四歳の弟の嘘を信じた実の親に、雨の夜の葦原へ跪かされ、そのまま死に追いやられた!
弟のひと言で、私は死んだ。
私が死んだあと、家族は町内で噂の的になった。近所の人も、先生も、神社の授与所を手伝っている年配の人も、みんな弟に尋ねた。あの日、彼はいったい私に何を言ったのか、と。けれど弟はずっと俯いたまま、何も答えなかった。
そして私の遺体が見つかった日、彼は私のそばに立ち、ようやくもう一度その言葉を口にした。
1
三月下旬、東京近郊の水郷公園には、もう春の気配が漂っていた。その日、町内会と近くの幼稚園が合同で、春の子ども自然観察会を開くことになっていた。家を出る前、母は四歳の弟、陽太の手を私に預け、絶対に目を離さないよう何度も言い聞かせた。
陽太はまだ小さくて、遊びに夢中になるとすぐ走っていってしまう。私はもう十七歳で、姉なのだから、ちゃんと手を握っていなさい。母はそう言った。
正直、私は不安だった。数週間ほど前から、私は突然いろいろなことを忘れるようになっていた。教科書をどこに置いたか忘れることもあれば、さっき通った道が分からなくなることもあった。ひどいときには、目の前にいる人の名前さえ、一瞬思い出せなくなる。
今日だけは絶対に失敗できない。そう思って、出かける前に薬を飲み、スマホのメモにも書いておいた。陽太を忘れない。手を離さない。
けれど水郷公園に着いた瞬間、頭の中に真っ白な砂嵐が走った。人の声も、笑い声も、子どもたちが走る足音も、急に遠くへ引き離されたみたいにぼやけていく。私はその場に立ち尽くし、自分がなぜここにいるのかも、手をつないでいたはずの相手が誰だったのかも、どうしても思い出せなかった。
気がついたとき、私は駅前のレンタサイクルに乗って、ひとりで家に戻っていた。玄関には母が立っていた。私がひとりで帰ってきたのを見るなり、母の顔色が変わった。
「陽太は? どうして一緒じゃないの?」
私はぼんやり母を見つめた。頭の中が、怖いくらい真っ白だった。
「弟? いつの間に、うちに弟なんてできたの?」
母の体が、びくりと固まった。
その日、家族は半狂乱になって水郷公園へ戻った。町内会の人、幼稚園の先生、近くの交番から来た巡査まで、みんな駆けつけた。公園の人工池は隅々まで探され、川沿いの林も捜索された。それでも、陽太の姿はどこにもなかった。
母が私に駆け寄り、肩を強くつかんだ。目が真っ赤で、恐ろしいほどだった。
「ずっと手をつないでいなさいって言ったでしょう? 陽太をどこにやったの? 答えなさいよ。防犯カメラには、あなただけが公園の入口から出ていくところしか映っていなかったのよ!」
私は母に突き飛ばされ、休憩所の柱に額をぶつけた。血が滲んだのに、母には見えていないようだった。声は甲高く、今にも裂けそうだった。
「どうして迷子になったのがあんたじゃないの? どうして陽太なの? これから私たちにどうやって生きろっていうのよ!」
父は目を赤くして、崩れ落ちそうな母を抱きしめた。私は痛みに歪む二人の姿を見つめながら、心が少しずつ沈んでいくのを感じた。その瞬間、私自身も自分を憎み始めていた。
どうしていなくなったのは、いつも家族に迷惑ばかりかける私ではなかったのだろう。
2
一晩中探し続けた末、警察は公園の奥にある、使われなくなった葦原で陽太を見つけた。陽太は全身泥だらけで、上着もぐっしょり濡れていた。小さな顔は寒さで青ざめ、警察官に抱き上げられたときには、もう泣く力もほとんど残っていなかった。
私は人だかりの後ろに立ち、陽太を見ていた。何か言わなければと思うのに、一言も出てこない。頭の中ではまだ、あの白い砂嵐が途切れ途切れに瞬いていた。私は本当に、自分に弟がいることも、どうして彼を葦原へ連れていったのかも覚えていなかった。
その茫然とした感覚は、厚い霧のように、私と目の前のすべてを隔てていた。
母は狂ったように走り寄り、陽太をきつく抱きしめた。
「陽太、陽太……怖かったね。ママがいるから。もう大丈夫だからね」
陽太は母の胸に顔を埋め、ようやく泣き場所を見つけたように、体を震わせて泣いた。しばらくして、彼は小さな手を上げ、私を指さした。
「お姉ちゃん……お姉ちゃんが、すすきを見に行こうって言ったの。なのに、いなくなっちゃったの。陽太、ひとりだったの」
その場にいた全員の視線が、一斉に私へ向いた。母の体が強張った。ゆっくりと振り返った母の目は、三月の川風よりも冷たかった。
私は説明しようとした。けれど母は、私に口を開く隙さえ与えなかった。頬に平手打ちが飛び、私は顔を横に弾かれた。耳の奥で、じんじんと嫌な音が響いた。
母は私を指さし、失望と嫌悪を隠そうともしなかった。
「白石詩音、あなたって子は……。十七歳にもなって、四歳の子ひとり見ていられないの? 陽太ばかり可愛がられるのが気に入らなくて、わざとあんなところに置き去りにしたんでしょう?」
私は泥水のそばに倒れ込んだまま、必死に顔を上げた。
「違うの、お母さん。頭の中に、急に白い砂嵐みたいなのが広がって……本当に、覚えてないの」
