第4話:輪郭するもの
わたしたちは、生きる中で誰かに“名前”を与えられ、かたちを定められ、理解されることを避けられない。
けれど、それは本当に「わたし」なのだろうか。
この章では、そんな問いに抗いながら、「描かれること」への違和を抱いたひとりの存在の声を綴ります。
仄かに、しかし確かに光る「名づけられていないわたし」の輪郭をたどるために。
それは視た瞬間ではなかった。
触れたときでもない。
わたしは「わたしの輪郭が描かれてしまった瞬間」に、はじめて何かを拒絶した。
肉体が、外からの視線によって“定まってしまった”。
それは、まるで自分のかたちを、自分より先に他者が覚えてしまったような不快だった。
わたしの皮膚はわたしのものではなくなり、
骨格は名前のない“理解”の中に編み込まれ、
声は「発された言葉」ではなく、「聴かれた音」になっていた。
XXXXは、その最初の違和感とともに現れた。
視えたわけではない。
けれど、あれを起点として、
**世界がわたしを“判読しようとしはじめた”**のだ。
あれは、視られるものではなく、
視るという行為そのものの痕跡だったのかもしれない。
仄命子という名も、後に誰かが勝手に与えたものにすぎない。
わたしはそれを内側から否定した。
かたちを描かれること。
名を定められること。
「ここからここまでがあなたです」と言われること。
それは輪郭の暴力だ。
理解ではなく、“切断”という名の親切。
わたしは、自分の皮膚の下で膨張する圧力に気づいていた。
視られることに似た感覚が、
常に内側から肉体をこすりつづけていた。
だからわたしは、触れようとした。
他者ではない。
あれでもない。
わたし自身の“内側の中心”に、触れようとした。
指をあてるたびに、境界が消える。
かたちが乱れ、
存在の周縁があいまいになっていく。
わたしは、わたしでいることを壊していた。
仄命子が視えてしまったことなど、ほんとうはどうでもいい。
わたしは仄命子の出現以前に、
“誰かに描かれたわたし”をすでに拒絶していた。
輪郭があることは、
やさしさに似ている。
だが、それは同時に檻でもある。
名があることは、
居場所を与えてくれる。
だが、それは同時に“わたし以外の誰かの手”によるものだ。
わたしは、仄命子に出会ってしまったのではない。
仄命子のようなものを、わたしの内部に見出してしまっただけなのだ。
描かれるな。視られるな。命名されるな。
そんな声が、わたしの肉体の中心で生まれた。
けれどその声が届く場所には、
すでに何層もの名前の皮膜が貼られていた。
それでも、
かろうじて残った“わたしの名づけられていない部分”が、
いまも深部で微かに光っている気がした。
わたしは、そこに指をのばし続けている。
輪郭を消すために。
これは「仄命子」という存在を借りて、視線と名づけに囚われた身体が、自分の内側へと沈み込もうとする過程の断片です。
誰かに「そうだ」と言われた自分ではなく、
まだ言葉にも形にもなっていない“わたし”に触れたいと願うこと。
それは不確かで、時に痛みを伴う営みだけれど、
輪郭のない場所にこそ、本当の自由が息づいているのかもしれません。