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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
100/127

鎖5

暴力シーンがあります。閲覧ご注意ください。

 香代子は嵐の通った後のように荒れた部屋を地道に片づけていた。

 通帳と銀行印を探すため、自分自身の手で部屋のあちこちを引っ張り出し、その上で父親に家探しされた部屋は足の踏み場もない状況になっている。ついこの間まで午後の強い日差しをカーテンが遮る中、由貴也が床に転がって休息をとっていたおだやかな室内は見る影もない。ほとんど空っぽになった食器戸棚の前で、香代子は割れた食器をビニール袋にまとめていた。

「っ……!」

 食器の破片で指を切り、血が床にたれる。思ったより深く切ったのか、鮮やかな色の血があふれ出る。ティッシュで押さえたくとも物が雑然と山を作っていて、ティッシュボックスがどこにあるかもわからない状況だ。香代子は仕方なく切った指を口にくわえた。

 口腔に含んだ指がしみる。床に座り込んで、ぼんやりとキッチンから居間兼寝室を眺める。薄いレースのカーテンよって透かされた日が射し込む室内は、物が散らかっていることもあって自分の部屋ではないようだ。香代子は発作的に立ち上がって、バスルームの前に散らかる父親が使ったタオルをごみ袋に入れた。

 父親は母親の存在を盾にとり、香代子を脅したあの日から、この部屋に留まっている。今は酒を過ごして、いびきをかいて居間で寝ている。

 父親の世話に明け暮れて、考える余裕がなかったことを、父が寝て静かになった今は考えてしまう。これからどうやって生活していけばいいのだろう。

 まず、何をするにも先立つお金がなくなってしまった。これでは来月の水道光熱費、携帯電話の支払いだってできない。多少といえども金銭が入っていたお財布は当然父親の手に渡っているし、折悪しく帰省に向けて中身を減らしていたところだったので、冷蔵庫の中にももうあまり物が入っていない。

 バイト代も父がまとまった金銭を求めてきたから、前借りしてしまった。その時の様子を思い出して、本当に哲士のいない時でよかったと思う。哲士はインカレに向けてバイトのシフトを減らして練習に励んでいる。香代子が店長に頭を下げて前借りを頼んだ時も彼はいなかった。お金を借りるみっともなくて情けない姿など、誰にも見られたくない。

 こうして来月の収入もなくなってしまった。バイト先の店長は学生なんだから、親に頼ればと言ってきたけれど、今の香代子にはできない話だった。香代子が援助を求めれば、母は絶対に何かあったの、と聞いてくる。香代子は今まで過ぎてお金を遣うことはなかったからだ。自分は嘘が下手だし、父とのつながりを母には何としても悟られたくない。母をもう父と関わらせたくない。

 そう思って、実家への帰省も取り止めた。そもそも帰省するお金もない。けれども、由貴也には夏休みが終わるまで実家にいるから、このアパートの方には来ないでくれとメールで送ってある。由貴也には死んでも知られたくはない。自分にこんな父親がいて、血が繋がっているなんて。

「うるせえぞっ!」

 香代子の心の声が聞こえたかのように、酔っぱらって眠っていた父親が目を覚まし、腕を振り上げた。たまたま近くにあったのか、父親はしっかりとした作りの本を手に取り、香代子に向かって投げてくる。運悪く、避ける暇なく固い表紙の角がこめかみに当たる。香代子はたまらず体勢を崩して床に手をついた。

 視界が痛みにぐらぐらとする。酒が入った父親は手がつけられない。きっと、割れた陶器を片づける音が気にさわったのだろう。もう、反抗するエネルギーも、悲鳴を上げる気もおこらない。息をひそめて淡々と片づけを続けるだけだ。

