10
練習終了時刻である七時を回っても、マネージャーの仕事をすべて終えても香代子は寮へ帰らなかった。
今日もかなりの量の宿題が出ていた。さっさと帰ればいいのについつい足がグラウンドへ向かった。
数日前の光景が頭をよぎる。細雪の降る中、自らの体を酷使するように限界まで走りこんでいた由貴也。今日、巴と会ったことで彼がまたそうなってしまうのではないかと思った。
ライトはすでに消え、グラウンドは闇に包まれていた。ざっと見回しても何か動いている気配はない。
やはり香代子の杞憂に過ぎなかったのかと身をひるがえそうとしたとき、何かが視界の端で光った。
顔をもう一度グラウンドへ向ける。この学院は山奥にある。あたりに光を発する建物はなく、闇は濃い。目をこらしても何も見えない。
何か嫌な予感がした。このまま帰るわけにはいかない。
香代子はグラウンドを歩いた。自然と足が由貴也がいつもいる直線コースへ向かう。近づくにつれてぼんやりと闇に浮かびあがったものに、香代子は目を見張った。
直線コースのど真ん中で人が倒れていた。
誰かなど確かめるまでもない。手に持っていた荷物を放り出し、一直線に駆け出した。
「ちょっと大丈夫!? ケガはっ?」
仰向けに倒れていた由貴也を助け起こす。見たところ由貴也の息は荒いが怪我などはなさそうだ。案の定、また走りこみすぎて動けなくなったのだろう。
「こんなところで寝てたら凍死するって!! しっかりしてよっ!」
由貴也の両脇に腕を差し入れ、後ろから引っ張る。だらりと投げ出された二つの足が引きずられ、ゴムやウレタンの敷き詰められたグラウンドをすった。
由貴也は風が吹けばふきとびそうなひょろい体つきをしているが、やはり男だ。けっこうな重さがある。引っ張るだけでも息が切れてきた。
この前はもっと大変だった。意識を失った由貴也はさらに重く、部室に運ぶまでにえらい苦労をした。
一旦足を止め、息を整える。この寒い中、汗すらかいていた。
どうしてこんなことをしているのだろう、と由貴也が入部してから何度もした問いかけを今、また繰り返していた。
帰る前に必ずグラウンドに誰か残っていないか確かめるようになった。そうしてこんな大変な思いをしながら由貴也の世話をやいている。
こんなにも由貴也を気にかけているのはただ単にマネージャー魂の表れなのか。もうよくわからなくなっていた。
「何やってんの?」
由貴也を再びずるずると引っ張っていると、背中の後ろから声をかけられた。
由貴也を羽交いじめにしたまま顔だけで振り向く。そこには短髪に精悍な顔つき、大人びたたたずまいを持つ陸上部部長、緒方 哲士が立っていた。
彼は由貴也と同じく短距離走の選手だ。彼も陸上選手の他聞にもれずに細いが、由貴也よりは見てて不安にならない体つきをしている。
「部長……」
香代子はほっと息をついた。
哲士は部長らしく、皆の兄貴分のような存在だった。その落ち着きは少年というよりは青年と言ったほうがしっくりとくる。さりげなく部になじまない由貴也を気にかけていたし、大会に向けて誰よりも練習に励んでいた。
「無理な練習して動けなくなってて……」
それだけで哲士はもう事態を察したらしい。「しゃーねえなぁー」と言うと、由貴也を肩へ担ぎ上げた。
「うわ、こいつ軽ッ。ちゃんと食ってんの」
哲士は軽々と由貴也を担いでいた。由貴也はまだ動けないらしく、おとなしく担がれていた。
「その荷物もってくれる? とりあえず部室に行こう」
かたわらに哲士のものと思しきエナメルバックが置いてあった。彼はもう学生服に着替えていて、帰るところだったようだった。
彼が通りかかってよかった。哲士は部長だからといって奢り高ぶったところはまったくない。うまく由貴也を諭してくれるかもしれない。
「古賀、大丈夫か?」
部室へ戻り、哲士が由貴也を床へ寝かす。由貴也は先ほどよりはだいぶ落ちついたようだが、まだうつろな瞳で早い呼吸を繰り返していた。
彼が息をするたびにジャージの胸についているワッペンが光った。暗いグラウンドで瞬いていたのはこれだったのだろう。おかげで香代子は由貴也が倒れているのを見逃さずに済んだ。
「アンタに学習能力はないのっ!? 無茶するのもいい加減にして!」
これから哲士がおだやかに由貴也を諫めてくれるだろうが、その前に香代子も説教のひとつでもかまさないといられなかった。あのまま誰も彼に気づかないままだったらと思うとぞっとする。
一回怒鳴ったところで気持ちが収まってきた。部室の隅に積み上げられている段ボールからスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、キャップまで開けて由貴也に手渡した。
由貴也はなんとか起きあがり、さすがに苦しそうに腕を持ち上げて受けとる。食らいつくようにスポーツドリンクを飲んだ。
勢いよく飲みすぎて、由貴也が咳きこむ。あまりの激しいむせように、香代子は思わず背をなでた。
「古賀、大丈夫か」
