――ないと思っていた。
車と彼女がすれちがったのは一瞬だった。後部座席から何ともなしに車窓を眺めていた由貴也は、タクシーとすれ違った人間のことを景色の一部として見ていた。けれども、車と人がすれ違うその時に、その“景色”の顔が、見慣れたものであることに気づいた。
そう思ったときには、車と人の距離は離れていた。もう真実を確かめるすべはない。
普通に考えれば、香代子は今、実家の方に帰省中であるはずなので、見間違えである可能性の方が高い。それに、こんな夜更けに出歩く用事があるとは思えない。夏休み中、香代子はガソリンスタンドのバイトを日中に入れているのだ。そして何より、あんな暗い雰囲気をまとっているのが、彼女であるはずがない。香代子はいつも、こちらがあきれるぐらいに元気だ。
そう思うのに、気になる。胸がざわついた。
実際に香代子のアパートを訪ねてみようと思ったのは、台風直撃の日だった。お盆中にも関わらず、由貴也はクラブで練習に励んでいたけれど、大雨でクラブの電力系統がトラブルを起こして停電してしまったのだ。
外のグラウンドは使えないので、中のトレーニングルームでウェイトトレーニングを行っていた由貴也だったが、こうも照明が点かずに暗くては、トレーニングどころではない。結局、その日の練習は中断し、華耀子に車で送ってもらい、自宅へ帰った。
マンションに戻ったその足で、香代子のアパートに行ってみることにした。華耀子にマンションまで送ってもらう際に見えた香代子のアパートの部屋に、電気が灯ってるように見えたのだ。
草木を揺らす強風の中、由貴也は元から傘を差す気もなく、濡れながら歩く。台風のみが街を席巻して、元より静かな住宅街は、ゴーストタウンのように人気がなかった。
上から下まで雨と同化するようにずぶ濡れになった頃、香代子のアパートが見えてくる。二階の香代子の部屋を見上げると、電気はついていないようで、在宅の気配もない。やはり気のせいだったのかと思う。呼び鈴を鳴らしても、お得意のピッキングで部屋に入っても、肝心の部屋の主がいないことには意味がない。人の気配がなく、がらんとした部屋を見るのが嫌で、由貴也は来た道を帰ろうとした。体の方向を変えたところで、足を止めた。目を瞬かせる。地面に打ち捨てられている何かが目に入り、凝視した。
人ぐらいの大きさ――いや、雨に濡れているからよくわからなかったけれども、アスファルトの上に投げ出された手から、それが本物の人間だと判断する。陽だまりの色のような淡い黄色の夏物のパジャマ、乱れてはいるが、肩あたりでそろえられたボブヘアー。さらには、線の細さから女性だと判断する。まさか、と由貴也は自分でも意図しないうちに、その倒れた人間の元へ歩を進めた。
地面に膝をついて、うつぶせに横たわっている人物の肩に手をかける。ずいぶん長い間ここに放置されていたのか、触れたとこから伝わってくる体温というものを感じない。由貴也はとりあえず、それが誰だかを確かめるべく、その人物の体を仰向けにひっくり返した。顔にかかる濡れそぼった髪を払う。
その瞬間、雨が一層強まった気がした。固く閉ざされた目蓋。いつもはふっくらとしている頬は少し痩けているように見えた。そして何より、逆側の頬は赤黒く腫れて、普段は引き結ばれている唇の端は切れて血がにじんでいる。短い間にずいぶん面変わりしてしまったが、香代子だった。
なぜこんなボロ雑巾みたいになって、こんなところに倒れているのか。外階段の真下で倒れていることから、おそらく階段から落ちたのではないかと思われるが、パジャマと裸足で香代子が外に出るなど通常なら考えられないことだった。
それに、と由貴也は香代子の頬に視線を向けた。こんなにも赤いを通り越して鬱血するぐらいに顔が腫れるとは殴られたとしか考えられない。由貴也はとりあえず意識のない香代子を抱き上げ、アパートの部屋の様子を見るべく、階段を上がった。
香代子の部屋はすさまじい有様だった。不潔さでいうならば、大学に入る前の春休みに居候していた根本の部屋の方が数段上だが、彼女の部屋はいつも片づいているせいか余計に散らかっているのが目立つのだ。玄関のドアは開けっぱなしで、キッチンの床には調味料入れとともに塩が広がっている。割れた食器が部屋のあちこちに落ちていて、チェストの引き出しは抜かれて中身の衣服などが散乱していた。
由貴也は思う。これは誰かと争った跡、あるいは荒らされた跡というやつではないだろうか。