 自分は父親という名の呪縛に捕まった。娘である限り、逃れられない気がする。この先も平穏な生活を望む度に、この男にそれをぶち壊されるのだろう。

 暗い方へ感情を持っていかれそうになって、とっさに自分の正常な部分がだめだとストップをかける。この状況を当たり前なものとして受けれてはいけない。普通の人に戻れなくなってしまう。つらくても痛いものは痛い、嫌なものは嫌だと感じていなければ、感情が硬化していずれなくなってしまう。

 でも、痛いのは嫌だし、嫌なものは知らんぷりしたいよ。できるならこんな父親の姿を知りたくはなかった。寂しくても幻想を持ったままでいたかった。

 そう思ったら、こめかみが痛んできて、目から何か出そうになったけれど、何とか耐えた。

 暇つぶしを求めて、部屋の中を引っ掻き回している父親に目をやる。どうして部屋の中に人がいるという状況は同じなのに、こんなにも違うのだろう。まったく“彼”と違う。父親の後ろ姿は香代子に安らぎをもたらさないのだ。

「何だこれ。ゲームか?」

 居間の方で父親が声を上げる。顔を上げた香代子の目に入ったのは、最新型のゲーム機を手にする父親の姿だった。

「何だお前、いいもん持ってるじゃねえか」

 父親が下卑た笑いを浮かべた時、香代子は思わず立ち上がっていた。割れた皿の破片を足で踏んづけてしまい、痛みが走るけれど、構わない。

「それはダメ!」

 部屋のものは何でも好き勝手に使わせていた香代子だけれども、そのゲーム機だけは父親に持っていかれては困るのだ。それは由貴也のだから。由貴也がお菓子とともに大好きなゲームだから。この部屋でゲームをしている由貴也の後ろ姿を見るのが好きだった。香代子がキッチンでご飯を作っていると、たまにコントローラーを操作する手を止めて、こっちを見ていることもあった。その子供みたいな顔も好きだった。だから、そのゲーム機はだめだ。

「それに触らないで。返してっ!」

 父親のゲーム機を持つ方とは反対の腕に取りすがる。手を伸ばしてゲーム機を奪い返そうとした瞬間、父親が腕を振った。香代子は突き飛ばされるような形で壁に体を打ちつける。背中に感じた衝撃に息が詰まった。

 ずるずると壁に背をつけながら床に座り込もうとして、さらなる打撃が香代子を襲った。ドッチボールでボールを受け止めた時の何倍もの衝撃をお腹に受け、体をくの字に折る。父親のつま先が香代子の鳩尾に食い込んでいた。

 蹴られたと理解する前に床に倒れこんでいた。最初は何が起きたかわからなくて、ただしびれていたけれど、徐々に腹部の痛みが増してくる。腹を上から押されているかのような圧迫感に、気分が悪くなる。重い痛みにひたすら体を丸めて息を止めて耐える。嫌な汗が全身ににじんでいて、蹴られたところだけでなく、体全体が息を吸うたびに熱かった。

 今まで受けたことのない圧倒的な暴力を前に、本能的な恐怖を覚えて、体がすくんでいうことをきかない。起き上がれない。父親は――男の力というのは香代子をいとも簡単に突き飛ばして、こうして動けなくしてしまう。香代子は華奢な方ではないし、父親を身体的にも衰え始めた中年の男だと侮っていたけれど、男女の差とはこんなにも大きなものなのか。その埋められない力の違いは、香代子に絶望をもたらした。

 根本や哲士、由貴也の顔が浮かぶ。彼らも男だ。そう思うと急に怖くなった。香代子では到底かなわない腕力を持ち、いつでもそれを使える。そう思ったら、どうしようもなく怖くて、震えが止まらない。とても大事な人たちなのに。彼らが父親と同じように暴力をふるうなどあり得ない話なのに。