母の顔が、さらに険しくなった。
「まだそんな嘘をつくの? 病院で様子を見ましょうって言われたのをいいことに、病気のふりをして、分からないふりをして。責任を逃れるためなら、何でも言えるのね」
周囲の保護者や先生たちが、小さな声でささやき始めた。その声は細い針のように、一本ずつ私の耳へ突き刺さっていく。私は口を開いたけれど、もうまともな言葉にはならなかった。
私自身にも分からなかった。私は本当に、何か取り返しのつかないことをしたのだろうか。みんなが私のせいだと言うのなら、きっと、そうなのかもしれない。
3
空はいつの間にか重く曇っていた。春の雨が川辺の土を叩き、すぐに細い流れを作っていく。葦原の奥から吹いてくる風は湿って冷たく、私の体を震わせた。
「早く、陽太を病院へ!」
父は陽太を抱き上げ、母と一緒に少し離れた場所に停めてある車へ走った。私も反射的についていき、雨を避けようと車に乗り込もうとした。けれど私の手がドアに触れた瞬間、母は私を強く押しのけた。
「あんたはここにいなさい。陽太が葦原でどれだけ凍えていたと思ってるの。今日はちゃんと懲りてもらうから。そうしないと、また嘘をついて、人を傷つけるでしょう」
父は運転席に座り、ハンドルを握ったまま唇を動かした。何か言おうとしたのだと思う。けれど結局、父は何も言わなかった。
車は勢いよく走り出し、タイヤが跳ね上げた泥水が私の制服にかかった。誰も私のために一言も言わず、誰も振り返らなかった。
雨はすぐに、薄い制服の上着を濡らした。冷気が襟元から体の中へ入り込んでくる。私は腕を抱えてその場に立っていた。震えるほど寒いのに、それでも動くことができなかった。
だって、これは私のせいなのだから。私が陽太を忘れなければ、ひとりで帰らなければ、普通の姉のようにきちんと手を握っていれば、母は泣かなかった。父も、あんな絶望した顔をしなかった。
これで少しでも二人の気が済むなら、それでいいと思った。
実は、私がものを忘れるのは初めてではなかった。数週間前、学校の体育の授業中に、私は突然倒れた。目を覚ますと、医師にひとりで診察室へ呼ばれ、脳の検査画像を前に長く沈黙された。
年配の医師だった。声はとても穏やかだったのに、私を見る目だけが、どうしようもなく怖かった。
「白石さん、あまり楽観できる状態ではありません。今の検査結果を見るかぎり、記憶や認知、方向感覚に問題が出ている可能性があります。できるだけ早く、保護者の方と一緒にもう一度来てください」
私はそのとき、こう尋ねた。
「治るんですか?」
医師は長く黙ってから、ゆっくりと言葉を続けた。
「まだ断定はできません。詳しい検査が必要ですし、治療を試すこともできます。ただ、検査そのものに保険は使えても、通院や長期の服薬、交通費、介護のことを考えると、普通のご家庭には軽い負担ではありません」
私は診察室で検査報告書を見つめながら、指先に力を込めた。うちはごく普通の家庭だった。父は小さな会社で事務の仕事をしていて、母はスーパーでパートをしている。陽太はまだ小さく、これから学校にも生活にも、たくさんお金がかかる。
だから診察室を出たあと、私は両親に嘘をついた。医師には大したことはない、最近疲れているだけだと言われた、と。
空は少しずつ暗くなっていった。水郷公園にいた人たちはすでに帰り、町内会のテントも片づけられていた。あたりには雨音と風の音、そして葦原の奥で葉が擦れ合う音だけが残っていた。
ようやく、家に帰ろうと思った。けれどその思いが浮かんだ瞬間、頭の中にあの密集した白い砂嵐が、また現れた。今まででいちばん激しく、世界は私の目の前で一瞬にして白黒になった。
私はその場に立ち尽くし、ぼんやりと周囲を見回した。家がどこにあるのか、駅がどこなのか、父と母がどこにいるのか、何も思い出せない。ただ、私がいなくなったと気づいたら、きっと迎えに来てくれるはずだとぼんやり思った。
さっき、陽太を探したときのように。
意識が霞む中、急に体が熱くなった。雨は降り続き、風も吹いているのに、胸の奥だけが燃えているみたいだった。息苦しさに耐えきれず、私は濡れた服を一枚ずつ脱ぎ始めた。上着を脱ぎ、セーターを脱ぎ、最後には体に張りついたシャツまで引き裂くように外した。
体が少しだけ軽くなった気がした。私はふらふらと葦原の奥へ歩いていき、足元の泥が靴底を少しずつ飲み込んでいくのを感じた。風が吹くたび、葦の影が目の前で揺れる。見知らぬ、けれどなぜか優しい海のようだった。
私はその湿った風の中で、ゆっくりと目を閉じた。
4
ふたたび目を開けたとき、私は十七年間暮らした家に戻っていた。リビングには暖房がよく効いていて、窓ガラスには薄く水滴がついていた。母は畳のそばに座り、生姜湯の入った茶碗を手にして、陽太の口元へそっと運んでいた。
陽太の顔には血色が戻り、厚い布団をかけられていた。生姜湯を飲み終えると、彼は小さな声で尋ねた。
「ママ、お姉ちゃんはまだ帰ってこないの?」