由貴也が落ちついたところで、哲士がもう一度静かな声音で尋ねた。
由貴也は哲士に視線どころか顔すら向けずに「……大丈夫です」とぼそぼそ答えた。
「どうしてこんな無理なことをした。古賀は中学で陸上やってたんだろ? こんな走り方はよくないってわかっているよな」
決して哲士は怒ることなく一言一言を大事に話していた。由貴也はまわりに心を閉ざしている。その頑なな心にまで届くように慎重に話をしているようだった。
「別に理由なんてないです。強いて言うなら星空観察?」
由貴也はもうすでにいつもの飄々とした顔つきでわけのわからないことを言った。
星空観察。突拍子のない言葉に思考が停止した。電波王子の異名はダテではない。
部屋の隅々まで落ちた沈黙を破ったのは、哲士の笑い声だった。
「星空観察か。古賀はロマンチストだな」
「どーも」
哲士は由貴也の話を冗談と受けとったらしい。おもしろくない話でも笑ってみせる律儀さが哲士にはあった。
由貴也は気のない返事をしてよっこいしょ、と立ち上がる。その綺麗な顔でよっこいしょはないだろう。
「待って!」
由貴也のジャージの裾を引っ張る。由貴也は後ろにたたらを踏んだ。
「足、出して。そのままでいたら明日くるよ」
無茶を重ね、ずいぶん足には疲労がたまっているはずだ。由貴也のことだ。ろくにマッサージもしないのだろう。
由貴也はわずかに嫌そうな顔をする。普段は無表情のくせに、人を拒絶するときだけは感情を表に出すのだ。
「いいから座りなさい」
有無を言わせず命じる。隣で哲士が「マネージャーの言うことは聞いとけー」と茶々を入れた。
二対一で分が悪いと悟ったのか、由貴也は渋々と座った。
「うつぶせに寝て」
由貴也は聞こえたのか聞こえなかったのか、虚空を見ていた。やがてそこに答えが点灯したようにのっそりとうつぶせに寝転がった。
「マネージャーのマッサージは気持ちいいぞ。よかったな、古賀」
ほがらかに笑って、哲士が由貴也の頭を軽く叩いた、が結構いい音がした。痛い、と由貴也がぼそっとつぶやく。
マネージャーになってから勉強して身につけたマッサージには自信があった。あれこれと研究し、工夫を重ねた。その甲斐あってか部員に評判がよくてうれしい。
由貴也はもう気力と疲労がピークに達していたのか、マッサージを始めると気を失ったように寝始めた。どこまでもマイペースな男だ。
彼に振り回された香代子と哲士は顔を見合わせて苦笑した。
「こいつ、何なんだろうな」
哲士が由貴也の姿を見ながらぽつりとつぶやいた。
由貴也の寝顔はまったく安らかでない。顔色も悪く、死んだように眠っている。
起きているときは無表情の下に押しこめられているものが今、無防備に表に出てきているようだった。
「俺、中学のときの古賀を知ってるよ」
狭い部室にひとつだけあるパイプ椅子に腰かけ、ひとりごとのように哲士は続けた。
「衝撃だったね。おおげさじゃなくて古賀は走るために生まれてきたんじゃないかと思った。全然重いところがなかった」
「重い?」
哲士の抽象的な表現に首をかしげる。速い遅いではなく『重い』。陸上の重さとは何なのか。
「古賀は軽い。ものすごく。あいつの体、羽毛でできてんじゃないかと思った」
香代子はまだ競技者としての由貴也を知らない。中学陸上界の記録保持者という認識はしていても、由貴也の陸上を肌で感じたことはない。
香代子とは違う視点から哲士は由貴也を語る。
「走りが重力を感じさせないっつうか……すっと泳ぐみたいに走るんだよ」
なんとなく哲士の言わんとしていることはわかる。
しかし今の由貴也と彼の語る由貴也はつながらない。それはブランクがあるからなのか、それとも試合ではないからなのか。あるいは由貴也にやる気がないからか。
とにかく今の由貴也は人格者の哲士が少しの悔しさを滲ませて語る人物ではない。
「どうしたんだろうな、こいつ。いいもん持ってながらこんなに腐っちまって」
哲士は複雑そうだった。スプリンターとしての才能を持つ選手への嫉妬、畏怖、または羨望。部長としての後輩への心配、落胆。それらが混ざりあったまなざしを由貴也に向けていた。
「……リレー、出ないつもりなの?」
ずっと聞きたかったことだった。適当に走っていても由貴也は充分に速い。形だけでも由貴也を擁してリレーに出たいとは思わないのだろうか。
「考えていないわけじゃないんだけど……どうするかな。もったいないよな、こいつ」
哲士は由貴也の才能を純粋に惜しんでいた。
このまま由貴也は根腐れしてしまうのだろうか。外から見えない、けれど自らを支える大事な部分を蝕まれ、倒れてしまうのだろうか。
「……巴……」
夜の部室に落ちたつぶやきに、目を見開く。起きているときでは決して聞けない、助けを求めるような声音だった。
哲士とふたりで由貴也を見る。由貴也は依然として昏々と眠っていた。
寝言で名前を呼ぶくらい、由貴也の潜在意識は巴を求めている。
どこまで巴は由貴也の根にからみついているのだろう、と思った。