 父親は痛みに呻く香代子の横を通り過ぎ、部屋から出て行く。香代子は長い間動けず、床の上で胎児のように背を丸めて横たわっていた。

 痛みの波が細いものになり、何とか体を起こすと、強い吐き気が込み上げてきた。這う体でトイレまで行き、嘔吐する。生理的な涙が頬を伝った。

 洗面所で口をゆすいで、体を叱咤してどうにか動かす。このまま床でもどこでもいいから横になっていたい最悪な気分だったけれど、今日はこれから深夜までの日雇いのバイトがある。このままでは明日の食事すら危うい香代子に、欠勤するという選択肢はない。

 居間からはゲーム機とソフト数本がなくなっていた。父親が売りにいったのだろう。発売されたばかりのそのゲーム機本体はきっとどこでも高く買い取ってくれる。

 由貴也に胸の中でごめんね、と謝る。取り返せなくてごめんね。持っていかれちゃってごめんね。ちゃんと弁償するから。

 そのためにも、バイトに励まなければいけない。

 玄関の鏡に写った自分はひどい顔色だったけれど、無視する。香代子は殴られた腹に手を当てながら、バイトに行くべくよろめきながら部屋を後にした。








 台風が直撃していた。

 前の晩、香代子はここ最近始めた夜のイベントの誘導員のバイトをしていたのだけれど、途中から雨風が強くなり、終わる頃にはびしょ濡れになっていた。おまけに電車のダイヤが乱れて帰れなくなり、濡れ鼠のまま駅のホームで夜を明かすはめになってしまった。

 小中高皆勤賞で、体の丈夫さと体力に自信がある香代子でも、さすがに連日の睡眠不足と疲労とでくたくたになって自分のアパートに帰ってきた。

 すっかり居室になってしまった居間で、父親はまくれあがったTシャツというだらしない姿で眠っていた。

 あまりの蓄積した疲労に、その姿を見ても何も感じない。それよりも父親が寝ている間にお風呂に入ってしまおうと、散らかった居間から手早く着替えを引っ張り出す。

 父親が居すわるようになってから、ゆっくり湯船に浸かったこともない。冷えた体を温めることもできないまま、いそいでシャワーだけ浴びて、バスルームから出る。父親はまだ寝ていた。

 始発列車で帰ってきたので、もう朝と言える時間だったけれど、香代子は夏の薄い上掛けにくるまってキッチンの床に寝転がった。固い床の上では充分に睡眠を摂ることなどできないけれど、ベットは父親が占領している。いつ起きてくるかわからない父親に怯えながら、浅い眠りに就く。それが香代子の毎日になりつつあった。

 幸いなことに悪天候で暗いせいか、父親が起きる気配はない。狭いキッチンで手と足を縮こまらせて、目をつむった。

 うとうとしかけた頃、強風にキッチンの窓がガタガタと揺れる音で目を開けた。寝ぼけ眼でまわりを確認して、香代子は悲鳴を上げそうになる。急速に意識が覚醒する。体が強ばり、息を押し殺した。