母の手が止まった。顔に浮かんでいた優しさが、瞬く間に消えた。
「あの子のことなんて気にしなくていいの。外でしばらく反省していればいいのよ。帰ってきたら、また病気のふりをして、家中を振り回すんだから」
ソファに座っていた父は窓の外を見ていた。雨はまだ降っていて、夕方よりも強くなっている。父は眉をひそめ、低い声で言った。
「もうこんな時間だ。迎えに行ったほうがいいんじゃないか。本当に何かあったら……」
母は手にしていた茶碗を床に叩きつけた。割れる音に、陽太が肩をすくめた。
「迎えに行く? あんなことをしたのに、まだあの子が心配なの? 陽太が死にかけたのを忘れたの? 今日は誰も行かない。ちゃんと思い知らせないと、陽太は置き去りにしていい相手じゃないって、あの子には分からないのよ」
父の唇が少し動いた。けれど最後には、また黙り込んだ。母は冷たく笑った。私が外で意地を張っているだけだと、もう決めつけている顔だった。
「いちばん得意なのは、覚えていないふりだものね。いつまで続けられるか、見てやるわ」
私は母のそばに立ち、謝ろうとした。お母さん、ごめんなさい。また怒らせてしまってごめんなさい。もう二度とこんなことはしないから。そう言いたくて手を伸ばし、母の肩に触れようとした。
けれど私の手は、母の体をすり抜けた。
私は呆然とした。ゆっくりと視線を落とすと、自分の両手が透けているのが見えた。ああ、私はもう死んだのだ。死ぬというのは、こんな感覚なのかと思った。寒くもなく、暑くもなく、ただひどく軽かった。
翌朝、雨はようやくやんだ。父はソファに座り、煙草を一本、また一本と吸っていた。目の下には青い影があり、一晩中眠れなかったように見えた。
「一晩経っても、詩音が帰ってこない。本当に何かあったんじゃないか」
母は何事もなかったように、昨夜の生姜湯で汚れた床をモップで強く拭いていた。
「どうせ友だちの家にでも隠れているのよ。家出なんて覚えて、生意気になったものね。数日放っておけば、最後は自分から帰ってきて謝るわ」
陽太の熱はすっかり下がっていた。彼は畳の上に座り、木製のオルゴールを手にしていた。それは祖母が亡くなる前に私へ残してくれたもので、私が唯一、誰にも触られたくなかったものだった。
幼いころ、私が泣くたびに、祖母はそっとねじを巻いて音楽を鳴らしてくれた。そしていつも私の頭を撫でながら言った。詩音、どうか無事に大きくなってね、と。陽太はねじの巻き方が分からず、しばらくいじっていたが、うまくいかず顔を真っ赤にしていた。
それを見た母は、歩み寄ってオルゴールを奪い取った。眉をひそめてそれを眺める顔は、まるで邪魔な古道具でも見ているようだった。
「こんな古いもの、何が面白いの。新しいのを買ってあげる」
そう言うと、母はろくに見もせず、オルゴールを床へ叩きつけた。私は狂ったように飛びつき、受け止めようとした。けれど私はただの魂だった。私の幼い日々を抱えていたオルゴールは、目の前でばらばらに砕け散った。
私の短くて惨めな人生みたいに。
そのとき、インターホンが鳴った。やって来たのは町内会の佐藤さんだった。玄関先に立った彼女は、今日の午前十時から近くの神社前の広場で、年に一度の春祭りがあると母に知らせた。昨日の自然観察会に参加した家庭は、できるだけ全員で来て、子どもたちの無事を祈願してもらうことになっているという。
それを聞いた母の目が、ふっと明るくなった。
「行きますよ、もちろん。ちょうどいいわ。あの子、きっと神社のほうに隠れているはずです。今日こそ近所の人たちの前で、きっちり叱ってやらないと。可哀想なふりをしても無駄だって、思い知らせてやります」
神社へ向かう道すがら、母は知り合いに会うたび、陽太のことを聞かれ、そのたびに私の悪口を繰り返した。私は昔から陽太を受け入れられなかったのだとか、病気のふりをして責任を逃れたのだとか、四歳の弟を葦原に置き去りにして死なせようとしたのだとか。家出までして反省もしない、恩知らずな子だとまで言った。
私はその後ろをついて歩きながら、涙をこぼした。お母さん、もう言わないで。これからは本当に、迷惑をかけないから。けれど私の声は誰にも届かず、母がその言葉をひとりひとりに聞かせていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
やがて一行は神社前の広場に着いた。春祭りの屋台はすでに並び、町内の人々もほとんど集まっていた。子どもたちは紙風車を手に、石灯籠のそばを走り回っている。神職は本殿の前に立ち、平安祈願を始める準備をしていた。
ただ、そこに私の姿だけはなかった。母は人混みを見渡し、袖をまくるように腕を動かした。私が現れたら、その場で一生忘れられない恥をかかせるつもりだった。
5
春の祈願が始まろうとしていた。神職が各家庭に祈願紙を持つよう促した、そのときだった。母がふいに胸を押さえ、顔色を悪くした。理由の分からない動悸が、彼女の呼吸を乱していた。