由貴也は事態の追及を後にし、キッチンの床に落ちていた夏用の薄い上掛けで香代子をくるんだ。彼女を寝かせるのもこの部屋の状態では場所がない。由貴也のマンションの部屋に連れて行くことにした。
一寸先も見えないような豪雨の中、全身から水をしたたらせながらマンションに帰る。部屋のドアを空いている足で蹴るように開け、悪天候で薄暗い部屋に入った。
電気もつけずに、ダイニングキッチンを抜け、寝室にしている洋間に入る。ベットの上に香代子を下ろした。
自分の滴がたれる髪をうっとうしく思いながらかきあげ、まずは香代子の濡れた服を脱がす。パジャマの前は、由貴也が手をかけなくとも開いていた。ボタンがとれたそれは、もはや服という体裁をなしていない。
水をたっぷり吸って重くなったパジャマを放り投げ、改めて香代子を見て、その傷だらけの裸体に絶句した。大小のあざ、すり傷は当たり前、腹部は広げた手ほどもあるあざのグラデーションを伴って腫れていたし、階段から落下した際に肩をひどくぶつけたのか、元の肌の色がわからないほど変色して熱を持っている。腫れの程度から、幸いなことに骨折まではいっていないと判断するが、何にせよ動かさない方がいいのは明らかだった。
由貴也は陸上の練習の際に持っていくバックからコールドスプレーを取り出した。一本では足りないと思い、床の上に放ってあったドラックストアのビニール袋から買い置きのコールドスプレーと、湿布を持ってくる。運動選手なので、これくらいのものは常備してあるのだ。
とにかく一番ひどい状態の肩を中心にコールドスプレーを噴射していると、香代子の目が弱々しい動きで開いた。
「由貴也……?」
かすれた声で名前を呼ばれ、スプレーする手を休めずに「うん」と答える。
「寝てていいよ」
事情を聞くよりも何よりも、今の香代子には体を休める方が重要だと思った。
由貴也が寝てていいと言ってなお、香代子はぼんやりとした目でこちらを見ている。由貴也はいい加減じれったくなった。こんな体中に怪我をして、今休まなければ本当に壊れてしまう。
「寝てなよ」
仕方なくスプレーするのを止めて、改めて香代子の目を見て言う。香代子は数回途切れてしまいそうなゆっくりとした動きでまばたきし、「夢……?」と答えた。
「夢じゃないから。寝てて」
声音も表情もおそらく変わっていないだろうが、由貴也の言葉は懇願に近かった。頼むから寝ててくれ、と思う。寝て、体を休めてくれないと、彼女がどうにかなってしまいそうに思えた。
彼女の痛々しい頬に手のひらを当てて、親指の腹で口の端ににじんだ血をぬぐい取る。その一連の動作を終えても由貴也は香代子の頬に触れ続けた。冷え切って温度のない体。
香代子が触れたところから伝わる由貴也の体温に安心したように瞳を閉じる。由貴也は安堵して、香代子の手当てを再開した。
すべての手当てを終えて、由貴也は自分のクローゼットから取り出してきたシャツを香代子に着せる。柔らかいコットンの生地だから、傷にも障らないだろう。そっと満身創痍の体に布団をかけるが、一度目を覚ました以外は昏々と香代子は眠っていた。
洗面所に向かいながら、由貴也は本当は香代子を病院に連れて行くべきなのだろう、と考える。だが、彼女の体に残る多数の打撲痕に、ボタンがとれたパジャマ、階段からの落下。それが指し示す事態を考えると、由貴也に病院に行くための行動を起こすことを躊躇させた。
洗面所から濡れたタオルを持って香代子の側に戻る。ベットの横に座り込んでタオルを香代子の頬にのせ、その上から自分の手も当てた。
蒼白な顔で眠る香代子は、いつもとは別人のように生気がなく、まるで日が翳ったように暗かった。その様子に、タクシーの中から四日前に見た人影は香代子だったのだと確信する。
タオルで冷やしているのに、その上から自分の手の温もりを移すように香代子の頬に触れ続ける。こうでもしないと彼女の体は冷えたまま、二度と目を覚まさないのではないかと思えてしまう。
そんなことを思ってしまうほど、目の前の香代子は弱り、ボロボロで、いつもは由貴也に喝を入れる元気さの面影すら見えないのだった。
夜になって高熱が出た。
由貴也の部屋に連れてきたときは芯から冷えていた香代子の体は、今や触れると火傷しそうなほどに熱い。香代子は手当てをしている最中に一度目を覚ましたきり、覚醒することはなかったが、意識がないなりに早い呼吸で苦しそうに眠っている。
由貴也は香代子の額に手を当てた。熱は上がっていく一方だ。この全身のひどい怪我では無理もないだろう。ずっと詰めていた枕辺から由貴也は立ち上がる。