 布団越しに感じる肥えた体。早く、ねっとりとした吐息。父親の体がすぐそこにあった。

「何して――」

 何してるの、と問いかけようとしたところで、父親の肉厚な手に口をふさがれる。その手はじっとりと汗をかいていた。

 思考は激しいパニックの中、警鐘を告げるのに、体が硬直して動かない。父親にのしかかられながらも、香代子はその大きな体の下で金縛りにあったかのように固まっていた。

 どこか他人事を俯瞰するような感覚が消えたのは、父親が香代子のハジャマのボタンに手をかけた時だった。

 自分に起こっていることが急に現実味を帯びる。肌が粟立つ。忘れていた危機感が急激に沸き上がってくる。

 無造作に床に投げ出していた手であたりを探る。床に転がっていた缶詰を手に取り、それを父の後頭部めがけて振り下ろす。

 鈍い音がして、父の頭が前に倒れる。その隙に香代子は足の裏で床を擦って、父の体の下から逃げ出す。

 早く逃げなければと思うのに、足が細かく震えて立ち上がれない。壁際まで後ずさって、低い声で香代子の打撃にうなっている父を見ながら、必死で動け、足と命じる。

 けれども、父が体勢を立て直す方が早かった。次の瞬間、思いっきり頬を張られ、香代子は床の上に倒れる。

 頬の痛みを感じる暇なく、父親の足が降ってきた。そこからはもう、父親の怒りに任せて蹴って殴られるだけだった。恐怖の中、体を丸くして、暴力の嵐を受ける。

 父の息が切れたところで、足や拳が止んだ。それと同時に、体のあちこちが痛むにもかかわらず、自分でも驚くほど早く立ち上がって、走り出していた。

 父親の手が伸びてきて、香代子のパジャマをつかんでくる。逃げようとする香代子と、留めようとする父親の間でパジャマが引っ張られ、前のボタンが弾け飛んだ。パジャマの前が完全に開き、香代子は手で押さえる。その時にはもう、父親の目の色が完全に変わっていた。

 父親でも何でもなく、それは獣の目、男の目だった。香代子を異性として見ている。

 逃げなくちゃ、逃げなくちゃとそれだけを考えて、夢中で玄関に向かう。後ろから手を伸ばして追ってくる父親に、香代子はとっさに調理台の上の塩入れをとって投げる。細かい塩の粒が降り注ぎ、父親が場違いなほど間抜けな悲鳴を上げた。

 これで少し時間が稼げるとも思う余裕もなく、裸足のままで玄関から飛び出す。ドアを開けた瞬間、台風による風で、ものすごい風圧を体に受ける。目が開けられないほどの風の中、外廊下を雨に濡れながら走った。

「香代子っ。てめえ!!」

 塩まみれの父親が部屋から出てきて叫ぶ。怒声を発しながら香代子に向かってくる。足を休みなく動かすけれど、距離が縮まる。

「放して! 痛いっ」

 廊下の端に来たところで、父親に髪をつかまれる。手加減のない力でつかまれて、香代子はもがくように拳を振り上げ、めちゃくちゃに父親を打つ。それでもまったく父親の力は弱まらなかった。

 髪をつかんだまま、引きずっていこうとする父親に抵抗して、手足をばたつかせる。このまま部屋に連れ戻されるわけにはいかない。「嫌っ、やだっ!」と父親の体を退けようとする。弾力のあるその体には香代子の攻撃など些細なものとして吸収されていった。

 けれども、必死の抵抗のかいあって、父親が力任せにつかんでいた香代子の髪が何本か引きちぎられた。その反動でほんのわずかに父親の拘束が緩む。その時を狙って、香代子は思いっきり父親の体を突き飛ばした。

 同時に突風が吹く。

「えっ……?」

 自分の声だけがやけに耳につく。風にあおられ、つま先が地面から離れる。後ろは階段だ。

 刹那の後の浮遊感。香代子の体はどこも地面に接していなくなった。支えを求めて伸ばした手は何もつかまない。

 父親の驚愕の表情を見たのを最後に、香代子の体は階段の上から投げ出された。

 とっさに頭を庇って体をひねる。代わりに何度も肩を打ちつけながら、落ちていく。段に体を打ちつける度、目の前に赤い火花が散った。

 ひときわ大きな衝撃の後、冷たさを感じた。雨で濡れた地面に、体が接しているようで、どしゃ降りの雨が体に降り注ぐ。薄いパジャマに大粒の雨が染み込んでいく。

 頭の中に霧がかかったように、不鮮明な意識の中、なんとかパジャマの前をかきあわせて息をつく。体の力が抜けたせいか、体が急に重くなり、視界がかすんでいく。

「ひっ……うっ、あああああ!」

 階段の上で動転しながら駆け去っていく父親の姿が遠くなる。もう体のどこが痛いかわからない。

 降りしきる雨の音を感じながら、目を閉じる。意識を手放す寸前に、「……由貴也」と自分でもなぜだかわからないうちにつぶやいていた。

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