母は苛立ったように佐藤さんへ手を振った。
「少し待ってください。うちの子がまだ来ていないんです。家族が揃っていないのに祈願なんて、おかしいでしょう。先にあの子を見つけてきます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、父に手を引かれていた陽太が、突然その手を振りほどいた。よろめきながら神社の裏手にある川辺へ走り、葦原のほうを指さして叫んだ。
「お姉ちゃん! あそこにいる人、お姉ちゃんに似てる!」
父は眉をひそめ、早足でそちらへ向かった。
「何を言ってるんだ。詩音が葦原にずっといるわけがないだろう」
父が陽太の指すほうを見ると、濁った水たまりの中に、見覚えのあるものが浮かんでいた。風が葦を揺らすたび、それは泥水の中でかすかに動いた。まるで、声もなくこちらへ合図しているみたいだった。
父は近づき、木の枝で葦をかき分けた。それは泥水に浸かり、元の色も分からなくなった制服の上着だった。昨日、私が着ていたものと同じだった。
母も後ろから近づいてきた。その上着を見るなり、心配するどころか、鼻で笑った。
「本当に芝居がうまい子ね。今日私たちが神社に来るって分かっていて、わざと服をここに捨てて脅かしたんでしょう。そんなことで同情を買えると思ったら大間違いよ」
母は腕を組み、軽蔑を隠さなかった。けれど陽太は泥のそばにしゃがみ込み、小さな手で何かを掘り出していた。やがて、割れた黒いものをつまみ上げる。
「パパ、時計」
それは電子時計だった。盤面は割れ、時刻は昨夜の十一時三分で止まっていた。父が私に買ってくれたものだった。父の顔から、一瞬で血の気が引いた。
昨夜は春先の寒の戻りで、夜の最低気温は零度近くまで下がっていた。そんな暴風雨と低温の中、薄着の女子高生が一晩外にいたらどうなるのか。父には、誰よりもよく分かっていた。その考えが浮かんだ瞬間、父の体は何かに強く打たれたように固まった。
周囲の人々も異変に気づき、ざわめき始めた。女の子が一晩外で凍えていたら命に関わる、昨日のうちに迎えに行くべきだった、早く通報したほうがいい。そんな声が次々に上がった。
そのざわめきは母の耳にも入っていた。母の手は、知らず知らずのうちに震え始めていた。それでも口調だけは強かった。
「くだらないことを言わないで。あの子、きっと近くの橋の下にでも隠れて、私たちの反応を見ているのよ」
けれどその声には、本人さえ気づいていない震えが混じっていた。父はもう母を見なかった。泥沼の中へ入り、両手で必死に泥をかき分け始めた。
「詩音! 詩音、聞こえるか! ここにいるなら返事をしてくれ!」
父の声はひどく震えていた。やがて彼がひときわ密集した葦を押し分けると、泥水がゆっくりと動き、その下から私の薄い白いシャツが現れた。次いで、血の気を失った横顔が露わになった。
周囲が一瞬で静まり返った。次の瞬間、誰かが悲鳴を上げ、すぐに一一〇番と一一九番へ通報した。父は力を失ったように、その場へまっすぐ膝をついた。震える手を伸ばしたのに、生気のない私の顔には触れられなかった。
かすれた声が父の喉から漏れた。それはすぐに、胸を裂くような号泣へ変わった。
「詩音……詩音……」
その泣き声は絶望に満ち、川辺一帯に響き渡った。母はその場に立ち尽くしたまま、顔に浮かんでいた嘲りを少しずつ失っていった。目の前の現実を受け入れられないように、彼女は一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。
「ありえない……健一、何をしているの。起こしなさいよ。自分で起き上がらせてよ!」
母は私へ駆け寄り、いつものように耳をつかんで泥の中から引きずり起こそうとした。けれど彼女の手が私の冷たく硬い肌に触れた瞬間、びくりと引っ込められた。それは、遺体にしかない温度だった。
「嘘よ、こんなの嘘。詩音、お願いだから起きて。もう叱らないから。お母さん、もう怒らないから、目を開けてよ」
母はようやく私の顔を見た。青紫色に変わり、硬くなり、もう二度と返事をしない顔が、みんなの前にさらされていた。母の泣き声は途切れ、次の瞬間、彼女は白目をむいてその場に倒れた。
救急隊と警察がすぐに到着した。救急隊員は私に呼吸がないことを確認し、警察官はただちに規制線を張った。何度も近づこうとする父は、その外側で押しとどめられた。
周囲の人々は騒然となった。誰かが死人が出たと叫び、誰かが口を押さえて震えていた。父と母を見る目は、驚きから軽蔑へ変わっていく。昨日まで私を責めていた人たちは、急に目が覚めたように、未成年の娘を雨の夜に置き去りにした両親を責め始めた。
父は規制線の外で膝をついたまま、それらの言葉を黙って受けていた。反論はしなかった。ただ葦の中の私を見つめ続けていた。まるで、私がもう一度目を開けて、父を呼んでくれるのを待っているみたいに。
サイレンの音が近づいてくる。警察は、この人間の地獄みたいな場所を、神社前の賑やかな春祭りから完全に切り離した。