香代子をひとり部屋に残していくことに不安はあったが、スポーツドリンクや氷嚢など、今すぐ必要なものを買いに深夜までやっているドラッグストアに行くことにした。足の遅い台風が居座って、外はいまだ大荒れの天気だったが、この部屋に帰ってきてから自らの濡れた衣服を改めることを忘れていた由貴也は、まだびしょ濡れだ。一度濡れるのも二度濡れるのも変わらないと暴風雨の中に踏み出した。
どれを買っていいかわからなくて、必要だと思われるものを片っ端から買った結果、レジでの合計金額は一万を超え、特大のビニール袋ひとつと、二リットルのスポーツドリンク六本が入った段ボールを抱えて由貴也はアパートに帰った。
ドアを開けて、フローリングの床に買ってきたものをとりあえず置く。とにかく、濡れて体に張りつくシャツを脱ぎ捨てた。
もう一度床に置いた冷えピタやら薬やら氷枕やらが入った袋と段ボールを持って立ち上がろうとした時、ダイニングキッチンの壁を支えにして歩いてくる人影が見えた。香代子だった。
「何やってんの」
買ってきたものをその場に置き去りにし、由貴也は今にも倒れそうな香代子の元へ行く。由貴也にまで聞こえてくるほどの荒い息をつきながら、それでも香代子は前に進もうとしている。けれども、高熱の体はうまく動かないらしく、膝が折れて、彼女の体が傾ぐ。由貴也は手を出して転ぶ前に彼女の体を受け止めた。
そのまま担ぎ上げて、寝室へ連れて行く。由貴也の腕の中で、香代子は「放して」と抵抗した。
ベットに下ろすと、また立ち上がって玄関に行こうとする。由貴也はそれを押しとどめるが、香代子は「帰る、んだから、放して」と切れ切れの声で反抗してくる。
「帰るって、何言ってんの」
「家に……あいつが来る、から。私が弟たちを守らな、くちゃ……」
あいつ、弟など、よく意味の飲み込めない言葉から、香代子が熱で錯乱していることが読み取れた。彼女の部屋には弟などいなかったし、あいつと呼ばれる人物もいなかった。ただ、彼女が誰かにひどく痛めつけられたのは事実だが。
あいつって誰、と思った由貴也に答えるように、香代子が「……父親が、来ちゃう、から」と半分うわごとのような不明瞭さで言った。父親という言葉に由貴也はいろいろ考え込みたくなったが、まずは香代子をベットの中に戻すことが先だ。
「大丈夫だから寝て」
布団に横にならせて、上掛けをかけようとしても、香代子は「やだっ、帰る」と由貴也の腕を拒む。ベットから出ようとする彼女を止める由貴也と、それでもまだベットから下りようとする香代子の間で攻防が繰り広げられる。香代子の動きは段々大きくなっていき、拳で由貴也を叩いてくる。よほど彼女の中では逼迫した状況なのか、由貴也の顔まで手が飛んでくる。彼女の爪がかすって、頬に痛みが走るが、それでも行かせるわけにはいかないので、由貴也は彼女の振り上げた手首をつかむ。そうされてもなお香代子は由貴也の戒めの中で暴れた。
怪我したところが痛むのだろう。顔を歪めながらも「放してっ!」と香代子が悲鳴に近い声を上げる。あまりに彼女が怪我の痛みなど構わない様子で懸命に拘束から脱しようとするので、由貴也は彼女がめちゃくちゃに振り回すもう片方の手首もつかんで、その目を見た。
「香代子!」
目を合わせて強い調子で名前を呼ぶと、香代子がはっとした顔つきになり、熱で朦朧としていながらもその目には正気の色が垣間見えた。その隙に彼女の頭を自らの胸に押しつけて動きを封じる。
「大丈夫だから。誰もアンタの弟たちのところに来ないから」
腕の中で逆毛だった動物のような気配をまとっていた香代子の張りつめた神経が徐々に緩んでいくのを感じた。それと同時に、彼女は気絶するように眠りに落ちる。
その力を失った体を横たえようとして、由貴也は自分の腕の中から離せなかった。ベットの上で座ったまま、香代子の体に緩く腕を回して捕え続ける。またここから出ていこうとされてはたまったものではない。そしたらこの雨の中、再び拾いにいくしかない。
由貴也の胸にもたれて眠る香代子を見下ろす。こんな傷だらけで、こんなに弱って、俺の知らないところで、誰かに傷つけられて――。
由貴也は視線を上げ、かすかに顔も上げる。外のすべてを壊そうとする強い風に、窓ガラスが音を立てて揺れ、建物の間を吹く風が不気味なうなり声を上げる。
屋外とは対照的に静かで暗い室内で、由貴也は外の荒れた様子を見ながら、彼女の口から出た父親という人物のことを考える。
台風は今だ猛威を振るっていた。