私は空中に浮かび、そのすべてを冷たく見つめていた。
お母さん、見て。
今度は、嘘じゃないよ。
私、本当に死んだんだよ。
6
私は白い布をかけられ、冷たい車に乗せられた。父は魂を抜かれたような顔で、その後ろについていった。意識を取り戻した母は完全に取り乱し、警察官の手をつかんで、意味の通らないことを叫び続けた。
「私じゃない、私がやったんじゃない! あの子が勝手に帰ってこなかったのよ。意地を張っていただけなの。陽太を妬んで、ひどいことをしたのはあの子なのよ。あの子を調べてください。あの子はいい子なんかじゃないんです!」
年配の警察官が眉をひそめ、厳しい声で言った。
「白石さん、落ち着いてください。今、亡くなったお嬢さんは被害者です。私たちが調べるのは、なぜ彼女があのような状況で亡くなったのかということです」
母は突然、甲高い声で笑い出した。
「真実? 真実なら分かっているわ。あの子が自分で招いたことよ。あの子が、全部めちゃくちゃにしたの!」
父が振り返った。真っ赤になった目で、母を睨みつけた。
「黙れ!」
父が母に、あんな声を出したのは初めてだった。母は一瞬呆気に取られたが、すぐにさらに取り乱した。
「健一、私に怒鳴るの? 今さらあの子が可哀想になったの? 忘れたの? 陽太は死にかけたのよ。まだ四歳なの。今守らなきゃいけないのは陽太でしょう!」
父は疲れ切ったように目を閉じた。一筋の涙が、頬を伝った。
「じゃあ、詩音はどうなるんだ。あの子だって、俺たちの子だろ」
母の泣き声は、少しずつ弱くなった。その言葉に突き刺されたように、母はその場で固まった。けれどそのときには、何を言ったところで、もう遅かった。
警察は両親を家へ連れて戻り、事情を聞いた。狭い家に、これほど多くの制服姿の人が入ったのは初めてだった。陽太は怯えきって、部屋の隅にうずくまり、声も出せずにいた。
若い女性警察官が陽太の前にしゃがみ込み、優しく声をかけた。
「陽太くん、お姉ちゃんと葦原へ行ったあと、何があったか覚えてる?」
陽太は鼻をすすり、小さな声で言った。
「お姉ちゃん、頭が痛いって言ってた。頭の中に、白いのがいっぱい飛んでるって。それで、しゃがんだまま動かなくなったの。陽太が呼んでも返事しなくて、怖くなって、ひとりで走ったの」
その場にいた全員が息を呑んだ。母の体が揺れ、顔色が紙のように白くなった。彼女はようやく思い出したのだ。昨日、葦原のそばで、私も同じように説明しようとしたことを。
けれどあのとき、母が私に与えたのは平手打ちだけだった。
警察官たちは視線を交わした。そのうちの一人が両親を見つめ、さっきよりも低い声で言った。
「未成年の子を、あの雨の中に置き去りにしたんです。ただの親子げんかでは済みません。亡くなる前の体調と、ご家庭での監護状況を確認する必要があります」
父は力なく頷いた。両親の同意を得て、警察は私の部屋に入り、机と引き出しを確認した。まもなく、机の引き出しから鍵のかかった日記帳と、一番下に隠すように置かれていた脳の検査報告書が見つかった。
報告書には、若年性の神経変性疾患が疑われること、記憶障害と認知機能の低下を伴う可能性があることが書かれていた。その箇所には、私の赤いペンで何度も線が引かれていた。小さな鍵は警察の道具で開けられ、日記帳と報告書は透明な証拠袋に入れられた。年配の警察官は数ページをめくり、表情を重くしたあと、写しを両親に差し出した。
そこには、私が病気に気づいてから、それを隠し、治療を諦めるまでの気持ちが書かれていた。
【三月五日、晴れ。】
【今日、体育の授業でまた倒れた。先生は、私はとても珍しい病気かもしれないと言った。記憶も、道も、そばにいる人のことも、少しずつ分からなくなるかもしれないらしい。検査も治療も大変だって。お父さんとお母さんには言わなかった。二人は陽太のことで、もう十分大変だから。これ以上、迷惑をかけたくない。】
【先生は、記憶は消しゴムで消されるみたいに、少しずつ消えていくと言った。もし嫌なことも忘れられるなら、そのほうが少し楽なのかもしれない。】
【三月十日、曇り。】
【今日も、陽太の着替えをすぐに手伝えなくて、お母さんに怒られた。最近の私は本当に鈍くなった、何もできないと言われた。本当は言いたかった。違うよ、お母さん。私はただ病気なんだよ。でも、どうしても言えなかった。】
【放課後、帰り道が分からなくなって、駅の近くを三十分も歩き回った。最後には何とか思い出せた。頭の中の白い砂嵐が、前より大きくなっている気がする。】
【三月十五日、雨。】
【陽太が、おばあちゃんのオルゴールを少し壊した。私は一言注意しただけなのに、お母さんに叩かれた。私はお姉ちゃんなんだから、弟と同じ目線で怒ってはいけないと言われた。】
【でもお母さんは知らない。あのオルゴールは、私がおばあちゃんをはっきり思い出せる、たった一つのものなのに。怖い。いつか、おばあちゃんの顔まで忘れてしまいそうで怖い。】
【三月二十日、春の自然観察会。】
【出かける前に薬を飲んだ。陽太のバッグにはタオルと飴を入れた。スマホのメモにも、陽太を忘れない、手を離さないと書いた。】
【本当に怖かった。外で発作みたいになって、陽太を迷子にしてしまうことが怖かった。でも、私はやっぱり陽太を忘れてしまった。お父さんにも、お母さんにも、陽太にも申し訳ない。いなくなったのが、私だったらよかったのに。】
【お父さん、お母さん。もしこの日記を読むことがあっても、私のことで悲しまないでください。私はただ、違う形でそばにいるだけです。陽太という名前は、とてもきれいだと思います。どうか私の代わりに、無事に生きていってほしい。】
【ごめんなさい。それから、愛しています。】
日記の最後のページは、涙で濡れて文字が滲んでいた。父はその写しを両手で持っていた。まるで千斤の石でも抱えているようだった。普段ほとんど泣かない父が、子どものように泣き、全身を震わせていた。
「あの子はまだ十七だったんだ……。いったいどれだけ、ひとりで抱えていたんだ。父親なのに、どうして何も気づかなかった。俺は最低だ」
そう言うと、父は自分の頬を何度も殴り始めた。一度、また一度。やがて口の端から血が滲んだ。母は床に座り込んだまま、検査報告書の写しを虚ろな目で見つめていた。そこに書かれた白石詩音という名前を、何度も何度も撫でていた。
まるで、自分が何を失ったのか、ようやく理解したみたいに。
「私が詩音を殺した。私が、あの子を殺したの」
母は突然、狂ったように立ち上がり、台所へ走った。父が慌てて追いかけ、母の腰にしがみつく。
「何をするつもりだ!」
母の手には、いつの間にか果物ナイフが握られていた。
「死なせて! もう生きていられない。私は人殺しなの!」
母は声を枯らして泣き叫びながら暴れ、ナイフの背で何度も自分の頭を叩いた。部屋中に、彼女の絶望した泣き声が響いた。私は天井近くに浮かび、その痛々しい姿を見下ろしていた。けれど胸の中には、復讐が叶ったような喜びなど一つもなかった。
ただ、果てしない悲しさだけが残っていた。
今さら真実を知ったところで、何になるのだろう。私はもう戻れない。父と母がどれだけ泣いても、どれだけ後悔しても、私がもう一度「お父さん」「お母さん」と呼ぶ声を、二人は聞けない。
7
私の葬儀は簡素なものだった。母の精神状態は限界に近く、父がひとりで準備をするしかなかった。一晩で二十歳も老けたように見えた父の背中は、以前よりずっと丸くなり、こめかみには白いものが増えていた。
参列者は多くなかった。親戚が数人、佐藤さん、そして町内の人たちが少し来ただけだった。彼らが両親を見る目には、同情もあれば哀れみもあった。けれどそれ以上に、隠しきれない軽蔑と非難が浮かんでいた。
まだ若い子だったのに、と誰かが言った。美奈子さんのあの口の悪さは、いつか大変なことになると思っていた、と別の誰かが囁いた。口だけじゃない、心も冷たかったのよ、実の親があんなふうに娘を扱うなんて、と言う声もあった。
母は黒い喪服を着て、血の気のない顔で私の遺影の前に座っていた。泣きもせず、暴れもせず、ただ写真の中の私を見つめている。まるで魂まで私と一緒に行ってしまったようだった。陽太は遠い親戚に抱かれていて、まだ死というものを理解できず、私の写真を不思議そうに見ていた。
「ママ、お姉ちゃんはどうして寝てるの? いつ起きて、陽太と遊んでくれるの?」
その言葉が、母の作っていた静けさを破った。母はもう耐えきれず、床に崩れ落ちて泣き叫んだ。
「詩音、ごめんね。お母さんが悪かったの。お願い、戻ってきて。もう一度だけ、目を開けてよ」
母は泣きながら、自分の胸を何度も叩いた。そうすれば胸の痛みが少しでも軽くなるとでも思っているようだった。父が近づいて起こそうとしたが、母はその手を激しく振り払った。
「触らないで! 健一、あなたも同じよ。私があの子を怒鳴って、叩いて、罰しているのを、あなたは見ていただけだった。どうして止めなかったの? 一度でも詩音の味方をしてくれていたら、あの子は死ななかった!」
父の体は激しく震えたが、言い返す言葉はなかった。
葬儀は重苦しい空気のまま終わった。家に戻ると、父は書斎に閉じこもり、煙草を一本、また一本と吸い続けた。母は私の部屋に鍵をかけ、泥水に浸かった制服の上着を抱きしめたまま、何度も私の名前を呼んでいた。
あの家からは、それ以来、争いの声が消えた。けれど静かになった家は、以前よりもずっと冷たい地獄のようだった。ある深夜、父が書斎から出てきた。手には、母が壊したオルゴールの破片が握られていた。
父はリビングの灯りの下に座り、老眼鏡をかけた。自責の念で震える手で、一つひとつ、不器用に破片をつなぎ合わせようとした。接着剤は指につき、鋭い木片は皮膚に刺さった。それでも父は痛みに気づかないように、ただ黙々とその無意味に近い作業を続けた。
けれどオルゴールは、結局直らなかった。父と母の間に入った亀裂も、もう二度と元には戻らなかった。
もともと温かいとは言えなかった家は、私の葬儀のあと、誰も逃げ出せない檻になった。
8
それから、父と母は冷戦を始めた。寝室も別になり、一日に数えるほどしか言葉を交わさなくなった。家の中は死んだように静まり返り、陽太だけが二人をつなぐ橋であり、同時に争いの火種にもなった。
ある日、陽太が高熱を出した。小さな顔は真っ赤で、ベッドの上で何度もママと呼んでいた。父は部屋に飛び込み、早く病院へ連れていこうと母を急かした。けれど母は私のベッドに座り、私の枕を抱いたまま、動こうとしなかった。
「詩音が病気だったときも、こんなふうに苦しかったのかな。ひとりで病院へ行って、ひとりで読めない報告書を持って、あの子は怖かったのかな」
父の目が赤くなった。声は掠れていた。
「やめてくれ。今は陽太を病院へ」
母は突然笑った。笑いながら、涙をこぼした。
「そうね。子どもを助けなきゃ。私たちの陽太を助けなきゃ。でも詩音だって、私たちの子だったじゃない。健一、教えてよ。春の観察会の日、私があの子を雨の中に置き去りにしたとき、あなたはどこにいたの? 私があの子を叩いて、怒鳴っていたとき、あなたは何をしていたの?」
父は苦しげに目を閉じた。
「お前が怒っているだけだと思った。詩音も、本当に意地を張っているだけだと……」
母は悲鳴のような声で遮った。
「思った? 違うわ。あなたは臆病で、自分勝手だっただけよ。私に責められるのが怖かった。この家が荒れるのが嫌だった。いい夫でいたかっただけ。あなたも私と同じ、あの子を殺したのよ」
父は力なく言い返した。
「違う……俺だって、詩音を愛していた」
母は冷たく笑った。
「愛? 見殺しにすることが、あなたの愛なの? そんな愛なら、いらない」
そう言うと、母は上着を手に取り、意識の朦朧とした陽太を抱き上げて家を飛び出した。父はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆い、押し殺した嗚咽を漏らした。私は父の前に浮かび、彼の苦しむ姿を見ていたが、心は不思議なほど静かだった。
母の言う通りだった。この悲劇に、完全に無関係な人間はいない。母の怒り、父の沈黙、幼い弟の何気ないひと言、そして私が言えなかった病気のこと。そのすべてが重なって、私をあの雨の夜へ押し出した。
病院から戻ったあと、母は離婚届を食卓に置いた。
「もうあなたの顔を見たくない。あなたを見るたびに、私たちがどうやって詩音を追い詰めたのかを思い出す。この家には、もういられない」
父は引き止めなかった。ただ黙って署名し、家も預金も求めなかった。財産分与の話もしなかった。家も貯金もすべて母と陽太に残し、父が持っていったのは、壊れたままのオルゴールと私の日記だけだった。
父が家を出た日は、私が死んだ日と同じような雨の日だった。黒い傘を差してアパートの下に立ち、二十年以上暮らした家を一度だけ見上げた。それから父は背中を丸め、雨の中へ消えていった。
もう二度と戻ってこなかった。
私は父についていった。父は駅裏にある古い木造アパートを借りた。部屋は四畳半で、風呂はなく、トイレと洗濯機は共同だった。湿気で黄ばんだ壁紙はところどころ浮き、夜に電車が通るたび、窓枠がかすかに震えた。
父は工事現場の荷運びの仕事を見つけた。毎日、魂の抜けた抜け殻のようになるまで働いた。夜になると、いちばん安い焼酎を飲みながら、私の日記を何度も読み返し、声を押し殺して泣いた。
父はそんな自虐に近い暮らしで、自分を罰し続けていた。
一方、あの家に残った母も、決して楽にはなっていなかった。母は別人のように変わった。身なりを整えることも、笑うことも、陽太を怒鳴ることもなくなった。陽太にすべての愛情を注いでいたが、その目はいつも、彼の向こう側に別の誰かの影を探していた。
母は陽太にたくさん服を買ってやり、そのたびに私の空っぽのクローゼットの前で長く立ち尽くした。食卓に料理を並べても、自分は一口も食べられないことがあった。夜になると、こっそり私の部屋へ入り、冷たいベッドに横たわって、一晩中動かないこともあった。
二人とも過去の中に生きていた。私の死の影から抜け出せないまま、毎日違う形で、自分たちの罪を償い続けていた。そして本来ならとっくに消えているはずの私の魂は、二人の後悔と思慕に縛られ、この世界に留まり続けた。
私は彼らの暮らしに、どこまでもつきまとう永遠の傍観者になった。
9
十年が過ぎた。陽太は十四歳になっていた。父に似て背が高く細い体つきで、目元だけは少し私に似ていた。成績もよく、聞き分けもいい。大人たちが言う、いわゆる「よその家の立派な子」だった。
けれど陽太は、少しも幸せそうではなかった。家はあまりにも静かだった。埃が落ちる音まで聞こえそうな静けさの中で、陽太は育ち、少しずつ人の顔色を読むことを覚えていった。
母はもう、かつてのように金切り声を上げる人ではなくなっていた。口数は減り、顔にはいつも消えない憂いがあった。陽太にはとても優しかった。優しすぎるほどだった。けれどその優しさは厚いガラス越しのようで、温かいのに、どこか近づけない距離を残していた。
陽太は、自分に姉がいたことを知っていた。彼が四歳の年に、永遠にいなくなった姉。家にはその姉の写真が一枚も飾られていなかった。姉に関するものはすべて、一つの部屋に閉じ込められ、その部屋は家の禁じられた場所になっていた。
陽太は何度も、深夜に母がひとりでその部屋へ入っていくのを見た。翌朝出てくる母の目は、いつも赤く腫れていた。あの部屋には何があるのだろう。ほとんど語られることのない姉は、いったいどんな人だったのだろう。陽太はずっと、それを知りたがっていた。
そして十四歳の誕生日、母が買い物へ出た隙に、陽太は台所の引き出しから予備の鍵を取り出し、長く閉ざされていた扉を開けた。部屋のカーテンは閉め切られ、空気には防虫剤と埃のにおいが混じっていた。部屋の中は、私が十七歳だったあの日で止まっていた。淡い色の壁紙、机の上に残った古いアイドルのポスター、小さな鏡台。
陽太は机の鍵付きの引き出しにすぐ気づいた。予備の鍵を何度か試すと、やがてかちりと小さな音がした。引き出しの中には、彼が想像していたお菓子も玩具もなかった。あったのは、表紙が黄ばんだ日記帳と、折りたたまれた脳の検査報告書だけだった。
陽太は日記帳を手に取り、最初のページを開いた。見慣れた筆跡に、彼は小さく息を呑んだ。それは私の字ではなかった。
母の字だった。
【詩音。お母さんは、あなたに会いたい。】
【今日は陽太の十四歳の誕生日です。あの子は、だんだんあなたに似てきました。あなたがいなくなって、もう十年になります。】
【この十年、お母さんは一日だって後悔しなかった日がありません。もし時間を戻せるなら、もうあなたを怒鳴ったりしません。叩いたりもしません。どれだけお金がかかっても、いちばんいい先生のところへ連れていって、あなたの病気を治したい。けれど、もう「もし」はありません。】
【知っていますか。お父さんも、もういません。あなたがいなくなった翌年、末期の肝臓がんだと分かりました。でも誰にも言わず、治療もしませんでした。】
【お父さんは、風呂のない古いアパートで、ひとりで静かに逝きました。警察が見つけたとき、手にはあなたの日記と、壊れたオルゴールを握っていたそうです。】
【詩音、お母さんが間違っていました。お母さんが、この家をばらばらにしました。今のお母さんには、もう何もありません。陽太だけです。】
【だから陽太をちゃんと育てます。あなたの分まで、お父さんの分まで、あの子には生きてほしい。空の上から、見ていてくれますか。お母さんを、いつか許してくれますか。】
陽太の涙が、一滴、また一滴と日記の上に落ちた。彼はようやく理解した。なぜ母がいつも悲しそうなのか。なぜ父が理由も告げずに消えたのか。なぜこの静かな家には、終わらない雨が埋まっているように感じられたのか。
自分はずっと、姉の死のあとに残された廃墟の中で生きていたのだ。
陽太は日記を閉じ、涙を拭いた。そしてすべてを元の場所へ戻した。部屋を出ると、ちょうど母が買い物袋を提げて帰ってきたところだった。陽太がその部屋から出てきたのを見た瞬間、母の手から袋が落ちた。トマトと卵が床に転がり、母の唇が震え、顔から血の気が引いた。
「あなた……」
陽太は何も言わなかった。ただ歩み寄り、床にしゃがんで転がったものを拾った。それから母の前に立ち、両腕を広げて、母を強く抱きしめた。
「母さん。これからは、僕がそばにいるよ」
母はもう耐えられなかった。陽太を抱きしめ、声を上げて泣いた。十年間積もり続けた罪悪感も、恋しさも、痛みも、その瞬間ようやく出口を見つけた。
私は二人のそばに浮かびながら、初めてこの家に、本当の光が差したような気がした。
10
私は二人のそばに浮かび、抱き合って泣く母と陽太を見ていた。窓から差し込む陽の光が、二人の上にも、私の上にも落ちていた。私の体は少しずつ透けていき、十年間私を縛り続けていた鎖が、ゆっくりほどけていくようだった。
私は、両親をずっと憎むのだと思っていた。けれど最後に残ったのは、恨みよりも疲れだった。もうあの雨の夜に、留まり続けたくなかった。
もう、忘れることを怖がらなくていい。自分が嘘をついていないと、何度も証明しなくていい。
ふと、祖母が見えた気がした。祖母は温かな光の中に立ち、私へ手を差し伸べていた。記憶の中と同じ姿だった。白髪まじりの髪、笑うと目尻に細い皺が寄る顔。
祖母が、優しく私を呼んだ。
「詩音、おいで」
私は呆然と祖母を見つめた。その向こうに、父の姿もあった。もう背中を丸め、疲れ切った中年の男ではなかった。私の記憶の中で、私を高く抱き上げてくれた若い父だった。
父の手には、直ったオルゴールがあった。そっとねじを回すと、懐かしい旋律が光の中に流れ出した。
私は笑って、その温かな光のほうへ飛んでいった。
お母さん、陽太、さようなら。
私の分まで、どうか無事に生きてね。




